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エーデルベルグの雪 ──北部山岳任務録──  作者: 有凪いちほ
特殊情報収集班:訓練

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 自己紹介を終えてから一時間ほど経った頃、カイルは自室の机で翌日の予定を確認していた。


 しばらくの間の訓練は、五人の能力そのものを測るためのものではない。個々の記録はすでに揃っている。必要なのは、それぞれが何を見て、どの段階で判断し、他人の動きにどう合わせるかを知ることだった。


 特にファルクとリヒターについては、カイル自身も実際に組んだ経験がない。


 ファルクは今のところ分かりやすかった。専門に入れば言葉が増え、興味を持ったものへの反応も隠さない。

 技術者としての能力に疑う余地はないが、これまで単独あるいは専門要員として動くことが多かった人間が、五人の中でどの程度まで判断を共有し、他人の判断を自分の動きへ組み込めるかは確認しておきたい。


 リヒターは、まだ判断する材料が少ない。

 医療の知識も、食事の場での振る舞いも、人との距離の取り方も自然だった。初対面の人間が三人いる食卓で誰かだけを浮かせることもなく、それでいて自分が場を支配しようともしない。


 明日から実際に動けば、また違うものが見えるだろう。

 予定表を確認していると、廊下から足音が近づいてきた。部屋の前で止まり、二度ノックが鳴る。


「入れ」


 扉を開けたのはマティアスだった。


「少佐、今いいですか」


「ああ」


 普段なら用件を口にしながら入ってくる男が、今日は扉を閉めてからもすぐには話し始めなかった。その様子から、明日の訓練について聞きに来たわけではないと分かる。


「どうした」


「一つ、確認したいことがあります」


「何だ」


 マティアスはカイルを見た。


「中尉、狙われてるんですか」


 予想していなかった問いではなかった。

 だが、マティアスにその情報を伝えたことはない。


「そう思った理由は」


「今日の車です」


「車?」


「中尉が後ろでしたよね。外から見えにくい位置に乗せた」


 カイルは答えず、先を促した。


「それだけなら、別に気にしなかったと思います。でも、それ見た時に、前の宿舎のこと思い出して」


 そこで何を指しているのか分かった。


「部屋か」


「はい」


 訓練施設にいた頃、一度侵入を受け、ヴァイスの部屋の鍵が壊された。その後、彼女を元の部屋へ戻さなかった。


「俺、あの時は単純に、鍵を壊された部屋だから戻さなかったんだと思ってました。鍵を交換しても、一回入られた場所にそのまま住ませるのは嫌だろうって」


「不自然な考えじゃない」


「ですよね。でも今日、中尉の座席を見て、それだけじゃなかったのかもしれないと思ったんです」


 マティアスは、当時の出来事を今の情報で組み直している。


「あの時も、部屋そのものが問題だったんじゃなくて、中尉の位置を知られたことが問題だったんじゃないですか。だから戻さなかった」


 カイルは否定しなかった。

 それを見て、マティアスの表情から残っていた迷いが消えた。


「やっぱりそうなんですね」


 どこまで話すか、カイルは一度考えた。

 ヴァイス自身に関わる情報で、本来なら本人の了承もなく広げるものではない。だが、マティアスはすでに異常の存在に気づいている。

 これから同じ班で動く以上、知らないままにしておく方が判断を誤らせる可能性があった。


「ヴァイスには、報酬が懸けられてる」


 マティアスはすぐには返さなかった。

 予想していたのは危険の存在までで、その具体的な形までは考えていなかったらしい。


「……報酬?」


「ああ」


「誰が出してるんですか」


「分かってない」


「理由は?」


「それもだ」


「中尉は知ってるんですか」


「知ってる」


 そこでようやく、マティアスは椅子に腰を下ろした。


「いつからです?」


「俺たちが知ったのは、課程の終盤だ」


「じゃあ、あの侵入も」


「報酬との直接の関係までは確認できてない」


「でも可能性はある」


「ああ」


 マティアスはしばらく考えていた。

 カイルには、その間に彼が何を思い返しているのか、おおよその見当がついた。

 訓練中に起きた出来事、途中から変わった警戒、ヴァイスの扱い。その時には別々に見えていたものが、今になって一つの線としてつながり始めている。


「なんで俺には言わなかったんですか」


 責める口調ではなかった。


「お前に必要な情報じゃなかったからだ。少なくとも、あの時点では」


「中尉が俺に言わなかったのも?」


「ヴァイスが決めることだ」


「まあ、それはそうですね」


 マティアスは納得したらしく、そこを追及しなかった。


「今も報酬は消えてないんですか」


「消えたという情報はない」


「じゃあ、この班に来ても続いてる」


「そう考えてる」


「それで今日、中尉を後ろに?」


「ああ」


 車の座席そのものに大げさな意味を持たせるつもりはなかった。ただ、危険が存在する以上、わざわざ外から確認しやすい位置へ置く理由もない。


「中尉は、それ嫌がらなかったんですか」


「必要な対策だと分かってる。行動を制限するつもりはない」


「そこ間違えると、中尉たぶん嫌がりますからね」


「分かってる」


 その答えに、マティアスは少しだけ笑った。

 ヴァイスを守ることと、彼女の選択を奪うことは同じではない。その区別を、マティアスもすでに理解している。


