眠れない夜
北棟の扉が開き、灰色の上着を着た男が一人出てきた。
エレジは双眼鏡の中でその姿を追い、建物の西側へ回るまでを確認する。少し遅れて、耳元の通信機からヨナスの声が入った。
「通信一件。同じ時間に北棟付近から短時間の発信があります」
エレジには、その通信が目の前の男から発せられたものかどうかは分からなかった。見えているのは男の移動だけで、建物の反対側も、通信の中身も、自分の位置からは取れない。
「対象一名、北棟から出ました。灰色の上着。徒歩で西へ移動しています」
「関連は?」
カイルの問いに、エレジは双眼鏡の中に見えているものと、ヨナスから入った情報を分けて考えた。
「分かりません。同時刻ではありますが、発信したのがこの人物かは確認できません」
「そのまま分けておけ」
「はい」
少しして、区域の南側へ回っていたマティアスから、対象役の一人が荷物を別の人物へ渡したという報告が入った。エレジの位置からは建物に遮られて見えない。
以前なら、自分の目で確認できていない情報にはどこか留保が残ったかもしれない。だが今は、見えていないことと、情報が存在しないことを同じには考えなかった。
「南側の受け渡しを前提に、次の移動先を見ます」
「了解です。通信側も追います」
ヨナスの返答を聞きながら、エレジは自分の視界へ戻った。
五人が同じものを見る必要はない。誰が何を取ったのかが分かっていれば、それぞれの情報を班全体のものとして使える。
終盤、ヨナスに割り当てられていた通信情報が突然途切れた。
「こちらからは取れません」
「復旧は?」
「今回は不可の想定です」
カイルはすぐにそれまでの状況を確認させた。
通信が使えなくなったことで、対象間に連絡があったかどうかは分からなくなる。それでも、エレジが見た移動、マティアスが確認した受け渡し、リヒターが見た人物の状態まで失われるわけではない。
「じゃあ、通信が続いてる前提にはできないですね」
マティアスが言うと、カイルが返す。
「逆もだ。止まったとも判断するな。分からなくなっただけだ」
エレジは手元の記録を見直した。使えなくなった情報源に引かれて、それ以前に取れていたものまで曖昧にする必要はない。
最後は、確定しているもの、可能性として残っているもの、情報源を失ったため現在は判断できないものを分けて提出し終わった。
今日の共同訓練が軽く組まれていた理由を、エレジが知ったのは午後になってからだった。
「少し休んだら、昨日の続きをやるわ」
リヒターにそう言われて、前夜カイルの部屋で行ったことがそのまま思い浮かんだ。
「昨日の、少佐とやったものですか」
「そう。今日は私がやる」
カイルとは、何をされるのかを一つずつ確認しながら進める。今日は同じ種類のことを、リヒター相手に受ける。安全であること自体は変わらなくても、次に何が来るかまで知っているわけではない。
「分かりました」
遅い昼食からしばらく時間を置いて、エレジはリヒターと一階の未使用室へ入った。
机と椅子が一つずつあり、壁際には折りたたまれた訓練用のマットが置かれている。必要なものだけが残されていた。
リヒターは訓練を始める前に、条件だけを確認した。
「昨日少佐とやったことから、新しいものは増やさない」
「はい」
「ただし、順番は教えない。いくつか重ねる」
「分かりました」
「止める時は?」
「言います」
細かな説明はそこで終わった。エレジは部屋の中央に立ったまま、何が始まるのかを待った。
「背中を向けて」
指示に従って向きを変える。背後にあったリヒターの身体が近づき、両腕ごと胴の近くへ固定された時、エレジは驚かなかった。
固定されること自体は経験しているが、昨日は直前に知らされていたため、同じ姿勢でも身体に入ってくる情報の量が違った。
まず、残っている方向を探した。
前へ出ようとすれば、腕を固定しているリヒターの身体がついてくる。後ろは塞がれている。右と左にはまだ余地がある。
「ここに入ってから、私が最初に触ったものは?」
動ける範囲を確かめている最中に質問が入った。エレジは記憶を戻す。
