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エーデルベルグの雪 ──北部山岳任務録──  作者: 有凪いちほ
特殊情報収集班:訓練

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格闘技


 決められた経路を進みながら途中で条件が変わり、そのたびに役割も入れ替わる。

 通信が一時的に使えなくなればヨナスが復旧に回り、その間は別の者が連絡手段を引き取る。

 負傷者が出ればリヒターだけに任せるのではなく、近くにいる者が初期対応へ入る。


 昨日までなら、それぞれの専門がどこで必要になるかを意識していたが、今日は必要になった時に誰がそこへ入るかを考える訓練になっていた。


 午後、想定上の負傷者を安全な位置まで移す課題で、ヨナスが通信機器をマティアスへ預け、自分から搬送へ入った。

 負傷者役のカイルを起こす際、ヨナスは腕力で持ち上げようとはせず、身体の位置と重心を変えてから一度で立たせた。


 その動きを見た時、エレジは少し意外に思った。

 ヨナスは華奢ではない。むしろ骨格はしっかりしているし、訓練にも問題なくついてくる。それでも、これまで目立っていたのは通信や機材を扱う姿で、他人の身体を扱う動きまで慣れているとは思っていなかった。

 カイルも同じことに気づいたらしい。


「ファルク」


「はい」


「今の、どこで覚えた」


「どれです?」


「人間の起こし方だ」


「格闘技です。あとは救助系の講習でも少し」


 カイルはそれ以上聞かなかったが、その後もヨナスが人と接触する場面を何度か見ていた。

 訓練そのものは夕方前に終わったが、夕食までにはまだ少し時間があり、五人は訓練室で装備を片づけていた。

 エレジが最後の資材を棚へ戻したところで、マティアスがヨナスへ聞いた。


「ファルク大尉、そういえば自己紹介の時、格闘技もやるって言ってましたよね」


「言いましたね」


「どのくらいやるんです?」


 ヨナスは少し考えた。


「それなりに」


「それ、範囲広すぎません?」


「どう答えればいいです?」


「例えば、俺とやったらどっちが強いとか」


「それはやってみないと分からないでしょう」


 マティアスはその返事を聞いて、上着を脱いで窓際へ置いた。


「じゃあやります?」


「今?」


「まだ夕食まで時間あるでしょう」


 ヨナスはカイルを見る。


「いいですか」


「怪我するなよ」


「はい」


「ロートもだ」


「分かってます」


 エレジはリヒターと厨房へ向かうつもりだったが、結局その場に残った。どの程度なのか、少し気になっていた。


 二人は訓練室の中央へ移り、打撃なし、組みから始めて関節は極め切らないという条件だけ決めた。


 体格だけならマティアスの方がわずかに有利に見える。実戦経験も数年ある。ヨナス自身も「それなり」としか言っていないので、エレジも最初は大きな差が出るとは思わなかった。


