待ち伏せ
翌朝、五人は予定どおり最初の橋へ向かった。
工兵側から借りた車両には必要な機材だけを積み、駐屯地を出る。ケルナーの姿は見なかった。昨日カイルが話を通した結果なのか、単に勤務場所が違うのかまでは分からなかったが、少なくとも出発まで関わることはなかった。
エレジは助手席の後ろで地図を開き、昨日確認した経路を窓の外と見比べていた。
「もうすぐ昨日のカーブですね」
「ああ。この先だ」
道路は川沿いを離れるところから少しずつ狭くなり、橋へ向かう手前で大きく曲がっていた。資料では道幅しか分からなかったが、実際に見ると内側の路肩が弱く、大型車両には余裕が少ない。
「橋まで入れなかったら意味ないですね」
「だから手前から見る」
マティアスも車両が曲がる位置を確認し、反対側から別の車両が来た場合には、どちらかが手前まで下がる必要があると言った。
「大型が続けて来るなら、ここで止めるのは厳しいですね」
「待避できる場所もないな」
「少し手前ならあります。使うなら、進入前に分けた方がよさそうです」
エレジは地図上では一本の道として見ていた場所が、実際には橋へ着く前から条件を持っていることに気づいた。通れるかどうかだけではなく、何台で使うのか、途中で止まれるのかまで考えなければならない。
橋まで歩くと、今度は周囲を含めて使い方を確認した。前後の道は狭く、車両を何台も止めておける場所はない。橋上で何か起きれば、後続もその場で止まることになる。
「ここで止まると、上からよく見えるわね」
リヒターに言われ、エレジも斜面へ目を向けた。橋へ入る車両は必ず速度を落とすので、その間は動きも読みやすい。
「長く留まらない方がよさそうですね」
「そうね。使うなら通過する前提でしょうね」
橋を渡った先では、ヨナスが通信状況を確認した。谷へ入るにつれて無線は不安定になり、一度途切れても少し進むと戻るため、距離より地形の影響が大きいらしかった。
「この尾根を越えたら戻ります?」
「たぶん戻ります。向こう側に出れば遮るものが減るので」
実際に先へ進むと、ヨナスの予想どおり無線は安定した。
「本当に戻りました」
「このくらいなら予想できます」
「じゃあ、こっちの谷はもっと悪いですか」
「そっちは深いので、たぶん」
エレジは地図上の谷へ印をつけた。資料を見ているだけでは分からなかったことが、地形と一緒に見ると理解しやすい。ヨナスの説明を聞きながら予想し、実際に確かめる作業は、思っていた以上に面白かった。
午前のうちに最初の橋と周辺を確認し、次に迂回路として挙げられていた林道へ入った。
こちらは、しばらく大型車両を通していないと聞いていた通り、主要道路より状態が悪かった。通れないほどではないが、道幅が狭い場所が多く、雨が続けばさらに使いにくくなりそうだった。
「小型車両なら行けそうですけど、大型は難しそうですね」
「途中で対向されたら詰まるな」
マティアスの言葉で、エレジも後ろを確認した。引き返そうとしても、方向を変えられる場所は限られている。
地図だけなら迂回路として残せる道でも、実際に使うには条件が多い。エレジはその違いを記録へ加えた。
少し先で車両を止めた時、地図に細く記載されている道が目に入った。林道から外れ、斜面を越えて南側へ抜けている。
「少佐。ここ、歩けますかね」
カイルも地図を確認した。
「入口はこの辺りか」
「たぶん。昨日の地図だと、徒歩の退路にできそうだったところです」
「見に行くか」
五人は必要な装備だけを持ち、徒歩で道へ入った。最初は思っていたより幅があったが、途中から斜面が急になり、歩くだけなら問題がなくても、負傷者を運ぶとなれば使いやすい道ではなかった。
「これ、担架だと厳しいですね」
「人数がいれば無理ではないですけど、かなり時間はかかりますね」
ヨナスの答えを聞き、エレジは先の斜面を見た。
「徒歩で抜ける道としては使える。でも、搬送路には向かないってことですね」
道があることと、その状況で選べることは同じではない。今回見ているのは、地図に線があるかどうかではなく、その道を誰が何のために使えるのかだった。
昼は林道の脇で簡単に済ませた。
午前の確認結果を整理しているうちに、エレジはまたヨナスへ質問を始めた。
「川沿いの道って、昔から同じところにあるんですか」
「全部ではないですね。川が動いたり崩れたりして、付け替えられたところもあります」
