観測・エレジの悩み?
エレジは朝食を終えてからリヒターと拠点を出た。カイルとマティアスは午後の観測を担当し、ヨナスは拠点で通信の記録と現地側への照会を続けることになっている。前日に揃えた装備を車両へ収めて出発の連絡を済ませると、リヒターが運転席へ入った。
集落を抜ける道にはまだ歩いている人が少なかった。エレジは地図で進む方向を確かめてから、店先に明かりのついている建物へ目を向けた。今朝食べたパンは集落の店で用意してもらっているとリヒターから聞いていた。
どんな店なのかも気になったが、今朝は観測位置へ入る時刻が決まっている。地図へ視線を戻し、車両を置く場所までの分岐を確かめた。
*
車両を降りて観測位置へ向かうと、谷の低いところには薄い靄が残っていた。エレジは地図に記した位置へ入り、双眼鏡で対象の建物と道路を確かめた。建物と分岐は見えるが、前日の午後には追えていた道路の低い区間が白く霞んでいる。
「道路の下側が見えにくいです。分岐は確認できます」
「少し高い方から見たらどうかしら」
リヒターが示した場所へ移ると道路の見える区間は増えたが、建物の出入口が木に隠れた。その違いを伝えると、リヒターは元の位置から建物を見ると答えた。
互いが記録する間は見る範囲を引き取ることにし、エレジはヨナスと通信を確認してカイルへ到着と配置を報告した。
しばらくは主な道路を通る車両があるだけで、施設へ入るものはなかった。方向と時刻を残し、靄に隠れた区間では通行の全体を確認できないことも書き添えた。
「建物から出るわ」
リヒターの声で施設へ続く道を見ると、車両が一台建物のそばから出てきた。色と形は分かるが番号は全部読めない。エレジは確認できた特徴を伝え、そのまま道路を追った。
車両は分岐で前日と同じ脇道へ入り、林の間へ消えた。最後に見えた位置を地図へ記してリヒターへ報告した。
「昨日の車両が入った道です。ただ、車両の特徴は違います」
「少佐へ伝えておいて。こちらも記録するわ」
報告を終えると主な道路へも注意を戻した。脇道が気になっても、ほかの経路を使う車両がないとは限らなかった。
少し後に脇道から別の車両が現れた。エレジは林から見え始めた時刻を残し、施設へ向かうところまで追った。
「施設へ入ります。先ほど出たものとは車体の形が違います」
「こちらでも見えたわ。建物のそばへ止まった」
車両のそばには二人いた。一人が車体の陰へ入り、再び見えた時には両腕の前に何かを持っているようだった。
「箱のように見えますけど、形は全部確認できません」
「私からは車両に重なってる。どちらへ動いた?」
「建物の側面の方へ。ただ、途中で隠れました」
エレジは同じ人が現れるのを待ったが、車体と建物の間は見えなかった。もう一人が車両の後ろへ回ったことは確認できても手元までは分からない。荷物を下ろした可能性はあったが、持ち上げたところも運んだ先も見ていなかった。
「側面を見る位置が必要ですね」
「ええ。今の二か所を合わせても、車両と建物の間は残るわ」
前日に挙げた候補からその範囲を見られるかは、まだ確かめていない。交代に来る班員へ伝えることにし、二人はその後も人数と時刻を記録した。
*
カイルとマティアスが交代に来ると、エレジは道路の記録を渡した。リヒターが建物側の内容を補い、荷物を持った人が見えた場所と車両に隠れた範囲を示した。
「建物へ運び入れたとは言えないんだな」
「はい。側面へ向かったところまでです」
カイルは午後に側面の候補も確かめると答え、マティアスは靄で見えなかった区間と今は見えるところを確認した。
二人が観測を始められる状態になると、エレジはリヒターと車両へ戻った。来た時より道の先が明るく、歩きながら見える斜面も増えている。対象を見続けていた時には気づかなかったが、林の切れ目からは谷の向こうの家も見えた。
帰還の連絡を済ませて集落へ続く道へ車両を出すと、リヒターが話しかけた。
「初めての任務はどう?」
「分からないまま残ることが思っていたより多いです」
「今日の荷物も?」
「はい。でも、リヒター大尉が見たものと合わせると、私だけでは分からなかったところも確かめられるので。それは面白いです」
