三人と酒と長い夜
内示が出てから数日後、エレジは夕食を終えて宿舎へ戻る途中、廊下の自動販売機の前でマティアスに呼び止められた。
「中尉、今日まだ予定あります?」
「特にはないです。どうしたんですか」
「酒、飲みません?」
そう言ってマティアスが持ち上げた紙袋の中で、瓶が二本ぶつかって小さな音を立てた。
「買ったんですか」
「売店で。課程も終わったし、内示も出たし、たまにはいいでしょう」
エレジは紙袋の中を覗いた。一本はラベルに果実の絵が描かれた酒で、もう一本はそれより濃い色をしている。
「少尉、よく飲むんですか」
「普通です。中尉は?」
「あんまり飲んだことがないです」
付き合いで少量を口にしたことはある。けれど、きちんと飲んだことはない。
そう説明すると、マティアスは紙袋を持ち直した。
「じゃあ、ちょうどいいじゃないですか」
「何がですか」
「今日試せばいい」
「どこで?」
「俺の部屋でもいいですけど、中尉入れるとあとで面倒そうだな」
侵入事件以降、エレジの宿泊区画への出入りは以前より厳しく管理されている。
マティアスの部屋へ行くこと自体が禁じられているわけではないだろうが、警備担当に説明することを考えると、わざわざ選びたい場所でもなかった。
「談話室は?」
「人いるでしょう」
「別にいいですけど」
「中尉、初めてちゃんと飲むんでしょう。酔ったら知らない人がいるところ嫌じゃないですか」
そこまで言われて、エレジは初めて酔う可能性を現実的に考えた。
「……嫌かもしれません」
「でしょう」
「じゃあ、どうするんですか」
マティアスは当然のように答えた。
「少佐のところ行きます?」
「なんで少佐なんですか」
「部屋広そうだし」
「それだけ?」
「あと、中尉が酔っても一番安全そうだから」
「私が酔う前提なんですね」
「飲んだことないなら、どうなるか分からないでしょう」
理屈としては間違っていない。
ただ、カイルの私室へマティアスと二人で酒を持って押しかけるという状況は、エレジが思い描いていた「恋人の部屋へ行く」とはずいぶん違った。
「少佐、嫌がりません?」
「嫌なら追い返すでしょう」
「それはそうですけど」
「じゃ、聞くだけ聞きましょう」
マティアスはすでに行くつもりらしい。エレジも断る理由を見つけられず、警備担当へ行き先を伝えてから教官宿舎棟へ向かった。
基地西南側にある教官宿舎へ入ること自体、エレジには初めてだった。執務室へ行くのとは違う。仕事の用件も訓練もなく、カイルが生活している場所へ向かっているのだと思うと、マティアスが隣にいるのに妙に緊張した。
「中尉、静かですね」
「普通です」
「さっきまで普通に喋ってたじゃないですか」
「少尉が喋りすぎなんです」
「少佐の部屋行くだけでしょう」
「分かってます」
分かっているから落ち着かないのだとは言わなかった。
カイルの部屋の前に着くと、マティアスがエレジを見た。
「中尉、呼びます?」
「なんで私なんですか」
「知ってる仲なんで」
「少尉も知ってるでしょう」
「俺よりは」
何をどこまで分かって言っているのか判断できず、エレジはそれ以上返さずに扉を叩いた。
中から足音が近づき、扉が開いた。
「……何だ」
カイルは部屋着に近い格好で、勤務中よりずっと力の抜けた姿をしていた。その姿を見た瞬間、エレジは本当に私室へ来たのだと改めて意識した。
「こんばんは、少佐」
「こんばんはじゃない。どうした」
カイルの視線がエレジからマティアスへ移り、その手の紙袋で止まった。
「飲みません?」
「何で俺のところに来た」
「場所がなくて」
「談話室があるだろ」
「中尉が初めてちゃんと飲むらしいんで、酔ったとき人が多いところよりこっちの方がいいかなと」
カイルは二人を見比べたあと、エレジに確認した。
「飲みたいのか」
「……はい」
「どのくらい飲める」
「分かりません」
「酔ったことは」
「たぶん、ないです」
その答えで判断したらしく、カイルは扉を大きく開けた。
「入れ」
通された私室は、エレジが想像していたより簡素だった。移動に備えて荷物を整理しているせいもあるのだろう。
机と椅子、小さなソファ、壁際の棚、奥にベッド。きちんと片づいている。執務室とは当然違うのに、必要以上のものを置かないところはカイルらしいと思った。
ただ、それ以上に、ベッドが視界に入ることの方が気になった。
ここで寝ているんだ。
当たり前のことなのに、その事実を具体的な形で見せられると、急に意識してしまう。
「中尉?」
マティアスに呼ばれて、エレジは自分が入口付近に立ったままだったことに気づいた。
「何でもないです」
カイルは何も言わず、机の上にあった書類をまとめて端へ寄せた。
「座れ。飲むなら量は俺が見る」
「少佐、完全に監督ですね」
「お前が連れてきたんだろ」
「俺も飲みますよ」
「ロートは自分で管理しろ」
「扱い違いません?」
「飲める量を知ってる奴と知らない奴を同じにするな」
エレジはそのやり取りを聞きながら、ソファの端に腰を下ろした。マティアスが向かいの椅子へ座り、カイルは棚から三つのグラスを出してくる。
誰かの私室で三人で酒を飲む。
それだけのことなのに、エレジには妙に新しかった。
課程中なら、三人が同じ場所にいても必ず理由があった。訓練の確認、報告、補講、評価。今は何もない。ただ時間があって、酒があるから集まっている。
マティアスが紙袋から瓶を出した。
「中尉、最初これにします?」
「甘いやつですか?」
「たぶん。果実酒です」
カイルがラベルを確認した。
「度数は低い。最初ならこれでいい」
「少佐もそれ飲むんですか」
「俺は別のでいい」
「じゃあ俺も別の」
「二人だけ違うのずるくないですか」
言ってから、自分がそんなことを口にしたのが可笑しかった。