「昨日言ってた古い道って、今日の区域にもあります?」
「もう少し北です」
「見られます?」
「時間があれば」
マティアスが二人を見た。
「中尉、昨日の続きまで聞くつもり?」
「まだ昨日の分も全部聞いてません」
ヨナスも否定せず、エレジが聞くならそのまま説明を続けるつもりらしかった。
午後は、通信が不安定になる区間を中心に確認した。
いくつか場所を見た結果、谷底より少し高い位置なら通信は安定することが分かった。ただ、最も状態のよい場所は車両で近づけず、機材を置いた後の点検にも手間がかかる。
「ここが一番通りますけど、使いやすいかって言われると微妙ですね」
「もう一つ下の場所は?」
「少し弱いですけど、車両から近いです」
カイルは両方を候補として残した。通信だけを見れば高い場所がよくても、実際に使い続けるなら、それだけで決めることはできない。
エレジは朝から見てきた場所を思い返した。橋も道も通信も、一つずつ別に確認しているようで、最後には全部がつながっていく。どこを通るかによって通信が変わり、誰かが負傷すれば戻る道も変わる。その考え方が分かってくるほど、今回の調査は面白くなった。
夕方までに予定していた範囲を終え、五人は駐屯地へ戻ることにした。
「今日のところは、主経路は条件付きで使える。問題は西側のカーブだな」
帰りの車内で、カイルが確認した内容をまとめた。
「迂回林道は小型車両まで。徒歩の退路は使えるが、搬送には向かない」
「通信は谷底で不安定です。中継候補は二か所あります」
ヨナスが続けると、エレジも自分の記録を見た。
「明日は北側も見るんですよね」
「ああ」
「古い道の近くも通ります?」
「時間次第だな」
「見られるといいです」
朝より自然にそう言えていることに、エレジ自身は特に気づいていなかった。外で調査をしている間は、ケルナーのことをほとんど考えなかった。地図と実際の地形を比べ、見つけたことを記録し、四人の話を聞いているうちに、昨日までと同じように仕事へ集中できていた。
駐屯地の建物が見えてきた時になって、同じ敷地にケルナーがいることも一緒に思い出した。
戻ってからも、仕事ができなくなるわけではなかった。機材を片づけ、翌日の確認事項をまとめ、必要な話も普通にできる。
ただ、昨日までなら作業が終わった後に、まだ見ていない場所を少し見て回ろうと思ったかもしれない。今日は必要な用事が済むと、そのまま宿泊区画へ戻った。
リヒターは何も言わなかった。
外ではエレジが自分から道を見に行き、ヨナスへ質問し、明日の場所まで楽しみにしていたことを知っている。だからこそ、駐屯地へ戻ってから必要な場所にしか行こうとしなくなったことにも気づいていた。
夕食を終え、その日の記録をまとめる頃には、外は暗くなっていた。
「先にシャワー行ってきます」
「私も行くわ」
二人は着替えを持ち、昨日案内された女性用のシャワーへ向かった。
女性用のシャワーは、宿泊区画の奥にある細い廊下を進んだ先にある。案内された時に聞いていた通り、普段はほとんど使われていないらしく、途中ですれ違う人もいない。
二人で中へ入り、それぞれ着替えを置いた。一日外を歩いた後だったので、温かい湯に当たると身体の疲れが少しずつ抜けていく。エレジは昼間に見た林道のことを思い出しながら、隣の区画にいるリヒターへ声をかけた。
「明日、北側まで行けますかね」
「予定どおりなら行くでしょうね」
「古い道も見たいです」
「今日もずっと言ってたわね」
「だって気になるんです」
「ファルク大尉に聞けば、見なくても説明してくれるんじゃない?」
「それと実際に見るのは別です」
リヒターの声には少し笑いが混じっていた。エレジもそれ以上は話さず、二人はシャワーを終えて着替えた。
廊下へ出ると、少し離れたところに人がいた。リヒターが先に気づき、エレジもその視線を追って、昨日会った男だと分かった。
ケルナーは二人を見ると、そこにいたことを不自然に思っていないような様子で声をかけた。
「さっぱりしました?」
エレジはすぐには返さなかった。ここが女性用のシャワーだと知っていれば、自分たちが何をして出てきたのかは分かる。それ自体がおかしいわけではないが、昨日ほとんど人が使わないと聞いた場所の前に、今この時間にケルナーがいることの方が気になった。
「どうしてここにいるんですか」
「通りかかっただけですよ」
「この辺りを?」
