休養日と湖
朝の共有スペースには、いつもよりゆっくりした時間が流れていた。
訓練日のように全員が同じ時刻に動き出す必要はなく、食事を終えた者からそれぞれ好きな場所に残っている。
ヨナスはテーブルの端で端末を見ていたが、仕事をしているというより、何かを読んでいるだけらしい。リヒターは厨房で使った器具を片づけ、カイルはコーヒーを飲みながら窓際にいた。
最後に共有スペースへ降りてきたマティアスだけが、いつもより少し遅かった。
「おはようございます」
「遅かったですね」
エレジが言うと、マティアスは椅子へ座りながら朝食の残りを見た。
「休養日なんで」
「それにしても遅くないですか」
「中尉、休養日の意味分かってます?」
「寝過ごすことではないと思います」
「厳しいな」
見たところ体調が悪いわけではなさそうだったが、普段より眠そうではある。エレジはそれ以上気にせず、自分のカップへ意識を戻した。
向かいでは、リヒターもいつもと変わらなかった。昨夜の訓練のあとには少し疲れているように見えたが、今朝は食事を作り、ヨナスと保存食の残りについて話し、マティアスが遅れてきても特に何も言わなかった。
「今日は本当に何もしないんですか」
端末から顔を上げたヨナスが聞くと、カイルが答えた。
「しない」
「機材確認くらいは?」
「明日やれ」
「昨日の錠前の一つ、内部だけ見たいんですけど」
「それも明日だ」
「訓練じゃなくて個人的に――」
「休め」
そこまで言われて、ヨナスも諦めたらしい。
「休むのも予定のうちだ」
「分かってます」
返事のわりに納得していないのが分かりやすく、エレジは少し笑った。
その時、朝食を食べ始めたマティアスがふとエレジを見た。
「そういえば中尉、湖行きたいって言ってませんでした?」
「湖?」
突然出てきた言葉に、すぐには思い当たらない。
「前の基地にいた時です。酒飲んだ日」
そこまで言われて、記憶の輪郭が戻った。
課程を終え、カイルとマティアスと酒を飲んだ夜。自分が何をどこまで話したのか、ところどころ曖昧なまま残っている。
湖の話をしたこと自体は覚えていた。
「……言いましたね」
「そんな話してたんですか」
ヨナスが興味を示し、リヒターも初めて聞いたらしくエレジを見る。
「中尉、酒飲むとめちゃめちゃかわいくなりますよ」
「……マティアス」
「本当じゃないですか」
「どのくらい?」
リヒターまで乗ってきた。
「普段の中尉から想像しない方がいいです」
「マティアス」
二度目には少し強く名前を呼んだが、マティアスにはほとんど効いていない。
「ロート、それ以上はやめておけ」
カイルが止めたことで、むしろリヒターの興味は増したらしい。
「少佐も見たの?」
「いた」
「へえ」
その短いやり取りだけで、自分だけが知らない話ではなく、カイルまで共有している記憶だと理解したらしい。ヨナスも何となくこちらを見ている。
このままでは湖から完全に話が逸れる。
「湖の話をしてたんじゃないんですか」
エレジが戻すと、カイルがコーヒーを置いた。
「近くにある」
「湖が?」
「ああ。ここから車で二十分もかからない」
施設の周辺に湖があること自体、エレジは知らなかった。
「行けるんですか」
聞いたあとで、その言葉には単純な距離以上の意味が含まれていることを自分でも分かっていた。
一人で自由に外出できる状況ではないだろう。カイルも、その意味で答えた。
「一人では出せない」
「じゃあ五人で行きます?」
「行くなら私も行くわ」
「ファルク大尉は?」
マティアスが聞くと、ヨナスは少し考えた。
「湖自体は見たいです」
「その言い方、もう何か調べる気でしょう」
「別に」
「石拾い始める顔してますよ」
「石くらい拾ってもいいでしょう」
訓練も個人課題もない一日が、その時初めて具体的な形を持った。
昼前、五人は必要最低限の装備だけを持って施設を出た。
完全な私服ではないが、訓練用の装備を身につけている時ほど重くはない。通信手段と必要な携行品は持っているものの、それ以外は休養日の外出に近かった。
施設を離れてしばらくすると、道路は山裾に沿って緩く曲がり始めた。
五月半ばになっても北部の景色から冬は完全には消えておらず、日当たりの悪い斜面にはまだ雪が残っている。木々の根元では黒い土が広がり始めているものの、場所によっては白い部分の方がまだ大きかった。
湖が見えたのは、道路を一本外れて細い道へ入ってからだった。
山の間に水面が開けている。
風が通るたびに細かな波が走り、曇りがちな空を映した水は青よりも灰色に近い。岸際には雪が消えて濡れた土が露出している場所と、木陰にまだ厚く残っている場所が混ざっていた。
車を降りたエレジは、すぐには歩き出さなかった。
酒を飲んだ夜、自分は確かに湖へ行きたいと言った。
その時は、本当にどこかへ連れて行ってほしいと具体的に考えていたわけではなかったと思う。ただ、行ったことのない場所へ行ってみたいという話の延長で、湖という言葉が出た。
それをマティアスが覚えていて、カイルも覚えていた。
時間が経って、別の施設で、別の二人まで加わった今になって、本当に湖の前に立っている。
「思ってたより大きいですね」