マティアスが笑う。
「じゃあ中尉も強いのいきます?」
「駄目だ」
カイルが即座に止めた。
「まだ何も言ってないです」
「今の流れで分かる」
「少しくらいなら」
「一杯目飲んでからだ」
「……はい」
反論しても通らないと分かり、エレジは差し出されたグラスを受け取った。
淡い色の酒から、甘い果実の匂いがした。
「どのくらい飲めばいいですか」
「普通に飲め。急がなければいい」
「普通が分からないんですけど」
「一口飲んでみろ」
カイルに言われ、エレジはグラスを口元へ運んだ。
最初に甘さが来た。思っていたよりずっと飲みやすく、そのあとから遅れて酒らしい熱が喉へ落ちていく。
エレジは味を確かめるようにもう一度少量を口に含んだ。
「どうです?」
マティアスに聞かれ、エレジはグラスの中を見た。
「思ったより甘いです」
「嫌いか」
今度はカイルだった。エレジは考えた。
「もう少し飲みたいです」
そう答えると、マティアスが笑った。
「じゃあ嫌いではないですね」
否定せず、エレジはもう一口飲んだ。
二口目になると、最初に感じた刺激は遠のき、果実の甘さの方がはっきり分かるようになった。酒を飲んでいるというより、知らない味を試している感覚に近い。
「これ、林檎ですか」
「そうですね」
マティアスが答えると、エレジはもう一度確かめるように飲んだ。
「好きかもしれないです」
「早くないですか」
「さっきよりおいしいです」
「それ、慣れたのか酔ってきたのか分からないな」
そう言われても、自分ではまだ何も変わった感じがしなかった。そのまままたグラスへ口をつける。
果実の甘さが強いせいで、酒を飲んでいる感覚が薄い。最初の一口では慎重だったのに、味が分かってくると、いつの間にか飲む間隔が短くなっていた。
「少し速い」
カイルに言われ、エレジはグラスを見た。
「そうですか?」
「ああ。もう少しゆっくり飲め」
「でも、これ飲みやすいです」
「だからだ」
カイルは水の入ったグラスをエレジの方へ寄せた。
「先にそっち飲め」
「まだ平気ですよ」
「平気かどうかはあとから来る」
そう言われると反論する理由もなく、エレジは素直に水を飲んだ。
三人の話題は自然に、これから入る五人編成のことへ移った。
「集合場所って、まだ誰も聞いてないんですね」
「俺も四月末から五月初旬ってだけです」
「正式発令と一緒に出るんじゃないか」
カイルの答えに、エレジは頷いた。
「ここから直接行くんですかね」
「可能性はあるな」
「五人別々に来させるのは?」
「その方がありそうじゃないですか。元の所属も違うでしょうし」
水を飲んだあと、一杯目を飲み終えてもエレジにはほとんど酔った自覚がなかった。受け答えにも問題がないのを見て、カイルは間を置いてから二杯目を半分ほどだけ注いだ。
飲みやすさに慣れたせいか、その半分も会話の合間に少しずつ減っていった。
「でも、私と少尉はここにいるし、少佐もいるでしょう」
「だから三人一緒に移動になる可能性はあるな」
そう言われると、まだ場所も知らないのに現実味が増した。
「それ、いいですね」
「何がです?」
「一緒に行けるの」
マティアスは返事までに一拍置いた。
「……まあ、その方が楽ではありますね」
「知らないところに一人で行くより、少尉がいた方が安心します」
エレジには、それはただの事実だった。
半年間、何度も同じ班で動いた。マティアスの判断の癖も、どういうときに助けに入るかも、どういうときには何も言わないかも知っている。新しい場所で最初から全部を探り直さなくていい相手がいるのは、それだけで大きい。
「……それ、普通に言います?」
「何がですか」
「安心するって」
「駄目ですか」
「駄目じゃないですけど」
エレジが首を傾げると、マティアスは苦笑した。
「中尉、酒入ると結構素直ですね」
「普段も嘘は言ってないです」
「嘘つくって意味じゃなくて。思ってても言わないでしょう、そういうの」
確かに普段なら、わざわざ本人に伝える必要はないと思ったかもしれない。
「でも、今言いたかったので」
「……そうですか」
「少尉、嫌でした?」
「嫌じゃないです」
返事はすぐに返ってきた。
それを確認できれば、エレジには十分だった。
「残り二人も、話しやすい人だといいですね」
「中尉は結構そこ気にするんですね」
「五人しかいないから」
「合わない人だったら?」
「前だったら、私が合わせればいいと思ってたと思います」
「今は?」
エレジは考えた。
「一緒に動く方法は考えます。でも、私だけがずっと合わせるのは違うかなって」
カイルの視線がこちらへ向いたのが分かった。
「今、何か思いました?」
「変わったなと思っただけだ」
「そうですか?」
「ああ」
その言い方が嬉しかった。
「少佐にそう言われると、ちょっと嬉しいです」
今度はカイルの方が返事をしなかった。
横でマティアスがそれを見ている。
「……今日すごいですね」
「何が?」
「そういうの、そのまま言うところです」
「私、何かおかしいですか」
「おかしくはないです」
それ以上は言わず、マティアスは笑った。
しばらくすると、話は課程中のことへ戻った。
「でも、少尉は何かあると来てくれましたよね」
「何がです?」
「私が本当に駄目そうなとき」
マティアスから、さっきまでの軽さが消えた。
「無理に聞かないのに、必要なときはいるから、すごく助かってました」
「……そんな大したことしてないですよ」
「してました」
エレジは迷わず言った。
「私、少尉には結構助けてもらってます」
「中尉」
「はい?」
「それ、素面のときに言われたら、もっと嬉しかったんですけど」
「今も本当ですよ」
「それは分かってます」
「じゃあ同じじゃないですか」
「同じじゃないんですよ」
