リヒターの上官
翌朝、エレジは朝食を終えてから、作戦室へ報告資料を運んだ。外周の確認はその後も続いていたが、夜間の反応を説明できるものも、誰が来たのかを特定できる情報も、まだ見つかっていなかった。
地図と写真は、カイルが確認した順に揃えてある。エレジが机へ並べていると、ヨナスも端末を持って入り、設備側の確認結果を開いた。
「地図は、これが最後のものですか」
「はい。見通せる区間を書き足したものです」
「なら、こっちにも合わせておきます」
ヨナスが表示を確かめる間、エレジは写真の番号を見直した。自分が説明する位置から、地図も写真も見せられる。三日前に提出した報告の後で分かったことは別にまとめていたが、大きく判断を変える内容はなかった。
リヒターは共有スペースで昼食の準備をしていた。訪問者も食事を取る予定になっているため、今日は六人分になる。エレジが手伝いに戻ると、彼女はすでに野菜を切り終え、鍋へ入れるものを分けていた。
「何かしますか?」
「パンを切っておいてもらえる? あとは来てからでも間に合うわ」
エレジは食器棚からまな板を出した。リヒターは鍋の様子を見た後、壁の時計へ目を向けた。到着予定まではまだ時間があったが、朝食を作っていた時にも、同じように一度確かめていた。
マティアスが入ってきたのは、エレジがパンを切り始めた頃だった。机の上へ出された器を見て、いつもより一人分多いことを確かめると、そのまま配膳する場所へ運んだ。
「ここに並べていいですか」
「ええ。まだ料理は出さなくていいから」
「分かってますよ。先に食べるつもりじゃないです」
いつもの調子で返されると、リヒターも少し笑った。エレジは切ったパンを器へ移し、乾かないよう覆いをかけた。普段の食事と同じように準備できていたが、彼女が時刻を気にしている理由は来る人物が自分の上官だからなのだろうと思った。
到着の連絡が入ると、カイルが玄関へ向かった。エレジたちも台所の作業を区切り、ヨナスが通信室から戻るのを待って廊下へ出た。
カイルと共に入ってきたのは、物腰の柔らかそうな、優しい目をした五十歳前後に見える男だった。撫で付けてある髪には灰色が混じり、上着の肩には大佐の階級章がある。施設の中を見回すより先に、廊下へ集まっていた四人へ目を向けた。
「紹介する。班の任務調整を担当するヴェルナー大佐だ。今後の任務について、説明を受ける」
エレジもほかの三人と並んで挨拶した。大佐は順に返答し、リヒターのところで一度目を止めた。
「久しぶりだな、リヒター」
「はい。お待ちしていました」
声は落ち着いていたが、普段より少し丁寧だった。エレジが横を見ると、リヒターは相手の顔を見ており、次に何を言われるかを待っている。
大佐はヨナスにも顔を向けた。
「ファルクも、一度仕事をして以来だな」
「はい。お久しぶりです」
「ここの設備はどうだ」
「古い部分はありますが、使えます。改修したところと元の系統を合わせて確認していました」
「君なら、来てすぐ始めただろうな」
「初日に少し」
ヨナスの答えを聞き、マティアスが少し口元を緩めた。エレジも、到着して二十七分で設備を見ていた時のことを思い出した。
大佐は二人の反応に気づいたようだったが、理由を尋ねず、最後にエレジへ向き直った。
「ヴァイス中尉だな」
「はい。よろしくお願いします」
「課程と、その後の報告は読んでいる。今日は現地で確認したことも聞かせてほしい」
エレジが返事をすると、カイルは作戦室へ案内した。大佐が自分の報告をどこまで読んでいるのかは分からなかったが、少なくとも、経歴だけを見て来たわけではないらしかった。
*
作戦室では、カイルが五人の相互訓練について先に説明した。専門分野の共有と、役割を途中で変える複合課題を行ってきたこと、現地では互いの判断を使って動けるようになっていることを報告する。
大佐は途中で何度か質問したが、カイルが各担当へ説明を渡すと、そのまま本人の話を聞いた。ヨナスが機材の扱いについて補足し、リヒターも救護と後送の確認状況を伝えた。
外周の件へ話が移ると、エレジは地図を机の中央へ置いた。大佐からも位置が見えるように向きを変え、センサーの反応範囲と、外で確認した場所を示した。
