隣
夜が深くなるにつれて、施設の中は静かになっていった。
エレジは自室のベッドに腰を下ろし、開いたままの本を膝の上に置いていた。読もうと思って持ってきたものだったが、同じ行を何度か追ったところで諦めた。
眠れないわけではない。
ただ、今日一日のことがまだ頭の中に残っていた。
朝までいた基地とは違う部屋で、初めて会った二人と食卓を囲み、明日からは新しい班での訓練が始まる。
どれも不安というほどではない。むしろ、知らないものが一度に増えたことへの興味の方が大きかった。
ヨナスの話も、もっと聞いてみたいと思う。リヒターとは、明日も料理を手伝うことになっている。マティアスがいることには、思っていた以上に安心していた。
そして、壁一枚を挟んで、隣にはカイルがいる。
そこまで考えたところで、エレジは本を閉じた。以前なら、会いたいと思っても、会うためには理由と時間と場所が必要だった。
訓練中なら執務室へ行く。休養日なら街へ出る。課程を終えてからも、会う日は決めていた。
今は、数歩歩けば会える。その事実だけが、まだ感覚として馴染んでいなかった。
時計を見ると、就寝するにはまだ少し早い。エレジはしばらく考えてから部屋を出た。
廊下には人の気配がなかった。隣のリヒターの部屋からも音はせず、マティアスとヨナスのいる側も静かだった。
カイルの部屋の前まで来て、一度だけ、自分が何をしに来たのか考える。話したいことが明確にあるわけではない。それでも戻る理由もなく、エレジは扉をノックした。
「入れ」
中から声が返った。扉を開けると、カイルは机に向かっていた。書類と端末が広げられているが、仕事に集中しているというより、確認を終えかけていたらしい。
「まだ仕事してたんですか」
「もう終わる」
「邪魔でした?」
「いや」
カイルは端末を閉じた。
「どうした」
「……特に用事はないです」
言ってから、やはり少し変だったかもしれないと思った。けれどカイルは不思議そうにはしなかった。
「そうか」
「それだけですか」
「用事がないなら帰れとは言ってない」
エレジは少し笑った。
「入ってもいいですか」
「ああ」
部屋の造りは自分のものとほとんど同じだった。ベッドと机、収納、窓。
そのはずなのに、すでに机の上にはカイルの使う物が並び、椅子には脱いだ上着が掛けられていて、自分の部屋よりずっと早く誰かの生活する場所になっているように見えた。
エレジはベッドのそばの空いている椅子に座った。
「今日、どうだった」
カイルが聞く。
「思ってたより普通でした、五人でいるのが」
自分でも少し意外だった。
「もっと、知らない人が二人増えた感じがすると思ってたんです。でも、ご飯食べて、話してたら、そこまで変じゃなかったです」
「ファルクとリヒターは?」
「ファルク大尉は面白いです」
「早いな」
「だって、全部格好いいからって」
思い出すとまた少し笑いが溢れる。
「石も星も機械も格闘技も同じ理由で好きになる人、初めて会いました」
「お前とは合いそうだな」
「そう思います?」
「知らない話を聞くのが好きだろ」
「はい」
自分がそれを以前カイルに話したことを、エレジは覚えていた。
「リヒター大尉も、思ってた人と違いました」
「どう違った」
「もっと固い人かと思ってました。でも、すごく自然で。料理も教え方が上手かったです」
「十年ぶりでもできたな」
「切っただけです」
「それでもだ」
「少佐もマティアスと同じこと言うんですね」
「事実だからな」
その話をしているうちに、今日一日をカイルに話したかったのだと気づいた。
「明日から、本当に始まるんですね」
「ああ」
「訓練課程の時とは違いますね」
「違うな」
「少佐が教官じゃないのも、まだ少し変です」
「もう教える立場じゃない」
「でも、指揮官ではあるでしょう」
「それは変わらない」
「じゃあ結局、上にはいるんですね」
「階級があるからな」
その部分は簡単には変わらない。
それでも、訓練中のように評価される側と評価する側ではない。明日からは同じ任務へ向かう班員として動く。
「私、少佐のことどう呼べばいいんですか」
「今まで通りでいい」
「ここでも?」
「ここでも」
「二人の時も?」
カイルがエレジを見る。
「お前が変えたいなら止めない」
そう言われると、すぐには思いつかなかった。
名前で呼ぶことはできる。
けれど、「カイル」と呼ぶことが自分の中でまだ少し特別すぎて、普段の呼び方には馴染まない。
「……まだ、少佐でいいです」
「ならそれでいい」
無理に変える必要がないと言われると、それも少し安心した。
エレジは部屋を見回した。
「近いですね」
「何が」
「部屋です」
カイルの部屋から自分の部屋まで、ほんの数歩しかない。
「前は、会おうと思ったら執務室まで行ったり、街まで出たりしてたのに」