マティアスは笑うしかないようだった。
「でも、言えてよかったです」
そう言うと、返事までに間が空いた。
「……中尉、今日ちょっと危ないですね」
「酔ってるってこと?」
「それもあります」
「他に?」
「そこは知らなくていいです」
エレジは笑った。
その頃には、グラスを持つ手からも肩からも、最初に部屋へ入ったときの緊張はすっかり抜けていた。
カイルはエレジの前から酒のグラスを取り、水と入れ替えた。
「ここまでだ。これ飲め」
「もうですか?」
「十分飲んだ」
「まだ平気ですよ」
「その判断ができなくなってから止めても遅い」
「……はい」
その頃には先に飲んだ分が時間をかけて回ってきていたが、エレジ自身にはまだ酔いが深くなっている自覚は薄かった。素直に水を受け取り、一口飲んでからカイルを見る。
部屋着のカイルにも、もう違和感がなくなっていた。
「少佐の部屋、最初すごく緊張したんです」
「見れば分かった」
「分かってたんですか」
「ああ」
「恥ずかしい」
「初めて来たんだから普通だろ」
そう言われると、最初に入口で立ち止まったことまで気にする必要はなかったのだと思えた。
「今はもう平気です」
「酒のせいじゃないですか」
マティアスが口を挟む。
「それもあるかもしれないですけど」
エレジはもう一度部屋を見回した。
「でも、ここが少佐のいる場所だって分かったから」
言葉にしてみると、それが一番近かった。
「少佐がいるなら大丈夫って思うので」
マティアスが置いたグラスが、テーブルにいつもよりはっきりした音を立てた。
エレジはそちらを見る。
「どうしたんですか」
「いや……中尉、自覚ないんですよね」
「何の?」
「それ言われる側がどうなるか」
「どうなるんですか」
「俺に聞かないでください」
カイルは口を挟まなかった。
ただ、さっきより長くエレジを見ている。
「少佐も困りました?」
「少しな」
「嫌でした?」
「逆だ」
それだけ聞ければ十分だった。
「よかった」
エレジが笑うと、マティアスは額に手を当てた。
「……少佐、よく平気ですね」
「平気に見えるか」
「見せてるだけですか」
「ロート」
「はい、黙ります」
二人が何に困っているのかは分からなかったが、嫌がられてはいない。それだけははっきりしていた。
エレジは水を一口飲んだ。
「私、二人とも同じ部隊で本当によかったです」
今度は誰もすぐには返さなかった。
「少尉は、一緒に動くの楽です。何かあっても、ちゃんと見ててくれるから」
マティアスへ言ってから、カイルを見る。
「少佐は……」
どれを言えば一番近いのかを探してから、エレジは続けた。
「私が私のままでいても大丈夫な気がします」
カイルの表情から力が抜けた。
「前は、人と一緒にいると、その人が何を求めてるのか考えるのが普通だったんです。どうしたら嫌われないかとか、何をしたら役に立つかとか。合わせられるなら合わせた方がいいと思ってたから」
マティアスも、もう茶化さなかった。
「でも少佐は、私が何したいか聞くでしょう」
「ああ」
「できるかじゃなくて、したいかって」
何度も聞かれた。
最初は、その違いさえよく分からなかった。
「それが、すごく好きです」
言ったあとも、エレジは特別なことを口にしたつもりはなかった。ただ、本当に好きなところを伝えただけだった。カイルは黙っていた。
「嫌ですか?」
「嫌なわけないだろ」
声が低かったが、答えはそれで十分だった。
「よかった」
また笑うと、マティアスが何もない壁の方を見た。
「少尉、さっきからどうしたんですか」
「ちょっと今、中尉の方見ない方がいいかなと思って」
「なんで?」
「……少佐の恋人だからです」
エレジは瞬きをした。
「それと何が関係あるんですか」
「ものすごく関係ありますよ」
マティアスは笑ってはいたが、今度はいつもの軽口だけでは済ませられないらしい。
「中尉、素面のときよりずっと無防備なんですよ。そういう顔で、そんなこと真っ直ぐ言うの、良くないです」
「何が良くないんですか」
「だから俺に説明させないでください」
理由が分からず、エレジはカイルへ視線を向けた。
「私、そんな変ですか」
「変じゃない」
「じゃあいいですよね」
「よくはない」
「どっちですか」
カイルが息を吐いた。
「お前が思ってるより、言われる側には効くってことだ」
「効く?」
マティアスが止めた。
「中尉、そのままでいいです。たぶん説明したら余計ややこしくなるんで」
二人ともこれ以上説明する気はなさそうだった。
代わりに、ふと思っていたことが口から出た。
「でも、少尉にも好きなところありますよ」
マティアスの表情が止まった。
「……はい?」
「人として」
「先にそれ付けてください」
「なんで?」
「心臓に悪いんで」
エレジは笑った。
「少尉、今日変ですよ」
「中尉のせいです」
「私、何もしてないです」
「それが一番困るんですよ」
そう言ってマティアスは水を飲んだ。
「どこが好きなんです?」
「さっき言ったでしょう。距離の取り方が上手いところ」
「それだけ?」
「あと、私が駄目なときに、駄目な人扱いしないところ」
今度はすぐに返事が来なかった。
「近接のあとも、事故のあとも、普通に話してくれたから。たぶん、あれ助かってました」
「……そういうの、ずるいですよ」
「何が?」
「俺、自分がそんなに役に立ってたと思ってなかったんで」
「じゃあ今知れてよかったですね」
「中尉は本当に……」
途中で言葉を切って、マティアスは笑った。
さっきまでの困惑とは違い、きちんと受け取ったことの方が伝わる顔だった。
「同じ隊になってよかったです、俺も」
それを聞いたエレジは、嬉しそうに目を細めた。
「本当?」
「本当です」
「よかった」
その反応を見ても、マティアスは今度は何も茶化さなかった。
