戻る場所
エレジは目を覚ますと、掛け物の中で右腕を動かした。昨夜気になっていた肩は、寝ている間に痛むことはなかった。身体を起こしてから上着へ腕を通しても動かしにくさはなく、鞄を持つ前にもう一度確かめた。
机には、持ち帰るものが揃っていた。本を鞄へ入れ、棚に残していた衣類も収める。部屋を出る前に寝具のそばを見直すと、借りたもの以外は残っていなかった。
食堂へ行くと、リヒターが先に席へついていた。エレジが器を置くと、彼女は肩の状態を尋ねた。
「動かしても痛くはありません。触ると、少し気になります」
「昨日より強くなってる?」
「いえ。同じくらいです」
リヒターは食後にもう一度見ると言い、エレジも了承した。隣へ来たマティアスは、腕に貼られたものが剥がれていないことを確かめてから座った。
「中尉、眠れました?」
「はい。マティアスは?」
「寝ました。起きた時、もう帰る日かと思いましたけど」
エレジも窓の外へ目を向けた。ここへ着いた時には、施設から観測場所までの道も知らなかった。今はどこで曲がり、どの交差点で待つことがあるかも覚えている。その道を通る仕事は昨夜で終わり、今日は町を離れる。
カイルとヨナスが来ると、五人は朝食を取った。カイルがカップへ手を伸ばしたところで、エレジは処置された指へ目を向けた。
「手は、昨日と同じですか」
「ああ。動かすのには困ってない」
「痛みは?」
「触れば少しある」
支障がないとだけ言われるより、今どのくらい気になるかを聞けて、エレジは頷いた。リヒターも二人の話を聞き、出る前に処置を見直すと伝えた。
カイルは現地側と合わせた出発時刻を五人へ知らせた。予定していた帰還は変わらず、機材を積む前に、最後の引き継ぎを済ませることになっていた。
*
記録を合わせる部屋では、現地の担当者が渡す資料を確かめた。作業の記録と照合できた出入りと、回答を待っているものが分けられている。エレジは川沿いの地図も広げ、車両を最後に見た位置を示した。
「こちらは門へ入った記録ではありません。分岐から先は、建物に隠れました」
「分かりました。この先の作業についても、確認を続けます」
担当者が地図の線を確かめる間に、ヨナスは保存した記録について説明した。今回の班が持ち帰るものと、現地側で参照できるものは揃えてあり、照会への回答も帰還後に受け取れる。
昨夜の接触については、現場へ向かった担当者が確認を続けていた。相手の所属や目的は、まだ班へ伝えられるところまで分かっていないという。
「観測した活動との関係も、現時点では確認できていません。分かったことは、報告先を通してお伝えします」
「こちらの対応で、追加の確認が必要なら連絡をくれ」
カイルが答えると、担当者は五人から受け取った内容を確かめた。エレジも自分がナイフを使った場面について、昨夜伝えたことと同じ記述になっているのを見た。
現場へ戻って確かめる仕事は、班にはなかった。必要な資料を渡し終えると、カイルは滞在中の支援への礼を伝え、五人へ車両の準備を始めるよう言った。
リヒターが負傷の状態を見直している間に、ヨナスとマティアスは機材を運んだ。エレジも自分の鞄を持ち、部屋の鍵を返してから車両へ向かった。
荷室には、持ち帰るケースが収まっていた。マティアスが残った空間を示したので、エレジはそこへ鞄を置いた。座席で使う地図だけを取り、扉を閉める前にほかの荷物へ挟まっていないことを確かめた。
「最初は俺が運転する。経路を見てくれ」
カイルに言われ、エレジは助手席へ入った。リヒターたちも乗り込むと、ヨナスが出発の連絡を入れ、カイルは施設の門へ車両を進めた。
*
貨物地区へ続く道路を離れると、市街の建物が増えた。朝の通りには車両が並び、店の前で荷物を下ろしている人もいる。カイルが交差点で停まると、エレジは地図と前方の道を見比べた。
「この先を左です。橋の手前で、広い道へ出ます」
