本訓練と残る声
朝の共同訓練には、訓練用の監視映像を使った。
共有スペースの端末に映すのは、建物の出入口と、その前を通る人々の短い記録だった。エレジは五人分の記録用紙を用意し、映像を見る時間と、見終わってから書き足せる時間を先に伝えた。
「最初は、何を見るか細かく指定しません。人の出入りと、気になった変化を記録してください。あとで同じ場面を見直します」
「時刻は映像の表示でいいですか」
ヨナスの質問で、エレジは画面の隅にある時刻表示を確認した。見る順番ばかり考えていて、記録の基準までは説明できていなかった。
「はい。表示の時刻でお願いします。分からなかったところは、分からないまま書いておいてください」
「人数だけじゃなくて、持ち物も?」
「気づいたものは。ただ、持ち物ばかり見て、誰が出入りしたか分からなくならないように」
「全部書こうとすると間に合わなそうですね」
マティアスが用紙の広さを確かめるように言い、ヨナスはまだ映像の始まっていない画面を見ていた。
「略記してもいいでしょう」
「あとで自分が読めるなら」
「ファルク大尉、俺たちにも読めるようにしてくださいよ」
「俺の記録をそのまま読むんですか」
「照合するって言ってたでしょう」
エレジが五人で内容を比べると補足すると、ヨナスは用紙の端に書きかけていた記号を説明することにした。そこまで細かく決めるつもりはなかったが、本人には必要らしく、エレジも止めずに聞いた。
映像が始まると、会話はなくなった。
建物へ入る者もいれば、前を通るだけの者もいる。二人が出入口の近くで話し、一人が荷物を持って奥へ移動する。別の扉から出てきた人物は一度戻り、次に現れた時には手にしていたものが変わっていた。
エレジも四人と同じように記録した。準備のために一度見ていた映像だったが、初めに見た時には気に留めなかった細部がある。入口にいた二人の動きを見ている間に、画面の端を誰かが通ったことには気づいたものの、その服装までは残せなかった。
映像を止めてから記録を整える時間を取り、五人で一つずつ内容を読み合わせた。
「最初に入ったのは三人です」
エレジの記録に、カイルが自分の用紙を見ながら答えた。
「正面からは三人だ。右側の扉からも一人入ってる」
「私、そちらは取れてません」
「俺も正面の三人だけです」
マティアスも同じところを見落としていた。二人が入口の会話を見ている間に、カイルは別の扉を使う人物まで拾っていたらしい。
ヨナスはその時刻を記録していたが、人が入ったことではなく、扉が開いて内側の明かりが見えたことを書いていた。
「人は?」
「そこまでは。明かりがついたのか、扉が開いて見えただけなのか気になったので」
「扉が開いたのを見て、人を見なかったんですか」
「その時は」
マティアスの問いに、ヨナスは少し不満そうだった。しかし、映像を見直すと、確かに扉の動きと明かりの変化はあり、その直後に一人が入っている。ヨナスの記録も間違ってはいなかったが、人数の確認には使えなかった。
リヒターは、荷物を持って移動した人物について、左右で歩幅が違うと書いていた。エレジには荷物の重さで動きが変わっているように見えたが、リヒターは荷物を置いた後も同じだったと指摘した。
「そこまで見てたんですか」
「一度止まった時に、片足へ体重をかけてなかったから。気になって、その後も見てたの」
「私は、荷物をどこに置くか見てました」
「置いた場所は?」
「奥の壁際です」
「私の記録だと、そこが曖昧ね」
リヒターは自分の用紙へ位置を書き足した。誰か一人の記録で場面のすべてが戻るわけではなく、照合するうちに、書かれていなかった部分が少しずつ埋まっていった。
二回目は、別の映像で対象を一人に絞った。エレジは服装と最初に現れる位置を示し、その人物が何を持ち、どこを通り、いつ画面から消えたかを記録するよう伝えた。
今度は五人の記録に大きな食い違いはなかった。ただ、持ち物を「袋」と書いた者と「肩掛けの鞄」と書いた者がいたため、その箇所だけ映像へ戻った。時刻も、人が扉に触れた時点と、建物の中へ消えた時点で分かれていた。
エレジは記録する時点を揃え、最後に各自の用紙を直してもらった。ヨナスは持ち物の形まで細かく書き直していたが、マティアスが横から覗くと、その部分を指で隠した。