「少佐も、同じですか?」
「ああ。同じ隊になってよかった」
エレジはそれを聞いて、もっとはっきり笑顔を見せた。
「私もです」
間を置いてから、さらに続けた。
「少佐とは、一緒にいたいです」
マティアスがとうとう天井を見た。
「……これはきついな」
「何がですか」
「中尉、俺もう少佐の味方できないです」
「俺が何をされた」
「今の聞いて平気な顔してるじゃないですか」
「平気じゃない」
カイルがそう返したことで、今度はエレジが驚いた。
「平気じゃないんですか」
「ああ」
「嫌?」
「逆だって言っただろ」
そこまで聞いて、ようやくエレジも少し照れた。
自分がカイルに何を渡しているのか、ほんの少しだけ分かった気がした。
「……じゃあ、よかったです」
声が小さくなる。それでも視線は逸らさなかった。
「私、少佐が嬉しいなら、もっと言ってもいいです」
マティアスが口元を手で覆った。
「中尉、それ以上は俺いるときやめてください」
「なんで?」
「本気で帰ることになるから」
ここまで言われれば、今はやめた方がいいらしい。
「じゃあ言わないです」
「素直」
「少尉が嫌なら」
「俺が嫌っていうより……いや、もういいです」
マティアスは諦めたように笑い、もう一度グラスを手に取った。
三人ともまだ席を立たなかった。
五人の部隊に入れば、こうして三人だけでゆっくり話す時間がどれほどあるのかは分からない。
だからなのか、誰も急いでこの夜を終わらせようとはしなかった。
エレジだけは、自分の言葉が二人へどれほど強く届いているのか、まだ十分には分かっていない。
ただ、自分が大事に思っている相手へ、そのことを言葉にして渡せるのが嬉しかった。
酒で薄くなった防御の向こうから出てきたのは、普段隠している別人ではない。ずっと胸の中にあったものだった。
エレジはふと思いついたように二人を見た。
「二人とも、どうして軍に入ったんですか」
今度はマティアスが先に答えた。
「俺は、まあ普通ですよ。地元に残るより仕事として安定してたし、身体動かすのも嫌いじゃなかったんで」
「最初から北部軍?」
「そうです。雪は慣れてたし」
エレジは素直に頷いた。
「少尉、軍人っぽいですもんね」
「褒めてます?」
「褒めてます。どこにいてもちゃんと馴染みそうですけど、軍だと特に合ってる感じします」
「……ありがとうございます」
予想していなかった言葉だったのか、マティアスの返事は一拍遅れた。エレジは気にせず、今度はカイルを見る。
「少佐は?」
「軍に興味があった。山岳任務にもな」
「最初から?」
「ああ。入ってから想像と違うことも多かったけど、辞めようとは思わなかった」
「向いてたんですね」
「どうだろうな」
「向いてますよ。すごく」
ほとんど間を置かずに言うと、カイルが黙った。
「だって、少佐がいなかったら困る人、いっぱいいると思います」
「それは大げさだ」
「大げさじゃないです」
本気で否定されたと思い、エレジは眉を寄せた。
「私も困ります」
カイルの返答が止まった。横でマティアスがグラスを口元まで持っていきかけ、そのまま下ろす。
「……中尉は?」
今度はマティアスが聞いた。
「軍に入った理由」
その話をすること自体に抵抗はなかった。もうずっと昔のことで、今さら隠すようなものでもない。
「入ったのは十六のときです」
二人の視線が揃ってこちらへ向いた。
「早いな」
「はい。その頃、家にお金なかったので、働いてたんです。でも、一回、お金払うって約束だったのに、すっぽかされたことがあって」
マティアスから、さっきまでの軽さが消えた。
「給金を?」
「はい。何日か働いた分」
「それ、訴えられなかったんですか」
「たぶんできたんでしょうけど、当時は何も知らなかったし、相手の方が強かったので。言っても聞いてくれなかったです」
エレジ自身は、昔の出来事を順に説明しているつもりだった。
「対抗もできなくて、どうしようって思って。そのまま歩いてたら、人員募集の張り紙があったんです」
「それで入ったのか」
「はい」
「その日に?」
「申し込みはしました。そこから手続きして」
エレジは笑った。
「入ってみたら、ご飯は出るし、部屋もあるし」
マティアスが何とも言えない顔をした。
「それだけでだいぶ良かったんです」
「……そうでしょうね」
「あと、みんな真面目でした」
「そこ?」
「大事ですよ」
エレジは本気だった。
「働いたらちゃんとお金も出るし、やることも決まってるし。できなかったら怒られるけど、できたらちゃんとできたって分かるし」
軍が楽だったわけではない。
訓練は厳しかったし、理不尽なことがまったくなかったわけでもない。
それでも、少なくとも何をすればいいのかは分かった。働いた分の給金がなくなることもなく、明日の食事があるかを考えなくてもよかった。
「だから、入ってよかったです」
そう言ってから、エレジは二人を順番に見た。
「二人みたいな人にも会えたし」
今度はどちらからもすぐには返事が来なかった。
「……何ですか」
「いや」
マティアスは一度カイルを見てから、エレジへ戻る。
「ちょっと今、それ言うんですね」
「変でした?」
「変じゃないです」
「じゃあいいですよね」
「よくはあるんですけど」
「どっちですか」
エレジは笑った。
酒のせいで頬はまだ熱く、目元の力もだいぶ抜けている。けれど、言うこと自体には何の迷いもなかった。
「二人とも、本当に素敵な人です」
今度は、はっきり二人とも黙った。
「本当ですよ。私、ふたりとも大好きです」
マティアスがとうとう片手で顔を覆った。
「……中尉、それ、俺まで入ってるんですよね」
「入ってます」
「そうですか」
「少尉のことも好きですよ」
「分かりました。もう十分です」
