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エーデルベルグの雪 ──北部山岳任務録──  作者: 有凪いちほ
特殊情報収集班:訓練

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面談


 翌朝、エレジは朝食を終えてから、リヒターに昨夜の記録を渡した。共同訓練の準備が始まる前に話しておきたかったが、紙に書いたことを読み返しても、最後に残った疑問をどこから説明すればよいかは決まらなかった。


 リヒターは記録へ目を通し、シャツを脱ぐところで止めたことと、その後は姿勢の確認を続けたことを確かめた。エレジが答えると、途中で向きを戻した場面や、手の位置を変える前に時間を取ったところについても聞いた。


「少佐に伝えたことは、ここに書いてある分で全部?」


「はい。終わってから、これで訓練になるのかも聞きました」


「何て言ってた?」


「指示を聞いて、受け入れるか考えて、自分で終わりを決めた。それが今日確かめることだって」


 リヒターは記録を机へ置き、説明を付け足さずにこちらを見ていた。エレジは昨夜カイルへ言えなかったところまで話すことにした。


「それは分かるんです。でも……このままでいいのかなって、まだ思っています」


「自分で止められることが?」


「はい。嫌だと思ったところで止めてもらって、そのまま終わって。それを続けて、本当にその状況に置かれた時に、対応できるようになるんでしょうか」


 口にすると、昨夜よりも何を気にしているかがはっきりした。聞きたいのは課題そのものではなく、自分の選択を待ってくれる相手がいないところでも、同じように考えられるのかということだった。


「シャツを脱がなかったこと、今はどう思ってる?」


「今からでも脱いでおけばよかった、とは思っていません。あの時は残しておきたかったので。ただ、それでよかったのかは、まだ分からないです」


 リヒターはエレジが記録へ目を落としても、続きを促さずに待っていた。ほかに伝えたいことを考えてみたが、今言えるのはここまでだった。


「分かった。この話は、夜にしましょう」


「夜、ですか?」


「ええ。あなたが気にしてることも含めて、ちゃんと話す時間を取るわ。日中は共同訓練に集中して」


 エレジは少し迷ったあとで頷き、リヒターの部屋をあとにして共同訓練の準備へ向かった。


     *


 エレジが部屋を出てから、リヒターはカイルにも昨夜の課題について聞いた。彼が持ってきた記録には、指示した衣服と姿勢、それに対してエレジが受け入れたことや変更を求めたことが順に書かれていた。


「昨日はどうだった?」


「進め方は、記録のとおりだ。シャツで脱衣を止めて、その後は姿勢を五つ確かめた」


「あなたの方で、困ったことは?」


 カイルは姿勢を指示する途中で言葉を止めた箇所へ目を向けた。エレジには選び直していると伝え、その通りに別の指示を出したが、何を基準に選び直したかは記録だけでは説明しきれなかった。


「次回は、取る姿勢も先に指定しておいてくれ」


「候補から選ぶんじゃなくて、順番まで?」


「ああ」


 リヒターは記録を見てから、察したことを確かめるように彼へ目を向けた。


「分からなくなったのね。課題として選んでるのか、自分の欲なのか」


 カイルは否定できなかった。紙にある姿勢を選んでいる以上、範囲を外れてはいない。それでも、次に何をさせたいと思ったかを振り返れば、訓練のためだと言い切れないものが混じっていた。


「……ああ」


「かわいくて仕方ないでしょう、あんな恋人」


 言い方には腹が立ったが、そこも否定する理由がなかった。カイルは息を吐き、机へ置いた記録から手を離した。


「だから、先に決めておいてくれと言ってる」


「分かった。次は姿勢と順番も指定するわ」


 了承されたのでカイルはその話を終えるつもりだったが、リヒターは記録を片づけず、今朝エレジから聞いたことへ話を移した。


「あの子にも報告してもらったの。このままでいいのかと思ってる、と言われたわ」


「俺にも昨夜、そう言ってた」


「あなたは、今日確かめることはできてると答えたのね」


「ああ。断った後も、自分で続けると決めてた。最後も自分で終わりを決めた。それで課題になってないとは思わない」


「その説明は分かってるみたい。でも、本当にその状況に置かれた時に対応できるのかが気になってる」


 昨夜、エレジは返事をした後も黙っていた。何か残っているとは分かったが、何でもないと言って部屋へ戻った。今朝はその先をリヒターへ話したらしい。


「一応夜に話すことにしてあるわ。それで聞きたいんだけど、彼女、前にもこうなったことはある?」


「こう?」


「焦りっていうか、できないと、みたいに」


「……ある」


「どういう状況で?」


 カイルはすぐには答えなかった。エレジが自分へ話したことを、彼女のいないところでどこまで伝えてよいか判断する必要があった。


「プライバシーに関わる」


「それは分かるわ。ただ、詳しく話してくれないと判断できない。何を気にして、どうしようとしたのかを知りたいの」


 不安を解消するために何を選ぼうとしたのかは、今の課題にも関わることだった。カイルは少し考え、エレジの個人的な気持ちまで伝えるのではなく、経緯と自分がどう答えたかを話すことにした。