「じゃあ、行きます」


「どうぞ」


 先に距離を詰めたのはマティアスだった。腕を取り、身体を近づける。

 次の瞬間、ヨナスの位置がずれた。

 何をしたのかエレジには一度では全部見えなかった。


 マティアスの身体が前へ流れ、その勢いのまま肩から床へ落ちる。ヨナスはほとんど力を使ったように見えないまま、その腕を押さえていた。


「……待ってください」


 マティアスが床から言った。ヨナスがすぐに離れる。


「大丈夫ですか」


「大丈夫ですけど」


 起き上がったマティアスは、さっき自分がどう崩されたのか確かめるように足元を見た。


「今の何です?」


「重心が前に来たので、そこを少し送っただけです」


「少し?」


「はい」


「もう一回いいですか」


「いいですよ」


 二度目は、マティアスも明らかに慎重だった。今度は簡単に身体を預けず、ヨナスの腕を取ってから自分の軸を残している。

 それでも、数秒後には状況が変わった。

 ヨナスが一度離れようとしたように見えた直後、マティアスの腕が逆に引かれ、その方向へ身体が動いたところで足を払われる。


 今度は倒れ切る前にマティアスも手をついたが、起きようとした時にはヨナスが腕を取っていた。


「そこまで」


 マティアスが言うと、ヨナスはすぐに離した。マティアスはしばらく床に座ったまま、自分の腕を見る。


「……ファルク大尉」


「はい」


「それ、『それなり』じゃないでしょう」


「でもロート少尉もかなり動けますよ」


「そういう問題じゃないです」


「じゃあ何が問題なんです?」


「二回とも俺が取られてることです」


「二回しかやってないでしょう」


「二回やって二回です」


 ヨナスは本当に意味が分からないらしく、少し考えていた。エレジはその様子を見ながら、自己紹介の時の話を思い出した。

 興味を持ったものは調べ、始めれば深く覚える。本人の中では通信も自然科学も格闘技も、その延長なのかもしれない。

 考えていると、外から見ていたカイルが立ち上がった。


「ファルク」


「はい」


「俺とやるか」


 マティアスがすぐそちらを見る。


「少佐、やるんですか」


「お前が二回取られたの見てただろ」


「いや、だからこそ見たいですけど」


 ヨナスはカイルを見上げた。


「同じ条件で?」


「ああ。打撃なし。関節は最後まで入れるな」


「分かりました」


 二人が向かい合うと、さっきとは印象が変わった。

 カイルの方が明らかに体躯が大きい。

 肩幅も腕の太さも違い、正面から力をぶつければヨナスが不利なのはエレジにも分かる。

 ただ、カイルは最初からその差だけで押そうとはしなかった。マティアスが二度崩された動きを見ている。

 互いに距離を詰め、腕が触れる。


 そこからしばらくは大きく動かなかった。

 カイルが位置を取ろうとすればヨナスがずらし、ヨナスが腕を取りに行けばカイルが先に角度を変える。

 力のぶつけ合いではなく、どちらが先に相手の軸から外れるかを探っているように見えた。


 最初に大きく動いたのはカイルだった。ヨナスの肩を押さえ、そのまま身体を崩して床へ持っていく。

 ヨナスは完全に倒される前に身体を回したが、カイルが上を取った。


「一本?」


 マティアスが聞く。


「まだです」


 床からヨナスが答えた。そこから身体を抜く。カイルが押さえていた腕の方向とは逆へ腰を逃がし、空いた隙間へ肩を通す。

 次に見た時には、二人とも立っていた。


「今の抜け方、知らないな」


 カイルが言った。


「競技だとよくあります」


「何の」


「これは柔術寄りです」


「寄り?」


「似た形を他でも使うので」


 説明しながらもヨナスが再び組む。二度目はヨナスが先にカイルの腕を取った。

 真正面から引くのではなく、一度身体の横へ流し、カイルが戻そうとした方向へ自分も動く。カイルの重心がずれる。

 巨体が本当に一度床へ落ちた。

 マティアスが息を漏らす。


「少佐が普通に崩れた……」


「見れば分かる」


 カイルはすぐ起き上がった。怒った様子はなく、むしろ先ほどよりヨナスの動きを細かく見ている。


「もう一回」


「はい」


 三度目は長かった。

 カイルが力を使えばヨナスは正面から受けず、ヨナスが技を作ろうとすればカイルがその前に距離を潰す。