「こちらが反応のあった範囲です。人が留まった可能性のある場所は、その外側になります」
「同じ出来事によるものか」
「確認できていません。地面の変化が、いつできたものかも分からないので」
リヒターが写真を示し、所見を補った。人数も目的も判断できず、柵を越えて入ったと分かるものはなかったと説明する。
大佐は写真を見た後、もう一度地図へ目を戻した。
「ここからは、何が見える」
「施設へ続く道の一部です。車両が出入りするなら、向きは確認できると思います。建物の中や玄関までは見えません」
「施設を見ていたと判断したわけではないんだな」
「はい。観察できる場所ではありますが、そこへ来た理由までは分かりません」
エレジが答えると、大佐は地図の印と写真の番号を照合した。見られる場所だと報告したことを、そのまま監視されていたという意味にはしなかったので、彼女も確認した範囲を続けて説明できた。
ヨナスは機器の状態と記録について報告し、管理側の担当者が再確認した後も、明確な故障は見つかっていないと伝えた。作業予定と巡回記録では、該当する反応を説明できなかったことも添えた。
「現時点では、反応の原因は特定できていません。確認は続けています」
「分かった。設備と外周の件は、担当側にも継続させる」
大佐が報告を受け取ると、カイルは班が施設を離れる場合について尋ねた。五人の不在中にも確認を止めないこと、必要な警備を引き継ぐことを確かめている。
「ヴァイス中尉の警護についても、移動先で途切れないようお願いします」
「その件は、現地側にも伝えてある。任務中の支援体制と合わせて確認してくれ」
エレジは二人のやり取りを聞きながら、地図を自分の手元へ戻した。施設の外周の問題と自分に付いている警護は、今のところ別々に扱われている。関係があると分かったわけではなく、どちらも必要な確認が続くことになった。
*
大佐が次の資料を出すと、机には別の地域の地図が広げられた。施設からは離れた山間部で、谷に沿って道路が通り、その途中に小さな集落と建物が記されている。
「最初の任務は、ハルデン周辺の活動確認だ」
エレジは地名を目で追った。通ったことのない地域だったが、地図の等高線を見ると道路以外にも移動できそうな経路はあった。観測点を選ぶなら、谷の両側から見える範囲を比べる必要がありそうだった。
「中継施設の周辺で、通信と車両の出入りに変化がある。現在、何に使われているかを確かめたい」
大佐は最近の観測資料と、確認できている時間帯を示した。以前は少なかった夜間の出入りが増え、施設へ向かう車両も変わっているという。ただ、持ち込まれているものや、滞在する人間の所属までは分かっていなかった。
「軍事的な活動だと確認されているんですか」
カイルが尋ねると、大佐はまだ判断していないと答えた。
「そのための調査だ。施設への侵入や、対象との接触は求めない。活動の時間帯、使われている経路、車両、それに通信状況を合わせて見てほしい」
ヨナスは通信についての資料を引き寄せ、これまで何を観測したものかを確かめた。エレジも建物の位置と写真を見比べたが、道路から見える面だけでは、出入口のすべては分からなかった。
「観測を続ける期間は」
「まずは四日。現地の状況を報告してもらい、延長が必要なら判断する」
「滞在先はここですか」
エレジが地図の印を示すと、大佐は対象地域から離れた軍の施設だと説明した。宿泊と食事の設備があり、車両と補給の支援も受けられる。
「現地へ移動して、その拠点から出入りする。五人だけで補給まで抱える必要はない」
リヒターは医療支援と後送先について質問した。最寄りの医療施設だけでなく、そこまでの移動手段も確かめている。大佐が資料を示すと、彼女は必要な項目を手元へ書き留めた。
マティアスは観測中の交代と、移動の支援について聞いた。対象を見続けるために全員が同じ場所へ留まる必要はなく、現地を見てからカイルが配置を決めることになった。
「接触を避けられない状況になった場合は、情報より撤収を優先します。それでよろしいですか」
「ああ。ここで対象を押さえる任務ではない。判断を変える必要が出たら、理由と現地の状況を報告してくれ」
