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エーデルベルグの雪 ──北部山岳任務録──  作者: 有凪いちほ
特殊情報収集班:訓練

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リヒターのナイフ


 厨房には、切り分けた牛肉と、土を落とした根菜が並んでいた。リヒターは大きな鍋を火にかけながら、エレジの前に玉ねぎを二つ置いた。


「こっちはシチュー用。少し大きめでいいわ。サラダに入れる分は、あとで薄く切って」


「肉を焼いてる間に、根菜も切っておきますか」


「お願い。じゃがいもは別にしておいてね」


 最初の頃は、次に何をすればよいか一つずつ聞いていた。今は作るものが分かれば、どの材料を先に用意し、何を分けておけばよいかも、ある程度は見当がつく。

 エレジが切った玉ねぎを鍋のそばへ運ぶ頃には、牛肉の焼ける匂いが厨房に広がっていた。


 リヒターが肉を取り出して玉ねぎを炒める間に、エレジはにんじんとほかの根菜を切り、じゃがいもを水に浸した。鍋へ入れるものを揃えてから、使い終えた包丁とまな板を洗うところまで済ませる。


「次、サラダを作っていいですか」


「ええ。葉野菜は水をよく切って。玉ねぎは辛かったら少し水にさらしてね」


「味付けは、いつものですか」


「今日は少し酸味を強くしてもいいかも。シチューが重いから」


 エレジは薄く切った玉ねぎを一枚だけ食べてみた。思ったより辛く、少し水にさらすことにする。リヒターはその間に肉を鍋へ戻し、根菜と煮汁を加えていた。


 鍋を煮込む時間に入ると、厨房の作業は少し落ち着いた。エレジが葉野菜をちぎり、サラダの味付けを用意する横で、リヒターはパンを切って天板へ並べる。


「これ、焼くだけでいいんですか」


「表面が少し温まって、端がぱりっとすればいいわ。中まで乾かさないで」


「分かりました」


 パンを焼く間に、エレジはサラダの味を確かめた。最初に合わせたものは少し酸っぱかったので、油を足してからリヒターにも食べてもらう。


「どうですか」


「いいと思う。玉ねぎも、これなら辛くないわね」


「さっきは結構辛かったです」


「食べて確かめたの?」


「少しだけ」


「じゃあ、残りもお願い。私はシチューを見るから」


 任される作業が増えても、まだ火の入り方や味の調整には迷うことがあった。根菜が煮えたかどうかを聞くと、リヒターは一つ取り出してエレジにも確かめさせる。

 柔らかくなっていても、煮汁の味がまだ薄いという違いは、言われてから食べると分かった。


 最後の調整はリヒターが行い、エレジは焼けたパンを籠へ移した。サラダには食べる直前に味付けをすることにして、葉野菜と玉ねぎを大きな器に合わせておく。


「これで終わりですか」


「ええ。あとは食べる前に温め直せばいいわ」


 食事の時刻までは、まだ少し余裕があった。昼の機材が片づけられた共有スペースには誰もおらず、訓練室の方から、ときどき床を踏む音が聞こえてくる。


「またやってるんですね」


「見てきてもいいわよ。私もここ片づけてから行くから」


 鍋と器の置き場所を確かめてから、エレジは厨房を出た。


 訓練室の扉は開いており、近くの壁にもたれていたマティアスが、入ってきたエレジに手を振った。隣へ行くと、床に敷かれたマットの上でカイルとヨナスが組み合っているのが見えた。


 ヨナスがこうして動くところを、エレジはほとんど見たことがなかった。午前中は機材の扱いを四人に説明していたが、今はカイルに腕を取られかけても、そのまま押し切られることはない。身体の向きを変えて外し、逆にカイルの横へ入ろうとしていた。


