↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
エーデルベルグの雪 ──北部山岳任務録──  作者: 有凪いちほ
特殊情報収集班:訓練

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

33/146

知らない任務


 翌朝、エレジが一階へ降りると、共有スペースにはすでにヨナスとリヒターがいた。


 ヨナスはテーブルの端に小型端末と携帯無線機を並べ、朝食を取りながら何かを確認している。リヒターはその向かいでコーヒーを飲んでいた。


「おはようございます」


「おはよう、ヴァイス中尉」


 エレジが自分の朝食を用意している間にマティアスが降りてきて、最後にカイルが現れた。


 昨日までと違うのは、五人が揃ったこと自体をもう特別に感じなくなっていることだった。

 まだ互いをよく知っているわけではない。それでも、誰がどこへ座るのか、朝にどれくらい話すのかといった小さなことが、少しずつ見え始めている。


 エレジが席につく頃、カイルが自分のコーヒーを入れた。そのまま隣に置かれていたエレジのカップにも手を伸ばしかける。


「今日はいいです」


「そうか」


 カイルはそれだけで手を戻した。

 エレジにとっては何でもないことだった。以前から何度も一緒にコーヒーを飲んでいるし、カイルは自分が朝に飲む日と飲まない日があることも知っている。

 ただ、向かいに座っていたリヒターが一度こちらを見たことには気づいた。


 何を見たのかまでは分からない。その後すぐにヨナスが昨日確認していた機材について話し始めたので、エレジも気に留めなかった。


「今日から、互いの担当を実際に触ってもらう」


 朝食後、作戦室でカイルがこれからの初期統合訓練について簡単に説明した。


「初期訓練期間は四週間だ」


「四週間?」


マティアスが予定表から顔を上げた。


「思ったより長いですね」


「五人で新しく組むなら、短い方じゃないですか」


ヨナスが言う。


「四週間で完成させるわけじゃない」


カイルは続けた。


「実任務に入れる状態まで、互いの判断と役割を合わせる。期間の枠は上から指定されてるが、中身はこっちで決める」


「一か月ほぼここですか、結構長いな……」


「これは個人の能力を測り直す訓練じゃない。誰か一人が動けなくなった時に、残りが何もできなくなる状態をなくす。それと、専門ごとの判断がどう繋がるかを見る」


 最初の担当はヨナスだった。

 五人は通信室へ移り、携帯無線機、予備電源、小型中継器、センサー端末を使った基本操作から始めた。


 ヨナスは自分の専門について話し始めると、昨日の自己紹介以上によく喋った。


「通信が切れた時、最初から故障を疑う必要はありません。地形、距離、遮蔽物、相手側の状態。原因を分けてから機材を見る方が早いです」


「山だと、どのくらい地形の影響が大きいんですか」


 エレジが尋ねると、ヨナスはすぐ地形図を端末に表示した。


「例えばここなら、距離は近くてもこの尾根でかなり落ちます」


「じゃあ、こっちへ上がれば通る?」


「可能性は高いです。ただ、この位置まで出ると見つかりやすくなる」


「中継を置くなら、少し下げて――」


 通信の話をしていたはずが、いつの間にか地形と観測地点の話になっていた。


「昨日から思ってましたけど、中尉とファルク大尉、やっぱり話合いますね」


 近くで別の端末を操作していたマティアスが言った。


「通信の話ですよ」


「昨日も似たようなこと言ってませんでした?」


「必要だから聞いてるんです」


「私も必要だから説明してます」


 ヨナスまで真面目に答えたので、マティアスは二人を見比べた。


「そういうところなんですよ」


 午前中は機材の基本操作に使い、午後は施設の周辺へ出た。

 ヨナスがあらかじめ選んでいた経路には、意図的に通信状態が悪くなる場所が含まれている。そこで実際にどこまで電波が落ちるかを確認し、地形を見て位置を修正しながら、別の手段へ切り替えていった。


