↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
エーデルベルグの雪 ──北部山岳任務録──  作者: 有凪いちほ
特殊情報収集班:訓練

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

55/152

もう見ない


 朝食を終えてから、カイルは昨夜の記録を持ってリヒターの部屋を訪ねた。共同訓練へ出る前に、エレジが自分で書いたものとは別に、指示した内容と変更した箇所を確かめてもらう必要があった。


 リヒターは紙を受け取り、背中を向けるところを変えたことと、椅子に座った後で終了したことを読んだ。


「途中で、前はできたのにって話したのね」


「ああ。その時はやめたいという返事は変わってなかった。その後、椅子へ座るところは自分で続けると決めた」


「中尉の記録も、後で読ませてもらうわ」


 リヒターは用紙を机へ置き、今日の予定へ話を移した。


「共同訓練の後、中尉の状態を見て、本訓練をしようと思ってる。今日は脱衣も含めるつもりよ」


 カイルは昨夜彼女が選んだ範囲を思い返した。自分との課題で受け入れたことが、リヒターの前でも同じようにできるとは限らない。そこは本人が説明を聞いて決めることだった。


「範囲は」


「少佐と確かめたところまで。それより先へは進めない。相手への要求が通らない場面も入れるけど、中止の伝え方とは分けて説明する」


「分かった。ただ、一つ伝えておく」


 リヒターは何か条件が来るのかと彼へ目を向けた。


「俺はもう見ない」


 カイルが本訓練を見るのをやめると言ったので、リヒターはペンを置いた。


「脱衣が入るから?」


「それもある」


 カイルはどこまで言葉にするか考えた。エレジが本訓練でどうなるかは気になるが、本人の知らないところから確かめ続ける必要があるとは、もう思わなかった。


「命令系統が見えないことは変わってない。ただ、お前が説明した範囲を守り、ヴァイスが止めれば終えることは見てきた。迷っている時にも、先へ進める前に話を聞いてる。その判断は、もう任せられると思ってる」


「報告で聞く、ということね」


「ああ。今後も毎回、本人に知らせず見る必要はない」


 リヒターは内心ほっとした。命令者について答えられない事情が残っていても、カイルはこれまでの対応を見た上で、自分の判断に任せると言ってくれた。説明した範囲を守ることだけでなく、中尉が迷った時にどう進めるかも認めてもらえたのだと受け取った。


「分かった。終わったら、実施した範囲と状態は伝えるわ」


「頼む」


 予定の確認を終えると、カイルは共同訓練の準備へ戻った。午後の課題についてエレジへ先回りして話すことはせず、リヒターが説明し、本人が返事をする時間に任せることにした。


     *


 五人は施設の東側にある訓練区画へ向かった。林の間にはまだ雪が残っていたが、車両が通る道は地面が出ており、脇へ寄れば靴底に湿った土がついた。


 今回の課題は、指定された二つの地点から区画の奥にある建物と、その周囲を観測することだった。出入口、車両の有無、接近に使える道を確認し、予定した時刻までに施設へ戻る。地図と事前に撮影された写真は渡されているが、現地で見えるものが同じとは限らなかった。


 最初の観測地点へ着くと、エレジは地図をしまい、林の切れ目から建物を見た。写真では正面の出入口まで見えていたが、今は手前に車両が停まっている。屋根の一部と側面は確認できても、出入口を出入りするものがあるかどうかは分からなかった。


「正面が見えません。車両が重なっています」


 カイルへ報告してから、エレジは左右の地形を確かめた。右へ移れば角度は変えられそうだったが、林が薄くなり、建物の方からもこちらを見つけやすくなる。左側には斜面があり、少し上がれば車両の向こうが見えるかもしれなかった。


「左の斜面へ移りたいです。ここより高さが取れます」


「どこまで上がる」


「林が切れる手前までです。ただ、そこから見えるかは、行って確かめないと分かりません」


 カイルが地図を見ている間に、エレジはヨナスにも移動先を伝えた。今は通信できているが、斜面へ上がれば同じ条件とは限らない。


「ファルク大尉、左へ移っても通信は使えそうですか」


「使えると思います。ただ、斜面の裏へ入ると変わりますね。移動しながら確認します」


「リヒター大尉、左側は通れそうですか」


 リヒターは建物を見ていた位置から少し離れ、斜面へ続く足元を確かめた。エレジのいるところからは木の根元に雪が残っているのが見えたが、その先の地面までは分からなかった。