 先に形を作ったのはヨナスだった。カイルの腕を巻き込みながら身体の外へ出て、肘の向きを変える。さっきまでなら、そのまま相手の動きを奪えたはずだった。


 けれどカイルは腕を引かなかった。

 むしろヨナスが移動した方向へ一歩入り、そのまま距離を潰す。ヨナスが角度を作り直すより先に、カイルの肩が身体の中心へ入り、重心が崩れた。


 ヨナスもすぐに腰を落として耐えたが、今度はカイルが逃がさなかった。身体を回される前に脚の位置を塞ぎ、そのままうつ伏せに床へ落とす。

 ヨナスが抜けようとした瞬間には、すでにカイルが上を取っていた。一度身体を捻るが、それでも抜けない。

 もう一度角度を変えようとしたところで、カイルが腕と肩を押さえた。


「そこまでです」


 ヨナスが言うと、カイルはすぐに力を抜き、ヨナスを離した。

 ヨナスは床から起き上がりながら、自分が最後に抜けようとした方向を一度確かめた。


「途中まではいけると思ったんですけど」


「俺もそう思った」


「途中から変えました?」


「ああ。二回見たからな」


 ヨナスが少し笑った。カイルは立ち上がると、ヨナスにも手を差し出した。


「やるな」


「そうですか?」


「そうだ。最初から知ってたら、もう少し早く潰してる」


「それ、褒めてます?」


「褒めてる」


 マティアスも横から言う。


「ね、『それなり』じゃないって言ったでしょう」


 ヨナスは二人を見比べた。


「まあ、格好いいので」


 あまりに普通の調子だったので、エレジは一瞬意味を取り損ねた。


「何がです?」


「格闘技です。身体一つで相手の力を別の方向へ使ったり、同じ状況でも競技によって全然違う方法で抜けたりするの、格好いいじゃないですか」


 自己紹介の時にも言っていた、興味を持った最初の理由は単純で、そこから仕組みまで知りたくなる。


「最初は一つだけだったんですけど、別の競技だと同じ形を違う方法で処理するので。それが面白くて増えました」


「どのくらいやった」


 カイルが聞くと、ヨナスがいくつか競技名を挙げた。

 エレジには名前しか知らないものも混じっている。


「全部同じ程度に?」


「いいえ。長くやったものと、動きだけ習ったものがあります。競技として強いかと言われると別です」


「さっきロートに最初に使ったやつ、もう一回見せろ」


 ヨナスは少し意外そうにカイルを見た。


「少佐が?」


「知らない動きなら覚える」


「俺もお願いします」


 マティアスがすぐに入る。


「ロート少尉はさっき受けたでしょう」


「受けたのと理解したのは別です」


「それはそうですね」


 三人がまた中央へ戻る。

 今度は勝負ではなかった。ヨナスがマティアスの腕を取り、どこで重心が前へ出たのかを説明する。カイルが同じ動きを試し、力が入りすぎればヨナスが止める。


「少佐、それだと相手が抵抗した時に正面からぶつかります」


「じゃあこっちか」


「そうです。肩じゃなくて先に腰をずらす」


 カイルがやり直すと、今度はマティアスの身体が自然に前へ流れた。


「うわ、これ嫌だな」


「何が」


「気づいた時にはもう立ち直せないです」


 マティアスも交代し、同じ動きを試す。

 三人を見ているうちに、誰が教える側なのかはすぐに曖昧になった。


 ヨナスが組み技の抜け方を見せれば、カイルはそこから実戦ならどう武器へつなぐかを話す。


 マティアスが雪上で足場が崩れた時の身体の使い方を出せば、ヨナスがその条件で技が成立するか試す。

 専門の違いが、そのまま三人の材料になっていた。


「そろそろ料理始めないと、夕食遅くなるわよ」


 リヒターが言った。エレジも時計を確認する。


「もうこんな時間ですか」


「行きましょう」


「はい」


 男三人はまだ床に残っていたが、エレジとリヒターは厨房へ向かった。


 今日の夕食は豚肉のソテー・焼きじゃがいも、キャベツとにんじんのスープ。共同生活を始めてから、料理はリヒターが中心になっている。エレジも手伝ううちに、どこに何があるかはだいたい覚えていた。


 頼まれた作業を言われた通りにする。訓練として教わっている時とは違い、リヒターは一つ一つ理由を説明するわけではない。必要なことだけ言い、エレジも分からない時だけ聞く。

