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エーデルベルグの雪 ──北部山岳任務録──  作者: 有凪いちほ
籠の鳥と解放編

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新しい拠点


 車両が段差を越えた揺れで、エレジは目を覚ました。


 窓の外には、見覚えのない建物が続いていた。山腹に沿って整備された道路を軍用車両が行き交い、その先には警備区画が見えている。眠る前には針葉樹林が続いていたはずなのに、いつの間にか周囲の景色が変わっていた。


「……もう着きますか?」


「ああ。あと少しだ」


 隣のカイルが答えた。エレジは座席へ預けていた身体を起こし、窓の外を見た。


 道路の向こうには複数の建物が並んでいる。斜面の高い位置には通信設備らしい構造物も見えたが、手前の建物に遮られ、全体の配置までは分からなかった。


「思っていたより広いですね。仕事の場所と宿舎は、結構離れてるんでしょうか」


「歩ける距離だ。あとで実際に確認する」


 車両が入構口へ近づくにつれ、道路は複数の車線に分かれた。ここでの人員と物資の出入りが、これまでの拠点とは比べものにならないことは、待機している車両の数からも分かった。


 二台の車両が指定された位置で停止すると、受け入れ担当者が五人の所属と身分証、入構権限を照合した。積載物についても書類との照合が行われ、機材の搬入先が指示される。


 カイルが担当者と手続きを進めている間、エレジは渡された施設案内を開いた。


 警備区画の先には業務棟、通信設備、補給施設、車両区画がそれぞれ配置され、宿舎は勤務施設から少し離れた場所にまとまっている。一般の共用区画と個別の権限が必要な場所も分けて記されていた。


 今までのように、一つの建物の中で仕事も生活も済ませられる場所ではない。


「ヴァイス中尉、地図、あとで見せてもらっていいですか」


 マティアスも案内図が気になったらしく、エレジの隣から覗き込んだ。


「はい。建物間の経路は何通りかありそうです。ただ、ここから先は通行区画が分かれてますね」


「仕事で行き来するところだけでも、今日のうちに覚えたいですね」


「そうですね。実際の道も見ておきたいです」


 手続きが終わると、受け入れ担当者の案内で車両を指定された区画へ移した。搬入機材の引き渡しと保管場所を確認してから、五人は自分たちの作業室へ向かった。


     *


 作業室の中央には、大きなテーブルが置かれていた。地図を広げても五人が周囲に座れるだけの余裕があり、壁際にはそれぞれの席と、通信・解析設備へ接続するための設備が用意されている。


 施錠できる保管庫も複数あり、搬入した機材の一部はすでに指定された場所へ運び込まれていた。


「広いですね」


 エレジが言うと、マティアスも中央のテーブルを確かめた。


「前より地図を広げやすそうですね。資料を置いたままでも、全員座れますし」


「そこは助かります」


 エレジは窓から見える隣接する業務棟と、その向こうの斜面を確かめた。入構時に見た案内図と建物の位置関係を合わせると、今いる部屋の向きも分かる。


 山側の一部は別の建物に遮られているが、道路の分岐は見える。施設内で移動する時にも、周囲の地形を基準にすれば方角を取り違えることはなさそうだった。


 ヨナスにとっては、窓の外より壁際の設備の方が気になるらしい。


「少佐、ここ、端末の初期設定だけ先に見てもいいですか」


「設定担当者が来てからだ」


「接続仕様を見るだけなら、今でも」


「ファルク」


「……分かりました。資料だけにしておきます」


 担当者の説明が終わるまでは手を出せないと分かったヨナスは、渡されていた設備一覧を開いた。どの機材をどこへ接続するかは、すでに考えてあるようだった。


 その間にマティアスは、保管庫と搬入経路を確認していた。装備を持ち出す時にどちらの通路を使うのか、他部署へ出向く場合はどこを経由するのか。案内図には、実際に歩いて確かめたい場所の印が増えていった。


 リヒターは衛生用品の収納場所を決めたあと、作業室への出入りを確認した。

 共用廊下から直接入る扉のほかに、職員用通路へ通じる出入口がある。どちらも通行権限は管理されているが、今までの拠点のように、建物へ近づく人物を五人だけで把握できる環境ではない。ここでは施設側の警備情報も確認しておく必要があった。


