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エーデルベルグの雪 ──北部山岳任務録──  作者: 有凪いちほ
北部山岳特殊任務課程

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23/154

最終評価


 三月下旬、最終評価初日の朝はまだ暗かった。


 訓練生たちは〇四三〇に集合し、装備確認を終えると班ごとに簡単な指令書を受け取った。

 これまでの総合訓練以上に事前説明は少なく、指定された山域へ進出して二つの観測区域で敵役の動きを記録し、初日の終着地点へ一八〇〇までに到達することだけが示されている。

 翌日以降の任務は、その時点で追加されるという。


 エレジの班は四人だった。

 班長はエレジ。通信担当にベッカー軍曹、マティアスが副指揮と後方警戒、四人目には南部方面軍の歩兵部隊から参加しているクラウス少尉が入る。

 半年近く同じ課程にいるため、互いの能力はもう分かっている。改めて細かく役割を説明する必要はなかった。

 エレジは地図を広げた。


「第一観測区域までは西側の尾根を使います。ここ。谷側の方が短いですけど、日が出てから敵役が入るなら見通されます。最初から尾根下を使います」


 マティアスが距離を確認した。


「三十分くらい増えるな」


「その分、最初から一時間余裕を取ります」


「了解」


「ベッカー軍曹、通信確認」


「問題ありません」


「クラウス少尉は先頭をお願いします。私は二番目。ロート少尉が後方」


「了解」


 全員の返答を確認して、エレジは地図を畳んだ。

 少し離れた場所では、教官たちが各班の出発準備を見ている。その中にカイルもいた。


 エレジは一度だけそちらを見た。目は合ったが、昨日までと同じように、その表情から評価を読み取ることはできない。最終評価に入った以上、途中で助言されることもない。

 それでよかった。ここまで来た以上、自分の判断が正しいかどうかを教官の表情で確かめる必要はない。


「行きます」


 エレジの声で四人が動き出し、まだ夜の色を残した山へ入った。


 最初の一時間、必要以上の会話はなかった。

 雪面は固く締まり、歩きやすい。風も弱く、空が明るくなるにつれて遠くの稜線まで見えるようになったが、エレジは当初の経路を変えなかった。条件が良いからといって、予定より早く危険な場所へ出る理由はない。