「ファルク大尉、強いですね」


「強いですよ。さっきから、どっちが取るか分からないです」


 マティアスの言葉どおり、カイルが先に触れた場面でも、そのまま有利になるとは限らなかった。ヨナスは押されれば踏み直し、引かれれば距離を詰める。

 カイルもその動きに合わせて位置を変えるため、エレジには、どちらが相手を動かしているのか分からなくなる瞬間があった。


 ヨナスがカイルの腕を押さえて身体を低くした時には、今度こそ崩れるように見えた。しかし、カイルは足を残し、ヨナスが姿勢を変えるところに合わせて向きを入れ替えた。二人が床へ移ってからも、下になったヨナスは身体を横へ向け、カイルとの間に隙間を作ろうとする。


 エレジは、課程でカイルに押さえられた時のことを思い出した。自分なら動けなくなっていたところで、ヨナスはまだ身体を動かしている。カイルも一度で止められず、相手が抜けようとするたびに押さえる位置を変えていた。


 ヨナスの肩がマットから離れかけたところで、カイルが上体を寄せた。ヨナスは一度踏ん張ったものの、腕と身体の向きを押さえられると、それ以上は動かずカイルの腕を叩いた。


「終わりだ」


「……分かってます」


 カイルが離れてからも、ヨナスは仰向けのまま息を整えていた。すぐに起き上がれないほど力を使ったのだと分かり、エレジは、見に来る前にも長くやっていたのかもしれないと思った。


「最後、もう少しだったんですけど」


「その前に取れた場面があっただろ」


「少佐にもありましたよね」


「ああ」


 ヨナスは起き上がってから入口の二人に気づき、エレジとマティアスを順に見た。


「見てたんですか」


「私は途中からです」


「ファルク大尉、惜しかったですね」


「慰めなくていいです」


「本当に惜しかったですよ」


 マティアスが笑いながら答える横で、エレジはカイルがこちらへ来るのを見ていた。まだ呼吸は普段より深く、額にも汗がある。訓練中の動きを見慣れていても、ヨナスを相手にあれだけ長く競り合うところは初めてだった。


「いつからいた」


「ファルク大尉が少佐の横に入ろうとしてたところからです。どっちが勝つか分かりませんでした」


「ファルク相手なら、そう簡単には終わらない」


「少佐も疲れました?」


「疲れた」


 カイルはエレジの隣で壁に背を預け、二人の間に残っていた距離を少し詰めた。近くに来たことで、エレジもマットばかり見ていた姿勢を緩められた。


「でも、勝ちましたね」


「見てただろ」


「見てました。少佐が勝って、嬉しかったです」


「お前が見てる前で負けたくはないな」


「私がいると?」


「ああ」


 その答えを聞くと、もう少し早く来ればよかったと思った。途中からでも十分に見られたが、最初からなら、カイルがどうやってヨナスの動きに対応していたかも分かったかもしれない。


「厨房は終わったのか」


「はい。シチューと、焼きパンと、サラダです。リヒター大尉が片づけてから来るって」


「お前も作ったんだろ」


「今日は結構やりました。切るものが多かったので。サラダの味付けも作りました」


 カイルにそう言われ、エレジはサラダを味見してもらった時のリヒターの返事を思い出した。大丈夫だとは言われたが、五人で食べる時にも同じように感じてもらえるかは、まだ少し気になっていた。


 話しているうちに、厨房の片づけを終えたリヒターが入ってきた。マットから離れて座っているヨナスと、エレジの隣にいるカイルを見て、先ほどの組み合いが終わったことは分かったらしい。


「どっちが勝ったの?」


「少佐です」


 エレジが答えると、リヒターはヨナスにも結果を確かめるように声をかけた。


「惜しかった?」


「惜しかったです」


「本人が言うと、また違いますね」


「ロートに言われても嬉しくないです」


 ヨナスの返事にマティアスが笑い、リヒターも二人のやり取りを聞きながら、空いているマットへ関心を向けた。


「一回、みんなでやり合うのも面白そうね。体も鈍るし」


「じゃあ、やります?」


「いいわよ」


「俺とでいいですか」


「あなたが誘ったんでしょう」


 マティアスは、予想よりすぐに決まったことを面白がっているようだった。壁から離れてマットへ向かい、リヒターも上着を脱いで端へ置く。エレジは、さっきまで一緒に料理をしていた相手が、マティアスと向かい合うところを初めて見た。