「途中までは。上の方は雪がつながってるから、そこへ入る前にもう一度見るわ」


 エレジは二人の返答を聞き、地図の上で移動範囲を狭めた。林の端まで上がる必要があるかは、途中で確かめられる。


「少佐、斜面の下側を通って、途中で一度観測します。そこでも見えなければ、上がるか判断したいです」


「ああ。二つ目の地点へ移る時間は残しておけ」


「分かりました」


 マティアスがエレジのいた位置へ入って建物を見続ける間に、エレジとリヒターが先に斜面へ寄った。ヨナスは通信の状態を確かめながら後へ続いた。


 途中から建物を見直すと、車両と出入口の重なりは少し減っていた。扉の下側は隠れたままだが、その前を人が通れば分かりそうだった。エレジは双眼鏡を使い、側面の窓と車両の位置も確かめた。


「ここなら、出入口の前を通るものは見えます。ただ、扉自体が開いているかは確認できません」


「必要な情報は」


 カイルに尋ねられ、エレジは課題の項目を思い返した。出入口の位置は資料と一致している。車両は一台。建物へ入る道は正面に続いているが、反対側についてはまだ見ていない。


「反対側の接近経路が残っています。扉の状態を確かめるためにここから上がるより、二つ目の地点へ移った方がいいと思います」


「それで進める」


 エレジは今見えた範囲を記録し、扉の状態は未確認と書き添えた。


 ヨナスも現在の地点では通信が保たれていると伝えた。ただ、建物の裏側へ回る経路では途中に斜面を挟むため、連絡が取りにくくなる可能性があるという。


「切れたら、その場で戻す?」


 マティアスが尋ねると、ヨナスは地図の二か所を示した。エレジが候補にしていた道のうち、一方は斜面から離れ、少し遠回りになる。


「こっちなら確認しやすいです。近い方を使うなら、曲がる前に一度連絡を入れてほしいですね」


 エレジは距離と残り時間を見比べた。遠回りしても予定には間に合うが、足元の状態によっては余裕が減る。リヒターへ通れる範囲を聞くと、斜面に近い方は雪が残り、速度を落とす必要があると返された。


「それなら、遠い方で行きます。歩く時間は少し増えますけど、足元と通信の両方を確かめながら進められます」


 カイルが了承すると、マティアスは自分の地図にも経路を書き込んだ。エレジが観測へ戻る間は彼が道を確かめることになり、ヨナスも次に通信を確認する位置を伝えた。


 二つ目の地点からは建物の側面と、その奥へ続く道が見えた。正面の扉は角度のために確認できなかったが、その状態を確かめようとしてこちらの観測を遅らせる必要はなかった。エレジは見えた道と、林に隠れて先を追えない部分を分けて記録した。


 撤収前に五人で情報を合わせると、マティアスが最初の地点で見続けていた間、見える範囲では人の出入りを確認しなかったと分かった。エレジが斜面へ移った後も、元の位置から取れる情報は残っていた。


「扉の状態は確認できませんでした。車両と接近経路は、見えた範囲を記録しています」


「戻ってから、資料と合わせる」


 カイルが時計を確認して撤収を決めたので、エレジも装備を収めた。指定された地点から全部見えなくても、五人で位置と役割を変えたことで取れた情報は増えている。残ったものを確かめるために予定を延ばすことはせず、来た道とは別に選んだ経路で施設へ戻った。


     *


 帰還後に装備を戻して記録を整理し終えると、リヒターはエレジへ、休憩の後に本訓練を行えるか尋ねた。屋外で歩いた疲れはあったが、座って地図をまとめている間に呼吸も落ち着いていた。エレジは水を飲み、自分の状態を確かめて答えた。