自分の位置から全部見えなければ、場所の選び方が足りなかったのではないかと思うこともある。エレジがそれも話すと、リヒターは道路と建物を分担したことで取れた情報へ話を戻した。
「私だけで全部説明できなくても、持ち帰ればほかの記録と合わせて分かることもあるし、次に何を見るか決める材料にもなるわ」
「午後の二人が側面を見られるところを確かめてくれますしね」
自分たちの記録を使って別の二人が続きを見てくれる。明日また入る時には、その確認も合わせて使えるようになっている。リヒターがそうだと答えると、エレジはしばらく窓の外の景色を眺めていた。
「個人訓練のことだけど、これからも続けるつもりではあるわ。このことは施設へ戻ってから改めて話すつもりだけど。今は任務の疲れもあるから」
エレジは最後にリヒターと行った訓練を思い出した。何を要求したかと実際に何が変わったかを分けて記録し、その時には部屋へ戻ってからカイルと話すことも考えていた。
彼の顔を思い浮かべると別の夜のことが戻ってきた。少し迷ったが、今はリヒターと二人で話せる時間だった。
「リヒター大尉、前に少佐のことからかいましたよね」
「何の話?」
「ファルク大尉が恋敵になるんじゃないかって」
リヒターは一度エレジを見てから道路へ視線を戻した。
「少佐、話したのね」
「全部聞きました。十も年上だとか、私が少佐の何を好きなのか分からないとか」
「ああ……ごめん。あれは少し言いすぎたわね」
すぐに謝られると、エレジも責めるために話したわけではないと伝えたくなった。
「私が怒ってるというより、少佐が気にしてました」
「そうでしょうね。でも、二人が順調そうで何よりよ」
はいと答えることに迷いはなかった。カイルと一緒に過ごす時間は嬉しいし、自分から会いに行くこともできる。それでも順調だと言われると、気になっていることが浮かんだ。
「でも、少しだけ……どうしようかなと思ってることは……あります」
「少佐のことで?」
「はい」
「どんな?」
「……少佐は私が何をしたいかは聞いてくれるんですけど、自分が何をしたいかはあまり言わないので」
普段の会話ならカイルが言葉の少ない人だと知っている。それでも同じように受け取れない時があった。
「いつ、それを感じるの?」
「……二人でそういうことをしてる時に」
口にすると頬が熱くなり、エレジは膝の上の手へ目を落とした。詳しいことまで話したいわけではないが、曖昧にしすぎれば何を悩んでいるのかも伝わらない。
「私がしてほしいと言えば応じてくれます。嫌だと言ったことはしません。でも、少佐はどうしたいんだろうって思う時があります。私に合わせて我慢してる気がする時があるんです」
「我慢してるって、少佐が言ったの?」
「いいえ。私がそう思っただけです」
彼が本当に我慢しているのか、自分が気持ちを知りたくてそう見ているのかは分からない。そこは分けて話しておきたかった。
「少佐がどうしたいかも知りたいんです。私が言うまで待ってくれなくても、言ってほしいというか」
「あなたの希望を聞いてくれるのは嬉しいけど、それだけじゃない少佐の気持ちが知りたいということ?」
「たぶん、そうです。私だけがしたいみたいに思う時もあるので」
望まれていないとは思っていない。触れてくれる時の表情や抱き寄せる腕から分かることもある。それでも彼の方から先に言葉や行為にしてもらいたいと思う時があった。
「少佐にも話してみた?」
「少しは言ったことがあります。でも、今みたいには言ってません」
「それなら今話したように伝えてみたら。私が何をしてほしいかだけじゃなくて、少佐の気持ちも知りたいって」
「そうなんですけど、ただ……それを伝えると、また私が先に要望を出してることになりそうで」
リヒターはそこで、エレジが気にしているのは彼の希望を聞けるかどうかだけではないのだと分かった。
「あなたが何か言ったからとかじゃなく、少佐の方から求めてほしいのね」
そう言われると、エレジは自分が望んでいるのはそれだと思った。頷く様子をリヒターは愛らしく感じたが、微笑むだけにとどめた。