 カイルは二人に、打撃を当てず、投げる時も制御するよう確認した。そのままエレジの隣へ戻ってきたので、彼女は声を落として聞いた。


「リヒター大尉がやるところ、見たことありますか」


「ない」


「強いんでしょうか」


 エレジは二人の体格を見比べた。マティアスの方が大きく、腕も肩もがっしりしている。力で押し合えば差があるように見えたが、リヒターは相手の身体を気にしている様子もなく、マティアスが入ってくるのを待っていた。


 最初の接触から、エレジの知っているマティアスの動きとは違っていた。


 リヒターは真正面で受けず、マティアスが腕を伸ばすところから身体を外した。離れたように見えても、次にはすでに横へ入っており、腕を取る動きに合わせて足元にも働きかけている。


 マティアスは崩されかけても踏み直したが、リヒターはその間に位置を変え、立て直した側へまた仕掛けた。彼が上体を追えば足が間に合わず、足元を守ろうとすれば腕を引かれるため、いつものように自分から動きを作る余裕がなくなっていた。


「……速いですね」


「足も見てみろ」


 カイルに言われ、エレジはリヒターの腕から足元へ注意を移した。腕を引いたからマティアスが動いているのだと思っていたが、その前に足を動かされている場面もあった。大きく踏み込んだり、強く蹴ったりしているようには見えない。それでも、マティアスが立っていたい場所から、少しずつ外されていく。


「マティアス、仕掛けられてないですね」


「あいつも入り方を変えるだろ」


 しばらくすると、マティアスはリヒターを追うのをやめ、距離を詰めてくるところを待つようになった。今度は腕を取るところまで届き、エレジには、それで動きを止められたように見えた。


「つかみました」


「まだだ」


 カイルの返事が終わる頃には、リヒターは正面にいなかった。マティアスが押さえ直そうとする間に身体を低くし、足元を崩して二人ともマットへ移る。


 エレジはマティアスが上になれると思ったが、リヒターは彼の体重を受ける前に身体を抜いていた。マティアスが向きを変えて追うと、今度は背中側へ入り、腕を首元へ回す。


 その腕を押さえて外そうとしたマティアスも、リヒターが身体の位置を整えると、ほどなく彼女の腕を叩いた。合図を受けてリヒターはすぐに締めを解き、マティアスが起き上がれるよう離れた。


「……こんなに差があるんですか」


 エレジはカイルに聞きながらも、マットから目を離せなかった。マティアスが弱いわけではないことは、自分が組んだ時の経験からも分かっている。それでも、一度腕を取った場面以外は、ほとんどリヒターの動きに対応させられていた。


「初めてだと、やりにくいだろうな」


「分かってても、止めるの難しそうです」


「難しい」


「少佐でも?」


「ああ。まともにつかませないからな」


 カイルが迷わず認めたことで、エレジはもう一度リヒターを見た。マティアスの近くにいたはずなのに、つかまえた時にはそこから抜けていた。どの動きで離れたのか、見ていても分からなかったところがある。


