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エーデルベルグの雪 ──北部山岳任務録──  作者: 有凪いちほ
特殊情報収集班:訓練

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34/154

違い


 翌朝、エレジが一階へ降りると、厨房にはすでにリヒターがいた。


 昨夜あれだけの話をしたのに、彼女はいつもと変わらない様子で湯を沸かし、朝食の準備をしている。パンを切り、卵を火にかけ、途中で一度鍋の中を確認する。その一つ一つは昨日までと何も違わない。


 一晩で知ったことは多かったのに、それを知ったことでリヒターという人間そのものまで別の誰かになったわけではない。その当然のことを、エレジは朝食を作る彼女を見ながら改めて意識した。


「おはよう、ヴァイス中尉」


「おはようございます」


 リヒターはいつも通りに笑った。


「眠れた?」


「……思ってたよりは」


「ならよかった」


 昨夜の話を蒸し返すことも、エレジの様子を探ることもしない。その距離の取り方に、少しだけ助けられた。


 しばらくしてマティアスとヨナスが降りてきて、最後にカイルが現れた。


 カイルとリヒターの間にも、昨夜二人きりになったあと何か話したと分かるような変化はなかった。ただ、朝食の途中でリヒターが今日の訓練について説明を始めると、カイルは予定表を見ながら普段より細かく確認した。