 カイルは細かな答えを出さなかった。

 判断が必要になるたび、それぞれに自分の専門から意見を出させ、最後に全体としてどう動くかを決める。

 途中、林の斜面で通信が不安定になった時、エレジは地形図と周囲を見比べた。


「少佐、この先の尾根まで上がるより、右へ回った方がいいと思います」


「理由は」


「上は見通しは取れますけど、反対側からも見えます。右なら高度は少し落ちても、この開けた部分から中継できます」


 カイルはエレジが示した方向を見た。


「ファルク」


「通ると思います。中継器を一本使えば安定するはずです」


「ロート」


「隊列ごと右へずらした方が早いですね。一人だけ上げる必要はないです」


「リヒター」


「移動するなら問題ありません」


「なら右へ行く」


 決定までに時間はかからなかった。

 歩き出してから、エレジは自分でも少し面白く感じた。


 以前なら、カイルが教官として答えを持っていることをどこかで前提にしていたが、今は違う。

 カイルが最後に決めることは変わらないが、その前に自分たちの判断がある。正しい答えを当てるためではなく、班として使える情報を出すために考えている。


 訓練を終え、装備を戻したあと、カイルが翌日の予定を確認した。


「明日は救護を中心にやる。リヒター、任せる」


「分かりました」


「午前は基礎、午後は搬送まで入れていい」


「それで組みます」


 話が終わり、五人はそれぞれ一度部屋へ戻った。

 夕食の頃になると、エレジは昨日と同じように厨房へ入った。今日は最初からリヒターの横に立つと、昨日より少しだけ任される範囲が増えた。


 野菜の切り方も、入れる順番も、全部答えを教えられるわけではない。間違えそうになればリヒターが止めるが、それまではエレジに選ばせる。その状態が嫌ではなかった。

 途中でカイルが水を取りに厨房へ入ってきて、鍋の中を見た。


「今日はそれか」


「はい」


 エレジは味を見たあと、少し考えた。


「少佐なら、もう少し胡椒入れても大丈夫ですよね」


「ああ」


「じゃあ入れます」


 カイルはそのまま水を持って共有スペースへ戻った。


「好み、分かるのね」


 隣からリヒターに言われ、エレジは鍋を混ぜながら答えた。


「前に何度か一緒に食べてるので」


「そう」


 料理について聞かれたわけでもないので、エレジも特に意味を考えなかった。

 夕食は昨日より会話が増えた。

 ヨナスは今日の訓練で見つけた通信上の癖について話し、マティアスが途中から半分理解できていない顔をし始める。


「つまり、明日も俺はこれ覚えないと駄目なんですか」


「明日はリヒター大尉でしょう」


「じゃあ忘れていい?」


「駄目です」


「即答ですね」


「今日やった意味がなくなるので」


「ファルク大尉、こういうところ厳しいな」


「普通です」


 ヨナスが本気でそう思っているのが分かって、エレジは笑った。

 五人で食卓を囲むのはまだ二日目だったが、昨日よりそれぞれの話し方が分かる。


 マティアスは相手を見ながら会話を広げるし、ヨナスは興味のある話になると止まらない。カイルは必要なところだけ入る。リヒターはよく聞いていて、話題が途切れそうになると自然に誰かへ渡す。

 まだ班になったばかりなのに、少なくとも食卓だけなら、思っていたより早く馴染んでいる。


 食事を終えた後、エレジはリヒターと残って厨房を片づけていた。皿を洗い終え、調理台を拭いている時だった。


「ヴァイス中尉、このあと少し時間ある?」


 リヒターの声は普段と変わらなかったが、明日の料理や救護訓練の話ではないことは、何となく分かった。


「話しておきたいことがあるの」


 エレジは布巾を置いた。


「今からですか」


「片づけが終わってからでいい。二人で話したいの」


「分かりました」


 リヒターはそれ以上ここでは説明せず、残っていた食器を棚へ戻した。

 片づけを終えたあと、二人は二階へ上がった。


 リヒターの部屋はエレジの隣にある。間取りはほとんど同じだが、机の上には医療関係の資料と小さな手帳がすでに用途ごとに分けて置かれ、窓際には読みかけらしい本が一冊伏せてある。


