山の湯
朝の打ち合わせを終えると、軍曹は地図を畳みかけたところで、山道の脇に温泉があると話した。今日向かう中継地点から下りた先で、整備に来た者が帰りに寄ることもあるという。
「施設ではないんですか」
エレジが尋ねると、彼は小さな脱衣小屋があるだけだと答えた。湯は岩壁を挟んで二つに分かれており、男女で別々に使える。町から歩いて来るには少し遠いため、普段は人も少ないらしかった。
「作業の後なら、案内できます。使うならタオルを持っていった方がいいです」
マティアスはリヒターを見てから、カイルへ顔を向けた。
「寄れますか」
「今日の分が終わってからだな。帰着の予定を合わせよう」
エレジも自室へ戻り、着替えとタオルを袋へ入れた。山へ背負っていく必要はないので、車両に残す荷物へ収める。昨日は道と設備を見るために用意していたが、今日は作業を終えてから寄る場所もある。玄関へ戻ると、マティアスも同じような袋を持っていた。
「中尉も用意しました?」
「はい。入れるなら、入りたいので」
「俺もです。帰りに使うものが増えるなら、いいですね」
ヨナスはすでに機材を運んでいた。マティアスが袋を荷室の端へ置くと、彼も自分の分を隣へ収め、先に作業で使うケースを取り出せることを確かめた。
*
その日の中継地点へ向かう道は、昨日よりも緩い登りが長く続いていた。斜面を回り込むところでは、木々の間から向かいの山が見える。エレジは分岐を確かめ、軍曹が普段使っている道を地図へ残した。
設備へ着くと、ヨナスと軍曹が点検を始めた。カイルは施設側と時刻を合わせ、エレジたちも周囲を見て回った。
昨日の記録では、一つの地点で起きた変化が、施設側にも同じ時刻に残っていた。今日は別の地点の状態を確かめ、同じように使えなくなるのかを見ることになっている。
昼を過ぎても、こちらでは通信は途切れなかった。施設側からも、その間は使えていたと返答があった。ヨナスは二つの地点で測ったものを見比べ、軍曹へ確認したいところを伝えた。
「今日の分と合わせれば、違いを見られます。戻ってから、昨日の記録ももう一度出してもらえますか」
「分かりました」
カイルは二人の話を聞き、その日の作業を区切った。エレジも用紙を収め、持ち出したものを確かめてから荷物を背負った。
帰りは軍曹が先に下り、途中で足を止めて、道路から分かれる細い道を示した。温泉はその先にあるという。カイルが施設へ帰着の予定を伝え、五人は車両から着替えを取った。
*
小屋が見えたのは、林の中を少し歩いてからだった。木の壁には水に濡れて色の濃くなったところがあり、入口の前には靴の泥を落とすための板が置かれている。看板には男女の区別と、使い終えたら戸を閉めるようにという短い注意が書かれていた。
軍曹は湯へ続く入口を示し、今日はほかに来ている者はいないようだと伝えた。
「私は先に戻ります。道は分かりますか」
「ああ。さっきの分岐から車両へ戻れる」
カイルが答えると、彼は五人へ挨拶をして来た道を戻った。
エレジは小屋の向こうへ目を向けた。岩の間から湯気が上がり、その下では水が流れる音がしている。山道を歩いている時には、ここに湯があるとは分からなかった。
「本当に、ここで入れるんですね」
「そうね。まず中を見ましょう」
リヒターが戸を開けると、壁際に棚と腰掛けがあった。エレジも中へ入り、二人で荷物を置いた。反対側からはマティアスたちの声が聞こえたが、戸を閉めると少し遠くなった。
リヒターが衣類を脱いだ時、エレジは脇腹に残っている傷跡へ目を止めた。タオルを取ろうと身体の向きを変えると、背中にも薄い跡が見えた。どちらも普段は服に隠れている場所で、これまで気づかなかった。
リヒターは振り向き、エレジの視線を見てから、自分の脇腹へ目を落とした。
「これ? 古い傷よ」
「……すみません」
「気づいただけでしょう」
エレジは顔を上げた。どうしてできた傷なのかは気になったが、彼女が話していないことを、見えたからといって尋ねたくはなかった。
リヒターも説明を続けず、タオルを腕へ掛けた。その腕にも細い傷跡があったが、エレジは今度は彼女の顔を見ていた。
「先に行くわね」
「はい」
普段どおりの声に返事をし、エレジも自分のタオルを取った。
着替えを棚へ収め、湯の方へ出ると、岩で囲まれた水面に林の光が映っていた。向こう側は高い岩壁になっており、男性たちのいる湯は見えない。その上には枝と空が見えていた。
