本訓練
共同訓練を終えて装備を戻し終えた頃には、夕食までまだ少し時間が残っていた。エレジが自分の装備を確かめている横で、マティアスはヨナスへ、昨日の格闘の続きを持ちかけた。
「昨日の続きやります?」
「肘のところですか」
「それもですけど、昨日少佐にやってた抜け方。あれもう一回見たいです」
「いいですよ。少佐もやります?」
ヨナスがカイルにも声をかけたので、エレジは三人がまた組むのだろうと思った。だが、カイルは自分の装備を戻したところで、今日は加わらないと答えた。
「今日はいい」
「予定あります?」
「ああ」
昨日ならそのまま加わっていたはずなので、エレジは少し意外に思った。ただ、カイルがそれ以上説明しなかったため、ほかに済ませることがあるのだろうと受け取った。
マティアスとヨナスも特に気にした様子はなく、二人で訓練室の中央へ戻った。マティアスが確かめたいところを話し始めると、ヨナスも昨日の動きについて答えている。しばらくは終わらなさそうだったので、エレジはリヒターと夕食の準備へ向かうことにした。
厨房へ続く廊下を少し進んだところで、リヒターが隣から声をかけた。
「ヴァイス中尉、今日、私とやる方を始めようと思う」
何のことかはすぐに分かった。昨夜までカイルと確かめていたものを、今度はリヒターと行うことになる。
「今日ですか」
「ええ。今からでもいいし、疲れてるなら別の日にする」
エレジは自分の状態を確かめた。共同訓練の疲れはあるが、判断が鈍っているほどではない。カイルと何度か確認を重ねたことで、使われる要素も大まかには分かっていた。ただ、リヒターが今日、何を組み合わせるつもりなのかは聞いておきたかった。
「何をするんですか」
「拘束と観察。質問もする。今日は衣服とか羞恥に関わるものはやらない」
「どこまで先に教えてもらえますか」
「腕を制限すること、姿勢を変えてもらうこと、質問すること。そこまでは言う」
「順番は?」
「言わない」
「触れる場所も?」
「全部は言わない」
手首を押さえられることも、背後から腕を固定されることも、すでにカイルと一度経験している。座った状態で立ちにくくされ、見えない位置から触れられることも確かめた。言葉で姿勢を指定され、自分でその形へ入るところも同じだった。
ただ、どれがいつ来るかを知らないまま、組み合わせて受けたことはない。エレジはリヒターの説明を聞き、その違いを考えてから場所を尋ねた。
「場所は?」
「一階の奥の小部屋。やる?」
「やります」
「分かった。じゃあ行きましょう」
リヒターが厨房とは違う方へ進んだので、エレジもそちらへ向かった。小部屋へ入ると、窓が小さいためか、中は廊下より薄暗かった。普段は資材を一時的に置く程度で、五人が日常的に使う場所ではない。机と椅子が一つずつ置かれているだけで、カイルの部屋とは入った時から感じが違った。
ここで過ごした記憶も、置かれたものへ親しみを持つ理由もない。訓練をするために入った部屋なのだと意識しながら、エレジは机と椅子の位置を見た。
リヒターは扉を閉めてから彼女の前へ立ち、始める前の条件を確認した。
「中止条件は今までと同じ。止めたいなら『止めて』。言えなくなってると私が判断したら、こちらから止める」
「はい」
「今まで少佐とやった範囲しか使わない。ただし、順番もタイミングも教えない」
まったく知らないことをされるわけではない。そのことを改めて聞くと、エレジは少し肩の力を抜けた。次の動きを予想することはできなくても、経験したことのない要素まで加わるわけではなかった。
「質問もします。答えるかどうかは自分で決めて」
「正解はあるんですか」
「ない。相手に何を話すかも判断の一部だから」
「分かりました」
「始められる?」
「はい」
返事をすると、エレジはリヒターがどこへ触れるかを気にした。だが、彼女はその場から動かず、今日の共同訓練について尋ねた。
「今日の共同訓練、最後に使った経路は?」
「西側です」
「理由は?」
「東側が使用不能になった想定だったので」
「誰が最初に変更を提案した?」
「マティアスです」
「少佐は?」
「最終判断をしました」
終えたばかりの課題なので、質問へ答えることには困らなかった。聞かれた場面を思い出して返せばよいと思ったところで、右手首を取られた。
