関係の終わり
食器を収めた箱に蓋をすると、厨房の棚が奥まで見えるようになった。
翌朝使うカップだけが五つ、調理台の端に残っている。リヒターは棚に置き忘れがないか確かめた。いつも布巾を掛けていた場所にも、もう何もない。最後に使った布巾を箱へ入れようとすると、向かいで荷物を整理していたマティアスが手を差し出した。
「それも入れます?」
「ええ。もう使わないでしょうから」
受け取った彼が箱の隙間へ収めた。明日の朝食は火を使わずに済むものを用意してある。今夜の料理に使った鍋も、エレジと何度も並んで使った道具も、これで全部片づいた。
移送する機材は夕方までに積み終えていた。私物も大半を運び出し、各自の部屋には寝具と翌朝必要なものが残るだけになっている。それでも、片づけが済んだからといって、誰もすぐには二階へ戻らなかった。
テーブルには夕食の時に開けた酒が残っていた。以前買っておいたものを見つけたマティアスが、今夜少し飲まないかと言い出したのだった。カイルも翌日の移動に響かない範囲で了承し、五人は食後も同じ席にいた。
「ここ、来た時より物が増えてたんですね」
エレジが空いた棚を見ながら言った。
「少しずつ買い足してたからね」
「調理道具も、最初はこんなになかったですもんね」
「あなたが使うものも増えたでしょう」
リヒターに言われ、エレジは頷いた。初めは何をどこへ戻せばいいか、その都度聞いていた。今ではリヒターが次に使うものを先に出せることもあるし、明日の荷物をまとめる時にも、どれを一緒に入れればいいかは自然に分かった。
「向こうは食堂でしたね」
「ええ」
今までのように、仕事を終えた五人の食事を毎日用意することはなくなる。共用の厨房はあるものの、勤務の時間も変わるだろう。リヒターはグラスを手元へ寄せ、次に何か言おうとして、結局そのままひと口飲んだ。
ヨナスは向こうの作業室のことへ話題を移した。
「接続の確認は、着いてからになります。資料では使えるはずなんですけど、実際につながないと分からないところがあるので」
「初日から帰ってこなくならないでくださいよ」
「そこまではしません」
「少佐、今の聞きました?」
「聞いた」
マティアスがすぐにカイルへ確認を取るのも、ヨナスが作業に入り込むと時間を忘れることを知っているからだった。ヨナスにしてみれば、まだ使ってもいない設備について信用されていないのが不満らしい。
「必要な確認ですからね」
「分かってる。夕食までには戻れって話だ」
「……分かりました」
エレジが笑い、マティアスもグラスへ口をつけた。
笑いが収まると、冷蔵庫の低い音が聞こえた。普段なら誰かが厨房で何かを片づけたり、翌朝の支度を始めたりしている時間だったが、もうその必要もない。棚が空いているせいか、五人の声もいつもより少し響いていた。
*
壁の時計は、いつもならそれぞれが部屋へ戻り始める時刻を過ぎていた。カイルが時間を確かめると、隣のエレジもそれに気づいた。
「そろそろ戻りますか」
「ああ」
「じゃあ、私も」
エレジはカイルと目を合わせた。今夜は隣の自室ではなく、彼と一緒に過ごしたい。言葉にしなくても伝わったらしく、カイルも席を立った。
「それ、俺たちが片づけときます」
マティアスが二人のカップを引き受けた。まだ飲み終わっていない三人には、もう少しここで過ごすつもりがあるようだった。
「ありがとうございます」
「明日、寝坊しないでくださいね」
「お前がな」
カイルに返され、マティアスは笑った。
二階へ上がると、廊下にも荷物はなかった。カイルの部屋は机の上まで片づいていて、椅子の背に掛かった服だけが、まだ今夜ここで過ごすことを示している。
エレジはベッドの端へ座った。いつもなら机や棚に置かれているものがなく、壁までの距離が少し遠く感じられる。
「本当に出るんですね」
「そうだな」
「片づけてる間は、やることがあったので、あまり考えなかったんですけど」
明日になれば、この部屋もエレジのくる場所ではなくなる。カイルが隣へ座ると、エレジはその肩へ身体を寄せた。部屋から物がなくなっても、彼と過ごす時の距離は変わらなかった。
「私、この部屋も好きでした」
カイルは、彼女が見ていた机や棚を一度眺めた。自分にとっては仕事を終えて戻る部屋だったが、エレジにとっては、それだけではなかったのだろう。
「よく来てたからな」
