権限
明日、リヒターがヴァイスを直接訓練する。
その予定を確認し終えても、カイルはすぐには端末を閉じなかった。訓練を自分が観察することは、すでにリヒター本人へ伝えてある。理由も隠していない。
まだ信用していないから見る。ヴァイスには知らせず、危険がなく訓練として成立している限り介入もしない。その条件まで含めて、二人の間では話がついていた。
それでも、実際にヴァイスをリヒターへ預ける段階が近づくにつれ、別の確認が必要だと感じていた。
アンナ・リヒターという人間について、自分はどこまで知っているのか。
班員として渡された資料なら、これまでにも目を通している。二十九歳、大尉。
軍医ではないが野外救護と外傷対応の教育歴を持ち、衛生、護衛、追跡と逆追跡、近接対応にも習熟している。複数の特殊環境訓練を修了し、実任務の経験も短くない。
五人で訓練を始めてから実際に見た範囲でも、書類上の経歴を疑わせるものはなかった。
この班に必要とされた理由も、表に出ている能力だけである程度は説明がつく。
分からないのは、捕虜を想定した訓練をなぜ彼女が担当するのかということだった。
リヒター自身は、必要なことだけを話している。
過去に捕らえられた経験があること。その経験から、本番で初めて知る状況を可能な範囲で減らしておいた方がいいと考えていること。
目的は恐怖や羞恥に慣れさせることではなく、拘束され、予測できない接触や自由の制限を受けても、観察と判断、自分で選ぶ余地を残すことだという説明にも不自然さはなかった。
カイルにも、その必要性は理解できた。だから、訓練そのものには異論を挟まなかった。
ただ、訓練の意図を理解できることと、それを行う人物を信用できることは同じではない。
カイルは端末を操作し、リヒターの人事記録を呼び出した。
最初に表示されたのは、班員資料と大きく変わらない内容だった。過去の所属、配置転換、訓練履歴、昇進記録、任務評価。ひとつずつ追っていくと、個々の資格や実績そのものには特に不自然な点はない。
ただ、時期によって記録の密度が違っていた。
初期の履歴には、所属先も訓練内容も比較的具体的に残っている。ところが、ある時期から任務記録が急に薄くなり、所属先と在籍期間だけが残され、その間に何をしていたのかがほとんど見えなくなる。さらに次の配置へ移ると、何事もなかったように記録の粒度が戻っていた。
カイルはその区間のひとつを開いた。
画面には、閲覧権限がないことだけが表示された。
別の任務記録も同じだった。訓練履歴の一部、任務評価の一部、配置理由の詳細。どれも記録そのものが消されているわけではない。存在はしているが、自分の権限では中身へ届かない。
特殊任務に関わる軍人なら、それ自体は珍しくない。カイル自身にも、所属外の人間から見れば同じように閉じられている記録がある。だから、非公開の経歴があるという事実だけでリヒターを疑うつもりはなかった。
問題は、その見えない部分と、今リヒターがヴァイスへ行おうとしている訓練とがどこまでつながっているのか分からないことだった。
リヒターは自分にも経験があると言った。
捕らえられた経験。
それ以上は話していないし、カイルも聞かなかった。本人が話すつもりのない過去を、興味だけで掘り返すつもりはない。
ただし、その経験を根拠にして自分の指揮下の人間へ訓練を行うのであれば、少なくとも組織としてその能力が認められているのか、今回の配置や訓練がどこまで正式なものなのかは確認しておく必要がある。
カイルは画面を閉じずに、別の回線を開いた。
呼び出したのは、北方軍司令部の作戦部にいる中佐だった。山岳部隊の配置調整や作戦支援で何度か仕事をしたことがあり、答えられないことを曖昧に濁すより、最初から答えられないと言う人間だった。
数度の呼び出し音のあと、回線がつながる。
『グレイ少佐?』
「時間あるか」
『内容による』
「人事記録について確認したい」
『それなら、もっと内容によるな』
カイルは画面に残る名前を見た。
「アンナ・リヒター大尉」
相手はすぐには答えなかった。
『今、お前の班にいるな』
「ああ」
『何を知りたい』
「今回の配置理由。それと、捕虜を想定した訓練を担当できる根拠」
今度の間は短かった。
『本人から聞いたのか』
「ああ」
『どこまで』
「訓練に必要な範囲だけだ」
『なら、俺から増やせる情報はあまりない』
「経歴の中身を全部知りたいわけじゃない」
『じゃあ何だ』
「能力があるのか」
『ある』
返答は迷いがなかった。
「書類上の資格だけじゃなく?」
『グレイ』
声の調子が少し変わる。
『お前が何を確認してるのかは分かってる。形式上できる、という意味で答えてるわけじゃない』
「実経験がある?」