「座って」


「はい」


 エレジが椅子に腰を下ろすと、リヒターも向かいに座った。


「まず、これから話すことは、明日からの班の共同訓練とは別の話」


「分かりました」


「この班で私が担当してる任務とは別に、あなた個人について命じられてることがあるの」


 予想していなかった言葉だった。


「私について?」


「ええ。ただ、その説明に入る前に一つ確認していい?」


「はい」


 リヒターは特に探るような様子もなく尋ねた。


「グレイ少佐とは、恋人関係?」


 エレジは一瞬、返事が遅れた。

 朝食の時にカイルが自分のカップへ手を伸ばしかけたことも、夕食を作っている時に好みを知っていると言われたことも、その時には深く考えていなかった。

 けれど今になって、リヒターがあの程度のことから二人の関係を見ていたのだと分かった。


「……はい」


「やっぱり」


「分かってたんですか」


「確信はなかった。でも、そうかもしれないとは思ってた。二人とも隠してないでしょう」


 わざわざ周囲へ話していないだけで、秘密にするつもりもない。そう考えると、気づかれること自体がおかしいわけではなかった。


「どうして、それを確認したんですか」


「この先の話に関係するから」


 リヒターはそこで少し考えてから続けた。


「ここから先は、少佐にも一緒に聞いてもらった方がいいと思う」


「少佐にも?」


「あなたが嫌じゃなければ」


「どうしてですか」


「今から話すことには、あなたが誰を安全な相手として認識してるかも関係する。それに、実際に少佐に協力してもらった方がいい訓練もある」


 エレジはその言葉で、単なる報告や護衛上の注意ではないのだと分かった。


「この個別任務については何も、まだ少佐には話してない」


「少佐にも?」


「ええ」


 それは少し意外だった。

 カイルはこの班の指揮を執る立場にいる。そのカイルにも知らされていない命令を、リヒターが持っている。

 その事実だけで、さっきより話の重さが変わった。


「誰からの命令なんですか」


「それは今は言えない」


「私にも?」


「あなたにも」


 エレジはすぐには返さなかった。

 自分についての命令なのに、自分にも命令者が知らされない。

 気にならないわけではない。それでも、今ここで聞き出せないものを追及しても話は進まない。


「少佐を呼んでもいいです」


「本当に?」


「はい。私も、一緒に聞いてほしいです」


「分かった」


 リヒターが立ち上がるより先に、エレジが席を立った。


「私が呼んできます」


「お願い」


 廊下へ出ると、カイルの部屋はすぐ近くにある。昨夜は会いたいというだけでその扉を叩いたが、今日は理由がはっきりしていた。

 ノックすると、中から返事があった。


「入れ」


 扉を開けると、カイルは机で資料を見ていた。


「少佐、今少し時間ありますか」


「ある。どうした」


「リヒター大尉から話があって……一緒に聞いてほしいです」


 カイルの表情がわずかに変わった。


「分かった」


 それ以上は廊下で聞かなかった。

 二人でリヒターの部屋へ戻ると、カイルはエレジの隣に椅子を寄せて腰を下ろした。リヒターは二人が落ち着いたのを見てから話し始めた。


「少佐には初めて話します。この班での通常任務とは別に、私はヴァイス中尉個人について、一つ任務を与えられています」


「誰からだ」


 カイルは最初からそこを聞いた。


「言えません」


「俺にもか」


「少佐にもです」


 カイルはそれ以上すぐには追及しなかった。

 ただ、エレジにはその沈黙が納得したからではないことは分かった。

 誰からの命令か不明なまま、自分の隊員に対する個別任務が存在している。その情報を一度頭の中に置いたように見えた。


「続けてくれ」


「ヴァイス中尉には報酬が懸けられていて、生きたまま引き渡す条件がある。それは二人とも知ってますね」


「はい」


「ああ」


「私に与えられてるのは、その先を想定した訓練をヴァイス中尉に行うことです」


「その先?」


 エレジが聞いた。


「捕まった後」


 リヒターは曖昧にしなかった。


「相手の目的は分からない。情報を聞き出すためかもしれないし、どこかへ移動させるためかもしれない。

 人質として使う可能性もあるし、それ以外の目的かもしれない。でも、生きた状態で価値があるとされてる以上、確保されたあとにも時間が続くことは考えておかないといけない」


