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エーデルベルグの雪 ──北部山岳任務録──  作者: 有凪いちほ
特殊情報収集班:訓練

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残っている


 午前の課題では、監視対象の動きとほぼ同時に通信量が変化した。


「東側、増えました」


 ヨナスの報告を受けて、エレジは自分の位置から対象周辺を確認した。しかし、目に見える範囲では動きに変化がない。


「私は見えてません」


「通信は増えてます。短時間ですけど、さっきより明確です」


「ファルク大尉の情報を使います。東側を通る経路は外した方がいいです」


「ロート、南へ回せ」


「了解」


 マティアスがすぐに経路を修正し、リヒターもそれに合わせて負傷者役の移動位置を変えた。エレジは、自分では確認できなかった東側へ意識を広げることなく、それまで受け持っていた範囲へ戻る。


 自分で取れていない情報はある。それでもヨナスが取っているなら、その情報はすでに班のものだ。自分の視界に入っていないことと、判断材料がないことは同じではない。


 その後もいくつかの課題が続いたが、前日の個人訓練で扉の音を聞き逃したことを埋め合わせるように、必要以上に周囲の音を拾おうとはしなかった。

 自分が見るべきものを見て、自分にない情報は他の者から受け取る。その方が、五人で動く今のやり方には合っていた。


 リヒターも普段と変わらない。負傷者想定では状態を迷いなく切り分け、移動中にはマティアスの装備の緩みを指摘し、休憩に入れば夕食の材料が足りるかどうかをヨナスへ確認していた。


 午前の課題が終わったあと、エレジはカイルが一度だけ、いつもより長くリヒターを見ていることに気づいた。ただ、問いただすほど明確なものではない。

 リヒターは次の準備を続け、カイルもほどなく別の確認へ移ったため、訓練中の何かを見ていたのか、前日の個人訓練に関係するのか、それともまったく別の理由なのかは分からなかった。


 午後の訓練が終わると、カイルとマティアスとヨナスはまた訓練室に残った。


「今日は前の続きですか」


 エレジが聞くと、マティアスがヨナスの方を見た。


「ファルク大尉が、まだ肘のところ気にしてるんですよ」


「分かったまま直さない方が気になります」


「この前あれだけやったのに?」


「この前分かったから、今直すんです」


 ヨナスにとっては当然のことらしい。カイルもそのまま残るようだったので、エレジはリヒターと厨房へ向かった。


 厨房では、リヒターが冷蔵庫から食材を取り出してエレジへ野菜を渡した。包丁を出して切り始めたところで、前日の訓練について一つだけ聞いていなかったことを思い出す。


「リヒター大尉。昨日、私が扉の音を聞き逃したあと、もう一回やらせなかったでしょう?」


「ええ」


「あれって、最初から決めてたんですか」


「完全に決めてたわけじゃない。あの時のあなたを見て決めた。できなかったことより、できなかったまま終わることの方を気にし始めてたから」


 言われてみれば、その通りだった。

 扉の音を落としたと分かった直後には、次は落とさない、そのことに意識が寄り始めていた。


「取り返したくなってる時に続けると、訓練の目的が変わるの。失敗しないことが目的になる。自分がどう反応したかを見るより、次はできるって証明する方へ寄るでしょう」


「……たぶん、寄ってました」


「だから止めた」


 リヒターはそれ以上説明を重ねず、切った材料を鍋へ入れていく。エレジも包丁へ意識を戻したが、前日の終わり方はそれまでとは少し違って見えていた。


「すぐできるようにならなくてもいいんですね」


「少なくとも、私はそう思ってる」


「でも本番だったら、できなかったら困りますよね」


「本番で困らないために、訓練で一回失敗しておくの。できなかったことを覚えておけば、次に同じことが起きた時に、自分がどこで崩れやすいか分かるでしょう。訓練で毎回すぐ成功に戻してたら、失敗した時の自分を知らないままになる」


