デートなのに
修了から二日後、エレジの外出許可は条件付きで下りた。
行き先はベルンハルト市街の中心部に限られ、予定していない場所へ移動する場合は連絡が必要だった。帰投時刻も決められ、基地から市街までの往復には指定車両を使い、街では警護担当が一定の距離を取って同行することになっていた。
説明を受けたとき、エレジは少しだけ迷ったものの、行かないという選択肢はほとんど考えなかった。修了する前から、この日を待っていた。
課程中にもカイルと二人で過ごしたことはある。ホテルで長く一緒にいたことも、触れ合ったこともあったが、そのときはまだ教官と受講者だった。翌日になれば訓練へ戻り、カイルはまた自分を評価する側に立った。
今日は違う。
何かを確認するためでも、訓練の補助でも、自分の反応を確かめるためでもない。ただカイルと一緒に過ごすために基地を出る。それだけのことを、エレジは思っていた以上に楽しみにしていた。
基地を出る前、カイルから改めて警護の説明を受けた。
「中心部からは出ない。予定を変えるなら連絡する。帰投は十七時半」
「はい」
「警護は二人。距離は取るが、見失わない位置にはいる」
「分かりました」
説明を終えたカイルがこちらを見たことで、エレジは自分がどう受け取ったのか確かめられているのだと分かった。
「気になるか」
警護そのものより、それによって今日の外出がどこまで二人だけの時間になるのかは気になっていた。それでも、出かけたい気持ちの方が強かった。
「気にはなります。でも、行きたいです」
「ああ」
それ以上、カイルは外出そのものを止めようとはしなかった。
ベルンハルトへ向かう車の中でも、エレジは普段よりよく話した。何をするのか、どこへ行くのか、昼はどこで食べるのかと次々に聞いているうちに、自分でも少し浮かれているのが分かったが、それを抑える必要もないと思った。
「今日は何するんですか」
「決めてない」
「決めてないんですか」
「お前が行きたいところでいい」
「そう言われると困ります」
「何かないのか」
行き先を任されたことで、エレジは自分が今日どこへ行きたいのかを考えた。
何か特別な場所でなくてもよかったが、最初に思い浮かんだのは、これまで何度か見てきた時計塔だった。
「時計塔の方に行きたいです」
「ああ」
「そのあと、歩きながら決めます」
「それがいい」
街へ入ると、四月に入ったとはいえ空気はまだ冷たく、道路脇にも屋根の上にも雪が残っていた。
真冬ほど深くはないものの、ベルンハルトの街はまだ白さの中にあり、人通りの多い中心部だけが踏み固められた雪と濡れた石畳を覗かせていた。
カイルと並んで歩き始めてから、エレジは何度か後方の警護を意識した。二人は近くには来ないが、完全に見えなくなることもなく、説明された通り一定の距離を保ってついてきている。
それ自体は分かっていたはずなのに、街へ出るまでは深く考えていなかったことが、実際にカイルの隣を歩き始めると少しずつ意識に上がってきた。
自分たちはまだ交際を正式に申告していない。
カイルは自分の教官だったうえ、今は二人とも特殊任務部隊の候補になっている。
もし警護担当に恋人だと分かり、そのことが選考側へ伝われば、カイルとの関係で評価されたと思われるかもしれないし、自分だけではなくカイルの選考にも影響する可能性がある。
そう考えると、自分から親密さを見せることには、恥ずかしさとは別のためらいが生まれた。
隣を歩いて話すだけなら何も問題はない。けれど、それ以上のことをすれば意味が変わる気がした。
腕を組んだり、手をつないだり、肩を寄せたりすることは、どれも恋人なら不自然ではない。それでも、警護に見られていると思うと、自分からはできなかった。
「こうして歩いてるだけだと、前とあまり変わらないですね」
エレジがそう言うと、カイルがこちらを向いた。
「何か変えたいのか」
「まだ分かりません」
自分でそう答えておきながら、本当は少し分かっていた。
恋人として出かけているなら、もう少し近くにいたい。
ただ、その願いを口にするにはまだ早い気がして、エレジはそれ以上言わなかった。
時計塔のある中央広場へ出ると、冬の初めに見たときより空が明るく、同じ場所に立っているのに、あの頃とは自分たちの関係だけが大きく変わっていることを改めて意識した。
「前にもここに来ましたね」
「ああ」
「そのときは、少佐とこうして来るとは思ってませんでした」
「俺もだ」
「でも、少佐は年末にはもう好きだって分かってたんですよね」
「自覚したのはな」