 知っていたはずの条件が、言葉にされると少し違って聞こえた。

 生きたまま引き渡す。それは単に殺されないという意味ではない。自分で動けないまま連れていかれ、相手が何を求めているのか分からない状態で、その先を過ごす可能性がある。


 エレジはその状況を具体的に想像しようとして、途中で嫌になった。

 けれど、リヒターが話そうとしているのは、まさにそこなのだろう。


「訓練の目的は?」


 カイルが聞いた。


「何をされても平気にすることじゃありません」


 リヒターは即座に答えた。


「怖くならないことでも、嫌悪しないことでもない。拘束されたり、自由を奪われたり、自分の意思を無視される状況でも、思考を完全に止めないこと。

 相手を見ること。周囲を見ること。抵抗するのか、従うのか、待つのかを、自分で判断できる状態をできるだけ残すこと」


「脱出訓練ではないんだな」


「脱出も含みます。でも、それだけじゃない。逃げられない状況なら、無理に逃げる必要はないです」


「最優先は生存か」


「そうです」


 カイルはそこには異論を挟まなかった。

 リヒターの説明を聞きながら、エレジは少し意外に感じていた。

 捕まった場合の訓練と聞けば、もっと「抵抗する」「逃げる」という方向を想像していた。


 けれどリヒターが話しているのは、もっと長い時間を前提にしている。

 自分の意思が通らない状況の中で、それでも自分の判断だけは残す。


「具体的には、何をするんですか」


 エレジが尋ねると、リヒターはすぐに答えた。


「大きく分けると二つある。一つは、拘束された状態での判断と観察。もう一つは、身体的な接触や制限に対する訓練」


 カイルの視線がリヒターへ向いた。


「接触?」


「そこは説明します」


 リヒターはカイルの反応を気にする様子もなく続けた。


「拘束された時、人は自分の手や相手ばかりを見るようになる。だから、最初は手首や腕を制限した状態で、出入口、人の位置、音、時間、使えそうな物を拾えるかを見る。

 次に、命令や質問を重ねる。考える時間を減らされた時に、どこまで判断が残るかを確認する」


「尋問も?」


「簡単なものから。何を答えるか、何を答えないか、相手が何を知ってるかを考える訓練。全部黙ることだけが正解じゃないから」


 エレジには、その部分は理解しやすかった。

 状況を見ることも、情報から相手の意図を推測することも、普段の偵察と考え方そのものは遠くない。

 難しいのは、それを自分が自由ではない状態で続けることなのだろう。


「それで、もう一つの方は?」


 聞くと、リヒターは今度はエレジとカイルの両方を見た。


「そっちは少し性質が違う。だから、最初に二人の関係を確認したの」


 エレジは、ここからがカイルを呼んだ理由なのだと分かった。


「捕まった場合、相手が必ず軍人として扱ってくれるとは限らない。

 拘束、身体検査、衣服や装備を奪われること、近距離から威圧されること、自分の意思とは関係なく身体の位置を変えられること。そういう接触は想定しておいた方がいい」


 その先に何が続き得るかは、説明されなくても分かった。

 エレジの中に嫌悪が生まれた。

 カイルと触れ合うことに怖さはない。昨夜も、自分から会いに行き、自分から近づいた。だからこそ分かる。問題なのは触れられることではない。

 誰に、どういう意図で、そして自分が拒否できるのか。そこが違えば、同じ接触でもまるで別のものになる。


「その先まで、想定してるんですか」


 自分で聞いておきながら、答えを聞くのは嫌だった。


「想定はしてる」


 リヒターはそこで誤魔化さなかった。