「そうだな」
「今は隣です」
「ああ」
「会いたいと思った時に、会いに来るまでの時間がほとんどないのが、まだ慣れなくて」
カイルは少し考えた。
「今日も、それで来たのか」
「たぶん」
「用事がないって言ってたな」
「本当に用事はないです」
「なら、会いに来ただけか」
そう言われると、急に言葉がはっきりした。
「……はい」
エレジは認めた。
「会いに来ました」
カイルの表情が少し緩んだ。
それだけで、自分がここへ来たことを歓迎されているのが分かる。
「こういう時、来てもいいですか」
「いい」
「必要なことがなくても?」
「ああ」
「仕事の話じゃなくても?」
「それも」
返事が早い。エレジは少し考えてから、もう一つ聞いた。
「毎日でも?」
「来たいなら」
「本当に?」
「ただし、俺が寝てたら寝かせろ」
エレジは笑った。
「そこは起こしません」
「なら問題ない」
簡単に許されると、自分の方が戸惑った。
以前なら、「会いたい」というだけで誰かの時間を使うことに、もっと理由を探していたかもしれない。
今は、それだけでもいいらしい。
「少佐も来るんですか」
「お前の部屋に?」
「はい」
「行っていいなら」
「いいです」
答えたあとで、エレジは廊下の向こうを思い出した。
「でも、みんないますね」
「いるな」
「マティアスはともかく、ファルク大尉とリヒター大尉は、私たちのこと知らないですよね」
「たぶんな」
「言います?」
「隠す必要はない。だが、わざわざ発表する必要もないだろ」
「それもそうですね」
仕事中に関係を持ち込むつもりはない。
けれど、だからといって恋人であることまで隠す必要もない。
「この施設で、どこまで仕事で、どこから生活なのか、まだ分からないですね」
「これから決めればいい」
「五人で?」
「必要なことはな」
「二人のことは?」
カイルはその問いを少し考えた。
「俺たちで決める」
誰かに決められるのではない。
班の規則でも、階級でもなく、自分たちのことは自分たちで決めていい。その答えが、エレジには嬉しかった。
「じゃあ、今は」
そこまで言って、エレジは少し迷った。
「今は?」
「恋人でいていい時間ですか?」
カイルはすぐには答えなかった。
問いの意味を確かめているのだと、エレジには分かった。仕事の話が終わったからというだけではなく、自分が何を求めているのかまで見ようとしている。
「お前がそうしたいなら」
エレジはそれを聞くと、少し迷ってから、部屋の扉の前まで歩いた。鍵を閉めて振り返ると、その姿をカイルが見ていた。
恥ずかしくなって、下を向く。
「……見てました?」
「見てた」
「そういう時は、見てないって言ってください」
「嘘になる」
返しがあまりにもカイルらしくて、エレジは余計に恥ずかしくなった。
それでも鍵を開け直そうとは思わなかった。
閉めたのは、自分だ。誰かが入ってくるかもしれない場所ではなく、この先を二人だけの時間にしたいと思ったからだ。
そこまで自分で分かってしまうと、今度は下を向いている方が不自然な気がした。エレジは顔を上げる。
「……こっち来てください」
カイルはすぐには動かなかった。
「いいのか」
「はい」
それだけ確認すると、カイルは立ち上がった。
目の前まで来ると、さっきまで普通に話していた時よりずっと近い。エレジは自然に手を伸ばして、カイルの服を掴んだ。
「会いに来ただけだったのに」
「鍵まで閉めたな」
「言わないでください」
「事実だ」
「分かってます」
エレジは少し笑って、そのままカイルの胸に額を寄せた。
腕が背中に回り、しっかりと抱き寄せられると、ここまで来てようやく、自分が欲しかった距離になった気がした。
「近いですね」
「部屋が?」
「今は違います」
カイルも少し笑った。エレジは顔を上げた。
「キスして」
カイルの手が頬に触れ、そのまま唇が重なる。
短く触れて離れたあと、エレジはすぐにもう一度近づいた。今度は少し長い。エレジはカイルの首に腕を回した。
カイルの手が腰に触れても、背中を撫でても、もうそこに意味を探す必要はなかった。嫌なら離れるし、嫌ではないなら近づけばいい。
今は、離れたくなかった。
キスが終わっても、そのまま額が触れそうな距離にいる。
「隣って、思ってたより良くないですね」
「さっきは近くて嬉しそうだっただろ」
「嬉しいです。でも、こうなるので」
「こう?」
「すぐ会えて、すぐ触れられて、すぐキスできる」
「困るのか」
エレジは少し考えてから、首を横に振った。
「全然」
「なら問題ない」
「少佐は?」
「何が」
「私が隣にいて、こうやって来るの」
カイルは少しだけ目を細めた。
「問題あるように見えるか」
「見えません」
「ならそういうことだ」
エレジはまた笑った。
そのまま、今度は自分からカイルの胸に身体を寄せる。カイルの腕が背中に回り、しっかり抱き寄せられた。