「できます。今日は何をするんですか」


「今まで使った姿勢と、進路の制限、質問。見られることに関わる条件も入れたいの。ただ、今日は先に説明しておきたいところがあるわ」


 小部屋へ行く前に話すと言われ、エレジは机へ地図を残し、リヒターの方へ椅子を向けた。


「課題の中で、私に退いてほしいとか、位置を変えてほしいと求めても、そのとおりにしない場面を入れます」


「要求が通らない時に、どうするかですか」


「ええ。言った後で、私が実際に動いたかも見て。そのまま待つか、自分が位置を変えるかは、その時に判断して」


 エレジは前の面談で聞いたことを思い出した。カイルとの課題では変更を求めれば対応してもらえたが、今回は伝えた後も相手がどうするかを見る必要がある。


「訓練を終えたい時は、今までと同じでいいんですか」


「同じ。『止めて』は中止として受け取る。退いてほしいという要求とは分けるわ。あなたが続けるかどうかを考えられなくなっていると判断した時も、こちらから止める」


 それを確かめてから、エレジは衣服の範囲について尋ねた。リヒターは個人訓練で受け入れたところより先へは進めないと言い、今日はシャツを残すところまででよいかを聞いた。


「はい。その範囲なら」


「分かった。姿勢も、少佐と確かめたものを使う。順番と、私がいつ動くかまでは教えない」


 説明を聞き終えると、エレジは少し時間を取ってから始めたいと伝えた。リヒターは先に部屋を整えておくと言い、準備ができたら来るように話した。


 休憩を終えて小部屋へ入ると、机と椅子は前に使った時と同じ場所にあった。扉から机までの間には移動できる幅があり、椅子の反対側にも空間が残っている。エレジは衣服を置く場所を確認してから、始められると伝えた。


 着衣のまま立つ位置と身体の向きを確かめた後、説明された範囲まで衣服を外した。カイルの部屋で行う時とは違い、次の姿勢も、リヒターがどこから見ているかも、その都度確かめなければ分からなかった。


「机の方を向いて。手は身体の前に置いていいわ」


 エレジは机へ向き直り、両手を重ねた。衣服を着ていた時よりリヒターが視界から外れることが気になったが、部屋へ入った時に見た椅子と扉の位置は覚えている。


「今朝、最初の観測地点から何が見えた?」


「建物の屋根と側面、車両です」


「出入口は?」


「車両に隠れていました。斜面へ移った後は、その前を通るものなら見える位置になりました」


 答えている間にリヒターの足音が近づき、右の手首を取られた。押さえられること自体は経験していたが、触れられる時刻は分からなかったため、一度そちらへ注意が向いた。


「扉が閉まっていたとは言えない?」


「言えません。扉自体は見えていなかったので」


 返答してから腕を確かめた。手首は押さえられているが、机へ身体をつけられてはいない。リヒターは右後ろにいて、左側へはまだ動ける。


「身体を左へ向けたいです」


 手首は離されなかったが、向きを変える動きは止められなかった。エレジは足を置き直し、リヒターの顔と、腕を押さえている位置を見られる向きへ移った。


「今の位置なら続けられる?」


「はい」


 彼女の位置を見られるようになると、腕を押さえられたままでも、今は続けられると思えた。


 手首が離されると、リヒターは椅子へ座るよう指示した。向きを戻した時には彼女が机と椅子の間へ立っており、その横を通ろうとすると、進もうとした側へ動いて道を塞いだ。


 エレジは足を止めた。椅子へ向かう道は一つではないが、今進もうとしているところにはリヒターがいる。


「そちらを空けてもらえますか」


 リヒターは退かず、こちらを見たまま立っていた。エレジは同じ言葉を重ねなかったが、すぐにはほかの場所へ注意を移せなかった。正面から見られるところを離れたいと思うと、自分の身体をどちらへ向けるかばかり考えてしまう。


「斜面へ移る時、何を確認した?」


 通信と足元の状態を確認したことは思い出せた。だが、今は答える前に、椅子へ向かうために見ていない場所を確かめたかった。


「今は答えません。位置を確かめたいです」


 リヒターから視線を外して机の反対側を見ると、そちらにも通れる幅があった。椅子の背が少し張り出しているが、身体を横へ向ければ抜けられそうだった。ただ、見えないまま背中を彼女へ向けることは避けたかった。


 まず机から一歩離れると、リヒターはついてこなかった。間に距離ができ、エレジは彼女を視界に残したまま机の反対側へ移れた。


「そちらから座ります」


 伝えてからも、リヒターが動くかを見ていた。彼女は元の位置に留まっている。エレジは座面を確かめて腰を下ろし、両足を床へ置いた。見られることへの恥ずかしさは続いていたが、椅子まで進むことはできた。