「ただし、被害そのものを再現する訓練はしない」


 カイルが初めて少し強い調子で聞いた。


「どこまでやる」


「そこを今から説明します」


 リヒターは落ち着いたままだった。


「私には、捕まった経験があります」


 その一言で、エレジは思わずリヒターを見た。カイルも黙った。


「……捕まったことがあるんですか」


「ある」


「任務で?」


「そう」


「その時に……」


 聞きかけて、踏み込みすぎだと口を閉じる。けれど、リヒターには伝わった。


「全部を話すつもりはない。でも、拘束された後に何が起こり得るかは、机の上で考えてるだけじゃない」


 その言葉で、さっきまでの説明の重さが変わった。リヒターが具体的だった理由も分かった。


「本来なら、もっと時間をかけたい。でも、班の訓練もあるし、何よりヴァイス中尉がいつ狙われるか分からない」


 エレジはその言葉を静かに受け止めた。


「全部に慣れさせるつもりはない。そんなことはできないし、必要もない」


 リヒターの声は変わらなかった。


「私がやりたいのは、本番で初めて経験することを少しでも減らすこと」


 エレジはその意味を考えた。

 何でも平気になることではない。怖さを消すことでもない。

 もし本当に捕まった時、そこで初めて何が起きているのか分からなくならないようにする。


「そのために、少佐にも協力してもらいたい」


 カイルがリヒターを見る。


「俺に何をさせる」


「私が指定する身体的な状況を、二人で一度ずつ確認してもらいます」


「俺が相手になるのか」


「最初の確認は。そこから先も、新しい段階に進む前に必要なものは少佐と確認してもらいます」


 リヒターの説明は明確だった。


「少佐に脅威役をしてもらうつもりはありません。ヴァイス中尉にあなたを怖い相手として覚えさせる意味はない。それどころか、あなたは今の彼女にとってかなり安全な側にいる」


 エレジは、その言い方に少しだけ居心地の悪さを感じた。

 意味は分かるし、間違ってもいない。ただ、カイル本人の前でそう言われると、自分の中にあるものまで見透かされたような気がした。


「だからこそ、安全な相手で先に経験できることがある。接触そのものが問題なのか、動けないことなのか、見られることなのか、自分で姿勢を決められないことなのか。その違いを、実際に経験してヴァイス中尉自身に知ってもらう」


「どこでやるんですか」


「少佐の部屋」


 エレジは少し驚いた。


「訓練室じゃなくて?」


「最初は使わない」


「どうして?」


「この段階で余計な緊張を増やす必要がないから。少佐の部屋は、あなたが自分の意思で入れる場所でしょう」


 昨夜、自分からその扉を叩いたことを思い出した。確かに、あの部屋に怖さはない。


「私が最初に課題と中止条件を説明する。そのあとは二人だけでやってもらう」


「リヒター大尉は見ないんですか」


「見ない」


「それで訓練になるんですか」


「最初の目的は、私に見られながら耐えられるかを見ることじゃないから」


 リヒターはそこで、カイルにも分かるように説明した。


「少佐が相手なら、ヴァイス中尉は少なくとも『この人は自分を傷つけない』『止めれば止まる』と分かってる。その条件で、どこまでなら身体の主導権を一時的に相手へ渡しても自分を見失わないかを確認する」


「内容は」


「段階を分ける。最初は手首や腕を押さえられる。背後から身体を固定される。逃げる方向を塞がれる。座った状態や横になった状態で、自分ではすぐ動けないようにされる。身体の向きを相手に変えられる」