カイルがそこを確認すると、大佐は実施に必要な支援と報告先を伝えた。地図に書かれた場所へ行けば、決められたとおりに観測できるという話ではない。現地で使える道や見通しを確かめ、どこへ人と機材を置くかは、班で判断することになった。
「出発は二十六日を予定している。それまでに必要なものと、資料の不足を挙げてほしい」
エレジは、今日を含めて準備に使える時間を数えた。装備だけでなく、地図と既存の写真を読んでおきたい。現地へ着いてから分かるものもあるが、今確認できることを残したまま出る必要はなかった。
大佐は五人の質問を聞き終えると、細部の計画はカイルへ任せると伝えた。追加の情報が入れば出発前にも共有することになり、エレジも自分の資料へ確認したい箇所を書き込んだ。
*
説明を終える頃には昼になっていた。リヒターが食事の用意を確かめに立つと、大佐も共有スペースへ移ることになった。
エレジは資料を揃えてから台所へ入り、温めていた料理を器へ取り分けた。リヒターは来客の分を用意する時にも迷わず、量と付け合わせを決めていた。
「これでいいわ。パンも出してもらえる?」
「はい」
エレジが朝に切っておいたものを運ぶと、マティアスが机の空いているところを確かめ、器を並べるのを手伝った。大佐はカイルの隣へ座り、五人が揃ってから食事を始めた。
「ここでは、リヒターが作っているのか」
「はい。ヴァイス中尉にも手伝ってもらっています」
大佐がこちらへ目を向けたので、エレジは、ほとんど教わりながらだと答えた。リヒターは先日一人で夕食を作ったことも付け足した。
「五人分をか」
「煮込みです。前に一緒に作ったものなので」
「それなら、任務先でも頼れるな」
そう言われると、エレジは少し照れた。現地の設備も食材もまだ知らないため、同じように作れるかは分からなかったが、用意できるものを考えることはできそうだった。
大佐は食事を取りながら、施設での暮らしにも慣れたかと尋ねた。エレジは五人分の仕事と生活が同じ建物にあることには、もうあまり戸惑わなくなったと話した。
「課程の宿舎とは違うだろう」
「はい。人数が少ないので、誰が何をしているかは分かりやすいです。仕事で一緒に動く時にもそれは助かっています」
「この班の仕事は、希望していたものに近いか」
「近いです。知らない場所へ行って、見て、必要な情報を持ち帰る仕事がしたかったので」
エレジが答えると、大佐はすぐに次の質問をせず、その言葉を聞いていた。仕事の内容を説明するつもりで話したが、知らない場所を見ること自体も好きだと、今は自分で分かっている。
「北方へ来た頃から、そういう仕事を?」
「最初からここまで具体的には考えていませんでした。配属先で仕事をして、課程でいろいろ経験してからです」
「では、これからも変わるかもしれないな」
「はい。でも、今はやってみたいです」
カイルは隣で話を聞いていたが、エレジの代わりに理由を説明することはなかった。大佐も、さらに適性を確かめるようには尋ねず、現地では気候も道路の状態もここから少し変わると話した。
ヨナスはその話から、対象地域の地形へ関心を向けた。資料だけでは分からない機材の置き場所を、現地で見ておきたいという。
「着いた日に先に確認してもいいですか」
「計画に入れておけ」
カイルが返すと、マティアスは、その確認にどのくらいかかるかを聞いた。ヨナスが現地の状態によると答えたので、彼は食事の時刻だけは忘れないでほしいと言った。
「時計は持っていますよ」
「持ってても忘れるでしょう」
ヨナスが少し考えている間に、リヒターが、呼ばれたら来るようにと言った。大佐も二人のやり取りを聞いていたが、止めようとはせず、そのまま食事を続けた。
作戦室では説明する内容を気にしていたエレジも、食卓では少し肩の力を抜けた。大佐は必要なことを尋ねるが、答えの先を勝手に決める様子はなく、ほかの班員の話にも耳を向けていた。
*
食後の片づけを終えると、大佐は共有スペースにいたリヒターへ声をかけた。エレジも近くにいたため、二人の話す声が聞こえた。
「ここでの生活はどうだ」
「問題ありません。班での作業も、予定どおり進めています」
「仕事の報告は聞いた。生活の方だ」