「少佐、衛生用品はこっちで管理していいかしら」


「ああ。必要なものがあれば申請してくれ」


「分かったわ。出入りの記録についても、あとで担当者に聞いておくわね」


「頼む」


 五人がそれぞれの持ち場を確かめたところで、カイルは中央のテーブルに施設案内を広げた。別の部署での仕事が増えることは、最初から決まっている。それでも、この部屋が班の仕事の中心になることに変わりはなかった。


「明日からも、まずここに集まってから始める。専門部署へ出向くことは増えるが、班として扱う情報と判断はここへ戻せ。他部署から直接依頼があった場合も同じだ」


「了解です」


 マティアスに続き、他の三人も了承した。

 今までの拠点で進めていた調査も、この部屋へ引き継ぐ。情報をそれぞれの専門部署へ持ち込むことはあっても、五人の判断が別々になるわけではない。


 その後、受け入れ手続きの続きとして、保全担当者が作業室を訪れた。


 エレジの外出申請について、実務上の担当窓口と連絡方法が決まったためだった。渡された書式には、申請先の連絡先と、記入が必要な項目が整理されている。


「申請はこちらの担当へ送ってください。希望する日時と行き先、移動手段、連絡先を記入していただければ、担当側で確認します」


 エレジは書式を確認した。許可が必要なこと自体はすでに聞いている。今知りたかったのは、実際に外へ出たいと思った時、誰へ連絡すれば手続きが進むのかということだった。


「結果も、同じ窓口から受け取るんですね」


「はい。判断の結果はグレイ少佐にも共有します。担当者が不在の場合は、指定の代行者が引き継ぎます」


 窓口が固定されていることと、判断の結果がカイルにも共有されることを確認すると、カイルはエレジへ尋ねた。


「連絡経路は分かったか」


「はい。申請する時は、この書式で出します」


「ああ。運用上の問題があれば俺にも報告しろ」


「分かりました」


 担当者が退出すると、エレジは書式を自分の端末から確認できる場所へ保存した。


 行きたい場所ができた時、申請の仕方が分からず誰かを探す必要はない。それが分かったので、今は十分だった。


     *


 宿舎の入口には、ほかの居住者が利用する共用区画の案内が掲示されていた。四階建ての建物には五人以外にも軍人や職員が暮らしており、一階には談話のための場所と共用厨房がある。