「中尉、そんなに驚かないでください」


 マティアスに言われ、エレジは自分の反応が相手にも見えていたことに気づいた。


「すみません。でも、強かったので」


「俺も今、そう思ってます」


 マティアスは首元に違和感が残っていないか確かめてから、リヒターに、腕を取った場面について聞いた。


「あそこで止められると思ったんですけど」


「腕だけなら止まったかもしれないわね」


「身体ごと押さえる前に抜けられました」


「そこまで待ちたくないもの」


「もう一回やったら、もう少し何とかしたいです」


「やる?」


 マティアスはリヒターの誘いに応じかけたが、壁の時計を見て、夕食が近いことを思い出したらしい。


「……飯の後でもいいですか」


「食べてすぐはやめておけ」


 カイルが止めると、マティアスもそこは素直に引いた。


「じゃあ、また今度お願いします」


「ええ」


 エレジも食事の時刻を確かめ、隣のカイルに伝えた。


「温め直してきます。サラダも、まだ合わせてないので」


 厨房に戻ると、リヒターはシチューの鍋を火にかけ、エレジは葉野菜と玉ねぎに用意しておいた味付けを合わせる。


「そんなに意外だった?」


 リヒターに聞かれ、エレジは厨房に戻ってからも、何度か彼女を見てしまっていたことに気づいた。


「はい。マティアス、強いので」


「ロートは強いわよ」


「でも、ほとんど何もさせてなかったですよね」


「何かされる前に終わりたかったの。長くやると、こっちも疲れるから」


 そう言って鍋の中を確かめる様子は、訓練室に行く前に料理をしていた時と変わらなかった。エレジは出来上がったサラダを器へ移し、食卓へ運んだ。


 五人分の食事が揃う頃には、ヨナスとマティアスも席についていた。カイルの隣が空いていたので、エレジはそこへ座り、近くに置かれたシチューを二人の分の器へよそった。


「腹減りました」


「動いたから?」


 リヒターに聞かれ、マティアスはパンを取る前に答えた。


「追い回したからです」


「追い回されたんでしょう」


 ヨナスの訂正に、マティアスはシチューの入った器を寄せながら言い返した。


「ファルク大尉も負けてたじゃないですか」


「俺はもう少し長くやりました」


「長さで決めるなら、俺も次は粘りますよ」


「夕食を冷まさない範囲でお願いね」


 リヒターの言葉で、マティアスも反論をやめて食べ始めた。エレジはサラダの器をカイルの近くへ寄せた。

 カイルは自分の皿へ取り分けて一口食べ、エレジが待っているのに気づくと、もう一口食べてから答えた。


「うまい。玉ねぎも辛くないな」


「水にさらしました。最初、結構辛かったので」


「ちょうどいい」


 カイルがそのまま食べ続けたので、エレジも安心して自分のシチューへ戻れた。煮込み始めに味を見た時より、牛肉と根菜は柔らかくなり、煮汁にも味が出ている。


「中尉、サラダ作ったんですか」


「はい」


「俺も食います」


 マティアスが器を求めると、カイルが自分の皿にもう少し取ってから向かいへ渡した。


「少佐、先に結構取りましたね」


「まだあるだろ」


「ありますけど」


 マティアスは残っている量を確かめ、ヨナスとリヒターの分も考えて取り分けた。食べてから「うまいです」と付け足してくれたので、エレジは礼を言い、サラダの器を食卓の真ん中へ戻した。


「次にやる時も、飯の前がいいですね」


「どうして?」


「終わった後、すぐ食えるので」


「また追い回されるつもりですか」


 ヨナスが聞くと、マティアスはパンを割りながら答えた。


「次はファルク大尉もやってくださいよ。俺だけだと比較できないでしょう」


「俺と比べなくても、ロートが負けたのは分かります」


 また言い合いになりかけた二人を見て、エレジは隣のカイルへ小さく聞いた。


「次も見てていいですか」


「ああ」


「最初から見たいです」


「始める前に呼ぶ」


 カイルがそう答えたところで、向かいのマティアスが二人の話に気づいた。


「中尉、見るだけじゃなくて、今度は一緒にやりましょうよ」


「素手だと、マティアスにはなかなか勝てないです」


「じゃあ、ナイフにします?」


 マティアスの提案で、エレジは課程の終盤に行った市街地区画での訓練を思い出した。あの日は同じ班で建物へ入り、情報物を回収して戻った。マティアスが自分の短剣の扱いを知ったのも、その時だった。