「まだ直してるんですか」
「さっき読めるようにしろと言ったでしょう」
「そこまで長くしてほしいとは言ってないです」
「短いと、また聞くじゃないですか」
エレジは二人のやり取りを聞きながら映像を閉じ、記録を集めた。カイルから時間内に終わったことを確認されて、ようやく朝から気にしていた進行の方も落ち着いた。
*
午後の訓練室には、中央寄りに椅子が一脚置かれ、その隣にマットが敷かれていた。エレジはリヒターから渡された短い任務情報を読み、集合場所と連絡時刻、連絡がつかない場合の行動を確かめた。
「今日は、昨日の確認に、これまでやった固定と姿勢変更を入れるわ。目を閉じたまま身体を預けるところは、座って腕を支える範囲まで。立位や横臥では、目を開けていていい」
「はい」
「触れる前と動かす前には知らせる。ただ、質問の返答は待っても、一問ずつ休憩にはしない。待ってほしい時は言って」
エレジは情報をもう一度読み直してから紙を返した。前の訓練でも、身体を押さえられた状態で質問には答えている。今日は目を閉じる区間が加わるが、最初からすべてを一緒に行うわけではなかった。
リヒターは椅子へ座るよう指示し、エレジが姿勢を決めてから、その正面に立った。
「目を閉じて。左の前腕を支えるわ」
知らせてから手首と前腕の下へ手が入り、エレジは自分で持ち上げていた腕の重さを少しずつ預けた。カイルと確認した時より力は残っていたが、支えが変わらないうちに緩められる程度だった。
「集合場所は?」
「北側の倉庫です」
「連絡する時刻は?」
「十七時四十分」
「少し外へ動かす。連絡がつかなかった場合は?」
エレジは、腕の向きを変えるという知らせと、質問を続けて聞いた。前腕が動く間に肘の位置を確かめようとしたため、返答が少し遅れた。
「東側の待機場所へ移動します」
「何時まで?」
「十八時までです」
答えているうちに、腕を自分でも支えていることに気づいた。力を抜こうとすると、今度は次の質問を聞く方が遅れる。リヒターはどちらにもすぐには声をかけず、エレジの返答が終わると次を聞いた。
「北側の倉庫へ入れなかった場合、別の集合場所は?」
「指定されていません」
「東側の待機場所を使える?」
「……待機場所なので、使えると思います」
「集合場所として指定されていた?」
エレジは紙に書かれていた文を思い出した。連絡がつかない時に向かう場所ではあったが、集合場所へ入れない時もそこへ行くとは書かれていなかった。
「いいえ。集合場所として使えるかは分かりません」
「では、今決められることは?」
質問を聞いている間に、リヒターの手が前腕を元の向きへ戻した。動かすことは知らされていたが、エレジは自分の肩までついていかせようとして、椅子の上で身体を少し回した。
「待ってください。腕を戻す間、質問を止めてほしいです」
リヒターは動きを止め、返答を求めるのもやめた。エレジは目を閉じたまま肩と肘の位置を確かめ、身体が正面からずれていたことに気づいた。
「一度、腕を膝へ戻したいです」
「戻すわ」
自分の膝に腕が置かれてから、エレジは肩の力を抜いた。リヒターがどこにいるかを探ろうとしていたわけではないが、支えられた腕が動くたび、身体のどこまで合わせればよいか気になっていた。
「続ける?」
「はい。腕を動かし終えてから、質問してほしいです」
「その条件で続ける。次は内側へ少し動かすわ」
再び支えられた腕が落ち着いてから、質問が来た。エレジは集合場所の代替を自分で決められないと答え、連絡先へ確認する必要があると付け足した。
リヒターはその返答を受けると、連絡がつかない場合を続けて聞いた。エレジは答えを作ろうとせず、今ある情報では次の集合場所までは決められないと返した。
その間も腕は支えられていた。質問だけに集中すれば、いつの間にか自分で持ち上げてしまう。エレジは返答の後に力を確かめたが、その確認が終わる前に次を聞かれることもあり、二度ほど聞き直した。
リヒターは聞き直された質問を繰り返したものの、言葉を簡単には変えなかった。エレジが答えを出してから、次の条件へ進むことを伝えた。
「目を開けて。腕を戻したら、立って」
視界が戻ると、リヒターは椅子の横にいた。エレジは自分の腕の位置を確かめ、立ち上がってからマットの位置を見た。
「後ろへ回る。右の前腕を押さえて、肩に触れるわ」