 先頭のクラウスが声を落とした。


「右、足跡」


 複数人分の新しい足跡が、北東方向へ続いている。

 マティアスが後方から位置を確かめた。


「敵役かな」


「可能性はあります」


 エレジは地図を開かず、周囲の地形と足跡の方向を見比べた。


「経路を十五メートル左へ寄せます。足跡には近づかない」


「確認しなくていいですか」


「任務は追跡じゃないです。位置だけ記録してください」


「了解」


 班はそのまま進んだ。足跡が誰のものだったのかは分からないままだったが、確認する必要もなかった。


 第一観測区域には予定より十二分早く到着した。

 指定された地点からは敵役の移動経路がよく見える。エレジは全員を一度下げ、マティアスと二人だけで前へ出た。


「正面、四」


 マティアスが双眼鏡を覗く。


「その奥にもう一人」


「見えます」


 エレジは時間を確認した。


「ベッカー軍曹へ。五名、南から北。先頭二名、後方三名。装備差あり」


「装備差?」


「後ろの二人だけ荷物が大きいです。役割が違うかもしれません」


「確定?」


「してないです」


「じゃあそのまま送る」


「お願いします」


 観測を続けて十五分ほど経ったところで、敵役の一人がこちら側へ進路を変えた。

 必要な情報はすでに取れている。予定された二十分を満たすことより、観測位置を知られない方が重要だった。


「離れます」


「もう?」


「必要な情報は取れてます。位置を知られる方が損です」


「了解」


 二人は後退し、班全体でその場を離れた。追跡されることもなかった。

 第一地点を離れて一時間ほどした頃、ベッカーから通信の異常が報告された。


「送信が落ちます」


「原因は」


「地形か機器か、まだ分かりません」


「短距離は」


「使えます」


「では班内は維持。定時報告は次の中継可能地点まで保留。時刻と内容だけ記録してください」


「了解」


 エレジはそれ以上、通信機器には関わらなかった。

 ベッカーが担当している以上、処理できる範囲は任せればいい。対応不能になれば、その時点で報告が来る。


 午前中、教官側から新しい状況が入った。

 第二観測区域が使用不能。代替地点の指定はない。

 班は足を止めた。


「どうします?」


 クラウスに聞かれ、エレジは地図を広げた。

 当初地点は東向きの斜面にあり、対象区域はその下にある。同じ範囲を見るのであれば、北西側の小尾根からも観測できる。ただし距離は増える。


「ここ。北西の尾根へ移ります」


 マティアスが距離を見た。


「四十分くらいかかる」


「それでも一八〇〇には間に合います」


「敵役の通過予定は?」


「情報が変わってなければ、一時間以上あります」


「了解」


 班はすぐに方向を変えた。途中、クラウスが沢沿いの経路を示した。


「こっちを上がれば十分くらい縮められます」


 確かに近い。ただ、沢底は雪が深く、午後に気温が上がれば足を取られる可能性がある。


「採りません」


「理由は?」


「帰りに使えない経路へ入る意味がないです。最初から尾根へ出ます」


「了解」


 代替観測地点へ到着したとき、敵役はまだ現れていなかったので、エレジは班を分散させた。


「ロート少尉、左。クラウス少尉は右。ベッカー軍曹は中央で記録。見つけても追わないでください」


「了解」


 十五分後、敵役が現れた。

 今度は七名。人数と移動方向だけでなく、後方の二名だけ歩調が遅く、途中で一度停止して前方へ合図を送っているのが見えた。

 何らかの役割を持っている可能性はある。ただ、それ以上は観測から確定できない。


「七名。後方二名に遅れ。途中、一度停止して前方へ合図。理由不明」


 エレジが伝えると、ベッカーがそのまま記録した。

 必要な情報を取り終えたところで班を下げ、午後の行程へ移る。


 ここまで大きな問題はない。予定より多少遠回りしているものの、時間には十分余裕があった。

 移動中、マティアスがエレジに声をかけた。


「中尉」


「何ですか」


「今日、教官の方全然見ないですね」


 言われて、エレジは少し笑った。


「見ても教えてくれないでしょう」


「まあね」


「だったら意味ないです」


「前はちょっと見てた気がする」


「そうでした?」


「判断したあと、少佐の顔見ることあった」


 言われてみれば、そうだったかもしれない。自分の判断に迷いがあるとき、意識しないままカイルの反応を確かめていた。


「今日は必要ないので」


「仕上がりましたね」


「昨日もそれ言われました」


「事実だから」


「まだ一日目です」


「そういうところは変わらないな」


 その言葉には返さず、エレジは行程へ意識を戻した。

 夕方が近づくにつれ、風が少し強くなってきた。予定されている初日の終着地点までは、残り一時間ほど。その時点で、教官側から最後の状況が入った。


『指定幕営地点、使用不可』


 代替地点は示されなかったことに、クラウスが苦笑した。


「最後に来ましたね」


「ですね」


 エレジは地図を開いた。日没まで一時間半。風向きは西。

 現在地から指定地点へ向かう途中には、小さな窪地が二つある。一つは近いものの斜面上部が開いている。もう一つは北東側で距離が増えるが、樹林帯に囲まれていて風を避けやすい。


「北東へ変えます」


「二十五分増えます」


「問題ありません」


「水は?」


「雪を使います」


「通信は」


「中継できる位置が近くにあります」


 マティアスも地図を見た。


「こっちでいいと思う」


「行きます」


 班は迷わず進路を変えた。三十分後、樹林帯に囲まれた窪地へ到着した。風はかなり弱く、雪面も安定している。


「ここにします。ロート少尉、周辺確認。クラウス少尉、場所作り。ベッカー軍曹、報告お願いします。終わったら交代で食事」


「了解」


 エレジも作業に加わった。

 全員の装備と体調を一度確認したあと、翌日の経路だけ地図で大まかに見た。明日の条件はまだ示されていない。今の段階で細部まで詰めても、状況が変われば作り直すことになる。