「私はそのこと全然分かってませんでした」
「知ってる」
即答され、エレジはその意味を確かめるようにカイルを見た。
「そんなに分かりやすかったですか」
「分かってないのが分かりやすかった」
「それ、あんまり嬉しくないです」
「事実だ」
会話は楽しく、そこに不満はなかった。
だからこそ、歩いている間に一度も触れないことが、最初はそれほど気にならなかった。
そのまま広場を抜け、以前にも入ったことのあるカフェへ向かった。店内では警護担当の姿が直接見えない席に座ることができ、完全に二人きりではないと分かっていても、外よりはずっと楽だった。
コーヒーを頼み、食事を選びながら話してみると、訓練の話をしなくても話題は尽きなかった。
ベルンハルトでまだ行ったことのない場所や他の街のこと、カイルが休みの日に何をするのか、エレジが北部以外で見たことのある山について話しているうちに、これまで互いのことを知っているつもりでいて、こういうことはほとんど聞いてこなかったのだと気づいた。
「こういう話、今まであまりしてませんでしたね」
「する暇がなかったからな」
「半年も話してたのに」
「訓練の話が多かった」
「私の話も多かったです」
今日は自分の状態を説明したり、何かを解決してもらったりする必要がない。そのことを改めて意識しながら、エレジはカップに手を添えた。
「今日は何も相談しなくていいんですね」
「相談したいことがあるなら聞く」
「今日はないです」
そう答えられることが嬉しかった。ただ一緒に食事をして、知らなかったことを聞き、それだけで時間が過ぎていくことが、今までとは違っていた。
ただ、店の中でもカイルとの距離は変わらなかった。
向かいに座って話している間は、それでよかった。それでも、カフェを出るころには、朝からまだ一度も触れていないことをエレジは意識し始めていた。
公園へ向かうと、雪の残る芝生の向こうに何羽か鳥がいた。以前ここで鳥の話をしたことを思い出し、エレジはそちらを見ながら歩く速度を少し緩めた。
「また見てるな」
「好きなので」
「そうだったな」
前に話したことをカイルも覚えているはずだった。
「どこにでも行けるって、いいですよね」
「ああ」
「今度の部隊も、本当に決まったらかなり動くんですよね」
「そうなると思う」
「その方がいいです」
知らない場所へ行き、同じところに留まらずに働くことへの期待は、部隊の話を聞いたときから変わっていない。
けれど今は、その話をしている間にも、隣にいるカイルとの距離の方が気になっていた。
公園のベンチに並んで座ると、肩が触れそうで触れない程度の距離が残った。
自分から少し寄れば届くことは分かっていたが、視線の先に警護担当の姿があるのを認めると、そのわずかな距離を埋めることができなかった。
カイルに触れられることが怖いわけではない。むしろ今は逆で、近づきたいからこそ、自分で止めていることの方がはっきり分かった。
しばらくして、隣のカイルがわずかに身体の向きを変えた。一瞬だけ距離が縮まり、このまま肩が触れるかもしれないと思ったが、その予想は外れた。
そこで初めて、自分がカイルの方から近づいてくることを待っていたのだと気づいた。自分からは何もできないのに、相手には気づいてほしいと思っている。それは少し勝手な気もしたが、一度意識してしまうと、もう簡単には消えなかった。
公園を出たあとも、その距離ばかりが気になるようになった。店先で立ち止まれば腕が近づき、狭い歩道で人を避ければ肩が触れそうになり、聞き返すためにカイルが顔を寄せたときには、そのままもう少し近づいてくるのではないかと期待した。
けれど、そのたび何も起きなかった。
カイルはいつも通り話し、いつも通り隣を歩き、必要以上には距離を詰めてこない。最初はそれで十分だったはずなのに、時間が経つほど、何も起きないことの方が気になっていった。
デートなのに。
朝からずっと一緒にいるのに、恋人なのに、まだ一度も触れていない。
そう意識すると、すぐ近くにあるカイルの手まで気になった。自分でも分かるくらい何度もカイルの方を見てしまい、そのたびに視線が合う。気づかれているような気がするのに、それでも何もしてこない。
自分が警護を気にしているのを見て、あえて触れないのかもしれない。そう考えれば理由は分かる。それでも、理由が分かることと、寂しくないことは別だった。
夕方が近づき、帰投時刻を意識するようになると、その寂しさは次第にはっきりしたものへ変わっていった。このままなら、ずっと楽しみにしていた最初のデートが、一度も触れないまま終わるかもしれない。