「午後は搬送までだな」


「ええ。最初は二人一組で、最後に全員で一人を運ぶところまで」


「固定方法は統一するのか」


「基本は。ただ、受傷部位によって変えるところはその都度説明します」


「低体温は?」


「今日は初期対応だけ。寒冷環境での長時間管理は別日にした方がいいと思います」


「理由は」


「固定と搬送だけでも一日は使えるから。そこに寒冷障害まで混ぜると、どこで判断を間違えたのか分かりにくくなります」


「分かった」


 質問そのものは班長として不自然ではない。それでもエレジには、カイルが今日の内容だけでなく、説明しているリヒター自身の判断の仕方まで見ているように感じられた。


 その理由までは分からない。

 昨夜、二人の間で何が話されたのかも知らない。

 ただ、カイルが命令元の分からない個別任務をそのまま受け入れたわけではないことだけは、昨日の会話から十分に分かっていた。


 朝食を終えると、五人は訓練室へ移った。

 床には医療バッグ、包帯、止血帯、固定具、簡易担架、保温材が並べられている。


「最初に言っておきますけど、今日は全員を衛生兵にする訓練じゃありません」


 リヒターは五人を見回した。


「この班では、誰かが負傷した時にすぐ後送できるとは限らない。だから最低限、自分たちで状態を判断して、悪化させずに持たせるところまでは全員できるようにします」


 ヨナスが医療バッグの中を覗き込む。


「持たせるって、どのくらいです?」


「任務次第。数十分で回収が来る場合もあれば、数時間持たせないといけない場合もある」


「数時間」


「だから止血して終わり、では困るの」


 リヒターは訓練用の腕を取り出し、机の上へ置いた。


「まず出血から。量だけで判断しないでください。受傷機転、意識、呼吸、皮膚の状態。その時点で何が起きていて、次に何が起こり得るかまで見る」


 説明は簡潔だったが、手順だけを覚えさせる教え方ではなかった。

 止血帯をどこに置くか。なぜその位置なのか。締めたあとに何を確認するのか。止血できたことで安心して見落としやすいものは何か。


 エレジは実際に手を動かしながら、リヒターが一つの処置ごとに必ず「次に何を見るか」を示していることに気づいた。


「強すぎる」


 リヒターに言われ、エレジは止血帯から手を離した。


「これでも?」


「もう少し下。締めること自体が目的じゃないから」


 エレジが確認しながら直すと、リヒターは頷いた。

 隣ではヨナスが止血帯の構造そのものを気にしていた。


「これ、締め付け圧の差って素材でかなり変わります?」


「変わるけど、今それを分解しないで」


「分解しません」


「その言い方する人は大体やるのよ」


「必要ならあとで」


「あとでも駄目です」


 マティアスが笑う。


「ファルク大尉、昨日から機材壊す前提で見られてません?」


「壊しません。構造を確認するだけです」


「その二つ、本人の中では別なんですね」


 会話が続いている間も、リヒターは手を止めなかった。

 ヨナスには構造と原理から説明し、マティアスには現場で代用品を使う場合の判断を答え、カイルには処置を切り替える条件を示す。


「担架がない時、雪上なら即席で作った方が早いですか」


 マティアスが聞く。


「作れるから作る、は駄目。距離と地形と負傷部位を見る」


「引いた方がいい時もある?」


「もちろん。逆に担架を作ることで時間を使って悪化させることもある」


「つまり、正解固定じゃない」


「そう」


 カイルが聞いた。


「搬送開始を遅らせる基準は」


「出血が制御できていない時。呼吸が不安定な時。それから、動かすことで悪化する可能性が高いと判断した時」


「その判断を誰がする」


「基本は私。でも私が動けなければ、できる人がする」


 リヒターはそこだけ少し強調した。


「この班は五人しかいないから、役割が一人に固定されると思わないで」


 昨日カイルが言っていたことと同じだった。

 エレジはそこで、今やっている救護訓練が単にリヒターの専門を教わる時間ではないことを改めて理解した。


 誰かが欠けた時に、その役割まで一緒に消えないようにする。

 通信も、地図も、救護も同じなのだ。

 午前の後半は低体温と意識障害の初期対応へ移った。


「寒い人を温めればいい、だけでは駄目です」


 リヒターは保温材を広げながら説明した。


「本人が歩けるのか、判断できるのか、震えているのか。今どの段階にいるのかを見ないと、良かれと思って動かしたことが悪化につながることもある」


「北部だと、こっちの方が出番多そうですね」


 マティアスが言う。


「あなたたちの方が詳しいでしょう」


「いや、衛生の話は別ですよ」


「でも雪の中で人がどう動けなくなるかは知ってるでしょう。それも情報だから」


 エレジはその言葉を聞きながら、リヒターの見方が自分と少し似ていると思った。

 目の前の一つだけで結論を出さず、複数の情報を重ねて判断する。

 偵察と救護では対象は違う。それでも、見て、比べて、次に起こることを考えるという部分は遠くない。


 昨日までは「医療もできる人」としか思っていなかった。

 今日は、リヒターがどう考える人なのかが少しずつ見え始めていた。


 昼食を挟み、午後は二人一組で固定と搬送を行った。

 最初の組み合わせで、エレジはリヒターと組むことになった。


「私が負傷者役ですか」


「最初はね。右脚、自力歩行不可。意識清明」


「分かりました」


 エレジが床に座ると、リヒターは訓練用の固定具を持ってきた。


「触るね」


「はい」


 膝から足首まで状態を確認し、脚の位置を変える。

 必要なところへ手を入れ、体重を支えながら姿勢を整える動作に迷いはない。エレジが自分で力を入れなくても、身体は必要な位置へ動かされていく。


 その途中で、昨夜の言葉が浮かんだ。

『自分の意思とは関係なく、身体の位置を変えられること』

 今も、脚の位置を決めているのは自分ではない。

 けれど、不快ではなかった。


 どこへ手が来るのかも、なぜ脚を動かすのかも分かっている。自分を傷つけるためではなく、運ぶために必要な位置へ整えていることも理解している。


「昨日の話、考えてる?」


 リヒターに言われ、エレジは少し驚いた。


「分かりますか?」


「ずっと私の手を見てたから」


「……はい」


 リヒターは固定具を締めながら続けた。


「どの辺の話?」


「身体の位置を決められるっていうところです」


「今は嫌?」


 エレジは少し考えた。


「嫌じゃないです」


「どうして?」


「何をされてるか分かるからです。何のためかも」


 リヒターはそれ以上説明を重ねず、固定した脚を一度確認した。


「そこを覚えておいて」


「今の感覚をですか?」


「そう。平気だった、だけじゃなくて、何が分かってたから平気だったのか」


 エレジは頷いた。

 昨日聞いた時には、同じ接触でも意味が違うという話を頭では理解していた。今は、その違いがもう少し具体的だった。


 同じように身体を動かされても、目的が分かっている。次に何をされるか予想できる。嫌なら言えるし、言えば止まると分かっている。

 その条件が一つずつ減った時、自分がどこで負荷を感じるのか。個別訓練で確かめるのは、たぶんそこなのだ。


「じゃあ立って」


「右脚を使わずに?」


「そう。必要なところだけ支えるから」


 エレジが左脚と腕で身体を起こそうとすると、リヒターが肩と腰を支えた。

 今度も、自分の身体の一部は相手に預けている。それでも先ほどと同じだった。

 嫌ではない。

 その事実だけを、エレジは余計な意味をつけずに覚えておくことにした。


 役割を交代すると、今度はエレジがリヒターの脚を固定した。


「そこ持つと痛める。あと、力で持ち上げない」


「でも重いですよ」


 言ってから、エレジは少しだけまずかったかと思った。

 リヒターが顔を上げる。


「今言う?」


「そういう意味じゃないです」


「どういう意味ならいいの?」


「……搬送する側としてです」


「なら許す」


 リヒターが笑い、エレジもつられて笑った。

 