 一時間後、見張りから戻ったマティアスが交代を告げた。


「交代します」


「お願いします」


 エレジが地図を畳むと、マティアスがそれに気づいた。


「中尉、もう見なくていいんですか」


「何をですか」


「明日の経路」


「大まかには見ました」


「もっと詰めるかと思ってました」


「条件が出てからでいいです」


 マティアスは少し笑った。


「やっぱり変わったな」


「最近そればっかり言われます」


「半年一緒にいると分かるんですよ。寝てください。明日長いですよ」


「はい」


 エレジは素直に寝床へ入った。

 以前なら、全員が休んだあとでも地図を開き、起こり得る条件をいくつも並べていたかもしれない。しかし、まだ与えられていない問題まで今の自分が引き受ける必要はない。

 今日やることは終わっている。明日のことは、明日の条件を見てから決めればいい。


 雪の上に作った簡易の寝床へ身体を預けた頃、少し離れた場所では教官側も初日の記録をまとめていた。


「第二班、予定地点変更後も問題なし」


 別の教官が記録を読み上げる。


「通信障害への対応、代替観測地点の選択、幕営地点変更。大きな減点なし」


 カイルは自分の評価表を確認した。


「ヴァイス班も同じです」


「ヴァイス中尉、安定してるな」


「はい」


「判断速いし、余計なことしなくなった」


 以前にも本人へ伝えた評価だったため、カイルはわずかに口元を緩めた。


「それは本人にも言いました」


「何て?」


「班長として余計なことをしてない、と」


「褒め方が悪い」


「伝わってます」


 教官は少し笑った。

 初日は問題ない。だが、評価はまだ始まったばかりだった。


 翌日は通信制限、夜間行動、負傷者など、今日より厳しい条件が予定されている。それでもカイルは、エレジに特別なことを求めてはいなかった。

 目の前の条件を見て、その時点で必要な判断をする。それを続けられればいい。


 夜半を過ぎた頃から、風の音が変わった。

 最初は樹林帯の上を抜ける低い音だったものが、しだいに木々の間まで入り込み、幕営地点の周囲に積もった雪を細かく巻き上げるようになった。

 見張りに立っていたクラウスが、交代に来たマティアスへ言った。


「風、上がってます」


「予報より早いな」


「はい。視界も少し落ちてきました」


 その声でエレジも目を覚ました。完全に眠っていたわけではなく、風が強まるたびに何度か意識が浮いていた。


「どのくらいですか」


 身体を起こしながら聞くと、クラウスが答えた。


「今はまだ動けます。でも、朝までこのままだと厳しいかもしれません」


 自分でも状況を確認するために外へ出ると、夜の山では雪が横に流れ、昼間なら周囲の地形を見通せる距離でも樹木の向こうがほとんど分からなくなっていた。

 ただ、状況が悪化していることと、今すぐ移動すべきかどうかは別だった。


「現在地維持します」


「朝まで?」


 マティアスが聞く。


「今動く方が危ないです。ここは風を避けられてます。夜明けまで待って、その時点で判断します」


「了解」


「見張りは二人にします。交代間隔も短くしてください」


「はい」


 起きてきたベッカーが通信の状態を確かめ始めた。


「通信確認します」


「お願いします」


 エレジも地図を一度だけ開き、翌朝以降の予定を確認した。

 夜明け後に北へ移動して第三観測区域へ向かい、その後さらに別地点へ進んで、夕方までに教官側が指定する撤収地点へ入ることになっている。


 この天候なら予定経路をそのまま使えない可能性は高いが、今の時点で先の条件まで決める必要はなかった。朝になれば視界や風の状態も変わり、判断材料も増える。


「私ももう一度寝ます」


 そう言うと、マティアスが少し笑った。


「本当に寝るんですね」


「寝た方がいいでしょう」


「前なら起きてたと思います」


「もうそれはいいです」


「はいはい」