その強さが心地よかった。
「前は、会うだけでも予定が必要だったのに」
「ああ」
「今は壁一枚ですよ」
「そうだな」
「これ、慣れたらまずい気がします。本当に毎日来そうで」
「俺が嫌なら言う」
「言います?」
「必要なら」
「じゃあ、今のところ大丈夫なんですね」
「大丈夫だ」
それを聞くと、エレジは満足した。
「じゃあ明日も来ます」
「宣言するのか」
「少佐も来てください、私の部屋にも」
「ああ」
少し笑ってから、エレジはまた顔を上げた。
「もう一回していいですか」
「キス?」
「はい」
「聞かなくてもいいだろ」
「じゃあ、します」
今度はエレジから唇を重ねた。
カイルの手が腰から背中へ回り、エレジはさらに近づいた。
息が少し乱れるくらいまで何度かキスをして、ようやく離れる。
「……近いの、やっぱりいいですね」
「結論変わったな」
「さっきから本当はずっとそう思ってました」
そう言いながら腕に力を込めると、カイルもそれに応えるようにエレジを抱き寄せた。
背中を撫でる手も、腰を引き寄せる腕も、今のエレジにはただカイルの触れ方として馴染んでいた。むしろ、その手が止まる方が気になった。
「さっきから、ちょっと遠慮してません?」
カイルがわずかに眉を上げた。
「してるように見えるか」
「少し」
「お前が鍵を閉めたからって、好きにしていいことにはならないだろ」
「それはそうですけど」
エレジは少し考えてから、カイルの首に回していた腕をそのままにした。
「でも、私が触ってほしいって言ってる時は、もう少し普通に触ってくれていいです」
「普通に、か」
「恋人として」
言葉にすると、また少し恥ずかしい。それでも目は逸らさなかった。
カイルはしばらくエレジを見てから、腰に回していた手を少し強く引いた。
身体がぴたりと重なる。
さっきまでとは明らかに違う近さに、エレジは一瞬だけ息を詰めたが、それは驚いただけだった。すぐにカイルの胸へ手を置き、そのまま自分から寄る。
「このくらい?」
「……はい」
「まだ遠慮してると思うか」
「今は思いません」
答えると、カイルが笑った。
そのまま頬に手を添えられ、また唇が重なる。
今度のキスは、さっきまでより長かった。
短く触れて終わるのではなく、互いに離れないまま何度も重なる。エレジはカイルの首に腕を回したまま、少しずつ身体を預けていった。
カイルの手が腰から背中へ移り、そこをゆっくり撫でる。エレジも、肩から背中へ手を滑らせた。
服越しでも、カイルの身体がどれだけ大きいかは分かる。訓練中には何度も見てきたはずなのに、こうして自分の意思で触れていると、まるで別のもののように感じた。
唇が離れた時、エレジはそのままカイルの肩へ額を預けた。
「……これ、毎日やったら本当にまずいですね」
「何がまずい」
「部屋に戻らなくなりそうです」
「自分の部屋、隣だろ」
「だからです。戻る理由が弱いです」
「寝る場所がある」
「ここにもあります」
言った瞬間、自分で何を口にしたのか気づいた。
エレジは顔を上げた。カイルもこちらを見ている。
「……今の、忘れてください」
「無理だな」
「少佐」
「自分で言っただろ」
「そうですけど」
耳まで熱くなっているのが自分でも分かった。
カイルはからかうように続けることはせず、代わりにエレジの髪を耳へかけた。
「泊まりたいのか」
今度は逃げられない聞き方だった。
エレジは少し考えた。
「今日は……まだ分かりません」
「なら決めなくていい」
その答えがありがたかった。一緒にいたいなら、いられるだけいればいい。そのあと自分の部屋へ戻ってもいいし、気持ちが変わればその時に考えればいい。
「座るか」
「はい」
二人でベッドの端へ腰を下ろした。
さっきまで仕事をしていた机の前より、距離はずっと近い。エレジはカイルの隣に座ったまま、自然に肩を寄せた。
カイルの腕が背中に回ると、それだけで落ち着いた。
「今日、来てよかったです」
「満足したか」
「まだです」
思ったまま答えると、カイルが少し笑った。
「正直だな」
「最近そうなりました、でも少佐のせいです」
「俺の?」
「どうしたいか聞くから」
選べるかではなく、自分が選びたいか。
そうやって聞かれ続けたから、今はこんな小さなことでも、自分が何を望んでいるかを口にできる。
「じゃあ、今は?」
カイルが聞いた。
「もう少し……」
エレジはベッドに手をつくと、そのまま身体を倒して枕に頭を預けた。横になったまま、カイルへ片手を伸ばす。
「キスしたいです、少佐」
カイルは伸ばされた腕に応えるように身を屈めた。
壁一枚向こうに自分の部屋があることも、廊下の先に三人がいることも分かっている。
それでも今は、この部屋でカイルと過ごす時間を、自分で選んでいた。