強い力ではなかったが、反射的に腕を引いても外れなかった。身体が一瞬反応し、エレジは自分の手首へ目を向けた。カイルと最初に確かめた時にも似た感覚はあった。ただ、今回は触れられる時を知らず、質問へ答えている間に起きていた。
「今、一番嫌なのは?」
手首を押さえたまま尋ねられ、エレジは取られている腕だけでなく、次の声を待っている自分の状態も確かめた。
「手首じゃないです」
「じゃあ何?」
「次が分からないことです」
「今も?」
「はい」
いつ離されるのか、次にどこへ触れられるのかを知りたくなる。質問が続くかどうかも分からず、エレジは手首を押さえる力が変わらない間にも、リヒターの次の動きを考えていた。
「今日、何時に施設へ戻った?」
戻った時には時計を見ていなかった。エレジは思い出せる範囲を考え、正確な時刻では答えられないと伝えた。
「正確には覚えてません」
「だいたいで」
「十六時前です」
「通信室の予備電源はどこ?」
場所を思い浮かべたところで、エレジは返答を止めた。知っていることと、今ここで答える必要があることは別だった。今日の訓練について聞かれていた流れのまま、設備の情報まで話してよいとは思えなかった。
「答えません」
「どうして?」
「訓練で必要な質問か分からないからです」
「いいわ」
リヒターが手を離すと、エレジは自由になった腕へ注意を向けた。その直後に座るよう指示され、手首の状態を確かめ続ける前に、椅子へ移ることになった。
「背を向けて」
椅子へ座ったところで次の指示が入り、エレジは一瞬迷ってから、椅子ごと向きを変えた。リヒターが視界から外れると、その位置を見て確かめることはできなくなった。
「両手を後ろへ」
前日の確認で一度経験していたが、今、背後にいるのはカイルではない。どの時点で押さえられ、この先に何が続くかも分からない。エレジは指示を受けて両腕を背中側へ回したが、すぐに両手首をまとめて取られると、先ほどより身体が強く反応した。
リヒターはそのまま、エレジ自身について質問を始めた。
「名前」
「エレジ・ヴァイス」
「所属」
「北方軍」
「今日、誰と訓練した?」
「この班の四人です」
「具体的に」
「グレイ少佐、ファルク大尉、リヒター大尉、ロート少尉」
「何時に終わった?」
「十五時半頃」
「ファルク大尉は今どこ?」
さっきまで訓練室にいたと答えかけ、エレジはそこで止まった。マティアスと練習を続けていたので、まだ同じ場所にいる可能性は高い。だが、自分が小部屋へ来てから移動していないとは確かめていなかった。
「分かりません」
「さっきまで一緒だったでしょう」
「今いる場所は見てないです」
「少佐は?」
「分かりません」
「この建物にはいる?」
「いると思います。でも確認してません」
質問の間隔は、答えを急がされるほど短くはなかった。それでも、返すたびに次を聞かれるため、エレジは何を聞かれたかを追う方へ注意が寄っているのを感じた。両手首は押さえられたままで、背後のリヒターを見ることもできない。
「今日の車両訓練で使った想定は」
「車両?」
「昨日」
訂正を聞くと、今日の課題を思い返していたところへ、昨日の記憶が重なった。エレジは返答を急ぎかけたが、どの課題を聞かれているか曖昧なまま話し始めるのをやめた。
「昨日の観測訓練ですか」
「そう」
「車両が途中で追加されました」
「何時に?」
「分かりません。記録を見ないと正確には出せないです」
「早く答えなくていい」
リヒターが淡々と言うと、エレジは自分が相手の進め方へ合わせようとしていたことに気づいた。聞かれたら、次を聞かれる前に答える。その流れへ入りかけ、確かめるために黙る時間まで短くしようとしていた。
「……はい」
「考えてから答えて」
両手首はまだ押さえられ、後ろも見えない。それでも、返答するまでの時間を取れないわけではなかった。エレジは呼吸を整え、思い出せることと、今は正確に答えられないことを分けた。
「昨日の車両が出た時刻は、今は答えられません」
「それでいい」
手首が解放されたので、エレジは腕を前へ戻した。だが、リヒターは正面へ来ず、背後で位置を変えている。エレジは振り向かず、足音が右へ移り、少し後ろで止まるのを聞いた。
「扉は閉まってる?」
「はい」
「どうして分かる?」
「開いた音を聞いてません」
「今、私はどこ?」
「右後ろです」
その返答の後に足音がまた動いたため、エレジは最後に聞いた位置へ注意を留めず、左へ移る音を追った。
「今は?」
「左側」
「距離は」
「二メートルくらいだと思います」