「成功した状態だけ覚えるんじゃなくて?」


「失敗した状態も知っておく。何に意識を取られたか、どこまで考えられたか、何が残ってたか。そっちの方が役に立つ時もある」


「昨日なら、身体を動かされた瞬間に扉の音が抜けたこと、ですか」


「そう」


「質問が続くと、答えること自体が目的になりかけたことも」


「それも」


 失敗を消すのではなく、どんな条件で何が落ちたのかを残しておく。それなら、できなかった事実そのものにも意味がある。

 リヒターはそこで話を次へ移した。


「今日は、昨日より一段上げたものを少佐と確認してもらう。少佐に実際に動きを止めてもらう」


「拘束するんですか」


「道具は使わない。少佐の身体だけ。背後から腕ごと固定する。それから、動ける方向を一つずつ減らす」


「動ける方向を?」


「立っている時に後ろへ下がれないようにする。横へ動けるなら、そこも塞ぐ。座った状態なら、すぐ立ち上がれないようにする」


 前日は、自分から不利な姿勢へ入った。それでも、戻ろうと思えばいつでも自分で戻れた。

 今日は違う。自分で戻ろうとしても、そこにカイルがいるため、すぐには戻れない。


「どこまでやりますか」


「今日は立った状態と座った状態まで。余裕があれば、最後に横になった状態も確認する」


「少佐は、どのくらい力を入れるんですか」


「あなたが普通に動こうとして抜けられない程度。抵抗を強くしたら力を上げる、みたいなことはしない。抜ける訓練じゃないから」


「動けなくされた時に、どうなるかを見るんですか?」


「そう。それと、動けないことと、何も選べないことを混同しないでいられるか。固定されていても、話せる。止められる。力を抜くことも、抵抗することも選べる。全部の自由がなくなるわけじゃない。その区別を、まず少佐相手に覚えてほしい」


「分かりました」


「嫌なら途中で終わっていい。少佐にも、止めたら即座に離すように言っておく」


 背後から身体を固定されるところを想像すると、前日までにはなかった抵抗がはっきりあった。それでも、自分がどこで何を失いやすいのかを知るための訓練だと分かっている以上、避けたいとは思わなかった。