リヒターはすぐには答えなかった。台所の方を一度見てから、大佐へ顔を戻した。
「……悪くないです」
「そうか」
大佐はその返答を聞き、ほかにも何かを言わせようとはしなかった。カイルが出発前の確認事項を持って来たため、二人は作戦室へ戻ることになった。
リヒターも後を追おうとしたが、カイルが自分から説明すると伝えると、共有スペースに留まった。マティアスが机の空いたところを示し、彼女へ声をかけた。
「大尉も座りません?」
「そうね」
リヒターが席へ戻ると、エレジも隣へ座った。午後の予定を尋ねる彼女の声は、普段の調子に戻っていた。
上官の前で緊張していたのか、話す内容に気をつけていたのかは分からなかった。ただ、いつもならすぐに返す生活の話にも、少し考えて答えていたことは気になった。
大佐が帰る時には、五人で玄関まで見送った。リヒターは今後も報告すると伝え、大佐はカイルへ、準備の要望は早めに出すよう話した。
扉が閉まってからも、彼女は一度外の方を見ていた。マティアスが作戦室へ戻るのかと声をかけると、リヒターもそちらへ向き直り、カイルが資料を持って来るのに合わせて廊下を歩いた。
*
五人で任務資料を開き直すと、カイルは先に、それぞれが出発前に確かめたいことを挙げるよう求めた。上から説明を受けた内容と、実際に五人で行う準備は分けて考える必要があった。
エレジは写真の撮影時期と、地図にある道が現在も通れるかを確認したいと伝えた。ヨナスは既存の通信資料を詳しく見たいと言い、リヒターは現地の医療支援について追加の問い合わせを挙げた。
マティアスは荷物の分担と、観測点まで車両を使える範囲を聞いた。カイルは現地で変わる部分もあるとした上で、今決められる装備と、到着後に組み直すものを分けた。
「全部持っていけばいいとは考えるな。使う見込みと、代わりが必要なものを挙げろ」
エレジは観測機材の一覧を見直した。自分が使うものだけでなく、ヨナスが作業している間に何を引き取れるかも考えたかった。隣で彼が機材を選ぶのを見ると、現地で確認する項目を先に共有してほしいと頼んだ。
「移動中に見られるところは、私も見ます」
「お願いします。先に一覧にしますね」
分担を決める間にも、地図の上に書き込みが増えていった。まだ現地へ着いていないため、観測点を一つに決めることはせず、候補と、そこで見たいものを残した。
準備を区切って自室へ戻ると、エレジは数日分の衣類を出し、携行するものを鞄のそばへ並べた。施設へ来た時と違い、部屋の中を空にする必要はない。机の本も、普段使っているものも、そのまま置いていける。
ノックの音がしたので扉を開けると、カイルが追加の資料を持って立っていた。現地の宿泊設備について返答が来たという。
「寝具はある。洗濯もできるそうだ」
「じゃあ、衣類は少し減らせますね」
「ああ。確認しておけ」
エレジは資料を受け取り、部屋の中へ戻る前に彼の顔を見た。任務の準備として知りたいことはまだあったが、地図を読んでいるうちに、それとは別の関心も出てきていた。
「少佐、ハルデンには行ったことがありますか」
「近くまではある」
「どういうところですか」
「谷が広い。ここより、集落から山がよく見える」
エレジは地図で見た等高線を思い返した。写真は対象の建物と道路を中心に撮られており、その周りの景色までは分からなかった。
「着いたら、見てみたいです」
「現地へ入る時に見えるだろう。観測する場所だけ見ていればいいわけでもない」
「はい。でも、景色としても見たいです」
カイルは彼女が言い直した意味を考え、少し表情を緩めた。任務に使う情報としてではなく、初めて行く場所を見たいと言っているのだと分かった。
「時間が取れたらな」
「はい」
返事をしてから、エレジは受け取った資料へ目を戻した。泊まる場所も、そこから仕事へ向かう道も、まだ知らない。荷物を整えた後で、地図をもう一度見ておきたかった。
カイルが隣の部屋へ戻ると、エレジは鞄へ入れる衣類を選び直した。数日後には五人でここを出て、仕事を終えたらまた戻る予定になっている。机に置いたままにするものと、持っていくものを分け、現地の地図は鞄の取り出しやすいところへ収めた。