 洗濯や入浴の設備、厨房の利用方法について説明を受けたあと、それぞれの部屋の鍵が渡された。

 男性三人は二階と三階、エレジとリヒターは四階だった。


「じゃあ、荷物を置いたら一回連絡します」


 マティアスがカイルへ言った。


「夕食は全員で行く。集合時刻はあとで送る」


「了解です」


 今までなら、二階へ上がれば五人の部屋が同じ廊下に並んでいた。誰かに用事があれば、その部屋を訪ねればよかったが、今日は荷物を持って進む方向から違っていた。


 男性三人と別れ、エレジとリヒターは四階へ向かった。

 四階にもほかの居住者がおり、二人の部屋は少し離れている。部屋番号を確かめたリヒターが、エレジへ声をかけた。


「じゃあ、荷物を置いたらまたあとでね」


「はい。何かあったら連絡します」


「私もそうするわ」


 エレジは受け取った鍵で自室の扉を開けた。

 室内には、使い慣れない家具と清掃後の匂いが残っている。備え付けの机と椅子、ベッド、収納棚があり、窓からは業務棟の一部と、その向こうの山が見えた。


 以前の部屋とは窓の向きも家具の並びも違う。鞄を床へ置き、明日から使うものをどこへ収めるか考えながら、エレジは荷ほどきを始めた。


 エレジが海鳥を窓辺へ置くと、青いガラスを通った光が窓台に薄く映った。以前とは違う山並みを背にしていても、その小さな鳥は見慣れたままだった。


 残った荷物を収納し、明日使う制服と必要なものを取り出してから、鞄の内側のポケットを開けた。


 朝、荷物を扱うために外した銀の指輪は、小さな布袋に収めてある。

 羽根の模様を確かめ、左手の指へ戻した。

 荷物を運んでいる間は何もなかった指に感触が戻る。これからはこの部屋で暮らすことになるけれど、ここへ持ってきたものも、カイルと交わした約束も変わらなかった。


 エレジは収納を終えた机へ、明日持ち出すものだけを並べた。

 どの棚に何があるのか、まだ意識して確かめなければならない。それでも、自分の持ち物が収まると、案内された時より少し暮らす場所らしくなっていた。


     *


 リヒターの部屋には、以前の拠点より大きな収納棚が備え付けられていた。

 仕事で使うものは専用作業室や指定の保管場所へ運ばれているため、持ち込んだ荷物は私物が中心だった。衣類と本を収め、洗面用品を使いやすい場所へ置く。簪は明日の朝すぐに手に取れるよう、机の端へ置いた。


 廊下からは、知らない誰かの足音や扉を開閉する音が聞こえてきた。


 以前の拠点なら、二階を歩いているのが誰なのか、大抵は分かった。エレジがカイルの部屋へ行くこともあった。何か用事があれば、すぐ隣の扉を叩けば済んだ。

 ここでは男性三人の部屋が別の階にあり、ほかの居住者もいる。


 リヒターにとって、仕事と私生活の区画を分けられること自体は都合がよかった。元の仕事に関わる連絡も増えるだろうし、誰とどこで会うのか、今まで以上に考える必要がある。


 昨夜、自分から三人の身体の関係を終えると伝えた。

 ヨナスもマティアスも受け入れてくれ、今朝も普段どおりだった。決めたことを変えるつもりはない。けれど、荷物を片づけている間にも、マティアスから夕食の集合時刻について連絡が来ていないか、一度端末を確かめていた。