「ナイフ使うの?」


 リヒターに聞かれ、エレジが答える前にマティアスが説明した。


「中尉、得意なんですよ。課程の訓練で一緒になった時、びっくりしました」


「好きなんです」


「前もそう言ってましたね。でも、あれだけ使えたら得意でしょう」


「どんな訓練だったの?」


「建物に入って、指定されたものを回収する課目です。中尉、銃を押さえられた時も、背後から止められた時も、短剣で処理してました」


 リヒターが隣のカイルにも確かめたので、エレジは彼の答えを待った。


「少佐も見てた?」


「ああ。あそこまで使えるとは知らなかった」


「原隊でかなりやってたので」


「かなり、で済ませる程度じゃないと言っただろ」


 講評の時と同じ返しに、エレジは少し笑った。あの日はマティアスにもカイルにも、先に言ってほしかったと言われたのだった。


「じゃあ、私ともやってみる?」


 リヒターの誘いを受けると、エレジは先ほどの戦いを思い出した。マティアスがつかまえたように見えた場面でも、リヒターはそこに留まらなかった。短剣を持てばどうなるかは分からないが、素手で組む時よりは、自分から動ける気がした。


「やってみたいです。リヒター大尉もナイフを使うんですか」


「ええ。同じ条件でやりましょう」


「俺も見たいです。中尉とは、それでやったことないので」


 マティアスが加わると、リヒターは食卓に残っている料理を見て答えた。


「じゃあ、夕食の後にしましょうか」


「片づけて、少し休んでからだ」


 カイルに念を押され、エレジも食べかけのシチューへ戻った。得意だと言われると少し気恥ずかしいが、久しぶりに訓練用の短剣を使えることには、楽しみの方が大きかった。


 夕食の片づけを終え、共有スペースでしばらく休んでから、五人は訓練室へ戻った。マティアスが用意した訓練用短剣を、カイルが一本ずつ確かめてエレジとリヒターへ渡す。刃のない先端と縁を見てから握ると、エレジには、原隊や課程で使っていた時の感覚が戻ってきた。


「判定は俺がする。強く当てる必要はない。有効と言ったら止めろ」


 カイルは二人に接触の強さと終了の条件を確認し、マットの外へ移った。ヨナスとマティアスは壁際に並んでおり、今度は二人とも最初から見るつもりらしかった。


「久しぶり?」


 リヒターに聞かれ、エレジは短剣を握った手を確かめながら答えた。


「課程で使ってからは、あまり」


「じゃあ、最初は少し動いてみましょう。私もあなたの動きを見たいから」


「お願いします」


 開始の合図を受けても、リヒターはすぐには距離を詰めなかった。エレジが動くところを待ち、短剣の届く範囲へ入ると、腕に触れて外そうとする。その動きは見える速さで、エレジにも次にどちらへ身体を向けるか考える余裕があった。


 腕を取られないように離れるだけでは、こちらの短剣も届かなくなる。エレジは距離を残し、リヒターの手が自分の腕へ来るところに合わせて向きを変えた。リヒターが一度下がると、そのまま追わず、相手の短剣がどこにあるかを確かめる。


 素手でマティアスと組んだ時より、相手の動きは見やすかった。つかまれた後にどうするかだけでなく、触れられる前にも選べることがある。リヒターが腕を伸ばすと、その側の身体が近くなることも分かった。


 一度は先端を届かせたつもりだったが、リヒターが身体を外し、エレジの短剣は触れなかった。伸ばした腕へ相手の手が来たため、エレジは踏み込むのをやめて距離を戻す。


「そこは追わないのね」


「届かなかったので」


「ええ。もう一度来て」


 同じ入り方をするつもりはなかった。今度は短剣を持つ手を先に伸ばしすぎず、リヒターが身体を外した先まで見てから動く。相手の腕が自分の手首へ触れた時、エレジはその力へ逆らわず、身体の向きを変えて短剣の位置を残した。


 リヒターの上体が近づき、訓練上の有効部位へ先端が触れた。


「有効。そこまで」


 カイルの声でエレジは短剣を引き、リヒターも腕から手を離した。判定を受けても、勝ったという感覚はまだなかった。動きを待ってもらい、何度かやり直す余裕もあったからだ。