 今できることは休息を取ることだと決め、エレジは寝床へ戻った。風は強まっていたが、その音を聞きながら意識して目を閉じた。

 翌朝、全員が起きた頃には視界はさらに悪化していた。


 夜明けは来ているはずなのに、空全体が灰色で、光がほとんど増えていない。樹林帯の中ならまだ動けるが、開けた尾根へ出れば条件はかなり違う。

 ベッカーが無線の状態を調べた結果、夜より通信条件も悪くなっていた。


「長距離、かなり不安定です」


「受信は」


「途切れます。送信も確実じゃないです」


「短距離は」


「問題ありません」


 視界と通信の両方が悪化している以上、予定通り高所へ向かう理由はない。エレジは地図を開き、現在地から下方へ抜ける経路を確認した。


「第三観測区域は捨てます」


 最初から任務を一つ切る判断に、クラウスが反応した。


「最初から?」


「はい」


「まだ行けるかもしれませんよ」


「行けるかどうかじゃないです。戻りが読めません」


 エレジは現在地から南東へ下る経路を地図上で示した。


「ここから標高を落とします。通信が取れる地点を探しながら、次の指示を待ちます」


 マティアスも示された経路と周囲の地形を見比べた。


「任務継続じゃなくて、まず下がる?」


「はい。今の条件で上へ出る理由がないです」


「了解」


 全員が装備をまとめ、出発できる状態になったところで、無線に断続的な声が入った。


『……第三……継続……可能……班判断……』


 内容を拾おうとベッカーが無線を調整した。


「再送要求します」


「お願いします」


 数十秒後、今度は少し明瞭に聞こえた。


『各班、第三観測区域への進出は班長判断。安全を優先せよ。通信不能の場合、既定の撤収基準に従うこと』


 教官側から判断を委ねられても、先ほど決めた方針を変える材料はなかった。


「予定通り下がります」


 誰も異論は出さなかった。

 班は樹林帯を抜け、斜面を南東へ下り始めた。雪は昨日より深く、風が吹くたびに数メートル先の人影さえ輪郭が薄くなる。


「距離詰めます。クラウス少尉、先頭。私は二番。ベッカー軍曹三番。ロート少尉最後尾」


「了解」


 互いを見失わないよう間隔を縮め、速度も落とした。急ぐ理由はない。

 十分ほど進んだところで、先頭のクラウスが雪面の変化に気づいて進行を止めた。


「前、雪面変わってます」


 エレジから見ても、斜面の一部だけ表面が妙に滑らかで、風によって積もった新雪が薄く乗っている。


「右へ。そこ踏まないでください」


 班はその場所を避けて大きく迂回した。

 その直後、後方で短い声がした。


「っ」


 振り返ると、ベッカーが片膝をついていた。


「どうしました」


「足首、ひねりました」


 マティアスがすぐに寄り、エレジもベッカーの状態を確認できる位置まで戻った。


「立てますか」


 ベッカーは一度体重をかけようとしたものの、痛みに耐えられずやめた。


「痛いです」


 教官から与えられた想定負傷ではなく、実際の怪我だった。

 その認識が入った瞬間、エレジの中で優先順位が切り替わった。


「無理に立たないでください」


 マティアスが足首の状態を確かめる。


「腫れ始めてます」


 クラウスは周囲への警戒を維持したまま聞いた。


「ここで処置します?」


「最低限だけ」


 エレジは現在地と地形、風、視界、通信状況をまとめて確認した。第三観測区域へ向かう判断はすでに切っている以上、ここから先で優先すべきことは一つしかなかった。

 四人全員で安全な場所まで下りる。


「ベッカー軍曹、歩行は」


「支えがあれば少しは」


「それで十分です。ロート少尉、ベッカー軍曹をお願いします」


「了解」


「クラウス少尉、先頭継続。速度落とします」


「はい」


 ベッカーは負傷したことで通信担当まで外れるべきか迷ったらしく、手元の無線へ意識を向けた。


「通信、俺が持ってても」


「そのままでいいです。操作できるなら」


「できます」


「じゃあお願いします」