「ええ。女性用の方は普段ほとんど使われないんですけど、今は中尉たちが来てるでしょう」
それで納得してよいのか迷っていたエレジも、その答えには引っかかった。この場所が普段使われていないことだけでなく、今ここを使っているのが自分たちだということまでケルナーは知っている。
「昨日は、あまり話せなかったので」
「話すことはありません」
思っていたより早く言葉が出た。ケルナーは少し意外そうにしたものの、怒った様子はなく、そのまま話を続けようとした。
「そんなに警戒しなくてもいいでしょう。何もしてませんよ」
「分かってます」
「だったら――」
「でも、話すことはありません。必要なことがあるなら、少佐を通してください」
以前なら、ここまで言った後に自分の方が言いすぎたのではないかと考えたかもしれない。今も、何もされていないこと自体は分かっている。それでも、それと自分が話したくないことは別だった。
ケルナーはしばらくエレジを見ていたが、そこでリヒターが会話へ入った。
「ヴァイス中尉は、話すことはないと言っています」
声を荒らげてはいないが、それ以上続ける余地を残さない言い方だった。相手が大尉であることもあってか、ケルナーはそれ以上食い下がらず、「分かりました。失礼しました」と言って離れていった。
二人はその姿が廊下の先へ消えてから歩き出した。昨日顔を合わせた時とは違い、今回は自分たちがここにいると知ったうえで待っていたように思える。それでも本人は、通りかかっただけだと言っている。
「……待ってたんでしょうか」
「たぶん。でも、本人は偶然だったと言える場所にいたわね」
「そうですよね」
エレジはその言葉を聞きながら、自分が何に引っかかっているのかを考えた。
「何もされてないです」
「そうね」
「でも、嫌でした」
口にすると、その二つを同時に言ってもいいのだと思えた。何もされていないからといって、嫌だったことまでなかったことにする必要はない。
「それで十分よ」
リヒターも理由を求めなかったので、エレジはそれ以上説明しなかった。
二人が宿泊区画へ戻ると、カイルたちはまだ共有スペースにいた。ヨナスは機材の記録を整理し、マティアスは明日の予定を見ている。カイルは二人が戻ったのを確認すると、いつもと違うものを感じたらしく、すぐに声をかけた。
「何かあったか」
「ケルナーがいました」
「どこだ」
「女性用シャワーの前の廊下です。出たところにいました」
「触られたか」
「いえ」
「近づいてきたか」
「それもないです。話しただけです」
エレジは、シャワーから出たところで声をかけられたこと、この場所を普段ほとんど使う人がいないと知っていたこと、今は自分たちが使っていると知っていたことまで順に説明した。昨日あまり話せなかったからと言われたところまで話しても、カイルは途中で口を挟まなかった。
「お前は何て返した」
「話すことはないって言いました。必要なら少佐を通してくださいって」
「その後は?」
「リヒター大尉が言ってくれて、離れていきました」
カイルはリヒターにも確認した。
「その認識で合ってるか」
「ええ。接触も進路を塞ぐこともなかった。ただ、偶然通ったという説明は無理があると思うわ」
「理由は?」
「女性用の区画が普段ほとんど使われてないことと、今私たちが使っていることを本人が知っていたから」
ヨナスはそこまで聞いて、ケルナーが二人の居場所をどう知ったのかが気になったようだった。
「時間まで知ってたんですか」
「そこまでは分かりません。誰かに聞いたのか、見てたのかも分からないです」
「少なくとも、たまたま前を通っただけなら、今使ってる人まで知ってる理由は要りますね」
「だよな。偶然でそこにいるか?」
マティアスは明らかに納得していなかったが、カイルはそこで同意しなかった。
「本人がそう言ってる以上、それだけでは決められない」
何が起きたかと、どう見えるかを分けなければならないことは、マティアスにも分かっているらしく、それ以上は反論しなかった。
カイルはもう一度エレジへ確認した。
「今は?」
「大丈夫です」
「何もされてないから、じゃない」
その言い方で、エレジはまた同じ理由で大丈夫だと言おうとしていたことに気づいた。
「……嫌でした。でも、今は大丈夫です」
「分かった」
カイルはそれ以上確かめず、現地側へもう一度話すと言った。昨日の時点ですでに不要な接触を避けるよう伝えている以上、女性用区画の前で待っていた可能性があることまで分かって、そのままにするつもりはないらしかった。