「やります」


「じゃあ、夕食のあとで」


 それ以降は訓練について話さず、二人は料理を続けた。野菜の大きさを揃え、火の通りを見て、味を調整する。

 自分で決めることの多い時間を過ごしているうちに、これから受ける訓練への意識も次第に日常の中へ沈んでいった。


 夕食を終え、片づけまで済ませてから、エレジは一度自室へ戻り、少しして隣のカイルの部屋を訪ねた。

 カイルはすでに内容を聞いていた。


「背後から固定するところまでですか?」


「ああ。立った状態と座った状態。横になったのも可能ならやる。抜ける訓練じゃない。止めたらすぐ離す」


 自分が何をされるのかも、相手が誰なのかも分かっている。その条件を残したまま、今日は身体の自由だけが減る。


「始めるか」


「はい」


「背を向けろ」


 エレジはカイルに背中を向けた。前日にも同じ姿勢を取ったが、今日はそこから先がある。


「腕、下ろしたままでいい。固定する」


 予告のあと、カイルの腕が背後から回り、両腕ごと胴の近くへ押さえられた。

 強く締めつけられているわけではない。それでも肩を動かそうとすればすぐにカイルの腕へ当たり、それ以上は動かせない。

 前へ重心を移してもカイルは動かず、後ろへ下がれば背中側にはその身体がある。左右にはまだ余地が残っていた。


「どうだ」


「動けるところを探してます」


「分かるか」


「左右は空いてます。前は開いてても行けない。腕も使えない」


「ああ」


 何もできないわけではない。

 そう認識できるだけで、固定されている感覚そのものに意識を奪われずに済んでいた。


「今から右も塞ぐ」


「はい」


 カイルが位置を変えると、右へ動こうとしたところで身体がすぐに当たった。残ったのは左だけだった。


「左は動けます。前と後ろは無理です」


 自分に残された方向を言葉にできる一方で、不快感はさっきより明確になっていた。


「嫌か」


「はい」


「何が一番嫌だ」


 エレジは、固定されている腕ではなく、自分が動こうとして止められた方向を考えた。


「動こうとした方向に、すぐ少佐がいることです」


「固定そのものじゃないんだな?」


「それも嫌です。でも、動けると思った方向が塞がれてる方が強いです」


 カイルはそれ以上条件を狭めなかった。


「離す」


 腕がほどけると、身体そのものには何も起きていないのに、両腕を自由に動かせるだけで周囲の空間まで広くなったように感じた。


「続けるか」


「はい」


「椅子に座れ」


 エレジが腰を下ろすと、カイルは正面から少し外れた位置に立った。


「立ってみろ」


 腰を浮かせようとしたところで、カイルが前へ入る。身体には触れられていない。それでも、そのまま立てばぶつかる位置にいるため、エレジは途中で動きを止めた。


「立てません」


「他は」


 右には机があり、左は空いている。


「左なら出られます」


「ああ」


 その返答を受けてカイルが位置を変えると、今度は身体を前へ出して立ち上がる方向も、左へ抜ける方向も使いにくくなった。

 エレジは一度だけ腰を浮かせたが、そのままでは動けないと分かって座り直した。


「嫌です」


「何が」


「立つには、少佐にどいてもらわないといけない」


「自分だけでは動けないか?」


「完全に動けないわけじゃないです。でも、普通に立とうとすると無理です」


 さっきは身体そのものを押さえられていた。今は腕も自由で、カイルは触れてさえいない。


 それなのに、自分が立ちたいと思っただけでは、その姿勢からすぐに離れられない。


「他にできることは」


 エレジは問いの意味を考えた。

 力を使って抜けることもできる。訓練を止めることもできる。座ったまま待つこともできる。

 そこまで順に考えて、ようやく、もっと単純な方法が残っていることに気づいた。


「……どいてください」


 カイルはすぐに一歩下がった。それだけで、エレジは何の抵抗もなく立ち上がれた。


「今の方が、さっきより嫌でした」


「なぜ」


「固定されてた時は、少佐が私を止めてるのが分かりました。でも今は、触られてないのに立てなかった」


「だから?」


「一瞬、動けないことだけ考えてました。どいてって言えばいいことを、すぐには考えなかったです」


「ああ」


「身体が動かないと、選べることまで減ったように感じるのかもしれません」


「実際には減ってない」


「はい」


 退いてもらうよう頼むことも、訓練自体を止めることも、座ったまま待つこともできた。必要なら力を使って抜けようとすることさえ、自分の選択として残っている。

 なくなっていたのは選択肢ではない。身体がすぐに動かないと分かった瞬間、自分がそれを見つけるまでの速さが落ちていた。


「まだ続けられるか」


「はい」


「最後に一つだけやる。横になれ」


 エレジはベッドを見た。


「ベッドで?」


「ああ。横になった状態から起きられるかを見る」


 ベッドへ横になり、カイルの合図で身体を起こそうとしたところで、肩側へカイルが入った。押さえつけられてはいないが、上体を起こすための方向に身体があるため、そのままでは起き上がれない。


「……起きにくいです」


「他は」


 身体を横へ向ければいい。脚を先に下ろしてから起きる方法もある。

 それは分かったが、エレジはすぐには動かなかった。座っていた時よりも、自分が望む姿勢へ戻るまでに必要な手順が多いことの方が気になった。


「さっきより嫌です」


「なぜ」


「座ってる時より、身体を起こすのに一つ手順が多いからだと思います」


「続けるか」


 エレジは、自分がまだ続けられるかではなく、今日これ以上続ける必要があるかを考えた。


「今日はここまでにします」


「分かった」


 カイルが退き、エレジは自分のやり方で身体を起こした。

 背後から腕ごと固定された時には、まだ左右が残っていた。そこから一方向を塞がれると、身体を押さえられていることよりも、使えると思った方向を奪われることの方が強く嫌だった。


 座った状態では、身体に触れられていないにもかかわらず、自分だけではすぐに立てなくなった瞬間、言葉で状況を変えられることまで見えにくくなった。横になれば、同じように塞がれていても、元の姿勢へ戻るまでにさらに一つ動作が必要になる。

 自由が全部なくなっていたわけではない。そのたびに、残っているものの形が変わっていた。



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