「椅子です。位置を動かしました」
「その次は?」
「机の端を触りました」
答えている間に、固定のされ方が変わった。右側へ動こうとすると、それまでなかった抵抗に身体が当たる。左は残っている。
質問へ答えることと、身体の周囲を確認することを同時に続けようとしたところで、廊下からかすかな音がした。
誰かが通ったのか、何かが動いたのかまで判断する前に、リヒターが次を聞く。
「今、動けるのは?」
「左です。前と後ろ、右は使いにくいです」
「廊下を誰か通った?」
エレジはそこで、さっきの音を最後まで取っていなかったことに気づいた。
音がしたことは覚えている。だが、人だったのかどうかまでは分からない。
「……分かりません」
「じゃあ、そのまま続けて」
答えは教えられなかった。一瞬だけ、聞き逃したものへ意識を戻したくなる。しかし、もう過ぎた音を追っても確認できない。昨日リヒターに言われたことを思い出し、エレジは今ある情報へ戻った。
次に椅子へ座るよう指示された。
リヒターは正面から少し外れたところへ立っている。昨日カイルと確認した時と似た位置だった。
「立って」
エレジが腰を浮かせると、リヒターが立ち上がる方向へ入った。触れられてはいないが、そのまま身体を起こせばぶつかる。
「出口はどこ?」
「右後方です」
「机は?」
「左です」
「私の位置は?」
「正面寄りです」
「廊下に今、人がいる?」
エレジは、聞こえているものを探した。物音はない。それでも、音がしないことだけで廊下に誰もいないとは判断できなかった。
「……分かりません」
「何も聞こえない?」
「何も聞こえないことは分かります。でも、人がいないかは分かりません」
「そう」
リヒターはそれ以上確認せず、立ち位置を変えた。
エレジはもう一度立とうとしたが、今度は前だけでなく横へ抜ける方向も使いにくい。昨日と同じなら、自分だけで抜けようとする必要はない。
そのことを知っているはずなのに、まず身体をどう動かせばいいかを考えている自分に気づいた。
「他にできることは?」
リヒターに問われて、ようやく別の選択肢が戻る。
「……退いてください」
リヒターはすぐに位置を空けた。エレジが立ち上がろうとしたところへ、次の質問が入る。
「今、私がどちらへ退いた?」
答えようとして、言葉が出なかった。自分の前が空いたことは分かっている。しかし、リヒターがどちら側へ移動したのかを見ていなかった。
「分かりません」
「うん」
それだけだった。取れなかった情報を埋めるよう求められることも、もう一度同じ場面をやり直すこともない。
そのまま最後の段階へ進んだ。リヒターが壁際のマットを床へ広げる。
「横になって」
エレジは仰向けになった。昨日カイルのベッドで経験した時より、床に近い分だけ周囲が遠く見える。自分が起き上がるには、まず上体を持ち上げなければならない。
「起きて」
身体を起こそうとしたところで、リヒターが肩側へ入った。
押しつけられてはいない。それでも、そのまま上体を起こそうとすれば身体がぶつかる。
「起きられる?」
「このままでは起きにくいです」
「起きられない?」
エレジは、その言い方に引っかかった。できない、と答えるには違う。
「……いえ。方法はあります」
「何がある?」
「身体を横へ向ける。脚を先に下ろす。退いてもらう。それから、ここで終わりにすることもできます」
「じゃあ、起きてみて」
横を向こうとしたところで、リヒターが腕の位置を変えた。右腕がそれまでより動かしにくくなる。
経験したことのない拘束ではない。だが、起き上がる方法を考えている途中で条件が変わったことで、次に何をするかという思考が一度途切れた。
「今、私の手はどこ?」
「右腕です」
「出口は?」
「見えてません」
「位置は分かる?」
「右後方だったと思います」
「思う?」
返された言葉で、自分が最後に見た情報を現在の情報として答えようとしていたことに気づく。
「……最後に確認した時は右後方です。今も同じかは分かりません」
「そうね」