「一度、近接で過度の接触を受けた。しばらく、触れられること自体が怖くなってた時期がある」


 リヒターは口を挟まず、続きを待った。


「本人は、性交渉が未知であることも関係してると思ってた。それをなくせば改善するんじゃないかと考えて、誰かと性交渉をしようとした」


「怖いから避けるんじゃなくて、確かめるために?」


「ああ」


 あの時と今とでは、エレジが置かれている状況も二人の関係も違う。ただ、不安が残るなら、まだ試していないところまで進まなければならないのではないかと考えていたことには覚えがあった。


「それは、どう解決したの?」


「俺が話し合った」


「話し合うだけで解決できたの?」


 カイルは二人の間で起きたことまで答えるのをためらったが、その間が答えになってしまった。


「したのね」


「……話し合った後でだ。解決してから、そうなった」


「そう」


 リヒターは窓の方へ目を向け、聞いたことを考えているようだった。カイルも彼女が何を言うのか待った。


「前の時、あなたが何を話したか、もう少し聞いていい?」


 そこなら、今話すと決めた範囲で答えられた。


「怖さをどうにかしたいことと、誰かとそうしたいことを分けて話した。何かを変えるために、いきなり一番深いところまで進む必要はないと」


「触れることも、細かく分けて確かめたの?」


「ああ。何が怖いのかを聞いた。分からないまま触れられることや、相手が止まるか判断できないことだと言ってた」


 リヒターは彼へ目を戻した。言葉を切ってもすぐには質問せず、その時のエレジが何を求めていたのかを考えているようだった。


「中尉は、それで納得した?」


「最初からではない。何もしなければ何も変わらないかもしれないと言ってた」


「だから、怖くても進まなければならないと思ってたのね」


「ああ。何かすることと、性交渉をすることは同じじゃないと話した。その後は、触れるところから確かめた」


 リヒターは昨夜の記録へ目を落とした。エレジはシャツを断った後も姿勢の確認を続け、途中で変更や時間を求めながら、最後に自分で終了を決めていた。


「昨日も、何もしてないわけじゃないのよね」


「ああ」


「本人も、そこは分かってる。あなたに説明されたことを、自分で話してたわ」


「それでも、足りないと思ってるのか」


「まだそうとは言い切れない。ただ、止めてもらえる相手と確かめることが、その先でどう役に立つのか分からないんだと思う」


 自分は昨夜の課題について答えていたが、エレジが気にしていたのは、それを終えた後にも残る不安だった。説明を理解したからといって、その先まで納得できたわけではなかったのだろう。


「今朝も、脱いでおけばよかったとは言ってなかったわ。あの時は残しておきたかった、と」


「なら、その返事を変えさせる必要はないだろ」


「ええ。私も、今からやり直させるつもりはない」


 リヒターは記録の中でエレジが時間を求めた箇所へ指を置いた。そこでも、待ってもらった後に自分で続けると決めている。


「ただ、昨日の課題だけでは、本番で対応できるかという疑問には答えられないのよ。それは中尉の言うとおり」


「分かってる」


「でも、答えが出ないから、もっと脱がせればいいということでもない。そこを今夜、本人と話したいの」


 カイルは次の課題をどう進めるつもりなのか聞こうとしたが、先にエレジの話を聞くと言っていることを思い直した。今朝の報告だけでは、彼女が何を確かめられればよいと思っているのかまでは分からない。


「今夜、俺もいた方がいいか」


「最初は二人で話させて。あなたには言いにくかったことがあるかもしれない」


 自分へ話さなかったことをリヒターには伝えた。そのことが気にならないわけではなかったが、エレジが別の相手へ相談できたことまで、自分の方へ戻す必要はないと思った。


「ああ」


「次の課題を変えるなら、あなたにも説明する。本人と話す前に、進める範囲は増やさないわ」


「そうしてくれ」


 リヒターは記録を返し、共同訓練の準備へ戻ろうとした。カイルは紙をしまいながら、前に話し合った後、エレジが自分から手へ触れたことを思い返した。あの時も何かを変えたくて、その日のうちに進まなければならないと思っていた。触れることを選べても、それで先の不安までなくなったわけではなかっただろう。