 負傷したからといって役割をすべて外す必要はない。できることは残し、難しい部分だけ別の人間が補えばいい。

 班はベッカーの歩行に合わせて再び動き出した。速度はさらに落ちたが、エレジにとって予定時刻はもう考慮すべき条件ではなかった。

 途中で通信が完全に途切れた。


「送信できません」


「分かりました。次の中継可能地点まで継続」


「はい」


 マティアスがベッカーを支えながら、この先も予定していた方向へ進むのかを確認した。


「このまま南東?」


「少し変えます」


 エレジは地図で先の地形を確認した。


「この先、傾斜が強くなる。ベッカー軍曹を支えながら下りるなら、東へ回った方がいいです」


「二十分増える」


「時間は捨てます」


「了解」


 自分だけなら、もっと短い経路を選べる。だが、今必要なのは自分一人が通れる道ではなく、四人で通れる道だった。

 しばらく進むうちに風はさらに強まり、雪が横から顔へ叩きつけるようになった。

 先頭のクラウスが声を張った。


「中尉!」


「はい!」


「この先、開けてます!」


 状況を確認するため前へ出ると、樹林帯が途切れ、斜面が広く開けていた。横断すれば距離は短いが、風をまともに受けるうえ、視界もほとんどない。

 数秒見ただけで十分だった。


「渡りません! 戻って、樹林帯沿いに南へ!」


「了解!」


 班は再び経路を変えた。


 その頃、教官側でも、悪化する天候と各班の状況を受けて対応が始まっていた。


「第二班から実負傷」


 無線担当の報告に、カイルの意識が地図からそちらへ移った。


「どの班」


「ヴァイス班。ベッカー軍曹、足首。自力歩行困難の可能性」


 示された現在地から、カイルは標高、風向き、予定経路を順に確認した。


「連絡は」


「さっきまで取れてましたが、今切れてます」


 別の教官が、訓練そのものを継続するか確認した。


「評価継続しますか」


 実負傷が出た時点で訓練としての意味は変わっており、天候も事前の想定を超え始めている。


「評価は中断扱い。全班に縮小指示。可能な班は指定撤収地点へ」


「ヴァイス班は?」


「現在地から一番近い安全地点へ誘導する」


「迎え出します?」


 そこでカイルは即答しなかった。救援を出すべきか、それ以前に今の天候で出せるのかを考えれば、人員を山へ増やすこと自体が新たな危険になり得る。


 その判断を考えた瞬間、六年前の記憶が浮かんだ。吹雪の中で動けなくなった兵士と、届かない救援、自分が決めるしかなかった状況。その中心にいたノアの姿までが、目の前の地図に重なりかける。

 だが、今見ているのは六年前の地図ではない。山にいるのはエレジの班で、彼女自身がまだ判断して動いている。


「位置が取れ次第、救援班を準備。ただし無理に接触させない。ヴァイス班が自力で下れるなら下らせる」


「了解」


「通信復旧優先」


 行きたいという感情はあった。自分で迎えに出たいとも思った。だが、それを理由に指揮を崩すことはできない。今必要なのは自分がエレジを迎えに行くことではなく、班全体が安全に戻れる条件を作ることだった。


 一方、エレジたちは樹林帯沿いに南へ進んでいた。ベッカーの歩行はさらに遅くなっていたが、意識ははっきりしている。


「中尉」


「はい」


「通信、一回だけ入りました」


「内容は」


「全班、評価中断。撤収優先」


 評価そのものが中断されたと分かり、エレジは張っていた息を短く吐いた。


「了解」


「救援は?」


「まだ聞こえてません」


「どうする?」


 現在地から最寄りの安全地点まではまだ距離がある。ただ、このまま標高を落としていけば風は弱くなる可能性が高い。


「自力で下ります」


 その判断が個人ではなく班全体についてのものなのか、マティアスが確認した。


「班として?」


「はい」


 エレジは全員の状態を改めて見た。クラウス、自分、マティアスには問題がなく、ベッカーは歩行困難ではあるものの、支援があれば移動できる。通信も断続的ではあるが、完全に失われたわけではない。