「ああ」
車両が進むと、建物の間に川が見えた。一昨日カイルと歩いた岸の道には、今日も人がいる。ベンチのそばの木と、その先の橋を見つけると、エレジは車窓から確かめた。
「歩いたところが見えます」
「こっちからも見えるな」
「車だと、すぐ通り過ぎますね」
カイルは前の車両との間隔を見ながら頷いた。エレジも橋を見送ってから、次に曲がる場所へ注意を戻した。パン屋の前までは通らないが、店の名前と、二人で食べたものは覚えている。
後ろではマティアスが窓から外を見ていた。
「俺は結局、店まで行けませんでしたね」
「買ってきたものは食べたでしょう」
「食べました。だから、ほかにも見たかったんです」
リヒターへ返した後で、マティアスはエレジにも、果物の入ったパンはどうだったか尋ねた。
「少し酸っぱくて、おいしかったです。少佐と分けました」
「それもあったんですね」
「全部買ってくるわけにはいかないでしょう」
「分かってますよ。今度来ることがあったらです」
エレジはその言葉を聞き、またこの町へ来ることがあるか考えた。任務で行く場所は自分だけでは決められないが、川沿いを歩けるところと、寄ってみたい店はもう知っている。
町を抜けると、道路の両側に畑が広がった。窓の外を見る合間に地図を確かめ、施設へ戻る道の分岐を追う。行きには知らない土地へ入っていったが、今は山へ近づくほど、帰る方へ進んでいることが分かった。
*
途中で休憩を取ると、五人は車両から降りた。エレジは鞄を持たずに歩き、同じ姿勢で座っていた脚を動かした。リヒターも隣へ来て、肩が気になっていないか確かめた。
「座っている間も、大丈夫でした」
「じゃあ、荷物を下ろす時も無理はしないでね」
「はい」
食事を取る場所では、マティアスが次は自分が運転すると伝えた。カイルはその先の経路を確かめ、エレジが使っていた地図を受け取った。
ヨナスは飲み物を置いてから、マティアスの腕へ目を向けた。
「運転はできますか」
「これくらいなら。大尉も、腕は平気ですか」
「はい。ケースを離した後は、引かれていません」
「中尉が受けてくれてましたね」
エレジは自分の水を机へ戻した。持ち手が下がった時には、地面へ落ちる前に受けたいと思った。ヨナスが相手へ対応する間、自分が運べば進める。
「空いていたので、右手が」
「そのまま持っていってもらえて助かりました。俺が持ち続けていたら、あそこで止まっていたので」
ヨナスが答えると、リヒターも車両まで通れたところを思い返しているようだった。
「積む場所も空いてたから、すぐ乗れたわね」
「そこは、先に見てました」
マティアスが言うと、カイルは全員と荷物が揃ったことを確かめてから出せたと付け加えた。誰か一人が全部を引き受けたわけではなく、動ける者が次のところへ進んでいた。
話はそこで区切られ、五人は食事へ戻った。エレジも温かいものを食べ、飲み物を取り直した。昨夜の動きをもう一度最初から話すより、今は休んでから道へ戻りたかった。
車両へ戻ると、マティアスが運転席へ入り、カイルが隣へ座った。エレジは後ろへ移り、リヒターとヨナスの間に座った。鞄は荷室にあるため、足元には座る場所を狭めるものもなかった。
*
山へ入ると、道路脇の日陰に雪が残っていた。林の中にも白いところが続き、木々の向こうに見える高い山には、まだ広く雪がかかっている。リートハーフェンの川沿いで見た景色とは違っていた。
エレジは上着の前を閉じ直した。車内は冷えていないが、窓から見える景色が施設の周りへ近づくと、外へ降りた時の空気も思い出せる。
マティアスが分岐を曲がる頃には、カイルが帰着の予定を連絡した。ヨナスも到着後に運ぶ機材を確かめたが、今ここで記録を開くことはしなかった。