 午後の後半には組み合わせを変え、最後は五人で一人の負傷者を抱えたまま移動する訓練になった。

 負傷者役はマティアスだった。


「今日は俺、楽な役ですね」


「終わってから言え」


 カイルが答える。

 ヨナスが状態を確認し、リヒターが必要な処置を指示する。エレジは地図と施設周辺の経路を見て、最短ではなく担架を通しやすい道を選んだ。


「正面の通路より、裏手から回った方がいいです」


「距離は増えるぞ」


 カイルが聞く。


「でも段差が少ないです。正面は途中で一度担架を持ち替えないと通れません」


「ファルク」


「通信はどっちでも問題ないです」


「リヒター」


「揺らさず運べるなら裏手」


「ロート」


 担架の上からマティアスが言う。


「俺に聞くんですか」


「負傷者も情報源だ」


「じゃあ裏で。正面、頭ぶつけそうです」


「さっきからそこ気にしてるな」


「大事ですよ」


「裏へ回る」


 実際に動き始めると、一人が負傷しているだけで全員の仕事が変わった。


 リヒターは医療管理に集中するため周囲の警戒から外れる。ヨナスは通信機器を持ちながら担架の一角を支え、エレジは進行方向と足場を確認しつつ、必要な時には持ち手を交代する。

 誰か一人の役割が抜ければ、その穴は残りの四人へ分散する。


 昨日まで言葉で聞いていた「互いの専門を知る」という意味が、そこでようやく班全体の形として見えた。

 五人しかいないからこそ、誰かが本来の仕事から外れた瞬間に、残った者がその分まで動けなければならない。


 訓練を終える頃には、エレジの腕にもはっきり疲労が残っていた。


「今日はここまで」


 リヒターの言葉で、全員が装備を戻し始める。

 ヨナスは使った器具を一つずつ確認し、マティアスは肩を回しながら担架から降りた。


「負傷者役が一番楽だと思ってました」


「運ばれるのも疲れるでしょう」


 エレジが言うと、マティアスがこちらを見る。


「中尉、今日俺の頭二回ぶつけかけましたよね」


「ぶつけてません」


「かけた」


「結果が大事です」


「少佐、この人前からこうでした?」


「前からだ」


 カイルが即答し、エレジは少し笑った。

 五人で訓練を終える時間は、昨日よりももう少し自然になっていた。


 片づけが終わり、ヨナスとマティアスが先に訓練室を出たあと、リヒターがエレジを呼んだ。


「ヴァイス中尉」


「はい」


 振り返ると、リヒターは使い終えた固定具を収納へ戻しながらこちらを見ていた。


「最初の確認、明日の夜にしようと思うけど、どう?」


 さっきまで救護訓練に向いていた意識が、一気に昨夜の話へ戻った。


「明日ですか」


「急すぎるならずらす」


「最初は、何をするんですか」


「軽いものだけ。手首、腕、姿勢の制限。その三つくらい」


「服の課題は?」


「明日はやらない」


 返事を聞いた瞬間、自分が安心したことが分かった。

 リヒターもそれに気づいたらしかったが、評価するようなことは言わなかった。


「手首を押さえられる。背後から腕と身体を固定される。あとは、座った状態で立てないようにされる。まずはそこまで」


 エレジは一つずつ頭の中で思い浮かべた。


「全部、少佐が?」


「そう。私は最初に内容と中止条件を説明して、そのあとは部屋を出る」


「順番は決まってるんですか」


「明日は決めておく。何をするか分からない状態にするのは、まだ先」


 それなら、少なくとも突然何かをされるわけではない。


「目的は、今日みたいに身体を動かされることとの違いを見ることですか」


「それもある。でも、もっと分けて見たい」


「分ける?」


「手首を持たれること自体が嫌なのか。動けないことが嫌なのか。後ろが見えないことが嫌なのか。立ちたいのに立てないことが嫌なのか。全部まとめて『嫌だった』で終わらせないため」


