初めて髪を下ろしたとき
窓の外にはまだ低い朝の光しかなく、拠点の周囲も静かだった。マティアスがこんな時間に起きるのは珍しかった。
もう一度眠ろうかと思ったが、喉の渇きを覚え、水を飲みに部屋を出て階段を降りた。
共有スペースに入ると、テーブルには半分ほど残ったコーヒーと小さな鞄、薄い上着が置かれていて、誰のものかはすぐにわかった。物音がして、その方向に向かって声をかける。
「早いですね。出かけるんですか」
厨房の奥にいたリヒターは驚いたようにマティアスを見た。
「もう起きたの? どうしたの?」
マティアスがこの時間に起きていることに驚きを隠せないらしく、マティアスはコップを取り出しながら苦笑いした。
「そんな、まるで雹でも降るかみたいに言わなくても」
「まさに今言おうとしたわ」
「やっぱりね。それで、どこか行くんですか?」
「ええ。街で会う人がいるの」
私用で出かける時とは少し違う言い方だった。目立つ装備はないが、この時間を選んで一人で会いに行く相手なら、仕事と無関係ではなさそうだった。
「荷物持ちはいります?」
リヒターはその申し出に少し笑った。
「一緒に行きたいの?」
「要員が必要なら行きます」
「あなたが行きたいなら連れてくわ」
お互いに見合う。どちらも引かず、マティアスが軽く息を吐きながら折れた。
「……じゃあ、行きます」
「そう。じゃあ朝食だけ食べて。急がなくていいけど、あまり遅くはしたくないの」
それ以上、会う相手について説明するつもりはないらしい。マティアスも聞かなかった。
*
街へ入っても、開いている店はまだ少なかった。通りには搬入用の車が何台か停まり、店先では看板や商品を外へ出し始めている。昼間なら人の声に埋もれる荷車の音や靴音が、今は石畳によく響いた。
リヒターは中心部を抜ける前に大通りを外れ、古い建物の並ぶ細い路地へ入った。
先には小さなパン屋と、その向かいにまだ閉まったままの雑貨店がある。マティアスがそのままついて行こうとすると、リヒターはそれを止めた。
「ここからは少し待ってて」
「一人で会った方がいい相手なんです?」
「その方が話しやすい人なの。あなたを隠す必要はないけど、同席させる必要もないわ。すぐ戻るから」
マティアスは脇にある低い石壁のそばに残った。そこからならリヒターが路地の奥へ入っていくところまでは見えるが、話の内容までは届かない。
建物の陰には、すでに一人の男が待っていた。マティアスよりかなり年上で、軍人らしい格好ではない。朝の仕事へ向かう途中で知人と立ち話をしているようにしか見えなかった。
男はリヒターと言葉を交わしてから、路地の入口へ目を向けた。
「珍しいな。今日は誰か連れてきたのか」
リヒターもそちらを見る。石壁のそばにいるマティアスは、こちらの様子を窺うでもなく、通りを眺めて待っていた。
「今の仲間よ」
「仲間?」
「ええ」
男はそれ以上そこには触れず、声を落とした。
「前に聞かれた件だが、やっぱり妙なのがいる。直接場所を聞くんじゃなくて、支援先を順に辿ってる」
「同じ人?」
「全部じゃない。少なくとも二人。聞き方も違う。ただ、知りたがってる先は近い」
「次にどこを使うか、まで?」
「そこまではまだ。ただ、部隊がどこを経由するか知りたがってる感じだな」
今の段階で決めつけられることは少ない。それでも、複数の人間が別々のやり方で似た情報へ近づいているなら、偶然として片づけるには早かった。
「名前は?」
「一人は取れた。もう一人はまだだ。あとでいつものところへ回す」
「助かるわ」
「そっちも面倒になってきたな」
「まだ分からないわ。だから見てるところ」
推測を増やすより、今は確認できた範囲を持ち帰る方がいい。
話を終えた男は、去る前にもう一度マティアスの方を見た。
「しかし、本当に仲間なんて連れて歩くようになったんだな」
リヒターも同じ方向へ目を向けた。以前なら、一人で来て一人で帰ることに何の違和感もなかった。
「そうね。今は、いるから」
男は何も言わず、片手だけ上げて通りの向こうへ消えていった。
*
