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エーデルベルグの雪 ──北部山岳任務録──  作者: 有凪いちほ
特殊情報収集班:訓練

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簪


 前日までの通信や救護と同じように、この日はエレジの得意分野である偵察と観測を五人で共有する訓練だった。

 エレジは地図を広げ、二つの観測候補地点を示した。


「こっちは対象に近いので細かく見えます。でも、周囲の動線が切れるし、撤収経路も一本しかありません。私は遠い方を選びます」


「近い方が情報多くないですか」


 マティアスが聞く。


「細かく見えることと、必要な情報が増えることは同じじゃないです。今回は誰が出入りしたかだけじゃなく、どこから来てどこへ行くかまで見たいので」


「中尉、こういう時は説明長くなるんですね」


「理由まで分からないと、別の場所で使えないので」


 ヨナスは二つの地点を見比べ、少し離れた尾根を指した。


「通信まで含めるなら、この辺も見たいです。肉眼では動きがなくても、通信量だけ変わることがあるので」


「姿が見えなくても?」


「むしろ、見えない時に使える情報です」


 エレジは改めて地図を見た。


 自分は視界と地形を見ている。ヨナスは同じ地形へ、電波の通り方や遮蔽を重ねている。同じ場所でも、拾っている情報が違った。


 二人で条件を重ねていくと、最初にエレジが示したどちらでもない地点が候補に残った。


「ここなら?」


 ヨナスが確認し、エレジも地形を見直す。自分一人で選んだ時には出なかった場所だった。


 その後は実際に二つの候補地点へ移り、それぞれから何が見えるかを確認した。

 地図の上では十分に使えると思えた場所でも、現地へ立つと林の枝が想像以上に視界を切り、逆に少し外した場所からは建物の出入口だけでなく、その先の林道まで一続きに見えた。