「少佐」


 立ち上がる前に呼びかけられ、カイルは彼女へ目を戻した。


「前に話して分かったことでも、別の課題になれば、また迷うことはあるわ」


「同じ話をしたから、もう分かってるはずだとは思ってない」


「なら、よかった。あの子も、昨日の返事を否定してほしいわけではなさそうだから」


 カイルは頷いた。昨夜の選択をやり直したいのではなく、それを続けた先に何があるのかを知りたいのかもしれない。


 リヒターが共同訓練の準備の時刻を確認すると、カイルも記録を持って部屋を出た。エレジへ今朝の話を問い直すことはせず、夜に話す時間を取ったという彼女の判断に任せることにした。


     *


 日中の共同訓練では、エレジは割り当てられた役割と班員から入る報告へ注意を向けていた。判断を返す必要がある間は、昨夜の課題について考え続けることもなかった。けれど、夕食を終えて記録を取りに自室へ戻ると、机に置いた用紙を見ただけで朝の疑問が戻ってきた。


 シャツを断ったことも、その後に姿勢の確認を続けたことも書いてある。何をしたかは分かるが、これを続けていけばよいのかは、読み返しても答えられなかった。


 リヒターの部屋へ行くと、机の上は片づけられ、エレジが座れるよう椅子が空けてあった。昨夜の課題に使った紙も、次の課題らしいものも出ていない。エレジは記録を持ったまま椅子へ座り、ベッドの端に腰を下ろしたリヒターを見た。


「朝の話の続きを聞かせて。日中、何か考えた?」


「訓練中は、あまり考えてませんでした。さっき記録を見たら、また気になって」


「今も、昨日止めたところを変えたいとは思ってない?」


「はい。シャツは残しておきたかったです」


 そこは朝と変わらなかった。今なら脱げるかと聞かれれば答えは違うかもしれないが、昨夜の自分がどうしたかったかを後から変えるつもりはなかった。


「ただ、少佐だから止めてもらえたんですよね」


「ええ」


「本当にそういう状況になったら、断っても止まらないかもしれません。待ってほしいと言っても、待ってもらえないかもしれない。それなのに、昨日は全部、私が決めたところで変えてもらってます」


 リヒターが否定しなかったので、エレジは朝には言えなかったところまで続けた。


「自分で選ぶことが大事なのは分かります。でも、選んだとおりにしてもらえない時にどうするかは、まだ分かりません。昨日みたいに止めてもらうことに慣れて、それで大丈夫だと思ってしまうのも、違う気がします」


「少佐が止まることを、ほかの相手にも当てはめてしまうのが気になる?」


「はい。それと……今ならもっとできるのに、やらないまま残しているところがあるのも」


 エレジは記録を膝へ置いた。全部終える必要はないという説明は聞いている。それでも、残したものをいつか確かめなければならないと思うと、止めた理由が恥ずかしさだけでよかったのか気になった。


「先に、昨日の課題で何をしていたかを話すわね」


 エレジが顔を上げるのを待ち、リヒターは説明を始めた。


「昨日は、あなたが何を受け入れたくて、何を変えたくなるかを確かめてた。少佐が待つことも、断れば止まることも、そのために必要だったの」


「考える時間を取るためですか」


「そう。次々に進められたら、どこで迷ったかも、何が嫌だったかも、後からしか分からないでしょう。まず、指示を受けた時の自分の反応を確かめてほしかった」


 エレジはズボンを脱ぐ前に返事が遅れたところを思い出した。待ってもらえたから、訓練を進めるためだけに了承しようとしていることにも気づけた。シャツの時には、できると思うことと、その時に受け入れたいことが違っていた。


「あなたが止めた時、少佐が本当に止まるかを試してたわけでもないのよ。そこは先に確認してある。だから、あなたは自分がどうするかに集中できた」


「……はい」


「でも、あなたが言うとおり、それだけで、止まらない相手にも対応できると確認したことにはならないわ」


 エレジは膝の上の記録へ目を落とした。昨夜の課題だけでは分からないところがあり、それを気にすることまで間違いだと言われずに済んだ。


「じゃあ、そこも訓練するんですか」


「必要なところは。ただ、昨日より先まで脱げば、それを確かめられるわけではないの。衣服をどこまで外したかと、相手があなたの要求を聞くかどうかは、別の条件でしょう。昨日、シャツを脱いでいても、少佐は待つし、あなたが終わりたいと言えば終わる。それなら、今あなたが気にしているところは残るわ」