エレジは足元を確かめてしゃがみ、手で湯の熱さを見た。初めは熱く感じたが、少しずつ身体へかけると、その温かさにも慣れてくる。
リヒターが先に入り、岩のそばへ腰を下ろした。エレジも続いてゆっくり身体を沈め、足を置けるところを探した。
「熱すぎない?」
「大丈夫です」
肩まで浸かると、背負っていた荷物の重さがないことを、今になってはっきり感じた。歩いている間には次に足を置くところを見ていたが、ここでは身体を動かさずに空を見上げられる。
リヒターも脚を伸ばし、岩へ背中を預けた。
「教えてもらえてよかったですね」
「ええ。知らなければ、そのまま帰っていたわ」
「町まで行かないと、こういうところには入れないと思ってました」
「私もよ。通ってる人に聞いてみるものね」
エレジは頷き、湯の中で手を動かした。揺れた水面が岩へ当たり、少しして落ち着く。林の方から風が来ると、顔に当たる空気だけが涼しく感じられた。
*
反対側では、マティアスが湯へ入ったところだった。端へ腰を下ろして息を吐き、背負って歩いた荷物を思い出しながら脚を伸ばした。
「これは戻りたくなくなりますね」
カイルは少し離れたところに座り、彼が落ち着くのを見てから答えた。
「戻る時間は決めてある」
「分かってます。言っただけです」
「ちゃんと帰るわよ」
岩壁の向こうからリヒターの声が届いたので、マティアスはそちらへ顔を向けた。
「大尉にも聞こえてました?」
「よく聞こえたわ」
「そっちもいいですか」
「ええ。あなたの声も聞こえるし」
「それはなくてもよさそうですね」
「分かってるじゃない」
マティアスが笑うと、エレジもつられて笑った。壁があるので姿は見えないが、施設で話している時と同じ調子だった。リヒターは岩へ背中を預け直し、林の切れたところへ目を向けた。
「こっちは、雪の残ってる山が見えるわ」
エレジも顔を上げた。枝の向こうに白い山頂があり、その下には日の当たっている斜面が続いていた。
「本当ですね。さっきは気づきませんでした」
「右の方よ。あなたたちのところからも見える?」
マティアスは身体を起こして探したが、こちら側には木が重なっていた。少し位置を変えてみても、白いところまでは見えない。
「こっちからは見えないですね。木ばっかりです」
「じゃあ、こっち来る?」
「駄目です」
「駄目だ」
エレジとカイルの声が続けて聞こえ、マティアスは岩壁を見たまま笑った。
「俺、まだ何も言ってませんよ」
エレジはリヒターへ顔を向けた。彼女は笑っており、本当に呼ぶつもりではなかったらしい。それでも、向こうで誰かが立つ音がしないか気になり、壁の方へも目を向けた。
「大尉、誘わないでください」
「来ないわよ。少佐がいるんだから」
「いなかったら来るみたいに言わないでください」
マティアスが返すと、リヒターはまた笑った。
「来ないの?」
「行きません。俺だって、それくらい分かってます」
「じゃあ、安心ね」
ヨナスも湯の向こうから山を探していた。座っている場所からは空しか見えず、マティアスが動いた方へ顔を向けても、木の枝が続いている。
「こちらは、出てから見た方がよさそうです」
「ファルク大尉も見えませんか」
「はい。ヴァイス中尉のところからは、よく見えます?」
「山の上の方だけです。でも、湯に入ってるのに雪が見えるのは、少し不思議ですね」
「向こうはまだ寒いでしょうね」
「今は行きたくないです」
エレジが答えると、カイルの笑う声が聞こえた。いつもより近く響いたので、彼女は壁へ顔を向けた。
「少佐も、そう思いませんか」
「ああ。今日はここまででいい」
「ここ、気に入りました」
「それは声で分かる」
そう返されると、エレジは少し恥ずかしくなった。リヒターがこちらを見ていることにも気づき、湯の中へ目を戻した。
「そんなに違いますか」
「違うな」
「中尉、来る時も嬉しそうでしたよ」
マティアスまで答えたので、エレジは言い返す言葉を考えた。それでも、自分が楽しみにしていたことは確かだった。
「皆さんも入りたいって言ってたでしょう」
「俺は今も、入りに来てよかったと思ってます」
「じゃあ、同じです」
「そうですね」
すぐに同意され、エレジも笑った。リヒターは湯の中で脚を伸ばし、また山頂へ目を向けた。