施設が見えると、エレジは背もたれから少し身体を起こした。玄関の前と、共有スペースの窓が見える。出発した朝には、ここから五日間過ごす場所へ向かった。今日は持ち帰ったものを下ろして、自分の部屋へ戻れる。
マティアスが車両を停めると、五人は順に降りた。外の空気は町より冷たく、エレジは荷室を開ける前に上着の裾を直した。左腰の鞘は、座っていた間にも位置が変わっていなかった。
カイルは到着を報告し、ヨナスは機材を置く部屋へケースを運んだ。マティアスとリヒターも残ったものを下ろし、エレジは観測用紙の入った鞄を持って続いた。
部屋へ入ると、出発前に使った机が空いていた。エレジはそこへ資料を置き、ヨナスが記録を取り出す間に、紙の順番を確かめた。
カイルは観測の成果と、現地側へ確認を残した項目を報告した。昨夜の接触についても帰着を伝え、続きの連絡を受ける先を確かめる。
ヨナスの以前の調査資料との照合は、ここから正式に続けることになった。今回の記録は保存できているが、その日のうちに答えが出るわけではない。ヨナスは必要なものを渡すと、端末の表示を閉じた。
「今できる分は終わりました」
「ああ。今日はここまでにする」
カイルが作業を区切ると、エレジも資料から手を離した。自分が使っていた地図は机へ残し、衣類と本の入った鞄を持った。
*
自室へ戻ると、エレジは窓のそばへ鞄を置いた。持ち帰った衣類を出し、本も机へ戻す。栞を挟んだところは、出発する前とほとんど変わっていなかった。
少し読めるかもしれないと思って持っていったが、観測の後には眠る方を選んでいた。それでも、鞄の中へ入っていることは覚えていた。開けなかったからといって、持っていかなければよかったとは思わない。
着替えてから共有スペースへ降りると、マティアスがソファへ座っていた。背もたれへ身体を預け、両脚を楽な位置へ置いている。
「戻ってきましたね」
「はい」
「今日は、こっちに座ります」
エレジは彼が前にも、仕事の机ではなくソファへ座りたいと言っていたことを思い出した。リヒターが入ってくると、マティアスは隣へ置いていたものを退けた。
「大尉も、どうですか」
「少しだけね」
彼女が座ると、マティアスはそれ以上話を続けずに身体を戻した。エレジも二人へ声をかけ、台所へ水を取りに行った。
夕食は施設に残っていたもので用意し、五人で食べた。必要な買い足しについては翌日考えることになり、食後の片づけを終えると、それぞれが休む場所へ戻った。
*
エレジが棚から本を取っていると、カイルが共有スペースへ戻ってきた。手には自分のカップを持っており、台所へ置いてから彼女のそばへ来た。
「まだ起きてるか」
「少し。本を読もうと思っていました」
「俺のところで読むか」
エレジは本を持ったまま彼を見た。今夜は帰ってきたばかりで、部屋へ誘ってよいか考えていたところだった。カイルから声をかけてもらうと、返事はすぐに出た。
「はい。一緒にいてもいいですか」
「ああ。そのつもりで呼んだ」
エレジは頷き、彼と廊下へ出た。
カイルの部屋へ入ると、机には途中まで読んだ本が置かれていた。彼が椅子を引いたので、エレジも隣へ座り、自分の本を開いた。
「向こうでは読めたか」
「ほとんど読めませんでした。今、出る前と同じところを開いてます」
「眠る方が先だったな」
「はい。でも、また読めると思って持っているのは、よかったです」
カイルは彼女が挟んでいた栞を見てから、自分の本も手元へ寄せた。エレジは最初の数行を読み、前にどこまで話が進んでいたかを思い出した。
しばらく読むと、ページを押さえていた右手へ少し力が入っていることに気づいた。置く位置を変えたところで、カイルが顔を上げた。
「肩か」
「いえ。読みながら、力を入れてました」
「痛みは増えてないか」
「はい。少佐の手も、変わってませんか」
「ああ」
エレジは彼の手元を見た。カイルは気にされていることが分かると、本から手を離して見せた。処置したところは朝と同じで、指も普段どおりに動かせている。