用事がある時だけではなかった。本を持って来た日も、少し話したくて来た日もある。そうして過ごせることを、短い時間だったのに、いつからか当たり前に思っていた。
カイルが背中へ腕を回すと、エレジは彼の肩へ頬を寄せた。
「今夜は、ここにいてもいいですか」
「ああ」
彼の服を左手で軽くつかむと、指輪が布に触れた。カイルがその手へ自分の手を重ねたので、エレジも指を開いて握り返した。
明日から暮らす部屋がどんな場所なのか、まだ写真でしか知らない。二人で過ごす時にどこへ座るのかも、どんな音がするのかも分からない。今は、肩を預けたところにカイルの体温がある。
エレジは顔を上げ、彼へ口づけた。離れたあとも手はつないだままで、カイルが頬へ触れると、その掌へ少し顔を寄せた。
*
共有スペースでは、マティアスが空いたカップを洗っていた。ヨナスは酒の瓶に栓をし、テーブルの端へ寄せている。
カイルとエレジがいなくなり、片づけも終わりかけていた。三人がそれぞれの部屋へ戻る前に、リヒターには伝えておきたいことがあった。
「少し、話しておきたいことがあるの」
マティアスが布巾を置き、ヨナスも椅子へ戻った。二人が話を聞くために席へ着いてくれたので、リヒターは予定していたことをそのまま口にした。
「向こうへ行ったら、三人で身体の関係を持つのはやめようと思ってる」
マティアスは向かいの席へ座った。今夜の片づけが終われば、明日からは三人の生活する階も分かれる。けれど、リヒターの話は、単に会う機会が減るという意味ではなかった。
「環境が変わるからですか」
「ええ。元の仕事に関わる用件も増えるでしょうし、今までと同じようには過ごせないと思うの」
ヴェルナーの近くで働くことになる。ハシュヴァルトも出入りする。誰に何を見せ、どこまで話してよいかを考えなければならない。二人といる時に緩んでいたものを、そのままにしておくことは難しかった。
「誰かに言われたからじゃないですね」
「ええ、私が決めたことよ」
ヨナスはそれを聞いて頷いた。リヒターの意思なら受け入れるという点では、マティアスも同じだった。ただ、宿舎の階が分かれても会うことはできるし、仕事が増えるのも五人とも同じだ。マティアスには、それだけが理由ではないように思えたが、それ以上は聞かなかった。
「大尉がそうしたいなら、分かりました」
引き止められないだろうとは思っていた。それでも、実際に受け入れられると、リヒターは用意していた次の言葉を出すまでに少し時間がかかった。
「短い間だったけど、楽しかったわ」
ここで一緒に暮らす前には、こんな時間を持つことになるとは考えていなかった。自分が何を望んでいるか分からないままでも、聞いてくれる人がいた。答えを待たれて、考えて、初めて口にしたこともあった。
ヨナスが、まだテーブルに残っていた三人のグラスを見た。
「じゃあ、今日はまだ、いいですか」
リヒターはヨナスを見た。その先を聞かなくても言葉の意味は分かった。
「今日までなら、まだ三人で過ごせます?」
マティアスも彼女の返事を待った。二人とも決めたことを変えさせようとはしていない。ただ、今夜までは終わりではないかと聞いている。
明日から距離を置くと伝えたばかりなのに、リヒター自身も、今ここで二人と別れたいとは思わなかった。
「……ええ。私も、今夜は一緒にいたいわ」
*
マティアスの部屋には、翌朝持ち出す鞄と寝具だけが残っていた。普段なら机に置かれている小物もなく、ヨナスがいつもの椅子をベッドへ寄せる音が、やけにはっきり響いた。
リヒターがベッドの端へ腰を下ろすと、マティアスが隣へ来て、彼女の腰を抱いた。リヒターも彼に身体を寄せる。そこへヨナスが近づき、髪を耳へかけてキスをした。リヒターが応じると、今度はマティアスが頬へ口づける。
「ちょっと、二人とも」
「嫌ですか?」
「嫌じゃないけど。今日はずいぶん遠慮がないのね」
「最後なんでしょう?」
「だからって、二人揃って」
「俺も最後なら、したいことはしておきたいです」
ヨナスまで当然のように言うので、リヒターは笑ってしまった。
二人とも、普段から彼女の反応には気を配ってくれる。今夜もそれは変わらない。ただ、近づきたいと思えばそのまま近づいてきて、キスを一度で終わらせようともしなかった。
酒を飲んでいるせいもあるのだろう。マティアスが彼女を抱き寄せれば、ヨナスも自分の番を待たずに頬へキスをする。リヒターがヨナスの方へ向けば、マティアスが彼女の手を取って指先へ唇を寄せた。