声はいつもの調子を保っていたが、耳が赤くなっている。
エレジはそれを見て笑った。
「照れてます?」
「照れてません」
「赤いですよ」
「酒です」
「さっき赤くならないって言ってたのに」
「今は酒ってことにしといてください」
エレジにはそれがますます可笑しかった。
カイルの方を見ると、こちらは赤くこそなっていないものの、いつもより明らかに言葉が少ない。
「少佐も照れてます?」
「ロートほどじゃない」
それでも、カイルにはまだ十分に伝わっていないような気がした。
エレジは改めて彼を見る。
「少佐のことも、大好きですよ」
カイルは何も返さず、エレジを見た。
その視線がいつもより深く感じられて、そこでようやく、自分がかなり強いことを言ったらしいとエレジにも分かってきた。
「……やっぱり酔ってますかね?」
マティアスが即座に答えた。
「かなり」
「そんなに?」
「はい」
「でも、今言ったことは本当です」
「それが一番困るんですよ」
マティアスはもう笑うしかないようだった。
「少佐、これ説明できます?」
「したくない」
「ですよね」
二人が揃って似た反応をするのが面白くて、エレジは水を飲んだ。
自分としては、ただ思っていたことを言っただけだった。軍に入ったことも、ここまで来たことも、全部が良い思い出だったわけではない。
それでも、その先で二人に会えた。それは間違いなく、良かったことの一つだった。
そして今夜は、それを胸の中だけに置いておく理由が、いつもより少なかった。
「楽しいですね、こうして話してるの。終わりたくない」
水の入ったグラスを両手で持ったまま、エレジは二人を交互に見た。
「二人ともっと喋ってたいです」
それからカイルを見る。
「少佐、まだ帰らないでいいですか?」
「いい」
すぐに返事が来たので、今度はマティアスへ向き直った。
「少尉も、まだ帰らないでいてくれますか?」
マティアスは一瞬返事を止めた。
「……まだいますよ」
「ほんとに?」
「はい」
その返事だけで、エレジの身体から力が抜けた。
「よかった」
二人が残るというだけで安心したのが、そのまま表情に出た。
マティアスはそんなエレジを見てから、カイルへ向き直った。
「少佐、俺いてもいいんですかね」
「自分で決めろ」
「ですよね」
そう言いながらも、席を立つ気配はない。
エレジには二人の間で何を確認しているのかまでは分からなかった。ただ、二人ともまだここにいる。それで十分だった。
カイルが水のグラスをエレジの方へ寄せる。
「こっち飲め」
「はい」
エレジは素直に水を飲んだ。
酒を止められていることには、もう不満がなかった。飲みたいというより、この時間が続いてほしいだけなのだと、自分でも分かってきていた。
「これから新しい人と会いますけど、二人は初対面の人と話すの、普通にできそうですね」
「まあ、必要なら普通に話しますよ。チームになるわけですし」
「そういえば、私の最初の印象ってどうでしたか?」
「それ、中尉の方のを聞いてみたいです。どうでした?」
聞かれて、エレジはまずマティアスを見る。
「少尉は、最初ちょっと警戒しました」
「俺が?」
「少し軽そうというか、人付き合いに慣れてそうで」
「それで警戒したんですか」
「最初は、どういう人なのか分からなかったので」
「なるほど」
「でも、話したら全然違いました」
「どんなふうに?」
「優しかったです」
即答すると、マティアスの笑いが止まった。
「……またそういうこと言う」
「本当なので」
「中尉の優しいの基準、結構広くないですか」
「広くないです。少尉は優しいですよ」
「どこが」
「人のこと見てるのに、見てるって感じさせないところ」
言いながら、エレジ自身もそれが一番近いと思った。
「近くにいても、ずっと見張られてる感じしないです。でも、困ると来るでしょう」
マティアスはすぐには何も言わず、エレジの言葉を受け取っているようだった。
「……それは、褒められてると思っておきます」
「褒めてます」
今度はカイルを見る。
「少佐は最初から少佐でした」
「意味分からないですよ、それ」
マティアスが先に笑った。
「でも本当にそうなんです。怖いというより、全部見られてる感じがして緊張しました」
「今は?」
「見られてても平気です」
「何で」
「ちゃんと見てくれるって分かったから」
カイルは何も言わず、続きを待っている。
「できてないところ探してるんじゃなくて、今どうなってるか見てるんだって分かったので。少佐に見られてるの、今は嫌じゃないです」
「中尉、それ本人に言うと結構強いですよ」
マティアスに言われ、エレジは首を傾げた。
「嫌じゃないならいいでしょう」
「そういう問題かな……」
「じゃあ、私の最初の印象は?」
「固い」
マティアスがすぐ答えた。
「固い?」
「何でも自分でやろうとするし、助けようとすると大丈夫ですって言うし」
「そんなに?」
「かなり」
カイルも否定しなかった。
「少佐も?」
「ああ」
「他には?」
「判断は早かった。観察もできてた。ただ、自分を人数に入れてないことが多かった」
「最初から分かってたんですか」
「分かりやすかった」
エレジは少し恥ずかしくなった。
「私は普通にやってるつもりでした」
「それが問題だったんだろ」
「……そうですね」
今なら分かる。
誰かが遅れれば支える。自分が余分に持てるなら持つ。自分が耐えられるなら、それでいいと思っていた。
「今はどうですか」
「かなり変わった」
カイルの返答は短かった。
それだけなのに、エレジには嬉しかった。
「それ、やっぱり嬉しいです」
「褒められるの好きなんですね」
「二人に言われるのは好きです」
「限定されましたね」
「だって、ちゃんと見た上で言ってくれるから」