 それでも一緒に作る回数が増えるにつれ、次に何が必要なのかは少しずつ分かるようになっていた。


 調理をしていると訓練室の方から、重い音がして、エレジは包丁を動かしながら聞いた。


「今、かなり大きい音しましたよね」


「したわね」


「見に行かなくていいですかね」


 リヒターは鍋の中を確認した。


「少佐がいるんでしょう? なら、本当に危なければ止めるでしょ」


 話していると、また音がした。今度はマティアスらしい声まで聞こえる。


「たぶん、またロート少尉が落ちたわね。音が軽いから」


 エレジは一瞬リヒターを見た。


「少佐だと違うと思います?」


「もっと響く」


 想像できてしまい、少し笑った。


「焦がしたくなければ、今はこっち」


「はい」


 エレジはフライパンへ意識を戻した。

 料理がほぼ出来上がった頃になっても、訓練室からは時々物音がしていた。


「まだやってますね」


「気に入ったんでしょうね」


「三人とも?」


「少なくとも、やめようとはしてないみたい」


 盛りつける前に少し時間があったため二人で訓練室を覗きに行くと、扉の向こうでマティアスが床に座っていた。


 疲れて動けないわけではなく、目の前で動いているカイルとヨナスを見ている。


 ヨナスがカイルの腕を取る。

 そのまま身体の横へ抜け、カイルの肩と肘の位置を変えた。力でねじ伏せているようには見えない。

 相手が動こうとする途中へ入り、その方向を少し変えている。


「ファルク大尉、そんなにできたんですね」


 エレジが言うと、ヨナスはカイルから離れた。


「自己紹介で言いましたよ」


「聞きました。でも、ここまでとは思ってませんでした」


「俺もです」


 床からマティアスが言った。


「さっきからずっとそれ言ってます」


「だって大尉の『それなり』、信用できないでしょう」


「どう答えれば満足だったんです?」


「せめて『結構できます』くらい」


 リヒターは二人の会話には入らず、さっきのヨナスの動きを見ていた。


「ファルク、今の抜け方、最後に肘が少し開いてる」


 ヨナスの表情が変わった。


「どこです?」


「相手の横へ出たあと。左肘」


「開いてました?」


「少しだけ」


「もう一回やっていいですか」


 リヒターはカイルを見る。


「同じ入り方して」


 二人がもう一度組み、ヨナスが同じように身体の横へ抜ける。


「そこ」


 リヒターが言って、ヨナスが止まる。


「この角度?」


「もう少し前。今は直した」


「じゃあ、さっきは――」


「相手がそのまま腕を外へ返したら、肘から先が遅れる」


 ヨナスは自分の腕を動かし、確認した。


「確かに」


 マティアスも立ち上がる。


「リヒター大尉、見ただけで分かるんですか」


「見れば分かるでしょう」


「俺は分からなかったです」


「あなたは自分が投げられない方法考えてたからじゃない?」


「それは否定できないですけど」


 ヨナスはまだ腕の角度を確認していた。


「リヒター大尉もやります?」


「今日はやらない」


「どうしてです?」


「料理があるから」


 リヒターはそれだけ言って訓練室を出た。

 エレジもあとに続いたが、振り返るとカイルはリヒターの背中を見ていた。


 夕食の席でも、話題はまだ格闘技だった。


「だから、そこから足を入れると――」


 ヨナスが説明する。


「ファルク大尉、食べながら足動かさないでください」


 マティアスが止める。


「動かしてません」


「今、机の下でやってたでしょう」


「確認してただけです」


「何を」


「角度です」


 マティアスは呆れたように食事へ戻った。その割に、自分からすぐ次を聞く。


「さっき少佐がやってた抜け方だと、大尉はどう返すんです?」


「条件によります」


「それ言ったら全部そうじゃないですか」


「だから条件を決めてください」


「立った状態。壁なし。武器なし」


「床は?」


「普通」


「普通って何です?」


「訓練室です」


「ああ、それなら――」


 話がまた始まると、カイルも途中から質問へ加わった。


「相手が右手で刃物持ってたら、その入り方は使わないだろ」


「そのままは使いません。腕の位置を先に変えます」


「どう変える」


「食事終わったら見せます」


「分かった」


 エレジは三人を見ながら食事を続けた。

 ヨナスは通信担当だ。それは間違っていない。けれど、それだけでこの人を理解したつもりになると、たぶんかなり多くを見落とす。


 通信や機械の知識も、自然科学の話も、今見つかった格闘技も、本人にとっては別々の顔ではないのだろう。