ヨナスの声で、エレジは水面から意識を戻した。
「もっと小さいと思ってました?」
「地図で見るのと違います」
「結局見てたんじゃないですか」
マティアスが言う。
「来るって決まってからです」
「早いな」
カイルは二人のやり取りを聞きながら、周囲を一度確認しただけで特に行動を制限しなかった。
五人は湖岸に沿って歩き始めた。
最初はまとまっていたが、しばらくすると自然に距離ができた。マティアスが少し先へ行き、リヒターはそこから離れすぎない程度の位置を歩いている。真ん中に石を見ながら歩くヨナスがいて、カイルとエレジは少し遅れて並んだ。
水際まで下りたヨナスが、足元から石を一つ拾った。
「これ、たぶんここでできた石じゃないですね」
「どうして分かるんですか」
「周りと種類が違うので。ここまで運ばれてきた可能性があります」
「水で?」
「それもあります。もっと前なら氷河とか」
「氷河?」
「この辺りの地形がどうできたかまで見ると――」
「また始まった」
戻ってきたマティアスが横から言った。
「まだ二言しか話してません」
「その二言から長くなるの知ってるんですよ」
ヨナスは少し不満そうだったが、エレジにはむしろ続きが気になった。
「氷河で石が運ばれるんですか」
「運ばれます。氷って止まって見えるけど、長い時間で見ると動いてるので」
ヨナスは手の中の石を見せながら、今いる湖の周囲に残った地形と、水や氷によって別の場所から運ばれてくる石の話を簡単にした。
専門的なところまで入る前にマティアスが先へ行ったので、話はいったんそこで終わったが、エレジには妙に残った。
止まっているように見えるものが、長い時間では動いている。
それだけで、また別のことを聞きたくなる。
少し先でリヒターが湖の方を見ていた。
昨夜の訓練のあとに感じた違和感は、今はほとんど見えない。
一度だけマティアスが何か言おうとしてリヒターの方を見たあと、そのまま何も言わずヨナスとの話へ戻ったのが見えた。エレジには、その理由までは分からなかった。
しばらく歩いてから、カイルと二人になる距離ができた。
「覚えてたんですね」
「何を」
「私が湖に行きたいって言ったこと」
「覚えてる」
「マティアスも」
「あいつはあの夜のこと、だいたい覚えてるだろ」
「私はあまり覚えてないです」
「その方がいいかもしれないな」
エレジはカイルを見た。
「……そんなにですか」
「ロートの言った通りだ」
「何がですか」
「かわいかった」
何を言われるか警戒していた分、その答えは余計に困った。
「忘れてください」
「無理だな」
「どうしてですか」
「覚えてるからだ」
そのまま返されて、エレジは反論を諦め、水面へ目を戻す。
「でも、湖に行きたいって言ったのは覚えてます」
「ああ」
「本当に来るとは思ってませんでした」
「行きたいって言っただろ」
カイルは、それ以上説明しなかったが、言葉はエレジの中に残った。
行きたいと言ったから来た。
それだけのことのように言われると、むしろ不思議だった。
自分の希望は、口にした時点で誰かの事情や、その場で必要とされることの後ろへ下がっていくものだと思っていた時期が長い。
だから、酒の席で何気なく言っただけのことを誰かが覚えていて、それが時間が経ってそのまま実現するとは考えたこともなかった。
今は、目の前に湖がある。それだけで十分だった。
昼は、風を避けられる場所を選び、持ってきた簡単な食事を広げた。
リヒターが朝のうちに用意したものが多く、ヨナスは一つ食べるたびに中身を確認している。
「これ、昨日と味付け違いますね」
「よく分かるわね」
「香辛料変えました?」
「少し」
「こっちの方が好きです」
「そう。じゃあ覚えておく」
「ファルク大尉、食事だけでも細かいですよね」
マティアスが言うと、ヨナスは当然のように答えた。
「違うなら分かるでしょう」
「分かっても普通そこまで言わないんですよ」
「言った方が次に反映されるじゃないですか」
「合理的だな」
カイルが言い、リヒターも否定しなかった。
訓練の話をしているわけでも、次の課題について確認しているわけでもない。
誰かが知らない話を聞き、誰かがからかい、別の誰かが止める。それだけの時間が続いていることを、エレジは途中で意識した。
五人で同じ場所にいることに慣れ始めていても、任務や訓練のためではなく、ただ同じ場所へ来て昼を食べ、どうでもいい話をしているのは初めてだった。
午後も湖岸を少し歩いた。
風が強くなってくると、陽の当たる場所でも冷え始めた。水面は午前より細かく揺れ、対岸の山も薄く霞んでいる。
帰る時間が近づき、五人は車を停めた場所へ戻った。
エレジは最後にもう一度湖を見た。来られたこと自体が思っていたより嬉しかった。
「また来たいです」
言ってから、条件を何もつけなかったことに気づいた。行けるならでもなく、皆が行くならでもない。
ただ、自分がもう一度来たい。
「ああ」
隣でカイルが答えた。
帰りの車では、行きより会話が少なかった。一日外にいた疲れもあったし、誰かが無理に話題を作る必要もなかった。
エレジは窓の外を見ていた。
湖は道路が曲がるたびに木々の間へ隠れ、最後には完全に見えなくなった。