「待たせたわね」
戻ってきたリヒターに、マティアスは石壁から離れた。
「いえ。終わりました?」
「ええ」
すぐ拠点へ戻るのかと思ったが、リヒターは路地の向こうへ目を向けた。角の先から焼いたパンの匂いが流れてきていて、まだ静かな通りの中ではそれがよく分かった。
「あそこ、朝早くからやってるパン屋なの。せっかくだから寄っていく?」
ふたりで歩いていくと、店先には焼き上がったばかりのパンが並んでいた。リヒターは迷わず一つを選び、マティアスは隣の棚をしばらく見てから、砂糖のかかったものを取る。
「それ、結構甘いわよ」
「大尉は甘いの嫌いなんですか?」
「嫌いじゃないけど、朝からそれを選ぶとは思わなかっただけ」
「じゃあ食べます?」
「自分のために選んだんでしょう」
「一口くらいなら」
店を出てから半分に割って差し出すと、リヒターは結局それを受け取った。代わりのように、リヒターも自分の買ったものを割って渡した。
「これ熱すぎません?」
触りづらそうにする彼のようすにリヒターは笑った。
仕事の話をしていた路地から離れるにつれ、街にも少しずつ人が増えていく。窓を開ける音や荷車の軋む音の間を、二人はパンを食べながら歩いた。
途中でリヒターが小さな食料品店へ入り、夕食に使うらしい野菜と包みをいくつか買うと、今度こそマティアスの役目もできた。
「結局、荷物持ちになりましたね」
「自分から名乗り出たんでしょう」
「そうでした」
袋を受け取ったまま中心部を抜けると、リヒターは帰路ではなく、街の外側へ続く坂へ曲がった。
「こっち、帰り道じゃないですよね」
「少し遠回り。でも朝なら人が少ないの。景色もいいわよ」
坂を上がるにつれて店や住宅が減り、街の音も遠ざかっていった。さっきまでの接触で頭に残っていた仕事の気配も、風の音に紛れるように薄くなっていく。
やがて建物の間が開け、街を見下ろせる高台へ出た。まだ朝の色を残した屋根が下に連なり、その向こうには山裾が続いている。人影は少なく、二人で歩くには静かすぎるくらいだったが、リヒターはその静けさを気にしていないようだった。
しばらく街を眺めながら歩いてから、ふと思い出したようにマティアスが口を開く。
「この感じ、うちの実家の感じと近いです」
「高いところなの?」
「それも、この道の感じが」
リヒターはふーんと前を見ながらあるいたが、数歩のところで振り返る。
「ねえ、あなたってどんな子供だったの?」
「俺ですか?」
「ええ。前にエレジと少佐の課程中の話を聞いたでしょう。あなたにも、私が知らない頃があるなって思って」
マティアスは少し考えた。子供時代に、わざわざ語るような大きな出来事があったわけではない。何を話せばいいのか迷うくらいには普通だった。
「うち、兄弟多いんですよ」
「そうなの?」
「はい。兄と弟と妹もいて。下が多いから、俺はほぼほったらかしっていうか。別に嫌だったわけじゃないですけどね。兄弟仲も悪くないし。ただ、そんなにお互い干渉しない家でした」
「なるほどね。なんだかわかるわ」
「何がです?」
「そのままって感じ」
自分ではつながらず、マティアスは首を傾げた。
「俺、そんなに放っておく感じですか」
「そういう意味じゃないわ。あなた、相手のことはよく見てるけど、必要以上には踏み込まないでしょう。でも、面倒見はいいものね」
「それは、ありがとうございます」
「エレジも初めて会った頃からあなたのこと信用してたし」
「付き合いが長いですからね、ほかよりは」
「課程中からよく気にかけてたの?」
「まあ、女性一人でしたからね。気にはしてましたよ」
「それだけ?」
そこまで言われると、思い当たることはある。それでも、マティアスには別のところが引っかかった。
「でも大尉の最初の俺の印象は、軽い男だったんでしょう?」
「ええ、そうね」
迷いのない返事に思わず眉が寄ると、それがおかしかったらしく、リヒターは笑った。
「そんな顔しなくてもいいじゃない。今はもう違うわ」
「軽くないって分かりました?」
「ええ。よくね」