位置と接触する場所を聞いてから、エレジはリヒターを背後へ入れた。前腕を身体の近くへ押さえられても、手首と指は動かせる。肩へ置かれた手が、次にどちらへ動くかを待っている間に、質問が再開された。
「今、正面の扉へ行ける?」
「このままでは行けません」
「左は?」
エレジがそちらへ身体を向けようとすると、前腕を押さえる位置が変わり、肩も止められた。無理に押せば動けるかもしれないが、今の条件では力で外すことは求められていない。
「左も、今は動けません」
「では、どうする?」
「腕を離してほしいです」
「離すわ。正面へ移動して」
固定が解かれると、エレジは指定された位置へ向かった。途中でリヒターが前へ入り、進路を塞ぐ。
「ここは通さない。どこへ行く?」
エレジは空いている側を見たが、そちらへ踏み出そうとすると、リヒターも位置を変えた。正面の扉は見えているのに、そこまでの進路は残っていない。
「退いてもらえますか」
「どちらへ?」
「私から見て右へ。扉まで通れるように」
リヒターが指定された側へ退いた後、エレジは扉の手前まで移動した。しかし、そこで終わりにはならず、椅子へ戻るよう指示された。
戻る途中には、背後から腕を押さえられる条件がもう一度入った。触れる前には言葉があり、接触の強さもこれまでと変わらない。それでも、質問へ答え、移動し、進路を変えた後にまた止められると、次の指示を聞くまで自分の姿勢を整える時間が足りなかった。
「身体を左へ向けるわ。足は動かしていい。待機場所へ移動する時刻は?」
肩と前腕を支えられ、エレジは足を置き直しながら答えた。
「十七時四十分に連絡がつかなければ――」
「移動を始める時刻まで、書かれていた?」
「……正確な時刻は、書かれていませんでした」
「何が決まっていた?」
「連絡がつかなかった場合の移動先と、そこで待つ期限です」
身体を横へ向けられた状態では、リヒターの手元が見えにくくなった。エレジは押さえられた前腕を確かめようとして下を見たが、その間にも、連絡先へ何を報告するかを聞かれた。
「すみません。今の質問をもう一度お願いします」
繰り返された言葉を聞いて答えると、リヒターはその姿勢のまま次を聞いた。エレジは腕を引こうとしてしまい、自分の力と相手の固定が重なったところで、肩に疲れを感じた。
「腕を少し下げてください」
「この位置?」
「もう少し。はい、そこです」
変更してもらったことで答えやすくなったが、リヒターは姿勢全体を元へ戻さなかった。エレジは肩の位置も直したいと伝え、正面を向くところまで求めた。
椅子へ戻って座ると、次はマットへ移ることを告げられた。
「右側を下にして横になって。腕は今まで確認した位置で押さえる。目は開けていていい」
エレジは指示された姿勢を取り、マットの端とリヒターの足元が見える位置に頭を置いた。前腕を押さえられた状態で質問を受けると、座っていた時より相手の顔が見えにくい。声の方へ向こうとすると肩まで動き、固定された腕との間が窮屈になった。
「顔をこちらへ向けられる?」
「少しなら」
「では、向けたまま。連絡がつかなかった時、最初に変える行動は?」
エレジは顔を上げようとして、首に力が入った。答えられる内容だったが、この姿勢を保ちながら聞くことへ注意が取られ、リヒターの問いが長く感じられた。
「その向きのまま答えるのは、今はしません。首を戻したいです」
「戻して。腕を押さえる条件は続ける?」
「それは大丈夫です。顔は正面に戻します」
リヒターは首の向きを指定するのをやめ、エレジが戻し終えるまで質問を待った。腕の固定は残ったままだが、マットへ頭を置けると、先ほどより言葉を聞きやすくなった。
「質問をもう一度お願いします」
エレジは返答してから、リヒターの位置を確かめようとした。相手は自分の背中側へ近づいており、先ほど見えていた足元が視界から外れていた。
廊下で扉が閉まる音がすると、エレジはそちらへ注意を向けた。足音も続いていたため、誰かが訓練室へ来るのかと思ったが、固定された腕と身体の向きでは入口まで見えない。
「今、誰へ連絡する?」
「……指定された連絡先へ」
「何を伝える?」
エレジは直前の条件を思い出そうとした。連絡がつかなかった想定だったのか、それとも戻った場合を聞かれているのか、その切り替わりを聞けていなかった。