今度は二人とも茶化さなかった。
エレジはそのまま次の部隊の話へ戻った。
「次の隊でも、私は偵察寄りでしょうか」
「たぶん。観測と射撃も入るでしょうね」
マティアスが答える。
「少佐は指揮?」
「正式な役割はまだ分からない。ただ、階級上そうなる場面は多いだろうな」
「少尉は?」
「便利屋じゃないですか」
「それ、すごく合ってます」
「中尉、俺への褒め方だけ雑じゃないですか」
「違います。何でもできるって意味です」
「それならいいですけど」
「少尉って、誰か抜けたとき一番穴埋めできそうです。自分の仕事しながら周り見てるから」
マティアスはすぐには返さず、エレジがそこまで見ていたことを確かめるようにこちらを見た。
「それ、少佐の評価と似てますね」
「そうなんですか」
「中尉が知らないところで推薦理由、結構詳しく言われました」
エレジはカイルを見る。
「やっぱりそうなんですね」
「何が」
「私が思ってた少尉と、少佐が評価してた少尉が近い」
「半年一緒に見てたんだから、似るだろ」
「なんか嬉しいです」
マティアスが笑った。
「中尉、今日嬉しいこと多いですね」
「今日だから言ってるだけで、前からあったと思います」
口にしてみると、自分でもその通りだと思った。
嬉しいことが今日急に増えたわけではない。言葉にしていなかっただけだ。
「次の隊で、誰が何するかちゃんと決まったら楽しそうですね」
「楽しみなんですか」
「はい」
「不安より?」
「不安もあります。でも、知りたいです。残り二人が何できる人なのかも知りたいし、どんなふうに動くのかも見たいです」
「中尉、人を見るの好きですよね」
「好きなのかな」
「観察してるじゃないですか」
「仕事だからだと思ってました」
「仕事じゃなくても見てますよ」
「今も?」
「今も」
そう言われ、エレジは二人を見比べた。
「じゃあ私、二人のことも結構見てたんですね」
「結構どころじゃないでしょう」
「でも、二人も私のこと見てた」
「それはそうですね」
その関係を何と呼べばいいのか考えて、エレジは思いついた言葉をそのまま使った。
「なんか、相思相愛ですね」
マティアスがむせた。
「……中尉」
「違います?」
「言葉選びがまずいです」
「三人ともお互い見てたって意味です」
「分かってます。分かってるんですけど」
カイルは何も言わなかったが、口元には笑いが浮かんでいた。
「少佐、笑ってます?」
「少しな」
「何で」
「ロートが困ってるから」
「少佐のせいでもありますよ」
「俺は何もしてない」
「中尉の隣にいるでしょう」
「それだけか」
「それで十分です」
二人のやり取りが可笑しくて、エレジは笑った。
話題が落ち着いたところで、マティアスが聞いた。
「中尉、部隊始まるまで休みの日何したいんです?」
「休みの日?」
「何も予定ない日。ずっと基地いるわけにもいかないでしょう」
以前なら、すぐには答えられなかったと思う。
今は考えれば、いくつか浮かんだ。
「知らないところ行きたいです」
「ベルンハルトじゃなくて?」
「はい。警護で無理かもしれないですけど、違う町とか」
「他には?」
「湖見たいです」
「急ですね」
「山はいっぱい見たから」
「海は?」
「見たい」
「全部じゃないですか」
「行けるなら全部見たいです」
自分でも欲張りだと思って笑った。
「二人は?」
マティアスは少し考えた。
「俺は寝たいですね」
「それだけ?」
「飯食って寝て、時間あったら街」
「少尉らしい」
「どういう意味です」
「生活上手そうです」
「また独特な褒め方するな」
カイルにも同じ問いを向ける。
「本読めればいい」
「どこで?」
「静かなところならどこでも」
「じゃあ三人で出かけたら、少佐だけ途中で本読んでそうですね」
「ありそうです」
マティアスが同意する。
その光景を想像すると、不思議と嫌ではなかった。
「それでもいいです」
「いいのか」
「はい。少佐が本読んでて、少尉が何か食べてて、私がその辺見てる」
「三人で行く意味あります?」
「同じところにいるじゃないですか」
言ったあとで、エレジは自分でもその答えが好きだと思った。
「別々のことしてても、一緒にいるのは一緒でしょう」
その言葉のあと、二人ともすぐには返さなかった。
「……中尉、そういうこと普段から思ってるんですか」
「今思いました」
「余計強いな」
「何が?」
「いや、いいです」
「じゃあ、三人でどこか行きましょうよ」
「本気ですか」
「はい。訓練じゃなくて」
「警護通ればですけどね」
「通るところ探せばいいです」
エレジはカイルを見る。
「少佐も行きます?」
「予定が合えば」
「行ってくれるんですね」
「ああ」
エレジは嬉しくなった。
「楽しみ」
そのまま喜んだエレジから、マティアスは一度だけ視線を外した。
「……ほんと、今日すごいな」
「またですか」
「そのまま嬉しそうにするの」
「嬉しいから」
「はい。もういいです」
何がそこまで問題なのかは相変わらず分からなかった。
話しているうちに、今度はエレジの方に別の疑問が浮かんだ。
「二人って、どこにいると一番落ち着きます?」
「場所?」
「はい」
マティアスは考えてから答えた。
「地元の山ですかね。見慣れてるし」
「家じゃなくて?」
「家もですけど、外の方が落ち着くかな」
「少尉っぽい」
「中尉は?」
「私は……」
考えても、特定の場所は浮かばなかった。
「まだ、ここって場所はないです」
「前もそんなこと言ってたな」
カイルの言葉に頷く。
「でも、人で決まるのかもしれないです」
二人がこちらを見る。
「今日ここ、落ち着きます」
「少佐の部屋が?」
「部屋というより」
エレジは二人を見た。
「二人がいるから」
マティアスは今度こそ返す言葉を失ったようだった。カイルも何も言わない。