「エレジ、それに対して私からアドバイスするとしたら方法は二つあるけど、どちらがいいかは分からないわ」
「どんなのですか?」
「一つは『自分が何か言ったから』という状態に持ち込まない方法。つまり、あなたから何もしない。しばらくの間はその手のことで希望も何も言わず、自分が何かしたくなったらさっさと部屋に帰る」
「……それで解決しますか?」
「方法の一つとしてはあると思うわ」
「もう一つの方は?」
「求められたいという方に重点を置くの。少佐の方から求めさせる」
「求めさせる?」
問い返すと、リヒターが横目でエレジを見ていたずらっぽく口の端を上げた。
「相手が限界になるまで誘うの」
エレジは顔が熱くなって膝の上へ目を落とした。顔を上げるのを待ち、リヒターは少し声の調子を変えた。
「でも、あなた、避妊薬は使ってる?」
「……薬ですか?」
「ええ」
「使ってません」
急に具体的なことを聞かれ、答えてからリヒターを見た。カイルとどうしているかまで説明した方がよいのか迷ったが、彼女はそこを尋ねなかった。
「そういうことを考えているなら、避妊のことも一度医務で相談しておくといいと思うわ。薬についても聞けるし、相談先なら紹介できるから」
エレジは頷いた。避妊薬の名前は知っていたが、自分が使うならどこで相談すればよいのかは知らなかった。
「戻ったら紹介してもらってもいいですか」
「ええ。聞いておくわ」
拠点の近くへ来ると、リヒターは車両を入れる場所を確かめ、昼食を温めてから休もうと話した。エレジも午前中の記録をヨナスへ渡す必要があると答え、車内の話をそこで終えた。
*
カイルはエレジたちの記録を確認しながら建物を見ていた。午前中に入った車両は交代の後で主な道路へ出ていった。今は荷物を持った人が見えた場所を確かめられるが、側面へ回ると壁の角に隠れてしまう。
道路側のマティアスへ建物も引き取ってもらい、カイルは前日に記した候補へ移った。木立の中で角度を変えると側面の大きな扉と、その前の地面が見えた。道路は枝に隠れるが、午前中に人が消えた範囲は元の位置より広く追える。
「側面の扉が見える。車両が止まれば隠れる部分はあるが、建物との間は今より見やすい」
「こっちは道が見えてます。その位置と分ける方がよさそうですね」
「ああ。通信も確かめる」
ヨナスへ位置を伝えると、現在の連絡は保たれていると返答があった。ただ、機材を置いて使う状態でも再確認したいという。カイルは翌日の候補として記し、湿った地面を避けて交代できる経路も確かめた。
主な道路から車両が来るとマティアスが特徴と時刻を伝え、カイルは側面の位置から施設へ入るところを追った。
車両が建物のそばへ止まり、人が後ろへ回った。大きな扉も開いて人が出入りしたが、車両の屋根に手元が隠れた。
「何か動いた?」
「側面の扉が開いた。人が出入りしている。手元は車両に隠れてる」
「こちらからは車両の後ろにいる人が見えます。物を扱ってるようには見えますけど、どこへ動かしたかは分かりません」
カイルは扉の位置と車両に隠れた範囲を残した。車両が出た後も扉はしばらく開いており、人が二度出入りしてから閉じられた。その時刻も記し、車両が来ていない時の使われ方も明日は見たいと思った。
「同じ場所でも、車が止まる位置で変わりますね」
カイルは地図へ見えた範囲を示した。側面の位置だけでは道路を追えないため、二人で見る場所を分ける必要があった。
「明日はここから扉を見る。道は別の位置で引き取る」
「交代する時に通るところも残しておきます」
マティアスが経路を記録する間、カイルは観測を続けた。施設の用途を判断するには足りないが、翌日に確かめる場所は具体的になっていた。
*
予定した時刻まで観測し、二人で装備を収めて車両へ戻った。マティアスが帰還の連絡を入れてヨナスの返答を確認すると、カイルは拠点へ向かう道へ車を出した。
「中尉、楽しそうですね。初任務だけど」
交代に来たエレジは見える場所と見えない場所を確かめ、午前中の記録へ自分の確認を加えていた。訓練の答えを探すのではなく、班で使う情報を取ろうとしている。
「仕事はやりたかったものに近いだろう」