エレジが指先へ触れると、カイルはその手を取った。
「そこは痛くない」
「よかったです」
彼女は握られたまま、自分の本へ目を戻した。片手でも読めるが、次のページをめくる時には離す必要がある。カイルもそれが分かったらしく、指を緩めた。
エレジはページをめくってから、もう一度彼の手へ触れた。カイルは少し笑い、今度は本を閉じた。
「読むのは後にするか」
「少佐は、続きが気になりませんか」
「今は、お前と話したい」
エレジも栞を挟んだ。部屋へ来た時から彼と過ごしたかったが、隣で同じように本を読めれば、それでもよいと思っていた。話したいと言われると、顔を見て聞けるよう椅子を向け直した。
「何を話しますか」
「川のところで、お前が見てた建物を思い出してた」
「向こう岸のですか」
「ああ。窓の下に道があったところだ」
エレジは川沿いのベンチから見た家を思い浮かべた。水面には日が当たっていて、向こう岸を歩く人も見えた。観測場所へ向いた時とは違い、気になったところで何度でも足を止められた。
「覚えてたんですね」
「お前が教えただろ」
「はい。窓から川が見えるなら、どんなふうに見えるのかと思ってました」
「ここより、水が近いな」
「ここから見える林も好きです」
エレジが部屋の窓へ目を向けると、外はもう暗くなっていた。今は林の奥までは見えないが、明るい時にここから見た景色は覚えている。
「帰ってきたと思います。自分の部屋も、ここも」
カイルは彼女が窓からこちらへ目を戻すのを待った。任務を終えて戻る場所として、彼女がこの部屋も思い浮かべていたことが嬉しかった。
「俺も、ここでお前と過ごしたかった」
エレジは握られている手へ力を返した。昨夜も抱きしめてもらったが、あの時は身体の確認と報告を終えたばかりだった。今は機材も資料も置いてあり、次の交代に出る時刻を気にしなくてよい。
「もう少し近くへ行ってもいいですか」
「ああ」
カイルが立つと、エレジも本を机へ置いてついていった。ベッドの端へ並んで座り、彼が腕を回すと、肩へ強く当たらない位置を自分でも選んで身体を寄せた。
「ここなら大丈夫です」
エレジが伝えると、カイルは腕の位置を確かめてから抱き寄せた。彼女も上着へ手を添え、顔を上げた。
カイルは近くにいる彼女を見て、頬へ手を添えた。今夜は報告の続きを聞きたいわけではなく、彼女へ触れ、一緒に戻ってこられたことを受け取りたかった。
「キスしていいか」
エレジが頷くと、カイルは唇を重ねた。彼女はその近さに、彼の上着へ置いた手を少し握った。カイルが離れた後もそのまま近くへ残り、もう一度顔を上げた。
彼はその表情を確かめてから、再び唇を重ねた。今度はエレジも自分から応じ、頬へ添えられた手に顔を寄せた。
「今日は、少佐とここにいたいです」
「ああ。俺もだ」
カイルが答えると、エレジは胸元へ頬を預けた。ナイフで対応した時にも、ケースを運んだ時にも、自分がすることは分かっていた。それを彼が見て、別のところを引き取ってくれたことも覚えている。
今は彼のそばへ寄ったままでいられた。カイルも先を急がず、背中へ置いた手を動かしてから、彼女が落ち着ける位置へ戻した。
しばらくしてエレジが身体を起こすと、カイルは枕を寄せ、肩へ負担がかからないよう横になれる場所を空けた。彼女も上着を脱ぎ、彼の隣へ移った。
「眠くなってきました」
「寝ていい」
「少佐は?」
「俺も休む」
エレジは彼の手を取り、傷のあるところへ当たらないよう指を重ねた。カイルも握り返し、掛け物を直してから隣へ横になった。
机の上には、二人が途中まで読んだ本が置いてある。続きはまた開けばよく、今夜読み終える必要はなかった。
エレジは彼がそばにいることを確かめ、目を閉じた。カイルも手を離さず、彼女の呼吸が落ち着くのを聞きながら、自分の身体を休めた。




