修了
三月最後の日の朝、エレジが目を覚ましたとき、部屋の中にはもう訓練へ出るための準備がほとんど残っていなかった。
侵入事件のあとに移されたこの部屋は、もともと長く使うつもりの場所ではなかったが、ここ数日でさらに仮住まいらしくなっていた。
課程用の装備は大半を返却し、机の上に残っているのは私物と、まだ提出していない数枚の書類だけだった。
それでも今日すぐに基地を出るわけではない。特殊任務部隊の選考結果はまだ出ておらず、外部から狙われている状況も変わっていないため、修了後もしばらくは基地側の管理下に残ることになっている。
同じ場所にいるのに、今日を境にここにいる理由だけが変わる。
エレジはそのことを意識しながら制服を整え、指定された時間に訓練棟へ向かった。
式典用に整えられた部屋には、すでに何人かの訓練生が集まっていた。半年間、雪や泥のついた装備姿で見ることの方が多かったため、制服を着た顔ぶれはどこか別の集団のようにも見えた。
「中尉、ちゃんとしてますね」
先に来ていたマティアスが、普段とは違う姿を見てそう言った。
「どういう意味ですか」
「半年ずっと雪まみれだったから」
「少尉も同じでしょう」
「俺はもう少しましだったと思います」
「そうでしたか?」
「そこ疑います?」
いつもと変わらないやり取りをしているうちに、エレジは少し離れた席にベッカーがいることに気づいた。右足首にはまだ固定具がついている。
「ベッカー軍曹、歩いて大丈夫なんですか」
「式くらいなら。医療にも許可もらってます」
「終わったからって無理しないでください」
「中尉に言われると説得力ありますね」
ベッカーが笑っているのを見て、最終評価を止めたことを気にしていた様子はもうほとんど残っていないように思えた。
やがて教官陣が入室すると、それまで少し緩んでいた室内の空気が自然に整った。その中にはカイルもいる。
教官側に立っている姿そのものは、この半年で何度も見てきた。それでも今日は、その視線の先で自分の判断を試されるわけではない。その違いを意識すると、同じ位置に立っているカイルまで少し違って見えた。
式は長くなかった。
課程責任者から六か月間の訓練終了が告げられ、修了記録が正式に人事へ反映されること、以後は各自の所属先または指定された待機先へ移ることが説明された。
一人ずつ名前が呼ばれていく。
「ヴァイス中尉」
「はい」
自分の名前を呼ばれ、エレジは前へ出て修了証を受け取った。そこには課程名と、十月から三月までの日付が記されている。
半年という時間が一枚の紙に収まっていることが、少し不思議だった。その間に何があったのかまで書かれているわけではない。
雪の中を歩いたことも、何度も地図を開いたことも、できなかったことも、できるようになったことも、この紙だけを見れば分からない。
それでも、ここまで終えたことだけは確かだった。
席へ戻ると、修了証を膝の上へ置いた。
全員への授与が終わったあと、最後にカイルが前へ出た。
「個別講評はすでに終わってる。だから今日は長く話さない」
その一言に、長い訓示が始まるわけではないと分かったのか、何人かの表情がわずかに緩んだ。
「ここで覚えたやり方が、次の現場でもそのまま正しいとは限らない。山も違う。部隊も違う。任務も違う」
エレジは、これがこの課程で教官として聞く最後の言葉になるのだと思いながら耳を傾けた。
「ここで評価されたことを答えとして持っていくな。条件が変われば、必要なやり方も変わる。使えるものは使え。合わなければ変えろ。
以上。北部山岳特殊任務課程を修了とする」
半年間の最後にしては、驚くほど短かった。その言葉が終わると、今度こそ次の指示はなかった。
形式上の解散が告げられたあと、室内にはすぐに人の声が戻った。原隊への移動時刻を確認する者、修了証を見せ合う者、教官へ挨拶に向かう者がそれぞれ動き始める。
エレジは修了証をケースへ入れながら、隣にいたマティアスへ今後の予定を聞いた。
「少尉は、すぐ戻るんですか」
「いや。俺はいったん待機です」
「原隊じゃなくて?」
「今のところは」
それ以上詳しく言わないところを見ると、エレジと同じように何か別の手続きが残っているらしい。
「中尉もでしょう」
「はい。しばらくここにいます」
「じゃあ、一回解散って感じですね」
「一回?」
「またどこかで一緒になるかもしれない」
「そうですね」
「半年一緒だったんだから、もう十分な気もしますけど」
「嫌なんですか」
「そうは言ってないでしょう」
いつも通りの返しに、エレジもそれ以上聞かなかった。
まだ選考結果は出ていない。自分もマティアスも、この先が正式に決まったわけではなかった。
それでも、今日で終わるのは二人が同じ訓練生として過ごした時間であって、関係そのものではないのだと思えた。
訓練棟を出ると、昼前の光が雪面に反射していた。エレジは見慣れた建物と、その向こうにある山を改めて見た。
明日も自分はこの基地にいる。
けれど、もう受講者としてここにいるわけではない。
それだけで、いつも通っていた道の意味が少し変わって感じられた。
十月に来たとき、この場所は半年間を終えるために入った場所だった。何を求められるのかを知り、自分がその水準に届くのかを確かめながら過ごしてきた。
今は、ここを出たあとに何をしたいのかがある。
次にどこへ行くのかが決まっていないことは変わらない。それでも、以前ほどその空白を怖いとは思わなかった。
宿舎へ戻ろうとしたところで、後ろから名前を呼ばれた。
「ヴァイス中尉」
聞き慣れた声だった。振り返ると、カイルがこちらへ来ていた。
「はい」
返事をしてから、エレジは自分もまだいつも通り応じていることに気づいた。
「まだヴァイス中尉なんですね」
「……癖だ」
「私も少佐って呼んでますけど」
「それは別にそのままでいい」
「そうなんですか」
「急に変える必要もないだろ」
修了式が終わったからといって、半年間続けてきた呼び方まで同時に消えるわけではない。その方がエレジにも自然だった。
カイルは、修了後の扱いについて確認するように話を変えた。
「修了後の滞在について説明は受けたか」
「はい。しばらく今の部屋を使うそうです。移動するときは事前に連絡するようにって」
「外出は」
「許可が必要だと聞いてます。単独は避けるようにも」
「そうしてくれ」
「分かってます」
訓練生としての規則から外れても、自由にどこへでも行けるわけではない。
そのこと自体に不満はなかった。自分を狙って基地まで人間が入ってきた以上、必要な措置なのは分かっている。
ただ、制限の理由が変わったことには妙な感覚が残った。
「課程が終わったのに、今度は別の理由で許可が要るんですね」
「今は仕方ない」
半年間は受講者だから外出に制限があった。今度は受講者ではなくなったからこそ、別の理由で制限が残る。同じ「許可が必要」でも、中身はまったく違っていた。
少し間を置いたあと、カイルが聞いた。
「外出許可が取れるなら、ベルンハルトに行くか」
その誘いが、課程中の外出とは違う意味を持つことはすぐに分かった。
「二人でですか」
「ああ」
「大丈夫なんですか」
「確認する。条件がつくかもしれない」
「護衛とか?」
「可能性はある」
「それでも行くんですか」
「お前が嫌なら基地内でもいい」
エレジの気持ちは決まっていた。
「ベルンハルトに行きたいです」
「ああ」
「許可、取れたら教えてください」
「分かった」
カイルと別れ、エレジは現在使っている宿舎へ戻る。
課程が終わっても、明日から何もかも自由になるわけではない。それでも、次にベルンハルトへ行く理由は、これまでとは違っていた。




