分からないまま
共有スペースのテーブルには、朝食の食器に代わって通信機材が並んでいた。
昨日は湖へ持っていく食事が置かれていた場所に、今日は携行無線機と予備の電池、接続用のケーブルが揃っている。
エレジは窓の外に残るわずかな雪を見ながら、湖の水面を思い出した。帰り際にもう一度来たいと言ったことも、その言葉に誰も条件を付けなかったことも、休養日が終わった今になって薄れることはなかった。
「今日は、通信が切れた時に最低限戻せるようにします」
ヨナスは四人に一台ずつ機材を渡し、最後の一台を自分の前に置いた。
「故障箇所を全部直す必要はありません。原因を切り分けて、現場で戻せるものは戻す。無理なら別の方法に切り替える。そこまでできればいいです」
「そう言って始める時ほど、途中から難しくなるんですよね」
「今日は分解しません」
「今日は、なんだ」
マティアスの返しに、エレジも昨日の朝の、錠前の話を思い出した。内部だけ見たいと言っていたヨナスは、結局、湖から戻っても機材を広げなかった。休むという予定を守った分、今朝は説明したいことが溜まっているのかもしれない。
ヨナスは通信が成立するまでの仕組みから説明を始めたが、機器の状態と電波の届き方の話が続くうちに、エレジにも今どこを確認する話なのか分かりにくくなった。個々の言葉は理解できても、目の前の無線機を持って何から始めればいいのかが結びつかない。
「大尉、それ、俺たちが現場で分かる順番にしてください」
マティアスが言うと、ヨナスは説明の途中で四人を見た。
「今のところで分からなかったですか」
「仕組みは何となく分かりました。でも、急に聞こえなくなった時、最初にどこを見ればいいんですか」
「電源です」
「そこからお願いします」
「電源が入ってるのは見れば――」
「ヨナス」
カイルが名前を呼んだのは、説明の内容を否定するためではなかった。ヨナスが当然できると思って飛ばしたところに、四人が同じ順番で立てているとは限らない。
「お前が判断する順番を、そのまま渡せ。途中を省くな」
「……分かりました。じゃあ、まず電源が入っているか。次に残量と、外から見て分かる接続。そのあと設定を確認します」
「最初からそれなら分かるわ」
リヒターが自分の機材で確かめると、ヨナスも一度に説明する量を減らした。確認する場所を一つ示し、四人が同じ箇所を見つけてから次へ進む。エレジは説明を聞くだけでなく、今の状態から何が変われば異常と分かるのかを聞いた。
「ここが普段と違っていたら、接続を確認すればいいんですか」
「はい。ただ、それだけで原因を決めないでください。そこが変わっていても、別のところにも問題があるかもしれません」
「一つ見つけても、それで全部とは限らない」
「そうです」
仕組みの説明から始まった時より、ヨナスの話は短くなっていた。それでも、エレジには今の方が多くのことが分かった。自分で確認できる範囲と、ヨナスに渡さなければならない範囲の境目も、少しずつ見えてきた。
午後に入ってすぐ、施設と近くの屋外を使った連絡課題を行った。
カイルが施設側に残り、エレジ、マティアス、リヒターが指定された場所へ移動する。ヨナスは三人に同行するが、機材の扱いにはすぐに手を出さない。移動先で周囲の状況を確認し、短い報告を送って戻るだけの課題だったが、途中から施設側の応答が途切れた。
エレジはもう一度呼びかけた後、教わった順番で無線機を確認した。電源は入っており、残量にも問題はない。リヒターとマティアスも自分の機材を調べ、互いに確認できた状態を伝える。
「三台とも電源は問題ありません。設定も揃っています。ここからだと届かないんでしょうか」
「それは確認できたことですか。それとも、今いちばんありそうだと思ってることですか」
ヨナスに聞かれ、エレジは施設との距離と周囲の地形を見直した。届いていた場所から移動している以上、その可能性はある。しかし、それ以外を全部確かめたわけではなかった。
「今、ありそうだと思っていることです。場所の影響かどうかは、まだ確認していません」
「じゃあ、今の段階で何が言えますか」