「俺も行きます?」
「いや。俺だけでいい」
カイルが部屋を出ると、マティアスはしばらく明日の予定を見ていたが、エレジへ声をかけた。
「中尉。一人じゃなくてよかった」
「はい」
「別に、一人だったら何かされたって意味じゃないけど」
「分かってます」
マティアスが言いたいのは、リヒターがいたからエレジが何もできなかったということではない。二人だったことで、ケルナーとのやり取りを一人だけで抱えずに済んだということだと、エレジにも分かった。
ヨナスはまだ別のことを気にしていた。
「いつシャワーを使うって、誰かに言いました?」
「いえ」
「食堂から戻ってそのまま行っただけです」
リヒターの返答を聞き、ヨナスは誰かから聞いたか、二人を見かけた可能性を考えた。マティアスは、女性用区画の近くへ来れば会えると思っていた可能性もあると言ったが、それも今の段階では確かめようがなかった。
エレジは二人の話を聞きながら、さっきケルナーに言われたことを思い返した。
何もしていないという言葉だけなら、間違ってはいない。触られてもいないし、道を塞がれてもいない。それでも、自分が話したくないと言った後にまで、何もしていないのだから警戒する必要はないと言われたことには、以前のことと似たものを感じていた。
あの時も、近接訓練なのだから普通なのかもしれない、必要な接触なのかもしれないと考え、自分が嫌だと思うことだけでは止める理由にならないような気がしていた。
今は、そうは思わなかった。自分が話したくないなら、それだけで終わっていい。
しばらくしてカイルが戻ってきた。
「現地側には再度伝えた。ケルナーには女性用区画へ近づかないよう指示を出す。勤務上必要な動線も外すそうだ」
「本人は何て?」
「まだ直接は確認してない。責任者から聞く限り、本人は通路を通っただけだと説明してる」
「ほら」
「ロート」
「分かってます」
マティアスはそこで止めた。
「現状では、昨日の指示を破ったと断定できる材料はない。だから、向こうもまずは再度注意という扱いになる」
エレジにも、その意味は分かった。自分が嫌だったことと、ケルナーが規則を破ったと証明できることは同じではない。昨日のような明確な接触もない以上、現地側がすぐに処分へ動けないことも理解できた。
「明日の任務は?」
「予定どおりだ」
それを聞いて安心したエレジに、カイルは施設内では昨日までと同じく、単独で動く時だけ一声かけるよう伝えた。任務から外されるわけではないと分かれば、それ以上気になることはなかった。
話が終わると、ヨナスとマティアスはそれぞれ明日の準備へ戻った。
エレジも自分の記録を片づけ始めたが、リヒターはまだケルナーのことを考えていた。
昨日は、課程から外された後も彼が軍に残っていることが気になった。今日は、女性用シャワーの前で待っていた可能性が高くても、本人が偶然だったと言える以上、再度注意するところまでしか進まない。
現地側の対応が間違っているとは思わなかった。カイルも、確認できる事実から必要な対応を取っている。それでもリヒターには、ケルナーが相手の不快より、自分の行為が問題として扱われるかどうかを基準にしているように見えた。
それなら、近づけないようにするだけでは足りない。
*
寝る前、エレジは自分の部屋へ戻る前に、カイルへ昼間から考えていたことを話した。
「前だったら、何もされてないから気にしないようにしてたと思います」
カイルが何も言わずに聞いているので、エレジはそのまま続けた。
「でも、今日は嫌でした。もう話したくないです。それだけでも、いいんですよね」
「ああ」
返事は短かったが、エレジにはそれで十分だった。何かをされた後でなければ拒めないわけではないし、相手が納得する理由を用意しなくても、自分が嫌なら距離を取っていい。
「分かりました」
それ以上説明する必要はなく、エレジは自室へ戻った。
共有スペースにはリヒターが残っていた。
証拠がない以上、現地側にできることには限界があり、カイルの対応にも問題はない。それでも、同じことを繰り返せば、ケルナーはこれからも「何もしていない」と言えるところまで近づいてくるのだろう。
課程から外されても軍には残り、今も注意を受ければそれで終わる。昨日から残っていた疑問を考え直したリヒターには、それでは足りないと思えた。