 そこまでは、先ほども聞いていた。だが、リヒターはそこで止めなかった。


「それより先には、衣服や羞恥に関わる課題も入れる」


 エレジは反射的にリヒターを見た。


「衣服?」


「何をどの順番で外すかを指定する。見られている状態で、それに従えるか。自分で身体を隠すことを選べない状況でも、思考や会話を保てるかを見る」


 具体的な意味が分かるにつれて、さっきまでとは違う種類の緊張が生まれた。


「……どこまで脱ぐんですか」


「必要なら、全部」


 リヒターは静かに答えた。カイルは何も言わず、エレジもすぐには返せなかった。

 カイルの前で裸になること自体を、今の自分が怖いと思うわけではない。恋人同士としてなら、そういうことがあってもおかしくない。 

 けれど、それを自分たちの気持ちではなく、訓練の課題として指定されるのはまるで別だった。


 自分から脱ぐことと、「次はこれを外して」と言われ、その通りにすること。同じ行為でも、意味が違う。


「それも……捕まった時を想定して?」


「そう。身体検査や衣服を奪われることもある。羞恥を利用して判断を鈍らせようとされる可能性もある。初めてその状況になった時に、羞恥だけで頭がいっぱいになるより、自分がどう反応するのか知っておいた方がいい」


「もっと先は?」


 聞くのをやめたい気持ちと、曖昧なままにしたくない気持ちが両方あった。リヒターはそれを誤魔化さなかった。


「親密な接触や、性的な状況を強く連想するところまで課題に入る可能性はある」


 カイルの表情がわずかに変わった。


「具体的な被害そのものは再現しないと言ったな」


「言いました。その線は越えません」


「なら、どこまでだ」


「恋人同士なら通常は性的な意味を持つ距離や接触、姿勢まで。その状態でも、ヴァイス中尉が自分の意思を言葉にできるか、何が嫌で何なら続けられるかを判断できるかを見る。実際の性行為そのものを訓練として要求するつもりはありません」


 エレジは、その線引きを聞いて少しだけ息がしやすくなった。それでも、軽い内容ではない。


「少佐とだったら、かなり先までやるんですね」


「安全に確認できるから」


「できなかったら?」


「一度だけ、別の日にもう一回」


「二回目まで?」


「そう」


「それでも無理なら?」


「同じ課題は繰り返さない」


 リヒターはそこを強く言った。


「三回、四回と続けて、できるまで我慢させることに意味はない。できなかった理由を見て、方法を変える。必要なら、その項目は保留にする」


「できたかどうかは、何で決めるんですか」


「怖くなかったかどうかでは決めない」


 リヒターはすぐに答えた。


「恥ずかしくてもいい。嫌でもいい。身体が緊張しても構わない。その中で、自分が何をされているのか分かっている。必要なら止められる。何が嫌なのか言葉にできる。終わったあと、自分がどうだったか説明できる。それができれば、その項目は終わり」