「今の、結構きますよ」
先に口を開いたのはマティアスだった。
「でも、本当です」
「分かってます」
それ以上は茶化さず、マティアスは一度息を吐いた。
「じゃあ逆に、中尉は俺らのどこが一番一緒に動きやすいです?」
「一番?」
「仕事としてですよ」
「分かってます」
エレジは先にマティアスを見る。
「少尉は、距離の取り方」
「またそこですか」
「一番好きなので」
「……仕事として?」
「仕事でも、それ以外でも」
マティアスの返事が止まる。
「必要なときに入るけど、ずっと近くにいないところ。私ができるなら任せてくれるところ。だから隣にいると楽です」
「中尉、今日ほんとに危ないですね」
「その言い方、何回目ですか」
「だって毎回更新するんで」
次にカイルを見る。
「少佐は、待ってくれるところです」
「待つ?」
「私が分からないとき」
エレジはカイルの方へ身体を向けた。
「私、すぐ答え出せないこと多かったでしょう。でも少佐、決めろって言わなかったから。分からないなら、まず自分で考える時間があった」
「ああ」
「私、急かされると、その人が欲しい答え探しちゃうんです」
口にしてみて、自分でも初めてはっきり理解した。
「少佐は待つから、私、自分の答え探せるんです。それ、すごく好きです」
カイルは目を逸らさずに聞いていた。
「そうか」
返ってきた声が普段より低い。
「……少佐、また効いてます?」
マティアスが横から言う。
「黙ってろ」
「はい」
そのやり取りにエレジは笑った。
「今日、二人と飲めてよかったです」
何か反応を求めるわけでもなく水を飲む。
「五人になっても、こういう時間あるといいですね」
今度はマティアスも何も茶化さなかった。
「中尉、明日これ全部覚えてます?」
「覚えてますよ」
「本当に?」
「覚えてなかったら教えてください」
「俺が?」
「二人とも」
エレジはカイルも見て付け足した。
「忘れたくないので」
マティアスは笑って首を振った。
「それは覚えててください」
「はい」
エレジは素直に頷いた。
「私、普通のつもりなんですけどね」
「そこは明日判断してください」
「でも、本当のことしか言ってないです」
「だから明日恥ずかしくなるかもしれないんですよ」
その可能性はありそうだった。けれど、今言ったことを取り消したいとは思わない。
「でも、別にいいです」
「いいんですか」
「はい。今まで言わなかっただけなので」
それまで、自分の中にあれば十分だと思っていた。誰かを好きだとか、安心するとか、助かったとか、わざわざ言葉にする必要はないと思っていた。
けれど、言ってみると違った。
マティアスがどう受け取るのかも、カイルがどんな言葉で返すのかも、伝えなければ知ることはなかった。
「言ってよかったです」
「それは、俺もそう思います」
マティアスは今度は素直にそう答えた。カイルも否定しない。それが嬉しかった。
エレジは二人と同じ場所で、何かをしなければならないわけでもなく過ごしている今の時間を、改めて考えた。
「私、こういう時間、好きかもしれません」
「こういう時間?」
マティアスが聞く。
「何も決めなくていい時間です。別に何かしなくても、二人と一緒にいるだけでいいって思えるので」
訓練でもない。評価でもない。誰かのために何かをしなければならない時間でもない。
以前なら、こうして予定も目的もないまま一緒にいると、何かすることを探したかもしれない。役に立つことや、相手に合わせることや、次にやるべきことを考えていた。
でも今は、二人がいて、自分もここにいて、それだけで足りている。
「今日は、別に何もしなくていいって思えました」
カイルの表情が和らいだ。
「それならよかった」
「はい」
二人の様子を見て、マティアスが立ち上がる。
「俺、戻ります。少佐、中尉のこと後で送ってください」
「ああ」
「帰るんですか?」
もう少しいてほしいという気持ちのままエレジが見上げると、マティアスはすぐには返事をせず、一度カイルの方を見た。
「明日朝から色々あるので」
「そうですか……また飲みましょうね」
「はい」
「三人で」
「もちろん」
また同じ時間を持てるのだと分かれば、それでよかった。
その安心が顔に出たらしく、マティアスはエレジを見てからカイルへ向き直った。
「少佐。俺、今日ここにいてよかったんですかね」
「今さら聞くな」
「ですよね」
上着を取り、扉の前で振り返る。
「中尉、明日、俺が何言っても恥ずかしがらないでくださいね」
「何で恥ずかしがるんですか」
「今それが分からないなら、明日分かります」
「そんなにですか?」
「そんなにです」
そこまで言われても、何を指しているのかまでは分からない。
「でも、今日言ったことは全部本当ですよ」
マティアスは一瞬言葉を失った。
「……そういうところです」
「何が?」
「もういいです。おやすみなさい、中尉」
「おやすみなさい」
最後までどこか参ったような顔のまま、マティアスは部屋を出ていった。
扉が閉まると、さっきまで三人分あった声がなくなった。
静かになった部屋に二人きりで残されても、エレジは不思議と緊張しなかった。
最初にここへ入ったときには、ベッドが見えるだけでカイルの私生活を意識して落ち着かなかったのに、今ではその空間そのものが安心できる場所に変わっている。
「少尉、今日ずっと変でしたね」
「お前のせいだ」
「私?」
「ああ」
「何したんでしょう」
答えが返ってこないので考えてみたが、やはり分からない。ただ、マティアスが嫌がっていたわけではないことだけは分かっていた。
「まあ、嫌われてないならいいです」
「嫌われる要素がどこにあった」
「ないですか?」
「ない。むしろ……」
そこでカイルが言葉を切ったので、エレジは続きを待った。