 エレジは四人に自分と同じものを見るよう求めるのではなく、それぞれが何を拾っているのかを聞いていった。


「マティアスなら、最初にどこ見ます?」


「人より道ですね。出入口見ても、そのあとどっち行ったか分からないと意味ないでしょう」


「リヒター大尉は?」


「人の癖。立ち止まる場所とか、誰と距離を取るかとか。ずっと見てれば、普段と違う動きは分かるから」


「ファルク大尉は?」


「機材が使えるなら、通信と電源。見た目に変化がなくても、内部で動いてる可能性があるので」


 最後にカイルを見ると、彼は少し考えた。


「撤収できるか」


「見る前に?」


「見る場所を決める時点で」


 エレジは頷いた。四人とも、同じ地点から違うものを見ている。

 そのこと自体は分かっていたはずなのに、実際に並べて聞くと、自分一人で選ぶ時とは情報の広がり方が違った。

 自分なら視界と地形を優先する。

 ヨナスは電波と機材。

 リヒターは人。

 マティアスは流れと動線。

 カイルは最初から、戻るところまでを含めている。


 誰か一人の見方が正解なのではない。

 重ねた時に初めて、その地点を使う意味が見える。


 午後は、観測対象を途中で変更する想定に移った。

 建物を見ていたところへ、林道の先から一台の車両が現れる。事前の想定にはなかった追加条件だった。


「ヴァイス」


 カイルに呼ばれ、エレジは双眼鏡を外さないまま答えた。


「車両を優先します。建物の出入口はマティアスに」


「了解」


「ファルク大尉、通信に変化ありますか」


「今のところなし。車両側からの発信も見えません」


「リヒター大尉、人は?」


「運転手一人。まだ降りない」


 エレジは建物と車両の両方を一度視界に収めようとして、途中でやめた。

 できないわけではない。ただ、両方を追おうとすれば、どちらについても拾える情報が浅くなる。


「マティアス、建物お願いします」


「もう見てます」


「変化があったらすぐ教えてください」


「了解」


 そこで初めて、エレジは車両へ意識を絞った。

 全部を自分で見なくていい。そう決めたことで、車両の停車位置、前輪の向き、運転手がどちらを気にしているかまで追えるようになった。

 数分後、運転手が降りた。


「動きます」


 エレジが言うのとほぼ同時に、マティアスが続ける。


「正面、二人出ます」


「確認しました」


「通信一件増えました」


 ヨナスの声が重なった。


「短いです。位置は建物側」


「リヒター大尉」


「運転手は出てきた二人のうち片方しか見てない。もう一人は車両じゃなく周囲を見てる」


 エレジは三人から入った情報を頭の中で重ねた。

 運転手は建物から出てきた一人へ向かう。もう一人は距離を取り、林道と斜面を順に見ている。


「警戒役に見えます」


「私もそう見る」


 リヒターが答える。


「ただし確定はしないで。単に待ってるだけかもしれない」


「はい」


 通信が増えたことも、人が出てきたことも、周囲を見ている人間がいることも事実だった。

 それらが同じ理由で起きているかは、まだ分からない。エレジはそのまま観測を続けた。


 運転手と一人が短く話し、建物側から小さな荷物が運び出される。もう一人は最後まで車両へ近づかなかった。


「荷物、見えます?」


 マティアスが聞く。


「形だけ。長方形。大きくはないです」


「一人で持てる?」


「持てます」


「ファルク大尉、通信は?」


「最初の一件だけです。そのあとなし」


「じゃあ、荷物を渡すために呼んだとは限らないですね」


「そうですね」


 会話しながらも、エレジは車両の向きを見ていた。停車した時から前輪は林道の奥へ向いている。

 来た道へ戻るなら、一度切り返す必要がある。


「このまま奥へ行くと思います」


「理由」


 カイルが聞く。


「車の向きです。戻るつもりなら停め方が悪い。今いる位置からなら、そのまま北へ抜けた方が早いです」


「他には」


「運転手が地図を確認してない。少なくとも道を知らない感じではないです」


 言いながら、エレジは自分の推測と事実を分けた。


「ただ、戻る可能性もあります」


「ああ」


 数分後、車両は予想通り林道の奥へ動き始めた。エレジはそれを追ったが、木立の向こうへ入ったところで姿が途切れた。


「見失いました」


「次にどこで拾える」


 カイルが聞く。エレジは地図へ視線を落とした。


「このまま北へ行くなら、三分くらいで尾根の切れ目に出ます。ただ、途中で東へ曲がる道もある」


「見えるか」


「ここからは無理です」


「なら?」


 エレジは一瞬だけ考えた。追うなら場所を変える必要がある。

 だが、移動すれば今見ている建物側の情報を一度捨てることになる。


「今の位置を維持します」


「車両は捨てる?」