「今度は、あなたたちの方から景色を教えてよ」
「岩と木です」
「それはこっちにもあるわ」
「少佐とファルク大尉もいます」
「それも知ってる」
マティアスはほかに何が見えるか考え、隣にいるヨナスへ顔を向けた。彼は空を見上げていたが、視線に気づくとこちらを見た。
「何かありますか」
「今、雲が通っています」
「雲があるそうです」
「自分でも見なさいよ」
リヒターの返答に、今度はカイルも笑った。マティアスは上を見て、細い雲が枝の間を横切っていることを確かめた。
エレジも空へ目を向けた。同じ雲らしいものが、こちらからも見えている。
「それは、こっちにも見えます」
「じゃあ、それでお願いします。こっちは山がないので」
会話が途切れると、湯が流れ込む音が戻ってきた。エレジは岩へ身体を預け、雲が木々の向こうへ進むのを眺めた。
向こう側でも、しばらくは誰も話さなかった。それぞれにくつろいでいるらしく、時々湯を動かす音だけが届く。エレジも新しく話すことを探さず、リヒターと並んで温かい湯に浸かっていた。
*
先に湯から出たのは、エレジとリヒターだった。小屋で着替えを済ませると、外の腰掛けへ座って水を飲んだ。湯に入る前には少し冷たく感じた空気も、今はちょうどよかった。
エレジは湿った髪をタオルで押さえ、来た道へ目を向けた。林の中はまだ明るく、小屋の前まで日が差している。
「眠くなった?」
リヒターに聞かれ、彼女は少し笑った。
「少し。でも、帰ってから書くものはあります」
「それが終われば休めるわね」
「はい」
施設へ戻れば、今日見たことを資料へ加えられる。地図を広げて軍曹の話を聞いた時には、歩く場所と設備の位置を確かめていた。ここで湯に入って帰ることまでは考えていなかった。
男性側の戸が開き、マティアスが出てきた。二人が腰掛けているのを見ると、まだ空いている端へ座った。
「早かったですね」
「あなたたちが長かったんじゃない?」
「せっかくなので。中尉はどうでした?」
「気持ちよかったです。外にあるのも、いいですね」
「俺も、もう一回来たいです」
後から来たカイルが、その言葉を聞いて顔を向けた。
「残りの予定次第だな」
「また時間があればです」
ヨナスも小屋から出てきて、自分の袋を持ち直した。カイルが全員の揃ったことを確かめると、エレジも立ち上がった。
彼が隣へ来たので、エレジは顔を上げた。
「少佐もゆっくりできましたか」
「ああ。お前は?」
「はい。座って空を見てました」
「こっちも、途中から静かだった」
エレジがマティアスへ目を向けると、彼は聞こえていたらしく振り返った。
「俺も静かにしてましたよ」
「途中からな」
カイルの返答にリヒターが笑った。マティアスも否定せず、そのまま先へ歩いた。
*
車両へ戻ると、五人は着替えの袋を収め、施設へ向かった。エレジは助手席から曲がる場所を伝え、道路の向こうに町の建物が見え始めると、地図を畳んだ。
帰着を伝えた後、作業室でヨナスが記録を開いた。軍曹も施設側の資料を持ってきており、前日と今日の状態を一緒に見られた。
エレジは歩いた経路と、設備の周りで確かめたことを渡した。カイルが翌日までに確認する項目を合わせ、残りはヨナスと軍曹が整理しておくことになった。
軍曹は資料を収めながら、温泉はどうだったかと尋ねた。
「よかったです。教えてもらって助かりました」
マティアスが先に答えると、エレジも頷いた。
「山から下りて、そのまま入れるんですね」
「私たちも、作業の後にはよく寄ります。冬はそこへ行くまでが大変ですが」
軍曹の返答を聞き、エレジは今日歩いた林の道を思い浮かべた。雪が積もれば、小屋へ続く道も今と同じようには見えないだろう。それでも、今度ここへ来ることがあれば、入口から湯のある場所まで思い出せる。
その日の夕食を終える頃には、マティアスの言葉も少なくなっていた。リヒターが眠そうだと笑うと、彼は今日は早く休むと答え、片づけを済ませて部屋へ戻った。
エレジも自室へ戻り、使ったタオルと衣類を袋から出した。明日の用意をしてからベッドへ座ると、歩いている間よりも、湯の中で脚を伸ばした時の温かさが思い出された。
机の地形図には、今日使った道の印が残っている。エレジはそれを閉じ、朝に取り出せるところへ置いた。灯りを落として横になると、山で聞いた水の音を思い出しながら目を閉じた。