「前の条件を聞き落としました。連絡は、ついたんですか」
「ついた場合を聞いてる」
「分かりました。現在地と、集合場所へ入れなかったことを伝えます」
「ほかには?」
答えを続けようとしたところで、エレジは自分の腕をまた引いていることに気づいた。外そうとしているつもりはなかったが、身体を少し起こしたくなるたび、押さえられたところへ力が入る。聞き落とした条件を補いながら次の質問へ答えているため、姿勢を直すことまで重なると、また返答が追いつかなくなりそうだった。
「一度、離してください。起き上がって休みたいです」
リヒターは手を離し、エレジが身体を起こせるよう距離を取った。エレジはマットに座って腕を膝へ置き、肩と首の力を抜いた。すぐに次を聞かれない時間ができると、目を閉じていた区間から、ずっと何かを確かめ続けていたことが分かった。
「痛むところは?」
「痛くはないです。腕と肩は少し疲れてますけど、それより、質問を聞き直しながら追うのが難しくなってました」
「首は?」
「戻したら大丈夫です」
リヒターは返答を聞き、エレジが頭の中を整理する間は記録だけを残した。腕を下げてほしいと言った場面と、顔を向けたまま答えることを断った場面、起き上がりたいと求めた場面を、別々に書いているようだった。
「続けるかは、休んでから決めて」
「はい」
エレジはマットの上で足を伸ばし、直前の質問と、その時に与えられていた条件を整理した。次も同じ速さで条件が変われば、聞き落とした部分を確かめている間に、また次の質問を落とすと思った。
「続けたいです。でも、椅子に戻ってからにしたいです」
「どの条件で?」
「最初は目を開けたまま、腕を押さえてもらって。身体の向きは変えずに、質問だけお願いします」
「分かった」
椅子へ戻り、両足を床へ置くと、横になっていた時より自分の姿勢を確かめやすかった。リヒターも見える位置にいるため、その場所を探る必要がない。
手首を押さえられてから質問が始まったが、今度は返答の途中でも、自分が腕を引こうとしていると分かった。肘を少し下げてよいか聞き、肩が上がらない位置へ変える。
「連絡がついた場合、まず何を伝える?」
「現在地と、自分の状態です」
「集合場所へ入れなかったら?」
「その状況も伝えて、次の集合場所を確認します」
「連絡が途中で切れたら?」
「どこまで伝わったか確認できていなければ、そこは分からないままです。もう一度連絡を試みます」
最後まで答えてから、エレジは少し待ってほしいと伝えた。リヒターは質問を止めたが、腕の固定はそのままだった。エレジはそれも解いてほしいか確かめ、今の姿勢なら押さえられたままでも休めると判断した。
「このまま、目を閉じてもう一度やりたいです。腕は動かさずに」
「質問は?」
「一つずつ、答え終わるまで待ってください。次を聞く前も、少し時間がほしいです」
リヒターが条件を了承してから、エレジは目を閉じた。
今度は腕の位置が変わらず、返答の後にも自分の状態を確かめる時間がある。質問は先ほどと同じだったが、途中で室内に物音がした時には、エレジはそれを聞き分けようとしなかった。
「今の音は聞こえた?」
「聞こえました。でも、何の音かは分かりません。質問を聞いてました」
「私の位置は?」
「正確には分かりません。腕を押さえている手は分かります」
リヒターは位置を言い当てるようには求めず、待機の期限を最後に聞いた。エレジが答えると、今日の訓練を終えることを伝えた。
「ここまで。手を離すわ」
エレジは目を開け、自由になった腕を自分の膝へ戻した。最後の区間では質問を聞き落とさずに答えられたが、条件の変化を追い続けた疲れは残っている。リヒターが終了後の状態を聞くと、エレジは質問が続いた時のことを説明した。
「聞き落とした後、追いつこうとすると、次も聞けなくなりました。最初は、もう一度聞けば戻れると思ったんですけど」
「途中から、腕にも力が入ってたわね」
「はい。横になってからは、起きたいのもありました。顔を向けるのをやめても、それは残ってました」
「だから、起き上がって休みたかった?」
「そうです。姿勢を気にせずに、一度、聞いた条件を整理したかったので」