 全部終えれば、少なくとも試していないところは減る。そう思っていたが、衣服を残さなかったとしても、カイルが自分の返答を待っていることは変わらない。


「……脱いだら、次が分かると思ってました」


「分かることはあるわ。昨日とは違う恥ずかしさが出るかもしれないし、姿勢を変えたいところも違うかもしれない。でも、それでほかの条件まで全部分かるわけじゃない」


「全部できたら、もう少し大丈夫だと思えるのかもしれないって」


 リヒターはすぐには次の説明を始めなかった。エレジが求めているのは課題を終えることだけではなく、まだ試していないものがあるために、自分の備えも足りないのではないかと気にしているらしかった。


「今の段階で、本番でも大丈夫だと言ってあげることはできないわ」


 はっきり言われるとエレジは少し緊張したが、リヒターは彼女を急がせるようには続けなかった。


「だからこそ、何が分かっていて、何がまだ分からないかを分けておきたいの。全部やれば安心できると思って進むと、課題を終えたことと、対応できることを同じにしてしまうかもしれない」


 エレジは昨夜カイルが説明したことにも、ようやく別の意味を見つけた。自分で断り、続け、終わりを決められたことは確かめた。相手が同じように応じない時については、まだ確かめていない。片方が残っているからといって、もう片方までやり直す必要があるわけではなかった。


「次は、止めてもらえない時のことも考えるんですか」


「本訓練では、相手の動きと、自分の要求が通ったかどうかも見てもらう。今までも、私がどこにいるか分からなくなったり、進路が制限されたりした時に、あなたは確かめ直してきたでしょう」


「はい」


「その時に使っていたものを、見られる恥ずかしさがある状態でも残せるか、少しずつ確かめる。昨日の課題は、その前に、自分がどこで気になるかを知るためのものでもあるの」


 エレジは背中を向けている時にカイルの顔を見たくなったことを思い返した。見られているところが気になり、相手の表情が分からないと次の声へ注意が寄った。その反応を知っていれば、本訓練でも同じようになった時、自分が何へ気を取られているかを考えられるかもしれない。


「私が嫌だと言っても、続けるんですか」


「訓練を止めるという意思は、私も受け取るわ。そこは変えない。相手役へ何かを求めることと、訓練そのものを終えることは、先に分けて説明する。何を言えば課題が終わるのか分からないまま、始めることはしないわ」


 そこが分かると、エレジは身体から少し力を抜けた。本番を考えるなら、全部を相手に任せて耐える必要があるのではないかと思っていた部分もあった。けれど、終え方まで分からなくするわけではなかった。


「まだ、次の課題をここで決めるつもりはないの。少佐にもそう話してある」


「少佐とも話したんですか」


「昨日どうだったかを聞いたわ。次は、姿勢も私が先に決めておくことにした」


 カイルの指示が途中で止まったところを思い出した。選び直していると聞き、続きを聞き落としたのではないと分かって待った。その時に彼が何を考えていたかは知らなかったが、今ここで詳しく聞こうとは思わなかった。


「あなたが昨日選んだところは、そのまま残しておきましょう。次の課題を考える時にも使うから」


「はい」


 エレジは記録を開き、シャツを断ったところを読み返した。昨夜の返事をよい選択だったと言い切れるわけではない。それでも、脱がなかったために何も確かめられなかったのではないと、今は考えられた。


「昨日、断った後にほっとしたことも、書き足していいですか」


「ええ。その後も迷ってたことと、一緒に」


 エレジは机を借り、記録の余白へ書き加えた。シャツを残せたことには安心した。それでも、自分が止めたいところで止めてもらうことを続けてよいのかが気になった。今夜話した後も本番でどうなるかは分からないが、もっと先まで脱げば、その疑問がなくなるわけでもなかった。


 リヒターは記録を覗き込まずに待っていた。エレジは書き終えたものを自分で読み直してから、追記したところを彼女へ渡した。


 読み終えた用紙を返され、エレジは持ってきた課題の紙と重ねた。何を書き直すようにも言われなかった。


「次の課題を決めたら、先に説明するわ。今日はここまでにしましょう」


 エレジは自室へ戻ると記録を畳み、次に説明を受ける時にも持っていけるよう、課題の紙と一緒に机へ置いた。



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