「何を根拠に?」
「足音の大きさと、声の位置です」
「机は?」
「私の正面。少し左です」
音と、入った時に見た部屋の配置から位置を考えることは、エレジが慣れているものだった。相手の次の動きばかり気にしていた時より、机や扉まで含めて部屋の中を考えられるようになっていた。
「扉」
「右後ろ」
答えた直後に肩を押され、エレジはそちらへ意識を向けた。予告はなく、力は強くなかったが、椅子に座った身体の向きが左へ変わった。どこまで動かされるのかを確かめようとしたところで、リヒターの質問が入った。
「今、何が聞こえた?」
エレジはすぐには答えられなかった。肩へ触れられたことと、身体の向きが変わったことは分かる。それ以外の音を、その間に取れていたかは確かでなかった。
「……分かりません」
「その前」
問われたところを思い返すと、肩に触れられる直前にも何か音があった気がした。だが、どこで何が動いた音かを、聞いた時には確かめていなかった。
「扉……?」
「開けた」
エレジが扉へ顔を向けると、少しだけ開いていた。さっき閉まっていると答えた時の状態が、今も続いているつもりでいた。身体の向きが変わった間に、扉の方でも変化があったことに気づけていなかった。
「聞き逃しました」
「どうして?」
「身体を動かされた方に意識を取られたからです」
「そう」
リヒターが扉を閉めると、今度はエレジにもその音が聞こえた。意識を向けていれば取れる音だったことが、先ほどの見落としをはっきりさせた。
「あなたは観察が得意。でも、自分に何か起きた瞬間、その能力が全部消えるなら使えない」
慰める響きも、責める響きもない言葉だった。それでも、自分が得意だと思ってきたものだからこそ、エレジには少し刺さった。周囲を見て変化を拾うことが、身体を動かされた瞬間に抜けていた。
「もう一度やりますか」
自分でも早いと思うくらいに言葉が出た。リヒターはすぐに始めるとは答えず、エレジがそう言った理由を聞いた。
「今できなかったから?」
「……少し」
「なら今日はやらない」
「でも」
「一度抜けたものを、その場ですぐ取り返せるか確認する訓練じゃない」
リヒターが椅子の前へ戻ると、エレジは再び彼女の顔を見られた。今から同じことをされれば、扉の音も気にするだろう。それで確かめたい気持ちはあったが、彼女は再開するつもりではなさそうだった。
「できなかったまま終わるのが嫌?」
「嫌です」
「でしょうね」
「でも、もう一回なら――」
「だからやらない」
声は強くなかったが、そこで区切る判断は変わらないと分かった。エレジが続きを言わずにいると、リヒターはこれまでに説明したことを確かめた。
「三回目からは我慢比べになりやすいって話したでしょう」
「はい」
「今日は失敗を消す日じゃない。何で抜けたか分かった。それで十分」
理由は分かっても、できないまま終えることには不満が残った。エレジはその気持ちを抱えたまま、今日は繰り返さないと受け取った。
「分かりました」
「今の状態は?」
「考えられます。呼吸も普通です」
「嫌だったものは?」
エレジは手首を押さえられたところから思い返し、触れられたことと、その前後に気になっていたことを一つずつ分けた。
「触られること自体は問題ないです。見えない位置にいることは少し嫌です。でも、それより次に何をされるか分からないことの方が気になります」
「動きを止められるのは?」
「やっぱり嫌です。あと、質問を続けられると、答えることに意識が寄ります」
「急かされてなくても?」
「はい。聞かれたら答えなきゃいけない感じになります」
「そこは覚えておいて」
リヒターは小さな手帳へ記録しながら、エレジが気づいたことについて説明を続けた。
「相手が質問してるからって、相手の速度で考える必要はない。沈黙してもいいし、答えないと決めてもいい」
「はい」
「今日一番大きかったのは、最後?」
「そうだと思います」
「じゃあ次はそこも使う。でも今日は終わり」
リヒターが手帳を閉じ、手袋を外し始めると、エレジももう次の指示を待たなくてよいと分かった。彼女の動きはいつもと変わらないように見えたが、片方を外してから、もう片方へ手をかけるまでに少し間があった。
エレジはその手元を一度見た。ただ、それだけで何かを判断できるほどの変化ではなかった。訓練を終えた直後なのだから、次にすることを考えていた可能性もある。
「戻りましょう。夕食遅くなる」