 エレジは、そこでようやく「クリア」の意味を理解した。裸になれれば終わり、ではない。押さえられて耐えられれば終わりでもない。

 嫌だと思うことまで消す必要はない。その状況の中でも、自分が自分のままでいられるかを見る。


「少佐との確認が終わったら?」


「必要な項目だけ、今度は私とやる」


「同じことを?」


「全部ではない。同じ身体状況を使うことはある。でも意味が違う」


「どう違うんですか」


「少佐とやる時は、何が起きるかも、相手が安全だということも分かってる。でも私との訓練では、そこを少し減らす」


 リヒターは、エレジが理解できるように続けた。


「どの方向から接触するか、いつ動きを制限するか、どの指示が来るか。全部は予告しない。それでも、自分の状態と周囲を把握できるかを見る」


「場所も変える?」


「変える。少佐の部屋も、あなたの部屋も使わない」


「どうしてですか」


「生活する場所を、脅威を想定する訓練の場所にしたくないから」


 その答えに、エレジは少し驚いた。リヒターは訓練の内容だけではなく、その後まで考えている。


「共同訓練室か、使っていない部屋を使う。もっと進んで複合訓練をするなら、別の施設を使うこともある」


「複合?」


「拘束、質問、移動、時間感覚を失わせる状況。今までの要素を組み合わせる。でも、それは先の話」


 カイルがそれまで聞いていた内容を整理するように尋ねた。


「ヴァイスが途中で止めたら」


「その時点で終わります」


「理由を聞くのは」


「落ち着いてから」


「続けるよう説得は?」


「しません」


「本人が、その場でもう一回やると言った場合は」


「断ることもあります」


 カイルの目が少し細くなった。


「本人が望んでも?」


「理由次第です。できなかったから今すぐ取り返したい、それだけならやらせない」


 その答えを聞いて、エレジは少し居心地が悪くなった。自分に思い当たるからだ。

 できなかったことがあれば、その場でやり直したくなる。失敗したまま終わる方が落ち着かない。


「そこまでヴァイスのことを聞いてるのか」


 カイルも同じところに気づいたらしい。


「訓練に必要な情報は」


「誰からだ」


「それは答えられません」


 また、そこで会話が止まった。

 エレジには、カイルが訓練内容そのものよりも、その背後にいる人間を気にしていることが分かった。

 リヒターの説明には筋が通っている。むしろ、かなり慎重に考えられている。

 それでも、誰がエレジについての情報を渡し、誰がここまで具体的な訓練を命じたのかは分からない。


「ヴァイス」


 カイルがエレジを見る。


「お前はどうしたい」


 エレジはすぐには答えなかった。説明を聞く前より、怖くなっていた。

 手首を押さえられることも、動けなくなることも嫌だ。服を脱ぐことを指定されるのも、その状態を見られるのも、考えれば恥ずかしい。

 その先にある課題については、カイルが相手でも、今すぐ「平気です」とは言えなかった。

 それでも。


「……怖くないわけじゃないです」


 自分の感情を隠す必要はないと思った。


「詳しく聞いたら、前より嫌になりました」


「そうでしょうね」


 リヒターは、それを失敗のようには扱わなかった。


「でも、捕まった時に初めて知る方が嫌です」


 そこは変わらなかった。


「自分が何で考えられなくなるのかも知っておきたい。何ならできて、何が無理なのかも」


 エレジはカイルを見た。


「少佐となら、安全に試せるんですよね」


「俺からは何もしない。リヒターが決めたからでもない」


 カイルの返事は静かだった。


「お前がその項目をやると決めた時だけだ」


 その言葉で、少しだけ肩の力が抜けた。


「なら、やります」


 リヒターが確認する。


「必要だから我慢する、ではなく?」


「やりたい訓練ではないです」


 エレジは正直に答えた。


「でも、受けることは自分で選びたいです」


 リヒターは頷いた。カイルも少し間を置いてから答えた。


「分かった。協力する」


「ありがとう」


「ただし」


 カイルの視線はリヒターへ向いた。


「ヴァイスが止めたら、そこで終わりだ」


「最初からそのつもりです」


「俺が止める場合もある」


「理由によります」


 カイルの表情が変わった。


「どういう意味だ」


「少佐が見ていられないから、という理由なら止めません」


 エレジは二人を見た。

 さっきまでは同じ方向を見ていたはずなのに、そこで初めてわずかな違いが見えた。


「ヴァイス中尉に危険がある、訓練として成立していない、明らかに判断が落ちている。そういう理由なら止める。でも、恋人として嫌だからなら、決めるのは少佐じゃない」


 カイルはすぐには返さなかった。

 エレジには、反発しているというより、その線引き自体を考えているように見えた。


「……それは分かってる」


「なら問題ありません」


「随分はっきり言うな」


「必要なところなので」


 リヒターの返事に、エレジは少しだけ驚いた。昨日までの柔らかい印象と矛盾するわけではない。