 興味を持ち、仕組みを知る。そして、できるところまで覚える。

 その結果として、周囲から見れば意外なほど深いところまで行っている。


 食事を終える頃には、マティアスも肩を何度か回していた。


「痛いんですか」


 エレジが聞く。


「痛くはないです。疲れてるだけ」


「二回どころじゃなく投げられたからでしょう」


「途中から俺も投げました」


 ヨナスが首を傾げる。


「一回ですね」


「大尉、そこ数えてたんですか」


「数えますよ」


「そういうところですよ」


 マティアスが言い、ヨナスが本気で意味を考え始める。

 そのやり取りを見て、エレジは朝より二人の距離が近くなっていることに気づいた。

 階級差が消えたわけではない。それでも、マティアスはもうヨナスに遠慮して質問していなかったし、ヨナスもそれを嫌がっていない。


 夕食後、エレジはリヒターと厨房を片づけた。


 カイル、マティアス、ヨナスの三人は、案の定また訓練室へ戻っている。食器を棚へ収めている間にも、時々床へ身体が落ちる音が聞こえてきた。


「まだやってるんですね」


「本当に気に入ったみたいね」


 リヒターは洗った鍋の水気を拭き、いつもの場所へ戻した。エレジも最後の食器を片づける。


 昨日までなら、夕食後に誰とどこで過ごすかなど決まっていなかった。


 けれど今日は、リヒターと並んで厨房にいる自分と、訓練室へ戻った三人を思い浮かべても、それが一時的な偶然には思えなかった。

 まだ数日しか経っていないのに、五人の間には少しずつ、それぞれが自然に行く場所ができ始めている。


 片づけが終わったところで、リヒターが言った。


「ヴァイス中尉、今日もう一つだけ確認を入れてもいい?」


 エレジは個別訓練のことだとすぐに分かった。


「今からですか」


「疲れてるなら明日にする。昨日より単純な内容よ。拘束も接触もしない」


「何をするんですか」


「少佐から姿勢を指示してもらって、あなたが自分でその姿勢を取る。それだけ」


 触れられもしないなら、身体への負荷そのものは昨日よりずっと小さい。それでも、わざわざ別の項目として扱う以上、確認したいものは違うのだろう。


「やります」


「分かった。じゃあ少佐が空いたら説明する」


 二人で訓練室へ向かった時には、三人もようやく区切りをつけるところだった。

 マティアスは床に座って息を整え、ヨナスはさっき指摘された肘の角度をまだ確認している。


「今日はここまでにしたら?」


 リヒターが言うと、マティアスがすぐに頷いた。


「俺は賛成です」


「ロート少尉は休んでただけでしょう」


「大尉に何回投げられたと思ってるんですか」


「数えます?」


「いいです」


 ヨナスとマティアスが二階へ戻り、訓練室にはカイルとエレジ、リヒターだけが残った。

 カイルに今から訓練することを伝えると、先に着替えると言った。さっきまで長く組み合っていたせいで、額や首筋にはまだ汗が残っている。

 エレジとリヒターが廊下で待っていると、ほどなく着替えを済ませたカイルがドアを開けた。

 中に入ると、リヒターはカイルへ説明を始めた。


「少佐はヴァイス中尉に姿勢を指定してください。立つ、座る、向きを変える、手を後ろへ回す、壁へ手をつく。その範囲まで」


「俺は触らないんだな?」


「触らない。身体を止めるのもなし。ヴァイス中尉は、言われたことに自分で従う」


 エレジはそこで、昨日との違いを理解した。

 昨日は、カイルから身体の向きを示され、それに合わせて自分で動いた。今日はその接触さえない。言葉を聞いて、自分から身体を動かす。


「これで見るものは何ですか」


「指示された姿勢へ自分から入った時に、どう感じるか。それから、従ってる途中でも『やめる』『従わない』っていう選択が自分に残ってると分かっていられるか」


「言われたからって、全部従わなくていいんですか?」


「もちろん。指示は命令じゃない。これは訓練だから」


 リヒターはカイルにも確認する。


「ヴァイス中尉が途中で止まったら、そのまま待って。続けるかどうかも本人に決めてもらう」


「ああ」


「それで十分。私は出るわ」


 リヒターが扉へ向かう。


「終わったら、一番負荷になったものだけ教えて」


「分かりました」


 扉が閉まり、部屋にはカイルとエレジだけが残った。

 カイルは少し距離を取って立つと、「始めるか」と言った。

 エレジもカイルに向き直る。


「右を向け」


 エレジは右を向いた。


「背を向けろ」


 今度はカイルに背中を向け、姿が見えなくなる。

 昨日確認した視界外の感覚が戻ったが、今日は触れられる予定すらない。


「手を後ろへ」