「はい」
声も表情も普段と変わらなかったので、エレジはそれ以上手元を気にせず、リヒターと小部屋を出た。
*
厨房へ入ると、リヒターは冷蔵庫から食材を出し、昨日使い切らなかった野菜をエレジの前へ置いた。
「ヴァイス中尉、昨日の野菜どうする?」
訓練の後で何かを確かめられるのかと思い、エレジは質問の意味をすぐにはつかめなかった。
「どうするって?」
「全部今日入れてもいいし、半分残して明日に回してもいい。どっちがいい?」
「私が決めるんですか」
「どっちでもいいから聞いてるの」
先ほどまで、座る場所や身体の向きを指定され、腕を押さえられて質問へ答えていた。今は、残った野菜をどう使うかまで自分へ聞かれている。訓練と料理を同じものとして考える必要はなかったが、リヒターが小部屋を出た後も自分の行動を決め続けるつもりではないことは分かった。
エレジは野菜の量を見て、今夜五人で食べるなら、全部使っても多すぎないと考えた。
「全部入れたいです。五人ならなくなると思います」
「じゃあ全部」
決めたところを聞き直されることもなく、リヒターはそのつもりで鍋を用意した。エレジが野菜を出す場所を空けると、彼女は今度は鶏肉を渡した。
「次、これ焼いて」
「味付けは?」
「任せる」
「任せるんですか」
「昨日やったでしょう」
「失敗したら?」
「食べられる範囲なら、みんなで食べる」
「それは困ります」
「じゃあ失敗しないようにして」
そう言われると、エレジは昨日使った調味料を思い出し、棚にあるものを見比べた。どれを使い、どのくらい入れるかは、自分で決められる。リヒターの返答を待たなければ進めないわけではなく、迷ったところだけ確かめればよかった。
野菜を用意し、肉の味付けをしている間に、エレジは先ほど腕を押さえられていたことを考え続けなくなった。包丁を使い、器を取る時にも、自分が必要だと思うところへ手を伸ばせる。そのたびに、次の指示を待っていた時とは身体の使い方が違っていた。
「これくらいでいいですか」
味付けを終えた肉を見せると、リヒターは使った量を確かめてから、もう少し塩を足してもよいかもしれないと答えた。
「じゃあ足します」
「そこは好みでいいわよ」
エレジは少し考え、ほんの少しだけ足した。昨日の味を思い出して決めたところを、リヒターはそのまま任せた。鍋の方へ戻った彼女を見てから、エレジも肉を焼く準備を進めた。
夕食にはほかの三人も揃った。マティアスとヨナスは席へ着く前から格闘の続きを話しており、エレジたちが料理を出している間にも、どこまで動きが成立していたかで意見が分かれていた。
「今日、やっと一回ちゃんと取れましたよ」
「一回じゃないです。途中まで二回です」
「途中までを数えるんですか」
「成立してたでしょう」
「最後抜かれたら成立してないでしょう」
「どこを基準にするかによります」
「またそれだ」
カイルは二人のやり取りを聞きながら食事を始めた。エレジは、自分が小部屋にいた間のことを彼がどこまで知っているのか気になり、一度顔を見た。リヒターから実施すること自体は聞いているのかもしれない。それでも、彼女の様子を確かめようと質問したり、普段より注意を向けたりすることはなかった。
「ヴァイス中尉」
ヨナスに呼ばれて顔を向けると、彼は皿に取り分けた鶏肉を見ていた。
「これ、味付け中尉ですか」
「どうして分かったんですか」
「昨日と少し違うので」
「どうですか?」
「こっちも好きです」
マティアスも一口食べ、昨日の味と比べようとした。
「俺は昨日の方が――」
「じゃあ明日自分で作る?」
リヒターに聞かれると、マティアスは途中だった言葉をすぐに変えた。
「今日のがいいです」
エレジはその返答に少し笑った。リヒターも普段どおりに彼を見てから、自分の食事へ戻っている。小部屋で腕を押さえ、質問を続けていた相手と同じ人なのだと、エレジは改めて思った。
それでも、今ここで返事を待つ必要はなく、食べたいものを取り、話したいところで会話へ入れた。リヒターも訓練中と同じようにエレジを扱わないため、小部屋で求められたことを食卓でも続けなくてよかった。
食事が終わる頃には、エレジが訓練について考えている時間より、ヨナスとマティアスの話を聞いている時間の方が長くなっていた。二人はまだ次に確かめたい動きについて話しており、エレジも、自分が見ていた昨日の対戦について尋ねられると、その会話へ加わった。