『そこから先は答えられない』
「俺の権限外か」
『そうだ』
カイルは端末に残っている閲覧制限の表示へ目を戻した。
「今回の配置理由も?」
『全部は見えないはずだ』
「誰が決めた」
『それも答えられない』
「決定そのものは正式なんだな」
『当然だ』
「この訓練も?」
相手が少しだけ間を置いた。
『何を聞いてる』
「リヒター個人が必要だと思って始めようとしてるのか、それともヴァイスに必要な訓練として上も承知してるのか」
『承知してる』
その答えで、カイルの中に別の疑問が生まれた。
リヒターがエレジを守るために必要だと考えただけではない。少なくとも、上層部のどこかは、エレジにこの訓練が必要になる可能性を認識している。
「ヴァイスが対象なのは、生存したまま引き渡す条件があるからか」
『グレイ』
名前だけで止められた。
否定でも肯定でもない。ただ、それ以上は答えないという意味だけは明確だった。
カイルも追わなかった。
「分かった」
『本当に?』
「答えられないものを聞いても変わらない」
『そこは昔から聞き分けがいいな』
「もう一つ」
『まだあるのか』
「リヒターを信用していいと思うか」
今度の沈黙は、それまでより長かった。
『それは俺に聞くことじゃない』
「機密だからか」
『違う。信用するかどうかは、お前が決めることだからだ』
カイルは返さなかった。
『能力についてなら言える。お前が今見られる記録より、あの大尉は多くのことができる。今お前が聞いている訓練についても、担当できるだけのものは持ってる』
「それが分かればいい」
『じゃあ何で信用の話まで聞いた』
「能力がある人間と、任せていい人間は同じじゃない」
向こうで、小さく息を吐く音がした。
『それなら、なおさら自分で見ろ』
「ああ」
『お前、もうそのつもりなんだろ』
「最初からな」
『なら俺から言えることはない』
「助かった」
『珍しいな。お前が人の経歴をここまで気にするの』
カイルは答えなかった。
理由を説明する必要はない。ヴァイスだから調べたのかと聞かれれば、完全には否定できないだろう。それでも、個人的な感情だけで動いているつもりもなかった。
自分が指揮する班の中で、ひとりの隊員が別の隊員へ通常とは違う訓練を行う。しかも、その根拠の一部は自分から見えない。
確認する理由としては、それで十分だった。
『切るぞ』
「ああ」
回線が落ちた。
端末には再び、リヒターの経歴が残る。
分かったことは多くない。
能力はある。捕虜想定訓練を担当する根拠もある。今回の訓練はリヒター一人の判断ではなく、少なくとも上層部の承知のもとで行われる。
一方で、なぜリヒターがその能力を持っているのかは分からない。今回の班へ配置された理由も、すべてが開示されているわけではない。ヴァイスについて、上がどこまで事情を把握しているのかも見えなかった。
疑いが晴れたわけではない。だからといって、疑う材料が増えたわけでもなかった。
ただ、自分に知らされていないものが確実に存在することだけは分かる。
カイルは、もう一度リヒターの経歴を最初から眺めた。
ここから先を調べる方法がまったくないわけではない。
ファルクなら、記録の所在やアクセス構造そのものを辿れる可能性がある。少なくとも、自分よりはそういう領域に強い。
だが、頼むつもりはなかった。
軍が意図して閉じている情報を、同じ班の部下に破らせてまで知る理由はない。それを始めれば、確認ではなく侵入になる。
それに、今カイルが本当に知りたいことは、過去の記録に書かれているものではなかった。
リヒターがヴァイスをどう扱うのか。
何を負荷として使い、どこで止めるのか。
ヴァイスが嫌だと言った時、本当にそこで終えられるのか。
できるからという理由だけで続けさせないか。
訓練で与えた支配を、終了後まで持ち越さないか。
そこは、明日から自分で見ればいい。観察することは、すでに決めている。
ヴァイスには知らせない。自分がいると分かれば、その存在自体がひとつの安全材料になる可能性がある。危険がない限り介入せず、訓練として成立している限り止めないという条件も変えない。
見るのは、ヴァイスがどこまで耐えられるかではない。リヒターが、ヴァイスをどこまで見ているかだ。
リヒターの全部を知る必要はない。本人が語らない過去まで暴くつもりもない。それでも、自分の指揮下にいる人間を誰かへ預ける以上、自分が何を知らないのかくらいは把握しておく必要がある。
今夜分かったのは、自分の側に見えていない部分があるということだけだ。
明日だけで、その不足を埋めるつもりはない。それでも、記録で埋められないものは、実際の訓練の中で確かめるしかない。
カイルはそこまで考え終えると、人事記録を閉じた。