「じゃあ、今回の部隊って、その件も関係あるんですか」


「俺にはそういう説明はされてない」


「任務が比較的、接触避ける方向なのは?」


「特殊情報収集班として不自然じゃない。そこから先は推測になる」


「なるほど」


 マティアスは一度そこで話を切った。

 カイルは逆に尋ねる。


「それで、今日来たのはそれだけか」


「半分は」


「残りは」


「ファルク大尉とリヒター大尉、少佐から見てどうです?」


 問いがそこへ移る理由は分かった。

 ヴァイスに実際の脅威があると知れば、新しく加わった二人をどこまで信用していいのか気になるのは当然だった。


「今のところ、二人とも問題はない」


「ファルク大尉は、まあ分かりやすいですよね」


「ああ」


「好きなものの話になると急に喋るし」


「今日だけでも十分分かったな」


「中尉と話合いそうでしたね」


 カイルにもそう見えた。

 エレジは、自分の知らないことを詳しく話す人間の話を聞くのが好きだ。ファルクは、興味のある分野なら必要以上に抑えるタイプではない。あの二人なら、放っておいてもそのうち長い話をするようになるだろう。


「専門能力は記録通りだ。問題があるとすれば、班で動くことに慣れてない点だな」


「一人が多かったって言ってましたもんね」


「そこは明日から見る」


「リヒター大尉は?」


 こちらは、答えるまでに少し考えた。


「まだ分からない」


「ですよね」


「何か気になったか」


「いや、逆です。普通だなと思って」


「普通?」


「話しやすいし、気も利くし、今日会ったばっかりなのに変に距離取る感じもない。料理もするし」


「それは見れば分かる」


「でも、経歴だけ見ると結構変でしょう。医療もできて、護衛も追跡も近接もできる。それで単独任務が多かった」


 カイルも同じ点は確認していた。


「能力の幅は広い」


「なのに、本人からはそういう圧が全然ないんですよね」


「圧がある必要はないだろ」


「そうなんですけど」


 マティアスは言葉を選ぶように続けた。


「俺、もっと近寄りにくい人を想像してました。今日の自己紹介聞くまでは」


「ヴァイスも似たことを言ってたな」


「固い人かと思ったって」


「ああ」


「でも実際は普通だった」


「それで?」


「別に、それが変だとは思ってないです。ただ、まだ分からないなって」


 その評価なら妥当だった。


「俺も同じだ」


「少佐でも?」


「初日に全部分かったつもりになる方が危ない」


「それはそうですね」


「ファルクもリヒターも、この班に必要な能力を持ってる。それ以上は一緒に動いてから判断する」


 マティアスは頷いた。


「リヒター大尉、中尉に料理教えてましたね」


「ああ」


「昼に手伝ってくれって言ったの、中尉だけでしたよね」


「そうだったな」


「何かあると思います?」


 カイルはそこで、マティアスの意図を確かめた。


「疑ってるのか」


「いや」


 返事はすぐだった。


「今のところ全然。ただ、中尉のこと知ったから、俺が気にしすぎてるだけかもしれないです」


「その可能性はある」


「ですよね」


「だが、気づいたことを捨てる必要もない」


 マティアスがこちらを見る。


「疑うために見るな。ただ、違和感があったら覚えておけ」


「少佐もそうするんですか」


「ああ」


 ヴァイスに報酬が懸けられている以上、新しい環境で何か変化があれば見過ごすつもりはなかった。


 ただし、それを理由に班の全員を最初から疑ってかかれば、五人で動く意味そのものを壊す。


「中尉には、この話したこと言わない方がいいですか」


「隠す必要はない。だが、わざわざ今言う必要もない」


「了解です」


「ヴァイスも、自分が狙われてる可能性を分かった上でここを選んでる。必要以上に扱いを変えるな」


「それは大丈夫です」


 マティアスの返答には迷いがなかった。


「今まで通りにしますよ。変に守られたら、中尉の方がやりにくいでしょうし」


「ああ」


「ただ」


 マティアスはそこで少し笑った。


「知ってるのと知らないのは違うんで」


 カイルにも、その意味は分かった。

 同じように接することと、何も知らずにいることは同じではない。


 マティアスがエレジを特別扱いする必要はない。だが、異常が起きた時、その意味を理解できる人間が一人増えたことには意味がある。


「少佐、もし何か気づいたら、言いますよ」


 カイルはマティアスを見た。


「中尉のことでも、ファルク大尉やリヒター大尉のことでも。別に探るつもりはないですけど、俺に見えるものがあったら」


 それは頼もうとしていたことと、ほとんど同じだった。

 マティアスは人の変化に気づく。しかも、気づいたからといってすぐに踏み込まず、その情報を持ったまま相手との距離を変えずにいられる。

 カイルが彼をこの班へ推薦した理由の一つでもあった。


「そうしてくれ」


「了解です」


 マティアスはそれ以上何も言わず、椅子から立った。

 扉が閉じたあと、カイルは机の上の予定表へ視線を戻した。


 ヴァイスをめぐる状況そのものは変わっていない。

 報酬を出した相手も、理由も、まだ分からない。

 だが、その事実を知り、同じ場所から周囲を見る人間が一人増えた。

 少なくとも、もう自分だけで見ている必要はなかった。



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