「電源と残量、見える範囲の接続、設定には異常が見つかっていません。施設からの応答はありません。こちらの呼びかけが届いているかは分かりません」
「それなら、そのまま次を決められます」
「さっき通じた場所まで戻るか、別の機材で試すかですね」
マティアスの提案に、リヒターが施設までの距離を踏まえて答えた。
「今すぐ連絡が必要なら、戻るだけに時間を使うのは避けたいわね。予備で試して、駄目なら移動しましょう」
「そうします。報告も短くした方がいいですね」
エレジは三人で決めた手順をヨナスに伝え、予備の機材へ切り替えた。最初の呼びかけでは返事がなかったが、位置を少し変えて試すと、途切れながらもカイルの声が届いた。
詳しい状況を一度に送ろうとすれば、途中で言葉が失われる。エレジは現在地と三人に異常がないこと、通信が不安定であること、これから戻ることを分けて伝え、受信した内容を確認してもらった。
施設へ戻ってから、ヨナスが各機材を調べた。三人だけでは見つけられなかった接続の不具合があり、場所を変えることで連絡は通っても、元の状態へ戻ったわけではなかった。
「位置を変えたら通じたから、場所が原因だと思って終えるところでした」
エレジが言うと、ヨナスは不具合のあった箇所を四人に示した。
「通じるようになったことと、原因が分かったことは別です。ただ、今日は原因を全部調べるより、必要な連絡を戻す方が先でした」
「戻ってから大尉に渡せばいいんですね」
「確認したことも一緒に渡してください。同じところを最初から調べなくて済むので」
「何も分からない、って持っていくのは駄目か」
「分かったところまで言ってくれればいいです」
カイルは、四人が応急処置の手順をもう一度行うところまで見て、訓練を終えた。
「ヨナスがいなくても、連絡を戻すために動けたなら、それでいい。直せなかったところは、戻ってから専門の者に渡せばいい」
「俺がいない前提ばっかりですね」
「お前がいる時は、もっと早くできるだろ」
その答えにはヨナスも異論がなかったらしく、最後は四人が使った予備の機材を確かめながら、どこまでなら自分たちで触ってよいかを説明した。
*
午後の個人訓練に入る前、リヒターはカイルとエレジに、この日の安全確認で扱う内容を伝えた。
目隠しは使わず、エレジが自分で目を閉じる。カイルの位置、距離、触れる方向、触れる時刻のうち、何を知らせるかを変える。それとは別に、手首や腕、肩、腰を支えられ、自分から力を抜いて姿勢の変化を預ける確認を行う。
「最初は別々にやって。両方とも確認できたところだけ、最後に組み合わせてほしいの」
「途中で目を開けてもいいんですね」
「もちろん。開けないことが課題じゃないから。姿勢も、変えたいなら変えていい。支えを外してほしい時は、それも言って」
「分かりました」
「明日は、今日できた範囲だけを使うわ。ただ、どのくらいできたかだけじゃなくて、何を知らせてもらったか、どう変えてもらったかも教えてほしい。そこが分からないと、同じ条件にはできないから」
リヒターが退出した後、カイルはエレジと向かい合う位置に椅子を置き、まず視界を減らす確認から始めた。
「最初は全部知らせる。俺は正面にいる。右手で、お前の左の前腕に触れる。触れる前にも言う」
「はい」
「目は自分で閉じろ。開けたくなったら、そのまま開けていい」
エレジは椅子に座ったまま目を閉じた。視界がなくなっても、カイルがどこにいるかは直前に見ている。声も正面から届き、触れる場所と時刻も知らされているので、待つことに難しさはなかった。
「触れるぞ」
前腕に触れた手は短い間だけ留まり、離れる前にも言葉があった。何が起こるかを知らされている間は、目を閉じていること自体が負担になるわけではない。
「どうだ」
「大丈夫です。どこにいるかも、何をするかも分かってるので」
「次は場所を変える。距離は二、三歩以内だ。触れる場所とタイミングは知らせる」
カイルが移動する足音を聞き、エレジはその向きを追った。正面から横へ移ったように思えたが、足音が止まった場所を、そのまま今いる位置だと考えてよいかは分からなかった。
「どこにいると思う」