 まだ連絡はなかった。先ほどカイルがあとで送ると言っていたので、急ぐ必要もない。

 リヒターは机に端末を置いた。夕食になれば、また五人で会える。


     *


 宿舎一階の共用スペースには、夕食へ向かう居住者が何人か集まっていた。

 エレジとリヒターが下りると、マティアスが先に待っていた。ヨナスもほどなく合流したが、カイルは受け入れ担当者との最後の確認が残っているらしい。


「大尉、もう設備見てきたんですか?」


 マティアスはヨナスが少し遅れた理由を、どうやらそちらだと思ったようだった。


「まだですよ。今日は資料と権限の確認だけです」


「本当に?」


「本当です。少佐にも言われましたし」


「よかった。初日から迎えに行くことになるかと思いました」


「ロートは俺のことを何だと思ってるんですか」


 ヨナスには不本意らしいが、マティアスだけでなくほかの三人にも、彼が作業へ入り込むと時間を忘れることはよく知られている。


 カイルが合流すると、五人は一緒に食堂へ向かった。

 宿舎から食堂までは歩いて行ける距離だったが、途中には別の業務棟へ向かう通路もあり、帰宅する人とこれから勤務に入る人が行き交っていた。


 食堂には多くの軍人や職員が集まっていた。食事を受け取る場所と返却口が分かれ、壁には献立が掲示されている。


 五人は空いているテーブルを確保し、それぞれ食事を持ってきた。


「結構種類がありますね」


 エレジが選んだ皿には、主菜のほかに温野菜と付け合わせが盛られていた。リヒターも周囲の席を見ながら、自分の食事を置いた。


「日によって献立も変わるらしいわよ」


「じゃあ、しばらくは楽しめそうですね」


「あなた、食堂の案内をずいぶん詳しく聞いてたものね」


「毎日使うところですから。大事でしょう?」


 マティアスは食事の時間だけでなく、混み合う時間帯や、予定が変わった時の利用方法まで確認していたらしい。


「朝は何時からでしたっけ」


 ヨナスが尋ねると、マティアスは案内で聞いた利用時間を答えた。


「大尉、ちゃんと朝食食べに来てくださいよ。設備の方に行く前に」


「分かってます」


「明日は一緒に行きましょうか」


 エレジも誘うと、ヨナスは少し困ったように笑った。


「ヴァイス中尉まで、ロートと同じこと言わなくても」


 今までの共有スペースとは違い、すぐ隣のテーブルにも人がいる。五人は食事や施設について話し、進めている調査の詳細には触れなかった。


「中尉、周辺の地図は見ました?」


 マティアスも、午後に確認しきれなかった経路が気になっていたらしい。


「はい。建物の位置だけなら、だいたい分かりました。南側の通路を使うと、業務棟まで少し短いですね」


「やっぱり。俺もそう思ったんですよ」


「ただ、途中に通行権限のある区画があるので、普段の移動では別の道を使うことになると思います」


「じゃあ、明日確認ですね」


「はい。実際に歩いてみたいです」


 ヨナスも通信・解析部門までの経路について尋ねた。エレジが案内図で見た位置を説明すると、マティアスはそこから班の作業室へ戻る道を補足した。


 最初に向かう場所はそれぞれ違うが、戻る先は同じ作業室だった。


「少佐は明日、司令部ですよね」


「ああ。朝は全員作業室に集まれ。確認事項と分担を合わせてから、それぞれ動く」


 カイルが予定を伝えると、ヨナスは通信・解析部門で接続と設備の確認を、リヒターは関係部署との連絡を進めることになった。カイル自身は司令部で今後の運用について調整する。


「ヴァイスとロートは、作業室の準備と周辺資料の確認を進めてくれ。搬入した装備の確認も頼む」


「了解です」


「はい」


「各自、確認したことは班に戻して共有する。向こうの部署で話が進んだ場合も、ここでの判断が必要なものは持ち帰れ」


 その日のうちに全員が同じ仕事をする必要はない。専門部署とのやり取りが増えても、五人で判断するための情報は、作業室へ戻して揃える。今までと違うのは、そのために各自が別の建物を行き来するようになることだった。


 食事を終える頃には、翌朝の集合と最初の分担まで決まっていた。


     *


 食堂を出ると、山側から涼しい風が吹いていた。


 業務棟にはまだ明かりのついている窓があり、宿舎へ戻る人たちが同じ道を歩いている。元の拠点では、夕食後に五人で建物の外へ出ることはあまりなかった。食べ終えればそのまま厨房を片づけ、共有スペースで過ごすか、二階の部屋へ戻っていた。


 今夜は食堂から宿舎まで歩き、入口を通ってからも、それぞれの部屋へ向かう必要がある。


 男性用の居住階へ向かう階段と、四階へ続く通路の前で、五人の行き先が分かれた。


「じゃあ、また明日の朝ですね」


 マティアスが言うと、カイルは彼を見た。


「ああ。遅れるなよ」


「少佐、それ俺だけに言ってません?」


「全員に言ってる」


「本当ですかね」


「俺も遅れませんよ」


 ヨナスまで答えたので、マティアスは自分だけが心配されているわけではないらしいと笑った。


 エレジは、そのままカイルと別れる前に聞いておきたいことがあった。


「少佐。……あとで行ってもいいですか?」


「ああ。来い」


「部屋、三階でしたよね」


「そうだ。場所を送っておく」


「ありがとうございます。荷物も片づいたので、少ししたら行きます」


「分かった」


 今までなら、同じ二階へ上がって隣の扉を叩けばよかった。ここでも会えなくなるわけではない。ただ、まだ彼の新しい部屋を訪ねたことはなく、今夜は場所を教えてもらってから向かうことになる。


 リヒターはエレジと一緒に四階へ向かった。


「リヒター大尉は、部屋はもう片づきました?」


「ええ。エレジは?」


「私もです。海鳥も窓辺に置けました」


「ああ、あの青い子ね。割れなくてよかったわ」


「はい。ちゃんと持ってこられました」


 四階には二人以外の居住者の部屋も並んでいる。以前の拠点では、階段を上がればマティアス、ヨナス、カイル、エレジ、リヒターの順に扉が並んでいたが、ここでは部屋番号を確かめて歩かなければならない。


 エレジはあとでカイルを訪ねるために、一度自室で持っていくものを確認するつもりだった。リヒターも明日の支度を終えてから休もうと思っている。


「じゃあ、また明日ね」


「はい。おやすみなさい、大尉」


 自室の前でリヒターと別れたエレジは、あとでカイルを訪ねるために部屋へ戻った。


 


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