さらりと返されたのに、その言葉は思ったより嬉しかった。自分がどういう人間かを、今のリヒターなら知っていると言われたような気がした。
「じゃあ、大尉のも言いましょうか?」
「私?」
「俺の最初の印象を言ったんだから、こっちも言わせてください。俺、大尉のこと最初どう思ってたと思います?」
「知らないわよ」
「綺麗な人だなとは思いました」
「見た目だけ?」
「最初は」
少し眉を上げたリヒターが、その先を待つ。
「中身は違ったってこと?」
「思ったより家庭的だなとは思いました」
「家庭的?」
「料理めちゃめちゃできるし、中尉に教えてる時も丁寧だし。もっと何でも一人で済ませる人かと思ってました」
「それ、褒めてる?」
「褒めてますよ。俺は最初から印象よかったです」
「それはどうもありがとう」
軽く返しながらも、声には少し嬉しそうな響きが混じっていた。
二人はそのまま高台の道を進んだ。日の当たる方向が変わり、リヒターの簪が光を反した。それを見て、マティアスは印象の話をもう一つ思い出した。
「そういえば」
「なに?」
「いや、印象の話の続きです。髪、最初に下ろした日があったでしょう」
「ああ。簪に毒を仕込んでるって話をした時ね」
「はい。あの、初めて髪を下ろしたのを見たとき……」
口に出すところまで来てから、思ったより恥ずかしいことを言おうとしているのに気づいた。それでも、ここまで振っておいてごまかす方が妙だった。
マティアスが立ち止まると、少し先へ行っていたリヒターも振り返った。
「何?」
「……女神みたいだって思いました」
リヒターは目を見開き、言葉の意味を受け取るまで少し黙った。
それから堪えきれなかったように、声を上げて笑い出した。
「女神? 私が?」
「そんなに笑わなくてもいいでしょう」
「だって、女神って」
「そう思ったんだから仕方ないじゃないですか」
普段の柔らかな笑い方とは違って、リヒターはまだ笑っていた。そのまま髪をまとめている簪へ手をかける。
「こんなことで神様になれるなら、いつでもやるわ」
簪を抜くと、淡い金の髪が肩から背中へほどけ、風を受けて大きく揺れた。マティアスは思わず見入った。
最初に見た時と同じ髪だった。けれど、今はあの頃よりずっと多くを知っている。
料理をすることも、仕事では容赦がないことも、誰かへ教える時には思った以上に丁寧なことも知っている。
三人で夜を過ごす時の表情も、眠そうな朝の顔も、もう知らないものではなかった。
「……やっぱり綺麗です」
笑っていたリヒターの目が、少しだけ細くなった。目には薄く涙の膜が揺れている。
笑いすぎたせいなのか、それだけではないのか、リヒターは自分でもうまく分からなかったが、今はマティアスの近くへ行きたかった。
数歩あった距離を詰めて頬へ手を添えると、マティアスは避けず、むしろこちらへ少し近づいた。
何かを決めたわけでも、言葉で確かめたわけでもない。それでも互いに同じことを望んでいるのは分かって、風の音の中で唇が触れた。
離れても、リヒターの手はそのまま頬に残っていた。
「大尉。今は、それだけじゃないですよ」
続きがあるのだと分かって、リヒターは近い距離のまま彼を見上げた。
「かわいいって思ってます」
今度は声を上げて笑うことはなく、口元だけがゆっくり緩んだ。
頬から下ろした手をマティアスの胸へ置くと、その下に心臓の音があった。近くで見る顔も、さっきまで話していた声も、自分を見る目も、もうよく知っている。
その時、それまで自分の中で形のなかったものがはっきりした。
自分は、マティアスを好きになっている。
そう分かった瞬間、胸の内側へすとんと何かが収まった気がした。同時に、それをそのまま口に出すことはできなかった。
「どうしました?」
マティアスは、さっきまでとは違うリヒターの様子には気づいたらしい。
「なんでもないわ」
リヒターが手を離してまた前を歩き出すと、マティアスもそれ以上は聞かず、足元へ置いていた荷物を持ち直した。
リヒターは手に残っていた簪で髪をまとめ直すと、二人は並んで高台から街へ続く坂を下っていった。