 今日、リヒターに脚を動かされても何ともなかった理由を考えたこととつながった。


「何が嫌か分かれば、その次も変えられる?」


「そう。逆に、思ってたほど負荷がないものもあるかもしれない」


「分かりました」


 少し離れたところで片づけを確認していたカイルがこちらを見る。

 リヒターも一度そちらへ視線を向けた。


「少佐にも、あとで同じ内容を説明します」


「今じゃなくて?」


「今でもいいけど、今日はもう共同訓練が終わったから。夕食のあとに二人まとめて説明する方が楽でしょう」


 エレジは頷いた。


「明日で大丈夫です」


「無理に今日決めなくてもいいのよ」


「分かってます。でも、やります」


 その答えに、リヒターはそれ以上確認を重ねなかった。


「じゃあ明日の夕食後。少佐の部屋で」


「はい」


 リヒターが出ていき、訓練室には一時的にエレジとカイルだけが残った。

 カイルは片づけ終えた装備を確認してからエレジを見る。


「本当に明日でいいのか」


「はい」


「早めたいわけじゃないな」


「違います」


 そこは自分でも分かっていた。

 不安だから早く終わらせたいわけでも、できるところを見せたいわけでもない。


「先延ばしにしても、考える時間が増えるだけだと思うので」


「それでいいならいい」


 カイルはそれ以上言わなかった。

 夕食のあと、予定通り三人はカイルの部屋に集まった。

 昨日と違い、今日は話す内容が決まっている。リヒターは机の上に一枚の紙を置いた。そこには明日の三つの課題が簡単に書かれていた。


「順番はこれ。最初に手首。次に背後から腕と身体を固定。最後に、座った状態で立てないようにする」


 エレジは紙を見る。


「時間は?」


「決めない。短く終わってもいいし、少し続けてもいい。ただし、長く我慢できた方がいい訓練ではないから、時間は評価しない」


 カイルが確認する。


「止める条件は」


「ヴァイス中尉が『止めて』と言ったら即終了。それとは別に、返事ができない、自分が何をされているか説明できない、判断が明らかに落ちてる。そう見えたら少佐から止めていい」


「嫌がってるだけなら?」


「それだけでは止めない」


 エレジはそこで口を挟んだ。


「私も、それでいいです」


 カイルがこちらを見る。


「はい。嫌だと思うこと自体が失敗じゃないなら、顔に出ただけで止められたら、何ができるか分からなくなるから」


 リヒターは頷いた。


「その認識でいい」


 カイルはしばらく考えたあと、紙へ視線を戻した。


「背後から固定する時、腕はどこまで使う」


「最初は上半身だけ。強く締めない。逃げられないようにするんじゃなくて、『自分で離れられない感じ』が出れば十分」


「座位は」


「椅子でも床でもいい。ただ、明日は椅子の方が分かりやすいと思う。立とうとした時に少佐が止める」


「押さえつける?」


「必要最低限。目的は力比べじゃないから」


 リヒターはエレジを見る。


「分からないところある?」


「途中で、何が嫌なのか言った方がいいですか」


「言えるなら言って。無理に話し続ける必要はないけど、言葉にできるならその方がいい」


「終わったあとだけでもいい?」


「もちろん」


「分かりました」


 リヒターは紙をそのまま机に残した。


「これは置いておく。明日もう一度、始める前に確認するから」


「はい」


「今日はこれ以上考えなくていいわよ」


 リヒターは少し笑い、そのまま部屋を出た。

 扉が閉まると、急に部屋が静かになった。エレジは机の上の紙をしばらく見ていたが、やがて椅子へ座った。


「少佐は平気ですか」


 カイルがこちらを見る。


「俺が?」


「私を押さえたりするの」


 カイルは少しだけ眉を寄せた。


「平気かどうかで言えば、したくはない。お前が嫌がる可能性があることを、積極的にしたいわけじゃない」


 その言い方で、エレジにも理由の一つは分かった。

 明日の課題の中には、ケルナーの時と形だけなら似ているものがある。背後から動きを封じられることも、自分の意思で離れられなくなることも。

 けれど、同じではない。明日は何をするか知っている。相手はカイルで、自分が止めれば止まる。何より、自分で受けると決めている。


「でも、やってくれるんですね」


「お前がやると決めてるなら」


 言い方はいつも通りだった。

 自分のためだからと無理をしているのではなく、カイルも自分で引き受けると決めている。

 それが分かるだけで、エレジは安心できた。


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