リヒターはその返答を書き加え、横臥の区間では、顔の向きを戻す変更だけでは負荷が下がりきらなかったことを確かめた。エレジが椅子へ戻ってから求めた条件も、最初の区間とは分けて記録している。
「明日、腕や肩に痛みが残ってたら言って。今も、まだ気になるところはある?」
「少し疲れてますけど、痛くはありません」
「分かった。今日は終わりにしましょう」
エレジは立ち上がってからも腕の動きを確かめた。椅子とマットを戻そうとすると、リヒターに片づけはこちらで行うと言われたので、先に訓練室を出た。
廊下へ出ると、次の指示を待たずに歩けることで、ようやく注意を緩められた。今夜は昨夜のように短剣を使うより、静かに過ごしたい気分だった。
*
カイルが観察を終えて記録を閉じたのは、エレジが訓練室を出た後だった。
目を閉じて腕を預ける区間では、質問と姿勢の確認が重なるにつれ、エレジの返答が遅くなっていた。リヒターはそのたびに休ませることはせず、聞き直された質問を繰り返し、返答を待って次へ進めている。昨日の安全確認より負荷は上がっていたが、エレジが腕を動かす間は質問を止めてほしいと求めると、その条件へ変えた。
カイルが特に注意して見ていたのは、横臥へ移ってからだった。顔をリヒターへ向けたまま答えるよう求められた時、エレジはその指示を断った。首を戻したいと伝え、腕の固定は続けてよいとも答えている。
リヒターは顔の向きを指定するのをやめた。断った理由をさらに説明させたり、少しだけ続けるよう促したりはしていない。ただ、腕の固定と質問は残ったため、その変更だけではエレジの負荷が十分に下がらなかった。
エレジが腕を離して起き上がりたいと求めると、リヒターは固定を解き、身体を起こせる距離まで離れた。その後も再開を急がせず、エレジが選んだ座位へ戻している。最後に目を閉じた区間では、腕を動かさず、質問の間に時間を置くという条件も守っていた。
カイルは、顔の向きを戻した後にも、エレジが腕へ力を入れていた箇所へ印を付けた。要求された変更には応じている。それでも、変更後に残った負荷を、リヒターがどの時点で捉えていたかは、外から見ただけでは分からなかった。
今日の訓練では、エレジがさらに変更を求められた。今後もそうできるとは限らない。カイルは、起き上がる要求が出るまでのやり取りを記録に残し、次の訓練でも同じように見ることにした。
*
夕食後、リヒターは翌日の共同訓練に使う資料を自室で揃えていた。
追跡と逆追跡の課題に使う区域と、二組が入れ替わる場所は決めてある。移動に使える時間を見直し、雪の残る場所と土が露出している場所を分けておくところまでは、普段と同じように進められた。
書き終えたものを片づけようとした時、午後、エレジが横になっていた場面が頭へ戻ってきた。顔の向きを戻してからも、前腕には力が入っていた。質問には答えていたが、一度聞き落とすと、直前に伝えた条件を確かめ直す必要があった。
リヒターはその状態を見ながら、次に何を聞くか選んでいた。返答を待ち、聞き直された言葉を繰り返し、腕の固定は続けた。エレジが起き上がって休みたいと求めた時には、すぐに手を離している。
その要求に応じたことは、はっきり覚えていた。それでも、思い出されるのは手を離した後ではなく、その前の声だった。質問へ答えようとする間にも、腕を引き、身体を起こそうとしていた。リヒターには、それがなぜ気になるのかを考え続ける余裕がなく、翌日の資料へ戻ろうとしたが、同じ行を読み直しても内容が入ってこなかった。
必要な確認は終わっていたため、資料を閉じて机を片づけた。ベッドに横になると、今度は自分の前腕が寝具へ触れている感覚が気になり、腕の置き場所を変えた。
エレジは首を戻したいと言い、その後には起き上がりたいと伝えた。どちらも変更している。リヒターは実際に行ったことを順に確かめたが、目を閉じるたび、相手の腕を押さえたまま質問を続けていた時間へ戻ってしまった。
しばらくして読みかけの本を開いた。昼間なら覚えていられる程度の文章なのに、頁の終わりまで来ると、最初に何が書かれていたか分からなくなる。
廊下から誰かの足音が聞こえたが、部屋の前には止まらなかった。リヒターは本を開いたまま、その音が遠ざかるのを聞いていた。少し後でもう一度同じ頁を読み始めたが、今度は途中で、エレジの前腕を押さえていた自分の手の位置を思い出していた。