「一度は。北へ出ればまた見える可能性があります。東へ曲がったなら、今追っても間に合いません」


 カイルはそれ以上口を出さなかった。エレジは再び建物側へ注意を戻した。

 マティアスが持っていた観測を引き継ぐ。


「変化は?」


「二人とも戻りました。さっき周り見てた方が最後です」


「通信は?」


「なし」


 ヨナスの返答を聞いてから、エレジは時刻を記録した。

 三分を少し過ぎた頃、尾根の切れ目に車両が現れた。


「出ました」


 それだけ確認して、進行方向と時刻を残す。

 追い続けなかったことで失った情報はある。それでも、観測地点を動かなかったことで建物側の変化は途切れなかった。


 訓練を終えて記録を持ち寄った時、カイルが最初に確認したのもそこだった。


「車両を追わなかった理由は」


「追うために移動すると、建物側を捨てることになるからです。車両は北へ抜ければもう一度拾える可能性があったので、そっちに賭けました」


「東へ曲がってたら」


「見失ってます」


「それでも残る判断だったか」


「はい」


 迷わず答えられた。


「今持ってる情報全部を残そうとすると、観測地点を変えることになります。そうすると、車両も建物も両方中途半端になると思いました」


 カイルは頷いた。


「ロート」


「俺も残ります。中尉が車両追ったら、建物側は俺一人になりますし」


「ファルク」


「通信だけなら追わなくても継続できます。位置は粗くなりますけど」


「リヒター」


「同じ。あの時点なら建物側の人間の方が情報量が多い」


 四人の答えを聞きながら、エレジは昼間に自分で言ったことを思い出した。

 全部を見る必要はない。何が見えていないのかを分かった上で残す。

 実際に対象が増えると、その判断は地図の上で考えていた時より難しかった。それでも、自分一人で全部を抱えようとしなかったことで、結果として拾えた情報は多かった。


 訓練を終える頃には、それぞれの専門を教わる段階から、互いの見ているものを使う段階へ少しずつ移っていることが分かった。


 夕食後も、五人はすぐには自室へ戻らなかった。

 共有スペースには、食後に淹れた飲み物が残っている。ヨナスは昼間の受信記録を端末へ移し、カイルは翌日の予定を確認していた。

 マティアスはソファに座ったままヨナスの画面を覗き込み、リヒターも厨房の片づけを終えると向かいの椅子へ戻ってきた。


 誰かが「残ろう」と言ったわけではない。

 それでも、食事が終わればそれぞれ部屋へ散っていた最初の日とは違い、用事がなくても同じ場所にいることが不自然ではなくなっていた。


 マティアスがリヒターへ声をかけたのは、彼女が髪に手をやった時だった。


「リヒター大尉、それ前から気になってたんですけど」


「何?」


「それです」


 マティアスが自分の後頭部を指したので、リヒターは髪をまとめている細い棒へ触れた。


「これ?」


「はい。それ一本で留めてるんですか」


「そうよ」


「何なんです?」


「簪」


「かんざし?」


「髪をまとめるもの」


「名前は聞いたことありますけど……」


 マティアスは少し身を乗り出した。


「危なくないんですか」


「使い方によるでしょう」


「そういう意味じゃなくて。だって結構先端尖ってるし」


 近くで見ようとしたのか、マティアスが手を伸ばしかけた。


「触らないで」


 いつもより明確な制止に、マティアスは触れる前に手を止めた。


「……髪崩れます?」


「毒が塗ってあるから」


 何を言われたのか分からなかったように、マティアスが一度簪を見た。


「……冗談ですよね?」


「どうかしら」


「それ、答えになってないでしょう」


 テーブルの向こうでヨナスが顔を上げた。


「皮膚接触で作用する可能性があるなら、触らない方がいいですね」


「ファルク大尉、そこ真面目に受け取るんですか」


「本当かどうか確認するために触る必要はないでしょう」


「そういう問題じゃないんですけど」


「じゃあ何が問題なんです?」


「もういいです」


 マティアスが諦める横で、エレジは簪そのものより、どうやってそれ一本で髪が留まっているのかが気になった。


「本当に、それだけなんですか」


「そうよ」


「ゴムも使ってない?」


「使ってない」


「どうやって留まってるんですか」


 リヒターがエレジを見る。


「見たい?」


「はい」


 リヒターは簪に手をかけ、一度向きを変えてから引き抜いた。


 まとめられていた淡い金髪がほどけ、肩を越えて背中へ落ちる。


 エレジが最初に思ったのは、想像していたよりずっと髪が長いということだった。


 普段はすべてまとめられているため、長さを意識したことがない。下ろした髪は背中まで届き、顔の周囲にも柔らかく落ちたことで、いつもははっきりして見える輪郭まで少し違って見えた。