 一瞬だけ、動きが止まりかけた。まだ何もされていない。

 それでも、両腕を背中側へ回すという姿勢には、昨日までとは違う意味があった。

 エレジはゆっくり両手を後ろへ持っていった。


「そのまま」


 カイルは触れないし、拘束もされていない。手を下ろそうと思えば、自分で下ろせる。それなのに、自由が少し減ったように感じる。


「どうだ」


「少し嫌です」


「何が」


 エレジは、自分が取っている姿勢を考えた。


「自分でやってるのに、不利な形になってることです」


「拘束されてない」


「はい。だから、今すぐ戻ろうと思えば戻れます。でも、少佐に言われた通りにした結果、自分から動きにくい姿勢を取ってる」


 外から動きを奪われたわけではなく、自分で選んで従った。それでも、指示を受けて自分から自由を狭めることには、別の負荷がある。


「戻っていい」


 エレジは腕を下ろし、正面へ向き直った。


「次だ。椅子に座れ」


 椅子へ座る。


「背中をつけろ」


 背もたれへ身体を預ける。


「手は膝」


 言われた位置へ両手を置いた。


「そのまま」


 今度はカイルが正面に見える。拘束も接触もない。さっきよりずっと負荷は小さかった。


「今は」


「平気です」


「さっきとの違いは」


「前が見えるのと……この姿勢自体は普段もするからだと思います」


「立て」


 エレジが立ち上がろうとする。


「止まれ」


 腰を浮かせかけたところで、自分の動きを止めた。

 中途半端な姿勢のままになる。そこで、さっきとは違う抵抗が生まれた。


「……今のは嫌です」


「何が」


「立てって言われたから動いたのに、途中で止められたことです」


「止めたのは自分だ」


「はい」


 そこが余計に引っかかった。


「自分で止まったんですけど、少佐の言葉に合わせて身体を動かしてる感じが強いです」


「続けるか」


「はい」


「立て」


 今度は最後まで立つ。


「壁を向け」


 エレジは向きを変えた。


「両手を壁につけろ」


 一瞬、さっきよりはっきりと抵抗が生まれた。それでも、エレジは両手を上げ、壁へつけた。

 正面には壁しかない。両手は身体の前にあり、背後にはカイルがいる。拘束されてはいない。触れられてもいない。逃げようと思えば、手を下ろして振り返ればいい。


 それでも、自分でその姿勢へ入ったことで、無防備になった感覚だけは確かにあった。


「今は」


「さっきより嫌です」


「理由は」


 エレジはすぐには答えなかった。

 壁に手をついたまま、自分が何に反応しているのかを探す。


「何もされてないのに、自分からされる側の姿勢に入ってるからだと思います」


 言葉にして、ようやく近いものが見えた。


「言われなければ、この姿勢は取らないです。でも、言われたから自分でやった。そのことが気になります」


「やめるか」


 エレジは少し考えた。今すぐ手を下ろせると分かっている。


「もう少しだけ待ってください」


「ああ」


 カイルは近づいてこなかった。エレジは壁に触れた自分の手を見ながら、何が残っているかを確認した。

 止められる。振り向ける。従わないこともできる。

 今この姿勢を続けているのも、自分で決めている。


「戻っていい」


 その言葉で、エレジは両手を下ろして振り返った。

 さっきまでより、自分で正面を選び直した感覚が強かった。


「どうだった」


「昨日までより、説明しにくいです」


 少し考えてから続ける。


「外から何かされたわけじゃないので。でも、自分で従って、不利な姿勢に入るのは嫌でした」


「従うこと自体が?」


「それだけかは、まだ分からないです」


 カイルは結論を急がなかった。それだけで、エレジも無理に答えを決めずに済んだ。

 指示に従うこと。自分から身体を動かすこと。その結果として、動きにくい姿勢へ入ること。

 同じ一連の中でも、どこに負荷があるのかはまだ完全には分け切れていない。


「今日はここまでです」


「分かった」


 訓練が終わっても、エレジはすぐには動かなかった。

 さっきまで、カイルの言葉に従って動いていた。だから今度は、自分から一歩近づいた。カイルは動かずに待っている。

 エレジはさらに距離を詰め、その胸元へ手を置いた。


「これは、私が決めてます」


 確認したかったのは、自分の中の違いだった。

 言われたから動いたのではない。どこに立つかも、どこまで近づくかも、自分で決めている。

 カイルの腕が背中へ回り、エレジはそのまま身体を預けた。


 

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