そう思った途端、昼間までは十分だったはずの会話も、並んで歩けることも、急に足りなくなった。
「疲れたか」
カイルに聞かれ、エレジは今感じていることとは違うとすぐに答えた。
「違います」
「帰りたい?」
「帰りたくないです」
自分でも思っていたより早く言葉が出た。
「もう少し一緒にいたいです」
「時間まではいる」
「そうじゃなくて」
カイルが続きを急かさなかったので、エレジはどう言えば伝わるのかを考えた。
「……ずっと今日を楽しみにしてたんです」
「ああ」
「修了したら、もっと近くにいられると思ってました」
何も挟まずに聞いていることから、カイルは続きを待っているのだと分かった。
「朝から、まだ一回も触ってないですよね」
「ああ」
認められたことで、胸の奥に溜まっていたものがかえって輪郭を持った。
「少佐は平気なんですか」
「平気ではない」
すぐに返ってきた答えに、エレジはカイルを見た。
「じゃあ、なんで」
「お前が気にしてるからだ」
そこでようやく、カイルが気づいていなかったのではなく、自分に合わせて触れずにいたのだと分かった。
嬉しいはずなのに、今日ずっと待っていた分だけ、それだけで簡単に納得することもできなかった。
「気にしてます。でも、触ってほしくないわけじゃないです」
「ああ」
「むしろ、ずっと……」
そこまで言ったところで、続きが喉につかえた。触れてほしかったと口にするより先に、もう一つ、自分を止めていた理由の方が出てきた。
「でも、警護の人に見られたら、選考に響くかもしれないですよね」
「選考?」
「少佐は私の教官だったし、今も二人とも候補ですよね。恋人だって分かったら、私が少佐との関係で評価されたと思われるかもしれない。少佐の方にも影響するかもしれないし」
カイルはその理由を初めて知ったようにエレジを見た。
「そう思ってたのか」
「はい」
「だから自分から何もしなかったのか?」
「はい」
「分かった」
それだけ言うと、カイルはためらわずエレジの手を取り、これまで歩いていた方向から外れた。急に進路が変わったことで、エレジにはまだその意図が読めないまま、引かれるようについていく。
「どこ行くんですか」
広場から離れ、人通りの少ない通りへ入る。古い建物が並ぶ細い道を進んだところで、カイルは通りから死角になる奥まった場所へエレジを連れ込んだ。
警護担当から完全に離れたわけではない。少し位置を変えればこちらを確認できる距離にはいるものの、この場所だけは通りから直接視線が通らない。
そこまで来て、エレジはようやくカイルの意図を理解した。
「少佐、」
「悪かった」
その返事のあと、カイルとの距離がなくなった。
唇が重なる。軽く触れるだけのキスではなかった。
朝からずっと、自分からは近づけなかった。隣にいても触れず、何度も期待して、そのたびに何も起きないまま、帰る時間だけが近づいていた。
だからカイルから強くキスされた瞬間、エレジはもう何も抑えなかった。
首に腕を回して身体を寄せ、離れないようにカイルの服を掴む。ずっと保っていた距離を一気になくしたことで、触れたかった気持ちがようやく現実になった。
カイルの手が頬から首筋へ流れ、その触れ方にもためらいはなかった。エレジも同じように応じ、一度唇が離れたときには、息を整えるより先にカイルの服を掴んだまま言った。
「まだして」
カイルは何もからかわず、もう一度キスをした。
今度はエレジの方からも強く応じた。
長い時間ではなかったはずなのに、朝から少しずつ溜まっていたものが、ようやくほどけていくのが分かった。
唇が離れたあとも、エレジはすぐにはカイルから離れなかった。
「今日、ずっとこれしたかったです」
「言えばよかっただろ」
「警護がいるのに?」
「場所は探せた」
「……本当にもっと早く言えばよかったです」
「ああ」
「少佐も言ってください」
「何を」
「平気じゃないなら」
カイルは少しだけ間を置いた。
「分かった」
それでようやく、今日のあいだ自分だけが触れたいと思っていたわけではなかったことが実感できた。
身体を離したところで、エレジはふと、さっきまで自分を止めていた理由を思い出した。
「……警護の人、気づいてますよね」
「たぶんな」
「やっぱり」
満たされたことで薄れていた不安が少し戻る。
「恋人なの、まだ申告してないのに」
「その話はあとでしよう」
「あとで?」
「落ち着いて話した方がいい」
今ここで説明を始めるより、きちんと話せる場所へ移るつもりなのだと分かり、エレジもそれ以上は聞かなかった。