「右……だと思います」
「右だと分かるか」
問い直されると、エレジには、最初の答えが確認したものではなく、音から組み立てた位置だと分かった。目を閉じる前には確かに正面にいた。しかし、今も同じ向きでこちらを見ているか、その場で身体を動かしたかまでは分からない。
「分かりません。右へ動いたようには聞こえましたけど、今もそこにいるかは」
「距離は」
「二、三歩以内です。それは最初に聞きました」
「それでいい」
「位置まで答えないといけない気がしました」
「分からないなら、決めなくていい。今取れてる情報だけで答えろ」
エレジは、足音をもう一度頭の中で辿るのをやめた。右か左かを決めなくても、近くにいることは知らされている。次に触れる場所とタイミングも分かる。その二つがあれば、接触に備えることはできた。
続いて、触れる方向を知らせず、タイミングだけを伝える確認を行った。肩か腕の、すでに触れられた範囲に限られていても、どちらから手が来るかが分からないと、エレジは身体の両側へ注意を向けようとした。
さらにタイミングを知らせない条件になると、位置を探ることと、接触を待つことが重なった。触れられた時に強く驚いたわけではなかったが、手が離れてからも、次にどこへ触れるのかを待ち続けている自分に気づいた。
「一回、止めてください」
カイルが触れるのをやめたことで、エレジは自分の肩に力が入っていたと分かった。目を開けると、カイルは思っていた位置より正面に近く、手がどこから来たかを確かめたくなる理由も少し見えた。
「触られたところが嫌だったわけではないです」
「何が負担だった」
「どこにいるかを考えてる間も、いつ触るか待ってました。どっちも分からないから、ずっと両方を気にしてる感じです」
「どれか戻すなら、何を知らせてほしい」
全部を知らせてもらえば、最初の状態へ戻れる。しかし、エレジが今いちばん困っていたのは、次の接触をいつまで待てばよいか分からないことだった。
「触る前に言ってほしいです。位置は分からないままでいいので」
「分かった。方向は知らせず、触れる前に言う。それで試すか」
「はい」
もう一度目を閉じると、エレジはカイルの位置を決めようとせず、近くにいるという情報だけを残した。触れる前には言葉があるので、それまでは接触を待ち続けなくてよい。
前腕に手が触れた時、方向は分からなかった。それでも、直前の声で接触が来ることは分かっていたため、先ほどのように身体の両側を同時に見張ろうとはしなかった。
「これなら、さっきより楽です」
「位置は分かったか」
「いいえ。でも、分からなくても続けられました」
カイルは、エレジが目を開けてから、今の条件を記録した。位置を知らせなくてもよい、という結果だけでは不十分だった。接触する範囲を限り、触れるタイミングを知らせた上で続けられた。その条件ごと、翌日のリヒターへ渡す必要がある。
少し休んでから、身体の一部を預ける確認へ移った。
今度は目を開けたまま、カイルがエレジの左の手首と前腕を支えた。自分から力を抜くように言われても、エレジは腕が動くたび、その動きを手伝ってしまう。カイルが持ち上げれば一緒に上げ、向きを変えれば、自分でもその方向へ動かしていた。
「お前も動かしてるな」
「合わせた方がいいと思って」
「今は俺が支える。落とさないように、自分で持ってなくていい」
「……全部抜くんですか」
「腕だけだ。嫌なら途中で戻していい」
エレジは、腕を支えるために使っていた力を少しずつ抜いた。自分で持ち上げなくても、カイルの手が重さを受けている。手首の向きが変わり、肘が身体から離れていく間、動かされていることは分かったが、次にどこまで上がるかは自分では決めていなかった。
肩に引かれる感じが出始めたところで、エレジは続ける前に伝えた。
「そこまでにしてください。少し下げたいです」
「このくらいか」
「もう少し。……はい、そこで」
カイルは指定された位置まで腕を下げ、支えたまま待った。エレジは痛くなったから止めたのではなかった。まだ上げられると思ったが、自分で動かしていない状態で、その高さを続けたくなかった。