「今の、よかったわね」


「当てさせてもらったような気がします」


「最後は自分で届かせたでしょう。そこは私が動かしたわけじゃないわ」


 リヒターは、最初に届かなかった場面と、最後に触れた場面の違いをエレジに聞いた。エレジは、最初は先端を当てることに気を取られ、腕だけを伸ばしていたと説明した。


「二回目は、私がどこにいるかも見てたわね」


「はい。避けられた後も、近かったので」


「じゃあ、次は私から入るわ」


 短い休憩を挟んで再び向かい合うと、リヒターは先ほどより自分から距離を詰めた。エレジの短剣を避けて腕に触れ、身体の向きを変えようとする。夕食前にマティアスを崩した時ほど速くはないが、何もしなければそのまま押さえられることは分かった。


 エレジは足を置き直し、腕を引かれる方向へ身体をついていかせた。短剣を持つ手だけを守ろうとすると、リヒターのもう一方の手と足元を見落とす。どこを取られているか確かめながら動いても、今度は相手の短剣が見えにくくなった。


「有効」


 脇腹に軽く触れられたところで、カイルが止めた。エレジはリヒターの手元を見て、自分が腕を外すことに集中していた間に、短剣の位置が変わっていたのだと分かった。


「今、腕の方ばかり見てました」


「外す余地があったから、そっちを使いたくなるわよね。もう一度、同じくらいの距離からやりましょう」


 リヒターはエレジが姿勢を整えるのを待ち、先ほどと似た位置から入った。今度は腕を取られても、そこだけを見ずに相手の手元を残す。外そうとして身体を回すとリヒターの短剣へ近づくため、エレジはその方向へ動くのをやめた。


 腕を押さえる力が変わった瞬間には、自分の短剣を動かせる幅があった。エレジはそこへ先端を向けたが、リヒターも気づいて身体を外し、二人の距離が開いた。


「今のは分かった?」


「はい。さっきと同じ方へ回ったら、また当たってました」


「じゃあ、続けましょう」


 リヒターは入り方を変えながらも、エレジが対応できる速さを保っていた。簡単に当てられるわけではないが、見てから選べる時間がある。その中で、エレジは自分から距離を詰める場面も作れるようになった。


 リヒターの腕に触れた時には、相手が引く方へついていきかけた。しかし、短剣を持つ手が近くに残っているのを見て、追うのをやめる。リヒターが押さえ直そうとしたところで身体をずらすと、今度はエレジの先端が届いた。


「有効。止め」


 カイルの判定で離れてから、エレジは少し息が上がっていることに気づいた。力で押し合ってはいなくても、相手の動きに合わせて位置を変え続けると、思っていたより疲れる。


「面白いですね」


「好きだって言ってたものね」


「はい。今のも、もう一回やりたいです」


 壁際で見ていたマティアスが、その言葉に笑った。


「中尉、やっぱり楽しそうですね」


「楽しいです」


「今度は否定しないんだ」


「今は分かるので」


 リヒターはエレジの呼吸が戻るのを待ち、次も同じように動くつもりでいた彼女に確認した。


「三回目は、少し変えてもいい?」


「どう変えるんですか」


「今までは、あなたが動けるところを残してたの。次は待たずに取るわ」


 エレジは夕食前のマティアスとの戦いを思い出した。二回ともリヒターは強かったが、あの時のように、自分が次の動きを決める前から追わされることはなかった。


「……はい。お願いします」


 カイルも二人の了承を確かめ、エレジが構え直してから開始を告げた。


 最初に見えたのは、リヒターが横へ動いたところだった。エレジは短剣の向きを合わせようとしたが、相手はすでにその位置にいない。腕へ手が触れたと認識した時には、足元も動かされ、踏み直さなければ立っていられなくなっていた。