「むしろ?」
「今はいい」
「またそうやって教えてくれない」
「明日になれば少し分かる」
「少尉と同じこと言ってます」
それ以上聞いても今夜は答えてくれなさそうだった。
身体の奥にはまだ酒の熱が残っていた。頭がぼんやりしている感覚はないのに、普段なら先に働く遠慮がほとんどなくなっている。
だから、もう少しここにいたいと思っていることにもすぐ気づいた。
エレジはソファの背へ身体を預けた。
三人で話していたときより眠気がはっきりしてきていて、それに気づいたカイルが水のグラスをもう一度寄せる。
「もう少し飲んどけ」
「はい」
水を飲みながら、改めて部屋の中を見る。
「少佐の部屋、好きになりました」
「早いな」
「でも本当に」
「何がそんなにいい」
特別なものがあるわけではない。
「静かだし、落ち着くし」
それから、今ならその理由も隠さず言えた。
「少佐がいるから」
カイルは返事をしなかった。
けれど、今夜何度も見た沈黙とはもう少し違う。拒まれているのではなく、受け取っているのだとエレジにも分かるようになっていた。
「私、今日いろいろ言いすぎました?」
「かなりな」
「やっぱり」
「後悔してるか」
「してないです」
そこには迷いがなかった。
マティアスに助けられていたことも、二人と同じ部隊へ行けるのが嬉しいことも、カイルと一緒にいたいことも、全部前から思っていた。
「明日、恥ずかしくなるかもしれないですけど」
「ああ」
「でも、嘘は言ってないので」
カイルの口元が緩んだ。
その顔を見たら、もう少し近くに行きたくなった。
「……近く行っていいですか」
「ああ」
エレジはソファの端からカイルの隣へ移った。
身体が触れるほどではないが、さっきまでより近い。それだけで落ち着く。
「これでいいです」
「何が」
「ちょっと近い方が落ち着く」
自分で言った意味は今度は分かったので、さすがに少し照れた。
眠気が強くなり、身体にも重さが出てくる。
そんなエレジを見て、カイルが言った。
「眠いなら寄りかかっていい」
一瞬迷った。けれど、今日は迷ったあとに遠慮へ戻る必要がない。
「じゃあ、少しだけ」
エレジはカイルの肩へ頭を預けた。
服越しに体温が伝わる。
「……あったかい」
「酒のせいもある」
「でも、少佐もあったかいです」
「そうか」
目を閉じても、不安はなかった。
誰かの隣でここまで身体の力を抜けるようになったことが、自分でも不思議だった。
「今日、ほんとに楽しかったです。また三人で飲みたいです」
「ああ」
「少佐と二人でも」
その言葉だけは、さっきまでより声が小さくなった。
「また来ればいい」
「はい」
それを聞ければ満足だった。
しばらく肩に寄りかかっていたが、眠ってしまうほどではない。むしろ、近くにいるカイルを意識すると別のことが気になってきた。
「……少佐、キスしたいですか?」
カイルの表情が止まった。
酔っているとはいえ、エレジ自身はただ確かめたかっただけだった。今日はほとんど触れていないし、今は二人きりで、距離も近い。
「したい」
答えは迷いなく返ってきた。
嬉しくなった直後、カイルは続けた。
「でも今日はしない」
「どうして?」
「お前が酔ったあとをどこまで覚えてるタイプか、まだ分からないから」
エレジは顔を上げた。
「覚えてないかもしれないから?」
「ああ」
「でも、私したいって言ってますよ」
「今のお前がそう言ってるのは分かってる」
「じゃあいいんじゃないですか」
「よくない」
拒まれたのではなく、線を引かれたのだと分かった。
「覚えてないキスはしない」
エレジはその言葉を考えた。
「これから何回もするのに?」
思ったまま口にすると、今度はカイルが参ったように目を細めた。
「ああ」
「それでも?」
「それでもだ」
これから何度もするつもりなら、一回くらい覚えていなくてもいいような気もする。
けれど、カイルにとってはそうではないらしい。
「少佐って、そういうところありますよね」
「どういうところだ」
「私よりちゃんと考えてるところ」
「今のお前と比べるな」
「酔ってるから?」
「そうだ」
エレジは笑った。
「じゃあ、今日はしないんですね」
「しない」
「分かりました」
意外なくらい素直に納得できた。
キスを断られたのに嫌ではない。むしろ、したいと言っているのにしない理由が自分のためなのだと分かると、それだけで満足できた。
「今日は帰ります」
「そうしろ。しっかり寝ろ」
「はい」
カイルの肩から身体を起こすと、名残惜しさはあった。それでも、また来ればいいと言われている。
立ち上がると、身体が軽いような、それとは逆に足元だけ反応が遅れるような感覚があった。そこで初めて、自分が思っていたより酔っていたのかもしれないと思う。
「送る」
「歩けますよ」
「知ってる。単独行動は禁止になってるだろ、送る」
エレジは素直に頷いた。
「お願いします」
部屋を出る前、エレジは一度振り返った。
さっきまで三人で座っていた場所も、カイルのベッドも、最初に見たときとはもう違って見えた。
「また来てもいいんですよね」
「ああ」
「今度は、私から飲みたいって言っても?」
「いい」
それを確認すると、今日何度目か分からない安心がまた胸に広がった。
カイルに宿泊区画まで送られ、別れる前に念を押される。
「水飲んで寝ろ」
「分かりました」
「明日起きたら連絡しろ」
「そんなに心配ですか」
「初めてまともに酔ったんだろ」
「たぶん」
「ならしろ」
「はい」
エレジは笑った。
「おやすみなさい、少佐」
「おやすみ」
部屋へ戻ってからも、身体にはまだカイルの肩の温度が残っている気がした。
五人が揃うまでの短い空白の中で、エレジはまた一つ、自分が何を望む人間なのかを知った。