路地を出ると、警護担当は少し離れた位置にいた。こちらを見ているのかどうかまでは分からなかったが、さっきまでならそれだけでカイルとの距離を取り直していたと思う。
今はもう、自分が何をしたかったのかも、カイルも同じように我慢していたことも分かっている。
それだけで、同じ距離を歩いていても気持ちは違った。
そのあと二人はもう一度カフェへ入り、今度は窓際ではなく奥の席を選んだ。注文を済ませると、カイルがさっきの話を改めて切り出した。
「選考のことだが」
「はい」
「交際してること自体で、選考から外されるわけじゃない」
自分がずっと前提にしていたことを否定され、エレジはすぐに聞き返した。
「本当に?」
「少なくとも、それだけを理由に候補から外す扱いではない」
「でも、少佐は私の教官でした」
「ああ。そこは確認される」
「私の評価も?」
「されると思う」
やはりそこまで何も問われないわけではないらしい。
エレジが続きを待っていると、カイルが説明した。
「ただ、お前の評価は俺一人で決めてない。最終評価も追加評価も、複数の教官が見てる。記録も残ってる」
「じゃあ、恋人だって分かっても、私の合格がなくなるわけではない?」
「それだけで取り消す理由にはならない」
「少佐の選考は?」
「同じだ」
その答えで少し安心したものの、まだ一つ気になることが残っていた。
「じゃあ、申告しなくてもいいんですか」
「する」
迷いのない返事だった。
「するんですか」
「ああ」
「いつ?」
「選考が具体的に進んで、申告が必要な段階になったら」
「今じゃなくていいんですか」
「今の外出自体は許可されてる。俺にお前の評価を変える権限ももうない。隠して選考を有利にしようとしてるわけでもない」
「でも、同じ部隊に入るかもしれない」
「だから、その段階では申告する。隠したまま同じ部隊へ入る方が問題になる」
そこまで聞いて、エレジは自分とカイルが最初から違う前提で考えていたことに気づいた。
自分は、知られたら何かを失うかもしれないと思っていた。けれどカイルは、必要になれば最初から伝えるつもりだった。
「それで配置が変わることもありますか」
「あるかもしれない。同じ班に置かれないとか、直接の指揮関係を避けるとか」
「別の班になる可能性もある?」
「ああ」
「それでも申告するんですね」
「そのための申告だ」
申告は二人の関係を危険にさらすためではなく、同じ部隊で働くなら必要な調整をするためのものなのだと分かり、エレジは頷いた。
「分かりました」
「不安か」
「さっきよりは」
「何がまだ気になる」
具体的に聞かれたので、エレジも自分の中に残っているものをそのまま言った。
「私が選ばれた理由に、少佐との関係があると思われることです」
「そこは記録を見れば分かる」
「でも、人はそう思うかもしれない」
「思う奴はいるかもしれない」
簡単には否定されなかったことで、かえって現実の話をしているのだと思えた。
「ただ、それで選考結果を変える必要はない。お前が受けた評価と、俺との関係は別だ」
その言葉を聞いて、エレジはようやく、今日ずっと自分を止めていた不安がかなり小さくなったのを感じた。
「じゃあ、今日ずっと、そこまで我慢しなくてよかったんですね」
「そうだな」
「最初に説明してほしかったです」
「お前がそこまで気にしてるとは思わなかった」
「少佐、途中から分かってたでしょう」
「触れたがってるのは分かった」
「それなら言ってください」
「次からそうする」
店を出たあと、帰投までにはまだ少し時間があった。
警護の存在は消えておらず、選考もまだ決まっていない。申告もこれからになる。それでも、知られたらすべて失うわけではないと分かっただけで、同じ街を歩く感覚は大きく変わっていた。
「次も、護衛つきですかね」
「状況次第だな」
「もしまたついてたら」
「何だ」
エレジはカイルの袖を軽く引き、声が他には届かない距離まで顔を寄せさせた。
「最初から、見えないところ探してください」
カイルの口元がわずかに緩んだように見え、その返事を聞く前から、エレジには今度は断られないだろうと思えた。
「分かった」
帰投時刻になり、二人は基地へ戻った。
部屋へ戻れば、また一人になる。好きなときに好きな場所へ行けるわけでもない。それでも、課程中とはもう違っていた。
次にカイルと会うために、訓練も補講も報告もいらない。
会いたいから会う。
そのことが、今日一日の終わりにいちばん強く残った。