「長いんですね」


「そう?」


「もっと短いと思ってました」


「まとめてると分からないでしょうね」


 隣では、ヨナスがリヒターの髪よりも、抜かれた簪と解けた髪の形を見比べていた。


「その長さを一本で固定してたんですか」


「できるわよ」


「一点で支えてるわけじゃないですよね」


「当然でしょう」


「先に髪束を捻って、その中に差して――」


「髪にそんな説明する人、初めて見た」


「構造は構造でしょう」


 リヒターが笑う。カイルも一度だけこちらを見たが、特に何も言わず予定表へ戻った。


 その横で、マティアスだけはずっと何も言わなかった。

 普段ならヨナスの説明に先に何か言いそうな場面だったので、エレジは珍しく思ってそちらを見る。


 視線に気づいたマティアスが少し遅れてこちらを見た。


「何ですか」


「いえ。何も言わないから」


「俺だってずっと喋ってるわけじゃないですよ」


「そうですか?」


「中尉、どういう意味ですか」


 リヒターもマティアスを見る。


「ロート少尉?」


「……いや。思ったより長いなって」


 結局エレジと同じことを言ったので、リヒターは自分の髪を一度見下ろした。


「そんなに意外?」


「いつも全部上げてるから、分からないでしょう」


「それはそうね」


 それ以上気にした様子もなく、リヒターは髪を片手でまとめ始めた。

 エレジはその手元を見る。


「私でもできますか」


「今の長さだと難しいかな」


 自分の髪は顎の下に届く程度しかない。リヒターの髪と比べれば、まとめ方以前に長さが足りない。


「じゃあ、伸びたら教えてください」


「いいわよ」


「本当に?」


「髪のまとめ方くらい教えるわ」


 リヒターは髪を捻り上げ、一度簪を差し込んでから向きを返し、別の部分へ通した。それだけで長い髪が元の位置へ収まる。


「なるほど」


 ヨナスが言った。


「捻った髪束そのものを固定点にして、一度逆方向へ――」


「ファルク大尉、今それ解説いります?」


「ヴァイス中尉が聞いてたでしょう」


「もう本人が見て分かったでしょう」


「まだ全部は分かってません」


 その後も話はしばらく続いた。

 仕事とは関係のない話を五人でする時間が、特別なものには感じなくなり始めている。

 数日前まで、同じ建物で暮らすということ自体にまだ意識が向いていたはずなのに、今は誰かがテーブルに残れば、他の誰かもそのまま残る。


 やがてカイルが予定表を閉じたのをきっかけに、ヨナスも端末を片づけ始めた。


「じゃあ、俺も戻ります」


 マティアスが立ち上がる。


「ファルク大尉、明日それ続き聞かせてください」


「何の話です?」


「今日の通信のやつです」


「簪じゃなくて?」


「そっちはもういいです」


「理解してないでしょう」


「理解しなくても髪は留めませんから」


 二人はそんなことを言いながら共有スペースを出ていった。

 エレジも自室へ戻ろうとしたところで、リヒターに呼ばれた。


「ヴァイス中尉」


「はい」


「今日、もう一つだけ確認しておきたいことがあるんだけど」


 昼間とは別の話だとすぐに分かった。


「昨日の続きですか」


「続きではあるけど、同じことはしない。今日は拘束もしない」


 リヒターはカイルにも視線を向けた。


「少佐とできるなら今日。疲れてるなら明日に回す」


 エレジは自分の状態を考えた。

 一日の訓練で疲労はある。ただ、判断が鈍っている感覚はない。さっきまで普通に話していたこともあり、昨日のように始める前から緊張しているわけでもなかった。


「今日で大丈夫です」


「少佐は?」


「ああ」


「じゃあ、部屋で説明する」


 三人でカイルの部屋へ移ると、今回のリヒターの説明は短かった。


「今日はヴァイス中尉の動きを止めない。少佐は視界の外へ移動して、触れる場所だけ先に伝えてください。ただし、いつ触るかは言わない」


「場所は毎回言うのか」


「今日はね。それと、腕か肩に触れて身体の向きを変える。ヴァイス中尉は自分で動く。止まりたければ止まっていい」


「分かりました」


「昨日は、動こうとしても動けない時に何が起こるか見たでしょう。今日はそこを使わない。見えないことと、いつ来るか分からないこと、それから人に方向を決められることだけを見る」