リヒターは二人ともかわいくなって、まとめて抱き寄せた。すると今度は左右から頬へキスをされ、笑いながらどちらへ向けばいいのか分からなくなった。
ヨナスが離れたのは、マティアスが彼女の背中へ腕を回した時だった。
「先に二人でどうぞ」
以前にもヨナスが望んだ過ごし方だった。リヒターはその意味を理解して頷いたが、改めてマティアスと二人で向き合うことになると、さっきまでとは違う照れくささがあった。
「こっち、来てもらっていいですか」
マティアスは、彼女が隣にいるのにわざわざそう言ってくれた。
リヒターが近づくと、彼の手が背中へ回った。いつもより長く見つめられ、何か言おうとした言葉が出なくなる。先に顔を寄せたのはマティアスだった。
唇が離れても、彼はすぐには腕を解かなかった。リヒターも離れる気になれず、彼の襟元へ指を添えた。
「大尉」
呼ばれただけなのに、声が近いことが嬉しかった。
「なに?」
以前なら、もっと素直に彼を求められた。今は、彼に抱きしめられることも、自分の名前を呼ばれることも、必要以上に意識してしまう。そんな自分を知られたくなくて肩へ顔を寄せると、マティアスはそのまま彼女を抱きしめてくれた。
「今夜は、もう少しこうしてたいです」
リヒターは頷いた。自分が彼を好きだと分かる前にも、こうしてもらったことはあった。それなのに今は、同じ言葉をそのまま受け取るだけではいられない。
マティアスが彼女の顔を見ようとしたので、リヒターはそれを避ける代わりに、自分からもう一度口づけた。
*
二人の時間が終わっても、リヒターはマティアスの腕の中にいた。
彼が乱れた髪を直してくれていると、待っていたヨナスが椅子を離れた。今夜も二人が完全に落ち着くまで待つつもりはない。ベッドへ近づくと、リヒターを自分の方へ抱き寄せ、そのままキスをした。
「……ヨナス」
「最後ですから、いいですよね?」
「ええ」
リヒターは彼にも腕を回した。
マティアスはすぐそばに残っていた。ヨナスにとっては、そのことも含めて望んでいた時間だった。
リヒターがキスを返したあと、マティアスの方を見た。まだ近くにいる彼を確かめるような、その短い視線を追って、ヨナスは初めて思い当たった。
彼女は、マティアスを好きになったのかもしれない。
リヒターはヨナスにも自分からキスを返し、彼との時間を楽しんでいる。それは以前と変わらなかった。けれど、マティアスへ向けるものには、今までとは違う気持ちが混じっているように見えた。
彼女が本当に好きになったかもしれない相手が、すぐそこにいる。その彼と過ごしたあとで、今は自分を受け入れてくれている。
思わず、抱き寄せる腕に力が入った。
「……ヨナス?」
リヒターの声で、ヨナスは普段より強く抱いていたことに気づいた。驚かせたと分かり、すぐに力を緩める。
「すみません。少し夢中になりました」
リヒターは彼の背中へ回していた腕を解かなかった。ヨナスがもう一度キスをすると、自分からも近づいてくれる。
その途中、リヒターはまたマティアスを見た。
ヨナスは以前の夜よりも、今夜の方がずっと気に入っていた。理由を口にすれば、彼女がまだ話していないことまで聞くことになるかもしれない。ヨナスは隠すように、リヒターの肩に口付けた。
*
マティアスが持ってきた三人分の水は、ベッドの脇へ並べられた。
リヒターは枕を背にして座り、渡されたボトルを両手で持っていた。隣ではヨナスが水を飲み、マティアスもベッドの端へ腰を下ろしている。机の上には明朝持ち出す鞄があるだけで、三人が飲み終えたボトルを置く場所も、もうここにはなかった。
明日の起床時刻も、運ぶ荷物も、確認は済んでいる。誰も新しい話を始めなかったが、帰ろうとも言わなかった。
ヨナスが水を飲み終えると、リヒターは彼に何か言おうとした。今夜はいつもより強く求められたし、その理由を少し聞いてみたい気もした。けれど、彼も満足そうにしているので、結局笑うだけになった。
ヨナスは何も尋ねず、彼女の肩へ軽く触れた。リヒターは水をひと口飲み、ボトルを膝の上へ戻した。
自分から終わりにすると伝えた関係だった。向こうへ行けば、三人でこうして集まることも減るだろう。それは必要だと思って決めたことで、今も変えるつもりはなかった。
ただ、今夜くらいは、もう少しここにいたかった。
隣のマティアスに肩が触れている。彼も帰るようには言わず、リヒターが寄りかかると、そのまま受け止めてくれた。