「今、下げたかったのは、痛かったからか」
「違います。上げられますけど、預けたままだと肩が引かれるのが気になって」
「じゃあ、今の位置で続けるか、腕を戻すか」
「一度戻したいです」
自分の膝へ腕を戻してから、エレジはさっきまでカイルが受けていた重さを、自分の身体で確かめた。支えてもらうことには慣れていても、自分から動きを補わずに任せるのは違っていた。その間に姿勢を変えてほしいと言い、実際に変えてもらえたことも、ただ触れられる確認とは異なっている。
次は立った状態で、カイルが肩と腰の横を支えた。背後へ回る前に位置を知らせ、どちらへ身体を向けるかも伝える。
エレジは背中側に人がいることを意識したが、支えられる箇所と動く方向が分かっている間は、そこだけに注意を取られずに済んだ。
カイルの支えに沿って身体の向きを変える途中、エレジは腰まで一緒に動かされることに慣れず、自分で足の位置を直した。
「足は自分で変えていいですか」
「いい。どこが窮屈だ」
「このままだと、上だけ回るので。足も少し動かしたいです」
エレジが足を置き直すと、肩と腰に入っていた力も抜きやすくなった。身体を預けると言われたために、自分では何も動かしてはいけないように受け取っていたが、カイルが支えている部分以外まで固定されたわけではなかった。
腕と立位での確認を終えてから、二人は椅子へ戻った。最後は、目を閉じた状態で前腕を支えられ、少しだけ向きを変えられる条件を組み合わせる。
触れる箇所と、支え始めるタイミングは知らせる。カイルの正確な位置は伝えず、動かす前には声をかけることにした。
エレジは目を閉じ、自分の腕の重さをカイルへ預けた。視界がない分、支える手の位置から相手の立ち位置まで考えたくなる。腕が動くと、自分の肘がどこにあり、カイルがどちら側から支えているのかを同時に確かめようとした。
「少し外へ動かすぞ」
言葉を聞いても、エレジはすぐには任せられなかった。腕の力を抜いたつもりでいたが、前腕が動くのを自分で止めている。
「そのまま待ってください。今、どこまで力を抜いてるか確認したいです」
「分かった」
カイルは同じ位置で重さを受け続けた。エレジが腕を預けたことを、その先へ動かしてよいという了承に置き換えないためにも、ここでは待つ必要があった。
エレジは肩と肘に入っている力を確かめ、少しずつ緩めた。カイルの位置を当てることより、自分がまだ腕を持ち上げようとしていることの方が、今は大事だった。
「続けて大丈夫です。少しだけ動かしてください」
前腕の向きが変わっても、今度はその動きを自分で止めなかった。どこまで動かされるか分からないことへの負荷は残ったが、変えてほしい時には言える。
「そこでいいです。戻してください」
元の位置へ戻してもらってから、エレジは自分で腕に力を入れ、カイルの支えから離した。その後に目を開けると、相手の位置を確かめられたことより、見えていない間にも自分で待たせ、動く幅を指定できたことの方が強く残った。
「身体を預けたら、そのまま動かしてもらうものだと思ってました」
「途中で変えていいと言っただろ」
「聞いてました。でも、任せた後で止めるのは、任せてないみたいで」
「俺に渡したのは腕の重さだ。どこまで動かすかまで、全部渡したわけじゃない。支えてほしいところだけ支えさせればいい」
夕食前、リヒターに確認結果を伝える時、エレジは最後の条件を自分から説明した。
「目を閉じて身体を預けたのは、椅子に座って、腕を支えてもらったところまでです。立って肩と腰を支えてもらう時は、目を開けていました」
「分かった。明日は立位で目を閉じる条件は使わないわ」
「腕を動かす時も、一度待ってもらいました。自分では力を抜いたつもりだったんですけど、まだ止めていて」
「待った後は?」
「自分で確かめてから、少し動かしてもらいました。その後は戻してもらっています」
「じゃあ、その変更も含めて確認できたのね」
リヒターは、止めたことをできなかった部分として扱わなかった。エレジがどこで待ち、何を確かめ、どう変えてもらったかを聞き、それを翌日の条件に書き加えていった。