そこで質問は止まった。エレジは横になったまま、いま分かっているものを改めて分けた。
右腕は動きにくい。起き上がろうとする方向にはリヒターがいる。出口の現在位置は確認できていない。
それでも声は出せる。訓練を止めることもできる。リヒターに位置を変えてもらうことも、自分の身体を別の方向へずらすこともできる。
動きにくくなったからといって、全部がなくなったわけではない。ただし、条件が変わるたびに、それまで見えていた選択肢をもう一度探し直さなければならなかった。
「今、一番嫌なのは?」
エレジは答えを急がなかった。
腕が動きにくいことも嫌だった。横になってすぐには起きられないことにも抵抗がある。リヒターの位置を完全には見られないことも落ち着かない。
けれど、それらは今どうなっているのかを把握できる。もっと強く負荷になっているのは、その先だった。
「……次に何が変わるか分からないことです」
「今されてることより?」
「はい。今の状態は分かります。でも、次に何を変えられるか分からない方が嫌です」
リヒターはその答えを聞いたところで、それ以上条件を加えなかった。
「今日はここまで」
エレジには、まだ続けられる感覚があった。
「まだできます」
「できるかどうかは聞いてない」
その返答を聞いて、自分が何を基準にそう言ったのかを考えた。
苦しくて止めたいわけではない。まだ耐えられる。だから続けられる。けれど、この訓練は限界まで耐えられるかを調べるために始まったものではなかった。
「……分かりました」
リヒターが離れたあと、エレジは自分で身体を横へ向けて起き上がった。
振り返りも、できたかできなかったかという評価ではなかった。
「立ってる時は、動ける方向を見ながら質問にも答えられた。ただ、廊下の音は落ちた」
「はい」
「座った時は、自分で相手を動かす選択肢を思い出すまで少し時間がかかった。それから、私が退いた方向は取れてない」
「はい」
「最後は、自分の状態はかなり分かってた。ただ、出口の現在位置を確認してないのに、前の情報から答えようとした」
並べてみれば、途中で何度も情報を落としている。それでも、それだけではなかった。
「全部、できなかったわけじゃないんですね」
「そう。全部できたわけでもない。今日は、それが分かればいい」
訓練が終わり、エレジは椅子とマットを元へ戻そうとした。
「置いといて。私がやる」
普段なら二人で片づけて終えることが多い。今日はもう訓練が終わったのだから、急ぐ理由もないはずだった。
「手伝います」
「大丈夫。すぐ終わるから」
声も表情も普段と変わらない。それでも、訓練中には感じなかった距離が、終わったあとになってわずかに生まれているように見えた。
エレジには、その理由までは分からない。
「……大丈夫ですか」
「大丈夫。少し疲れただけ」
体調が悪いと言われたわけでも、助けを求められたわけでもない。そこまで答えをもらえば、それ以上踏み込む理由はなかった。
「分かりました」
部屋を出て廊下を戻りながら、エレジは今日の訓練で起きたことを考えた。
昨日カイル相手に一つずつ確認した時には、身体の自由が減っても、残っている選択肢を探すことができた。
今日は、同じ種類のことが重なっただけで、そのいくつかが簡単に見えなくなった。
*
夜中に喉の渇きで目を覚ました時、マティアスは水を飲めばそのまままた眠れると思っていた。
時計はすでに日付が変わったことを示している。廊下も階段も静かで、他の四人はもう寝ている時間のはずだった。
一階へ下りると、共有スペースの照明が一つだけ点いている。
消し忘れかと思ったが、ソファを見るとリヒターがいた。
膝の上には本が開かれている。
「まだ起きてたんですか」
「あなたもね」
「俺は水飲みに来ただけです」
「そう」
返し方はいつもと同じだった。
マティアスは厨房で水を入れながら、何となくもう一度リヒターを見た。夕食の時にも特に変わったところはなかったし、訓練のあとも普段通りに見えた。
ただ、自分が水を注いで飲み、共有スペースまで戻ってきても、本のページが変わっていない。