「それ以外も。昨日、景色を見てましたし」
「ああ。帰る時には川のところで写真を撮りたいそうだ」
「俺も撮ろうかな。中尉が何見てたか分かる写真になりそうだし」
カイルは窓の外を見ていた彼女の顔を思い出した。対象の建物や道路を確かめる時とは向ける目が違っていた。仕事で来た場所でも、自分が見たいものを見つけられていることが嬉しかった。
「狙われてる件は新しい情報はないんですよね」
話を変えられ、カイルは現在の状況を答えた。
「今のところはない。施設の外周の件も、つながるものは見つかっていない」
「出発前にファルク大尉にも伝えられてよかったですね」
「ああ。今後の連絡と警護に関わる」
班を組んだ時から、それぞれが知っていることは同じではなかった。リヒターは別の命令を持ち、ヨナスはエレジが狙われている事情を知らなかった。仕事を合わせるだけでなく、判断に必要な情報を揃えることも続けなければならなかった。
「ファルクとリヒターについて、気になることはあるか」
マティアスはここまで一緒に動いたことを考えているようだった。カイルは自分の知らないところで二人と過ごしている彼が、どう受け取っているかを聞いておきたかった。
「ないです、今のところは。二人とも普通にいろいろ教えてくれますし、自分の担当じゃなくても必要なら見てくれる」
「そうだな」
「大丈夫だと思います、あの二人は」
「俺もそう思ってる」
リヒターの命令系統が見えない問題は残っているが、説明した範囲を守り、エレジが止めれば終えることは見てきた。ヨナスも機材の不具合を見つけられなかった時に、問題がないとは決めず、確認できていないことをそのまま返していた。今の班で判断を預ける相手として頼れるところは分かってきた。
「中尉も二人には聞きやすそうですよね」
「ああ」
「俺だけじゃ分からないこと、結構あるので。助かります」
軽い口調だったが、自分の役割が減ったと考えているようではなかった。カイルもそれぞれへ任せる範囲を増やしていけると思った。
*
拠点へ戻ると、エレジとヨナスが作業室で午前中の記録を合わせていた。リヒターも加わり、カイルたちが持ち帰った地図と時刻を並べた。
カイルは側面の扉と人の出入りについて報告した。午前と午後に荷物を扱っていたように見える動きはあったが、搬入か搬出かは確認できていない。
「ここなら、午前中に隠れたところも見られそうですね」
エレジが午後の位置を示すと、マティアスは道路側との分担を説明した。車両の停まり方による死角も書き足し、翌日は側面と道路を別の位置から見ることになった。
ヨナスは通信の記録を並べ、車両の出入りと近い時刻に変化があったところを示した。ただ、車両が動いていない時間にも変化があり、関係はまだ分からないという。
「明日も出入りの時刻は送ってください。人が扉を使った時も、別に残してもらえると合わせられます」
「分かった。側面の位置で使う機材も出る前に確かめる」
カイルは配置と記録する項目を確認した。脇道の両方向の通行、荷物らしいものを扱う動き、側面の扉の開閉を報告し、用途については引き続き確かめることになった。
照合を終えるとリヒターとエレジは夕食の準備へ向かった。現地側に用意してもらった鶏肉を焼き、付け合わせの野菜は温かいまま出せるようにするという。マティアスも準備へ回れるよう、作業室の机に残った記録をまとめて片づけた。
カイルが報告の下書きをまとめている間、台所からエレジが焼き加減を尋ねる声が聞こえた。リヒターはすぐに代わってしまわず、どこを見て確かめるかを伝えている。
ヨナスは通信の記録を添付できる形に整え、食事の時刻になると自分から作業を区切った。五人が揃った食卓では、エレジが朝のパンは集落の店で用意してもらっていると話した。
食後、カイルは作業室で二日目の報告を仕上げた。初日の記録へ脇道の両方向の通行を加え、荷物を扱っていた可能性と実際に見えた動きを分けて記した。
施設の用途はまだ説明できない。それでも翌日は側面の扉から車両までの動きを確かめられる。観測位置と交代経路の地図を添え、必要な記録が揃っていることを確認してから送信した。