「行けます。ただ、急ぎません。途中でベッカー軍曹の状態が悪くなったら、その場で止めます」


「了解」


 それで方針は決まった。誰かを残す必要はなく、任務へ戻る理由もない。四人で下ればいい。


 さらに三十分ほど進むと、風が少し弱まり、樹木の密度も増えた。

 通信状態を確認していたベッカーが、ようやく電波を拾った。


「……入りました」


「送れます?」


「たぶん」


「現在地、負傷者一名。自力移動継続中。南東へ撤収。救援不要、ただし待機願う、と送ってください」


 送信から数秒後、返答が入った。


『受信。安全地点まで自力撤収を許可。救援班待機。状態悪化時は即時停止、位置送信』


「受信しました」


『ヴァイス中尉』


「はい」


 一瞬のノイズの向こうから、カイルの声が聞こえた。


『班の状態』


「四名全員行動可能。ベッカー軍曹、右足首負傷。ロート少尉の支援で歩行継続できます。クラウス少尉、自分ともに異常なし」


『天候』


「視界不良。風は先ほどより弱まりました」


『経路』


「南東へ下ります。開けた斜面は避けています」


 短い間があった。


『了解。そのまま下れ』


「了解」


『無理だと思ったら止まれ』


「はい」


『判断は任せる』


 通信が切れたあと、エレジは無線をベッカーへ戻した。その言葉を聞いていたらしいマティアスが尋ねる。


「任せるって」


「聞こえてました?」


「少し」


「なら行きましょう」


 それ以上、カイルの言葉について考える必要はなかった。教官側が現状と方針を把握したうえで、自分たちの判断で動くことを認めた。それで十分だった。


 日が傾く頃、四人はようやく安全地点へ到達した。待機していた救援班がベッカーを引き取り、医療要員がその場で足首の状態を確かめた。


「骨折の可能性は低い。捻挫だと思う。ただし今日は歩かせない」


「了解」


 ベッカーは、自分の負傷で班を止めたことをまだ気にしているらしかった。


「すみません」


 エレジは首を振った。


「怪我したことを謝らなくていいです」


「評価止めましたよ」


「天候でも止まってます」


「でも」


「全員戻ったので、それでいいです」


 ベッカーはしばらく黙ってから頷いた。

 そこで初めて、エレジは身体に入っていた力が少し抜けるのを感じた。疲労はかなりある。それでも、自分の判断をやり直したいとは思わなかった。


 教官側の天幕へ向かうと、カイルを含む数人の教官が待っていた。エレジは帰投した班長として、まず必要な報告をした。


「ヴァイス班、四名帰投。実負傷一名。ベッカー軍曹、右足首。医療へ引き渡しました」


「了解」


 カイルの声もいつも通りだった。


「班長として何か報告は」


「第三観測区域は夜明け時点で切りました。天候悪化後、標高を下げる経路へ変更。ベッカー軍曹負傷後は任務を終了して撤収へ切り替えました。開けた斜面は風が強かったため横断せず、樹林帯沿いへ変更しています」


「判断理由は」


「任務達成より全員の帰投を優先しました。負傷者が出た時点で、観測継続の利益がありませんでした」


 報告を聞いたカイルは、それ以上確認すべき問題はないと判断した。


「問題ない」


「以上ですか」


「ああ」


「講評は」


「今日はしない」


「評価中断だからですか?」


「それもある」


 カイルは、報告を終えたエレジに今必要なのは講評ではないと判断していた。


「今は休め」


 その言葉で、エレジは今日が本当に終わったのだと実感した。


「はい」


 天幕を出ると、外ではまだ雪が降っていた。最終評価は途中で止まり、予定していた任務も完遂していない。それでも失敗したとは思わなかった。条件が変わったから目的を変え、それに必要な判断をした。そのことに迷いはなかった。