 昨日とは、負荷の置き方が違う。拘束されず、自分で動ける。ただ、背後に相手がいて、その動きが見えないという部分だけは残る。


「中止条件は昨日と同じか」


「同じ。ただ、今日は強くするつもりはない」


 リヒターはエレジを見る。


「変更したいことは?」


「ありません」


「なら始めて。終わったら、一番気になったものだけ教えて」


 それだけ言うとリヒターは部屋を出ていき、カイルと二人になる。


  昨日は、リヒターが出ていったあと、これから身体の自由を制限されるのだという感覚が残ったが、今日は違う。

 両手も足も自由に動く。振り向こうと思えば振り向けるし、その場から離れようと思えば離れられる。

 その条件があるだけで、同じように二人きりになっても身体の構えは昨日ほど強くなかった。

 エレジは部屋の中央へ立つ。


「最初は右肩に触れる」


「分かりました」


 カイルが背後へ回り、視界から消えた。

 それだけなら、昨日のような嫌悪はない。拘束されるわけではないし、嫌なら振り向くことも、その場から動くこともできる。

 ただ、後ろのどこにいるのかを目で確認できない。エレジは正面を向いたまま待った。 


 右肩に触れられることも、相手も分かっている。分からないのは、いつ来るかだけ。

 すぐに触れられると思っていた。けれど、何も起きない。数秒のはずなのに、右肩へ意識が集まっていたところで、肩に手が触れた。

 身体がわずかに前へ動いた。カイルの手はすぐに離れる。


「どうだ」


「今の、少し嫌でした」


「触られたからか」


「違います」


 エレジは、自分が反応した瞬間より、その前に何を考えていたかを探った。


「待ってる方です。いつなのか分からないから、ずっとそこを待ってました」


 何も起きていない時間の方が、触れられた瞬間より意識を取っていた。それが分かっただけで、最初の確認としては十分だった。


「もう一回同じのやるか」


 エレジは少し考えた。


「いえ。今ので分かりました」


「ああ」


「次、お願いします」


「今度は左腕に触れる。そのまま身体を右へ向ける」


「はい」


 カイルが再び視界の外へ入り、今度は、左腕に触れられることも、そのあと身体の向きを変えられることも分かっている。

 分かっているのに、触れられる瞬間だけは読めない。エレジは待ちながら、そこへ意識が引かれすぎないよう部屋の中も見た。

 扉は右側。机は正面より少し左。窓は閉じている。背後にはカイルがいる。

 そこまで確認したところで、左の上腕に手がかかった。


 横へ力が加わる。エレジは右足を動かし、自分で身体の向きを変えた。九十度ほど向いたところで、カイルの手が離れる。


「今は」


 エレジは元の位置へ戻らず、そのまま考えた。


「昨日とは違います。動かされた感じはあります。でも、私は自分で動いてます」


「ああ」


「止まりたければ止まれたと思います」


「実際には止まらなかった」


「はい。従ってもいいと思ったからです」


 言葉にしてから、その違いを自分でも確かめた。昨日は動きたいのに動けなかった。

 今日はカイルの示した方向へ動いたが、動くこと自体を選んだのは自分だった。


「選択肢が残ってるのが分かります」


「どういう」


「そのまま動くこともできるし、途中で止まることもできる。だから、身体の向きを決められた感じはしても、昨日みたいではないです」


「嫌ではあるか」


「少しは。でも、何ができるか分かってる方が大きいです」


 カイルはそれ以上言わず、エレジが次を決めるのを待った。


「もう一回、反対側でやってもいいですか」


 カイルが右腕に触れることだけを告げ、再び背後へ回る。二度目は、最初ほど待つ時間に意識を取られなかった。

 触れられる瞬間が分からないことは変わらない。それでも、一度経験したことで、起きたあとに何をすればいいのかは分かっている。


 右腕へ手がかかり、今度は反対へ向きを変える。エレジは誘導に合わせて足を動かし、途中で一度止まった。

 カイルの手もそこで止まる。力を増やして動かされることはない。


「今、止めました」


「ああ」


「ちゃんと止まれるんですね」


「止めるなとは言われてない」


「分かってました。でも、やってみた方が分かります」


 エレジはそこで終わらせることもできた。それでも、止まれることを確かめたうえで、もう一度自分から続けることを選んだ。


「もう少しお願いします」


 カイルの誘導が戻り、最後まで向きを変えると、手が離れた。

 身体の方向を別の人間に決められることへの抵抗は残る。けれど、自分で止められると知っているだけで、そこに含まれる意味は大きく変わる。


「最後だ。後ろから両肩に触れる。向きは変えない」


「分かりました」


 エレジはもう一度正面を向いた。

 今度は、肩だけを待たないようにした。

 扉、机、窓、廊下の向こうからは物音がしない。足は自由に動く。後ろにはカイルがいる。

 右か左かを考える必要もない。両肩に触れられることまで分かっている。それでも、時間だけは分からない。


 意識が背中側へ引かれるのを自覚したまま、目の前の机に置かれた紙の位置まで確認する。

 その途中で、両肩へ手が置かれた。少しだけ身体に力が入る。

 昨日のように押し戻されるわけではない。動こうと思えば、そのまま前へ出られる。カイルの手は、ただ肩に触れているだけだった。


「今は?」


「嫌ではあります」


「何が」


「見えないことと……やっぱり、待つことです」


「触られたあとは」


 エレジは肩に置かれた手を意識した。


「それほどでもないです」


「離すぞ」


 手が離れ、エレジは振り返った。


「たぶん、触られることより、その前に何が来るか待ってる方が意識を取られます」


「何が来るかは分かっててもか」


「何をされるかは分かってても、いつなのか分からないと、そこばかり気にするみたいです」


 昨日とは違う負荷だった。動けないことではない。自由は残っているのに、まだ起きていないことへ意識を向け続けてしまう。


「今日はここまでだな」


 カイルがリヒターを呼び戻す。戻ってきたリヒターは昨日のように一つずつ長く確認せず、エレジの様子を見てから尋ねた。


「一番気になったのは?」


「触られるまでの時間です。場所も相手も分かってるのに、いつなのか分からないと、それを待ってしまいました」


「向きを変えられた時は?」


「昨日とは違いました。自分で動けたので。止まることもできるって分かってました」


「実際に止めた?」


「一度だけ」


「そのあと続けた?」


「はい。自分で」


 リヒターはそれを聞いて頷いた。


「それなら十分」


 今夜の確認で、背後から触れられることも、見えない位置から身体の向きを変えられることも、もう完全な初めてではなくなった。

 自分がどこへ意識を取られやすいのかを一度知れたことで、十分なのだろう。


 リヒターが部屋を出たあとも、エレジはすぐには自室へ戻らなかった。


「少しここにいてもいいですか」


「ああ」


 カイルが机へ戻り、途中まで見ていた翌日の資料を開く。

 エレジはベッドの端へ座り、自分の訓練記録を取り出した。

 カイルは机にいる。さっきまでは、姿が見えなくなればどこにいるのかを意識し、いつ触れられるのかを待っていた。

 今は背を向けても、いちいち位置を確かめる必要はなかった。紙をめくる音がして、時々ペンが動く。それだけで、カイルがそこにいることは分かる。


 訓練との違いを確かめる必要さえなくなるまで、二人はそれぞれの作業を続けていた。



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