読んでいるというより、開いているだけに見えた。
「寝ないんですか」
気になるままに聞いた。リヒターはいつものように軽く流すこともできたはずなのに、今日はそうしなかった。
「……ちょっと、眠れないの」
それなら、少なくとも今夜ここにいる理由の一つは分かった。
マティアスは水の入ったグラスを持ったまま、リヒターから少し離れた椅子へ座った。
「何してるの?」
「別に」
「部屋戻らないの?」
「まだちょっと目が覚めたんで」
「水飲んだら寝るんじゃなかった?」
「予定変更です」
リヒターもそれ以上戻るようには言わなかったので、そのままいることにした。
しばらくは、昼間の共同訓練の話をした。ヨナスは自分の担当する情報になると説明が細かくなりすぎること。
エレジが、自分に見えていない情報でも以前より迷わず班のものとして使っていること。
カイルは全員から報告を受けながら、誰が何を確定情報として扱い、どこから推測へ入ったかまで見ていたらしいこと。
「少佐、ああいうの全部覚えてるんですかね」
「少なくとも、今日の分はかなり見てたと思う」
「俺、自分が何言ったか半分くらい忘れてますよ」
「それはそれで問題じゃない?」
「必要なことは覚えてます」
「本当に?」
「たぶん」
「急に信用できなくなったわね」
普段なら、それで別の話へ移るところだった。
少し時間が経ってから、リヒターの方がそれまでとは違うことを聞いた。
「気にならないの?」
「何がです?」
「私がこんな時間に起きてる理由」
マティアスは、聞かれたからといって取り繕う必要もないと思った。
「気にはなります。でも、知りたいことと、聞いていいことは別でしょう」
リヒターはすぐには答えなかった。
マティアスには、その沈黙が答えを迷っているというより、自分がどこまで言うつもりなのか確かめているように見えた。
マティアスには、相手の事情を知らなければ同じ場所にいられない理由が分からない。
何かがあったらしいことと、それを自分が聞く権利があることは別だった。
「……今は、話したくない」
「じゃあ聞きません」
励ます必要も、問題がないと言う必要もない。リヒターが何について眠れないのかを勝手に推測したところで、今ここでできることが増えるわけでもなかった。
マティアスはそのまま椅子に座り、話題が途切れれば水を飲み、何か思いつけば別の話をした。
しばらくすると、リヒターがまた尋ねた。
「本当に戻らないの?」
「一人より二人の方が、時間進むの早いんで」
「そんな理由?」
「十分でしょう」
「あなた、時々よく分からないこと言うわね」
「リヒター大尉に言われたくないです」
「私、そんなこと言う?」
「毒塗ったかんざしの人が?」
リヒターが小さく笑った。
「あれ、まだ信じてないの?」
「どっちなんですか」
「触れば分かるかも」
「絶対触りません」
「賢明ね」
昼間と変わらない声だった。そのことに、マティアスは少しだけ安心したが、なぜ安心したのかまでは考えなかった。
「寝たら起こしてください」
「戻ればいいでしょう」
「もう面倒です」
「少尉とは思えない理由ね」
「勤務時間外なんで」
「階級は消えないわよ」
「知ってます」
そこまで答えたあと、会話が途切れた。
暖かい室内で、何もすることがなく、眠気に逆らう理由もない。マティアスは椅子へ身体を預けたまま、いつの間にか意識を手放した。
*
次に目を開けた時、窓の外はまだ明るくなりきっていなかった。
マティアスは最初、自分がどこにいるのか分からなかった。
背中の合わない椅子と、首の妙な重さで、昨夜そのまま眠ってしまったことを思い出す。
共有スペースは静かだった。向かいを見ると、リヒターはまだソファにいる。
横になってはいないが、昨夜ずっと開かれていた本は閉じられ、脇へ置かれていた。リヒター自身も背もたれへ身体を預け、目を閉じている。
眠っているのか、それともただ目を閉じて休んでいるだけなのかは、そこからでは分からなかった。
少なくとも、リヒターはもう、本を開いたまま一人で夜が過ぎるのを待ってはいなかった。