 基地へ戻ったのは、予定よりかなり遅い時刻だった。

 他班も天候悪化によって順次回収されており、訓練棟の一角には濡れた装備が並んでいた。

 普段ならすぐ始まる講評もなく、教官側は行動記録と各班の帰投状況を確認し、医療班は実負傷者を優先して診ている。


 エレジは装備を返却したあと、ベッカーの状態が気になって医務室へ向かった。

 診察はすでに終わっており、ベッカーは右足首を固定された状態で椅子に座っていた。


「骨は大丈夫だそうです。数日はまともに歩くなって」


「よかったです」


「最終評価はよくないですけどね」


 まだ自分の負傷で評価を止めたことを気にしているらしい。


「それは教官が決めます」


「俺のせいで班ごと途中終了ですよ」


「天候でも中断になってます」


「それでも」


 どう言えばベッカー自身の問題ではないと伝わるかを考え、エレジは立場を逆にして聞いた。


「もし逆だったら、私に謝ってほしいですか。私が足を痛めて、少尉たちが連れて帰ってくれたとして。すみません、評価を止めましたって言い続けた方がいいですか」


「……いや」


「なら同じです」


「中尉、こういうとき妙に理屈が強いですね」


「こういうときじゃなくてもです」


 ベッカーが笑ったので、それ以上言葉を重ねる必要はなかった。


「休んでください」


「中尉も」


「はい」


 医務室を出ると、廊下の先にはマティアスが待っていた。


「ベッカーどうでした?」


「捻挫です。骨は大丈夫」


「よかった」


 二人で訓練生宿舎へ戻るあいだも、外ではまだ風が強く、山の方は白く霞んでいた。つい数時間前までその中を歩いていたことが、もう少し遠い出来事のように感じられる。


「中尉、今日撤収決めるの早かったですよね」


「またそれですか」


「いや、今回は本当に。夜明けの時点でもう第三地点切ったでしょう」


「はい」


「あの時点なら、行く班もいたと思います」


「いたでしょうね」


「迷わなかった?」


「ほとんど」


「何で」


 エレジは、あの時点で何を基準に判断したのかを思い返した。


「第三地点へ行くこと自体に意味がなくなってたからです」


「天候で?」


「それもあります。行けても、帰りまで条件が持つか分からなかった。通信も落ちてたし。そこまでして観測する必要があるとは思いませんでした」


「前だったら?」


「行ける方法を探してたかもしれません」


「ですよね」


「でも今日は、そこまでして行く理由がなかった」


 口に出してみると、その方がしっくりきた。できなかったからやめたのではなく、必要がなくなったから切った。


「ベッカー軍曹が怪我してからは、もっと簡単でした」


「全員で帰るだけ?」


「はい」


「教官としては評価しやすそうだ」


「どうでしょう」


「グレイ少佐、問題ないって言ってたじゃないですか」


「評価中断してますから」


「まだ何か探します?」


 以前なら終わったあとにも自分の判断の不足を探していたかもしれないが、今日はその必要を感じなかった。


「探さないです」


「ならいいです」


 宿舎の前でマティアスと別れ、部屋へ戻ると、それまで抑えていた疲労が一気に出た。

 濡れた装備を処理し、最低限のことだけ済ませてベッドに座る。


 最終評価は途中で止まった。それだけを見れば中途半端だったが、やり直したいという焦りはなかった。自分が何を見て、何を優先し、どこで切り替えたかは分かっている。その結果、四人で戻った。

 あとは教官が評価することだった。


 翌朝、全訓練生に通常より一時間遅い集合が通達された。前日の疲労を考慮した措置だった。

 講義室へ入ると、カイルを含む教官陣がすでに前に揃っており、ベッカーだけは医療側の指示で欠席していた。

 全員が席についたところで、主任教官の一人が説明を始めた。


「昨日の最終評価について説明する。天候が安全基準を超えたため、全班の評価を途中で中止した。負傷者が出た班だけを理由にしたものではない」


 エレジは、その説明をベッカーにも直接聞かせたかったと思った。


「昨日までに取得した評価は有効とする。ただし、最終評価として必要な項目が不足している班については、条件を変更して追加評価を行う」


 やはり、完全に終わったわけではなかった。


「追加評価は明後日。天候を見て一日課程で実施する。昨日と同じ任務をやり直すものではない」


 そこでカイルが説明を引き継いだ。


「一度経験した条件をそのまま繰り返しても意味がない。班構成も変える。昨日の結果が悪かったから再試験、という意味でもない。未取得項目だけを見る。そこを勘違いするな」