「さっきの質問は、今なら答える?」


「はい。通信が使えるかと、斜面を通れるかを確認しました」


「誰に?」


「通信はファルク大尉、足元はリヒター大尉です」


 答えてから椅子の位置を見直した。リヒターが近づけば机との間は狭くなるが、今は少し離れているため、立つことも椅子の横へ出ることもできそうだった。


「今、変えたいことは?」


「椅子を、少し机から離したいです」


 リヒターは椅子を動かさず、そのままエレジを見ていた。自分で動かしてよいかはまだ説明されていないため、座面へ手をかける前に尋ねた。


「自分で椅子を動かしてもいいですか」


「ええ」


 エレジは一度立ち、机との間を広げてから座り直した。元の位置へ戻されることはなく、立つための幅を残したまま続けられた。


 その後、リヒターが椅子の左側へ回り、背後へ移るところまで続けた。顔が見えなくなると振り返りたくなったが、エレジはまず足音の位置を聞き、椅子から立つならどちら側へ出られるかを確かめた。


 次の質問が来る前に、今日はここで終えたいと思った。進路を変える場面が続き、今は新しい条件より、すでに行ったことを整理する時間がほしかった。


「止めてください。今日はここで終わります」


 リヒターはそれ以上の指示を出さず、エレジの前へ戻った。衣服を戻してよいと言われ、彼女は立ち上がって机へ置いたものを取った。もう進路を塞がれることはなく、リヒターも着直しているところから離れて待っていた。


     *


 衣服を戻し終えると、エレジは椅子へ座り直した。リヒターは机の反対側に立ち、今の状態を聞いた。呼吸も考えも落ち着いていたが、最初に進路を塞がれたところはもう少し思い返したかった。


「退いてもらえなかった時は、どうだった?」


「動かないことは分かりました。でも、別の場所を見るまでに時間がかかりました」


「何が気になってた?」


「見られている方です。そこから離れたいと思ったんですけど、どちらへ身体を向けるかを先に考えていました」


 今は反対側に道があることもすぐに分かる。訓練中も同じ場所は残っていたが、リヒターに正面から見られていることが気になり、自分の姿勢へ注意が寄っていた。


「朝の観測では、右へ移るか左へ移るか、先に周りを見て考えられました。ここでは、自分が動く時にどう見られるかが気になりました」


「その後は、何で変えられた?」


「質問された時に、まだ道を見ていないと思ったので。答える前に、そちらを確かめました」


 リヒターは返答を記録し、質問を受けてもすぐ答えなかったことを確かめた。エレジは聞かれた内容を忘れたわけではなく、その時は位置を見る方を選んだと説明した。


「反対側へ移る時は、私がどうすると思った?」


「また塞ぐかもしれないと思いました。でも、動いていなかったので、見ながら進みました」


「最初に退かなかったから、ずっと同じようにするとは決めなかったのね」


「はい。次も塞がれるかは、まだ分からなかったので」


 リヒターはそれ以上、別の返事を求めなかった。エレジも最初に少し遅れたことを消すために、もう一度行いたいとは言わなかった。


「椅子を動かしたところは?」


「自分で動かしていいか、先に聞きたかったです。できると分かったので、場所を変えました」


「動かせなかったら、どうしたかは?」


「まだ分かりません。今日は動かせたので」


 リヒターはその答えも記録した。行わなかったところまで、今ここでできると言う必要はなかった。エレジは最初に通ろうとした側と、実際に使った側を自分の記録にも残しておきたいと思った。


「見られることは、最後まで気になった?」


「はい。椅子へ着いてからは少し落ち着きましたけど、なくなったわけではないです」


「分かった。今日はここまでにしましょう。記録には、要求したことと実際に変わったことを分けて書いておいて」


 部屋を出る前に、エレジは机の反対側をもう一度見た。リヒターが退かなくても通れた場所だった。ただ、次も同じ道が残っているかは、その時に見なければ分からない。


 共有スペースへ戻ると朝の地図をしまい、代わりに記録用紙を広げた。リヒターへ退くよう求めたこと、その要求では位置が変わらなかったこと、自分が机から離れて反対側を通ったことを順に記した。


 そこへ、見られることが気になって道を確かめるのが遅れた、と付け足した。書き終えてから小部屋の配置を簡単に描き、リヒターがいた位置と、自分が通った場所を同じ紙へ残した。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。