 それでも短剣を動かせる場所を探したが、リヒターはエレジが向けようとした先から外れていた。腕を押さえられたまま身体の向きを変えられ、相手の短剣が胸元へ軽く触れる。


「有効。止め」


 リヒターはすぐに離れたが、エレジには、今の動きのどこで追いつけなくなったのか分からなかった。腕に触れられる前には相手が見えていたはずなのに、その後は自分の姿勢を戻すだけで終わっていた。


「全然、違いますね……」


「二回目までは、途中で変えても間に合うようにしてたから」


「今、変えるところまで行かなかったです」


 壁際のマティアスが少し笑っていた。


「中尉、俺の時もあんな感じでした」


「見てる時より速かったです」


「でしょう。取ったと思った時には、もう違うところにいるんですよ」


「最初の二回は、取らせてもらってたんですね」


「触れた後に考える時間は残してたわ。でも、あなたがどっちへ動くかまでは、私が決めてないでしょう」


 リヒターは、最初の二回については一緒に振り返れるが、最後は外から見ていたカイルにも聞いた方がよいと言った。エレジが相手の動きを確かめる前に姿勢を崩されていたため、自分が何をされたかだけでは整理しにくい。


 ヨナスも壁際から近づき、二人が持っていた訓練用短剣を見た。


「最後だけ、随分短かったですね」


「俺もそうでしたよ」


「ロートはもう少し粘ってたんじゃないですか」


「今それ言います?」


 エレジは二人のやり取りを聞きながら、カイルの方へ行った。短剣を返すと、彼は先端に傷がないか確かめてから脇へ置き、エレジにも痛むところがないか聞いた。


「大丈夫です」


「腕は」


「平気です。最後、何をされたか全部は分かりませんでした」


 カイルは、最初に短剣の向きを合わせようとしたところから説明した。エレジが相手を追って腕を動かす間に、リヒターはその外へ入り、足元を崩していた。踏み直している時には、もう腕を動かせる範囲も減っていた。


「短剣を戻す前に、横へ来たんですね」


「ああ。伸ばした腕が戻るより先だった」


「見えてたのに、間に合わなかったです」


「最初の二回とは速さも違う。今日いきなり全部は取れないだろ」


 エレジはリヒターが入ってきた位置をもう一度見た。覚えている動きと、カイルから聞いた内容を合わせると、相手を追いかけているつもりの時点で、すでに遅れていたのだと少し分かった。


「またやりたいです」


 リヒターは近くで聞いていたため、エレジが向き直ると、そのまま返事をくれた。


「ええ。またやりましょう。次も、最後だけ今日みたいにする?」


「はい。その前に、もう少し練習させてほしいです」


「分かった」


「俺ともお願いします」


 マティアスが加わると、リヒターは彼にも同じように了承した。ヨナスまで次は自分もやると言い始めたので、カイルは今夜は終わりだと先に区切った。


 その夜、寝る前に自室で過ごしていると、ドアが叩かれた。エレジが開けると、リヒターが革のバンドのついたケースを手に立っていた。


「これ、渡そうと思って」


 差し出されたケースには、実物の短剣が収められていた。訓練室で使ったものとは違い、手入れされながら持ち歩かれてきたものだと、革の状態からも分かった。


「これ……」


「あなたにあげるわ。私のだけど、あれだけ得意なら、せっかくだもの。使えるものは使えるようにしとかないと」


 リヒター自身が使っていたものだと聞き、エレジは両手で受け取った。ケース越しにも重さが伝わり、今夜の訓練で使った短剣とは違うものを渡されたのだと実感した。


「それ、なるべく肌身離さず持っておいて」


「ありがとうございます」


「それじゃ、おやすみ」


「おやすみなさい」


 リヒターが隣の自室へ戻った後、エレジはベッドに座り、受け取った短剣をケースから抜いた。握った時の重さを確かめながら刃を眺め、今夜、自分の動きを見ていたリヒターが、これを渡そうと考えてくれたことを思った。



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