 つまり昨日の判断が消えるわけではなく、まだ取得できていない項目だけを追加で確認するということだった。それなら、エレジにとって話は単純だった。


「ヴァイス中尉」


「はい」


「終了後、残れ」


「了解です」


 説明が終わると、訓練生たちは装備点検へ移り、エレジだけが講義室に残った。ほかの教官も順番に出ていき、最後にはカイルと二人になった。


「何ですか」


「昨日の件」


「はい」


「正式な講評をまだしてない」


「評価中断だったので」


「途中までの評価は有効だ」


 カイルは昨日の記録用紙を机へ置いた。


「夜明けの時点で第三観測地点を切った判断。問題なし。通信障害後の経路変更も問題ない。ベッカー負傷後、任務を即時終了した判断もいい」


「減点は」


「大きいものはない」


「本当に?」


「またそれか」


 少し前にも似たことを聞いたのを思い出し、エレジは笑った。


「すみません」


「謝るところじゃない」


 カイルは記録を一度閉じた。


「ただし、昨日は評価として特殊だった。実負傷が出た。それに天候も、教官側が設定した条件を超えた」


「じゃあ、私の撤収判断って、評価対象じゃないんですか」


「逆だ」


「逆?」


「訓練条件じゃなくなってからの方が、判断そのものはよく見えた」


 予想とは違う答えだったため、エレジはそのまま続きを聞いた。


「正解を用意してない状況だった。教官側も、どの時点で全班を切るか判断してた。その中で、お前は自分の班について先に決めた」


「第三地点を切ったところですか」


「ああ」


「でも、あれは普通だと思います」


「今のお前にはな。半年前なら、どうすれば行けるかを先に考えただろ」


「……たぶん」


「昨日は、そもそも行く必要があるかを見た」


 それは、前夜にマティアスへ話した感覚とほとんど同じだった。


「変わりました?」


「かなり」


「教官として?」


「今は教官として話してる。だから評価として言う。昨日の判断は良かった」


 エレジはその言葉をそのまま受け取った。


「ありがとうございます」


 カイルは記録用紙を横へ置いた。それまで評価表を挟んで話していた空気が変わり、ここから先は教官としての講評ではないのだとエレジにも分かった。


「昨日、通信切れてた間、個人的にはかなり心配した」


 エレジは少し笑った。


「そうだと思いました」


「分かったか?」


「通信戻ったとき、声が少し違ったので」


「違ったか」


「少し」


 カイルは否定しなかった。


「迎えに行こうとは思わなかったんですか」


「思った」


「やっぱり」


「でも、行かなかった。お前たちが自力で動けてたからな」


「任せてくれたんですね」


 昨日のカイルは、通信が途切れている間もすぐには救援を出さず、エレジたちが自力で動けている限りその判断に任せていた。エレジには、それが以前とは少し違うように感じられた。


「……もし、違っていたらすみません。昨日私たちが戻ってくるまで、ノア伍長のこと考えましたか?」


 カイルの返事が一瞬遅れた。


「……考えた。状況そのものは全然違うが。でも、負傷者がいて、天候が悪くて、通信が不安定で、思い出した」


「怖かったですか」


「ああ。具体的に考えないようにしてた」


 エレジが知りたかったのは、その怖さがありながらカイルがなぜ救援を急がなかったのかだった。


「それでも救援をすぐ出さないでいてくれたのは、なんでですか」


「昨日のお前たちは、助けを待ってる班じゃなかったからだ。

 自力で動けてた。お前も判断できてた。そこで俺が過去のせいで救援を突っ込ませたら、それはお前たちのためじゃない」


「じゃあ、私が本当に無理だったら?」


「救援を出した。状況次第だが、行く必要があるなら俺も行った」


 エレジには、その答えで十分だった。

 カイルは再び記録用紙を手に取り、話を追加評価へ戻した。


「明後日の追加評価は、昨日とは班も役割も変わる」


「何をするんですか」


「言うわけないだろ。ただ、一つだけ」


 その言い方から、次は評価に関わる助言なのだとエレジは理解した。


「昨日できたことを証明し直そうとするな」


「撤収判断とかですか?」


「全部だ。昨日は昨日。明後日は別条件だ」


「はい」


「最終評価だからって、きれいに終わらせようとするな」


「私、しそうですか」


「少し」


 そこは否定できなかった。課程最後の評価なら、きちんと終えたいという気持ちはある。


「でも、お前がもう十分できることは、教官側も分かってる」


 そこまで明確に評価を伝えられるとは思っていなかったため、エレジは少し驚いた。


「そこまで言っていいんですか」


「評価の話だからな」


「……はい」


「残りは、その日ある条件でやれ」


「分かりました」


 話が終わったと判断して立ち上がったものの、扉へ向かう前にエレジには一つだけ伝えておきたいことが残っていた。


「昨日戻ったとき、少佐がいるのを見て安心しました」


「俺もだ」


 迷わず返ってきた言葉に、エレジは少し笑った。


「じゃあ、明後日も戻ってきます」


「それは評価項目以前の話だ」


「はい」


「必ず戻れ」


「分かりました」


 エレジが講義室を出たあと、カイルは再び机上の評価表へ目を落とした。



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