 ただ、必要だと思ったことについては相手が少佐でも曖昧にしない人なのだと初めて分かった。


 話はそこで一度まとまった。個別訓練は共同訓練への影響を見ながら数日以内に始め、最初の確認はカイルの部屋で行うことになった。


 その都度、リヒターが課題を伝える。エレジとカイルの両方が内容を理解し、エレジが実施すると決めてから始める。

 リヒターは中止条件を確認したあと退室し、終わってから必要な範囲で二人の報告を聞く。

 できた項目は、それで終了。できなかった項目だけ、別の日にもう一度。それでも難しければ、同じことは繰り返さない。

 それがリヒターの条件だった。


「今日はここまでにしましょう」


 時計を見ると、思っていたより時間が経っていた。

 エレジは立ち上がったものの、扉へ向かう前にリヒターを振り返った。


「リヒター大尉」


「何?」


「私に教えるとき……捕まった時のこと、思い出すことになりませんか」


 リヒターは少しだけ考えた。


「必要なところは」


「嫌じゃないんですか」


「嫌よ」


 あまりに普通に返されて、エレジは次の言葉を失った。


「でも、嫌だったことと、使える経験かどうかは別だから」


 それ以上、リヒターは自分の過去を話さなかったので、エレジも聞かなかった。


「おやすみなさい」


「おやすみ、ヴァイス中尉」


 エレジはカイルにも一度目を向けた。


「少佐は」


「少し話してから戻る」


「分かりました」


 訓練について追加で確認することがあるのだろうと思い、エレジは一人で部屋を出た。

 扉が閉まったあと、リヒターはカイルを見る。


「まだ何か?」


 エレジが廊下を離れるのを待った。これは本人の前でする話ではなかった。


「訓練を見ててもいいか」


 リヒターはすぐには意味を取らなかったらしい。


「今話した、二人でやる方?」


「違う。お前がヴァイスにやる訓練だ」


「見学するってこと?」


「ああ」


 そこで初めて、リヒターの表情から柔らかさが少し消えた。


「どうして?」


「確認したい」


「何を?」


「お前を」


 短い答えだった。リヒターはしばらくカイルを見た。


「私を疑ってるの?」


「そうだ」


「訓練内容は聞いたでしょう」


「聞いた。言ってることは妥当だと思ってる」


「じゃあ何が問題なの」


「誰が命じたか分からない。班長である俺にも話が通ってない。ヴァイスについてどこまでの情報を渡されてるかも分からない」


「それで?」


「内容に筋が通ってることと、お前を信用することは別だ」


 リヒターはその言葉に腹を立てた様子はなかった。むしろ、ようやくカイルが何を警戒しているのか理解したようだった。


「ヴァイス中尉を信用してないわけじゃないのね」


「違う」


「彼女が自分で止められないと思ってるわけでも?」


「それも違う」


「私が何かすると思ってる」


「可能性を切ってない」


 カイルはそこを誤魔化さなかった。


「あなた、仕事があるでしょう」


「そんなものはどうでもいい」


 口にしてからも訂正しなかった。

 班の仕事を本当にどうでもいいと思っているわけではない。それでも、この件に関しては予定を調整する理由として十分だった。

 リヒターにはそれが伝わったらしい。


「本当に疑ってるのね」


「そうだと言ってる」


 しばらくして、リヒターは小さく息をついた。


「……分かったわ。好きにして」


「いいのか」


「止めても、別の方法で確認するでしょう」


「たぶんな」


「だったら、見える場所を用意した方がまし」


 ただし、とリヒターは続けた。


「ヴァイス中尉には言わないで」


「理由は」


「あなたが見てると知ったら、訓練の意味が変わるから」


 カイルは黙って続きを待った。


「彼女はあなたの前で、できるところを見せようとするかもしれない。逆に、あなたが心配すると思って止めるかもしれない。どっちにしても、彼女自身の反応だけを見られなくなる」


「俺がいることを意識する」


「そう。私は、彼女が一人でその状況に置かれた時にどう判断するかを見たい」


 その説明には納得できた。


「分かった。言わない」


「それと、見るなら口を出さないで」


「危険がなく、訓練として成立してる限りはな」


「それでいい」


 リヒターはそこで少しだけ笑った。


「でも、少佐」


「何だ」


「いつまでも見るつもり?」


「お前を信用できると思うまで」


「随分嫌われたものね」


「まだ嫌ってはいない」


「それは安心した」


 リヒターは冗談めかして返したが、カイルは笑わなかった。訓練内容そのものには異論はない。むしろ必要性も理解できる。

 だからこそ、その妥当さだけを理由に、命令系統の見えない人間へエレジを預ける気にはなれなかった。


 リヒターが何をするのか。どこで止めるのか。そして、本当にエレジ本人の判断を守るのか。それを見てから決めればいい。

 カイルはそう考えて、リヒターの部屋を出た。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。