別の人のもの
マティアスの部屋には、夕食後に持ち込んだ三人分のカップがまだ机の上に残っていた。冷房の風が弱く回る中、ヨナスは机の椅子に座り、リヒターはベッドの端、マティアスはその隣に腰を下ろしている。
誰かが帰ろうと言い出す気配もなく、仕事とは関係のない話だけが途切れ途切れに続いていた。
話題が一度切れたところで、リヒターは以前の夜を思い出した。
「そういえば、前に共有スペースでマティアスとキスした時、ずいぶん真剣に見てたわよね」
「ああ、そうでしたね。好きなので」
あまりにも普通の返事だったので、マティアスの方が少し驚いた。
「見るのが?」
「はい。二人がしてるのを見るのは好きです」
ヨナスにとっては、聞かれたから自分の好みをそのまま答えているだけだった。リヒターはその様子に興味を引かれた。
「見るだけなの?」
「それだけ、というわけではないです」
「どういうわけなの?」
ヨナスは少し困ったように片眉を下げた。
「性癖みたいな話になりますけど、聞きたいですか?」
「性癖?……ええ、聞きたい」
「二人だけでちゃんと最後までして、そのあと、まだその感じが残ってるうちに俺が大尉としたいと思ってます」
今度は二人とも少し黙った。
言っている意味が分からないのではない。思っていたよりずっと具体的だった。
「私が先にマティアスといて、そのあとあなたと?」
「はい」
「途中で三人になるんじゃなくて?」
「それだと少し違います」
マティアスもようやく形を掴んだらしい。
「一回、俺たちだけで最後までした方がいいんですね」
「そうですね。その方が好きだと思います」
「かなりはっきりしてるのね」
「自覚はあるので」
ヨナスは何でもないことのように答えた。
「名前をつけるなら、寝取るに近いんだと思います。ただ、実際にやったら罪になるので、やったことはないです」
自分とは別に二人が親密になる。その時間を見て、まだその余韻が消えないうちに、今度は自分がリヒターと向き合う。
「それを、やってみたいの?」
「そうですね、できるなら」
リヒターは少し考えてから、隣のマティアスを見た。
「じゃあ、今日やってみる?」
マティアスの表情に一瞬だけ意外そうな色が出たが、嫌そうではなかった。
「俺はいいですよ」
「ヨナスは?」
「二人がいいなら」
決まった途端、さっきまで三人で使っていた部屋が少し違って見えた。
ヨナスが椅子に残っていることより、これから自分たち二人だけで向き合うことの方が、急に意識に上がった。
三人で触れ合う時なら、誰かが笑ったり、もう一人へ意識が移ったりする。その流れの中では自然に近づけたのに、今日は違う。
最初から最後まで、自分と相手だけを見ることになる。
リヒターも同じことを意識したのか、さっきまでより少しだけ落ち着かない様子でマティアスを見る。
「……なんだか、変ね」
「俺も思いました」
「今さらなのに」
「今さらだからじゃないですか」
二人とも、すでに互いへ触れたことはある。それでも、最初から「二人だけでちゃんとする」と決めて向き合うのは別だった。
マティアスは少し迷ってから、リヒターの頬へ手を添えた。
触れた瞬間、リヒターの表情がわずかに変わる。普段ならそのまま進められる程度の接触なのに、今日は互いにそこへ意識が集まりすぎていた。
マティアスもそれを見て、少し笑う。
「緊張してます?」
「あなたもでしょう」
「……まあ」
そう答えると、リヒターも少し笑った。その笑いでようやく距離が縮まり、マティアスは顔を近づける。
唇が触れたあとも、すぐには深く進まなかった。何度か触れて、離れて、また近づく。そのたびに、互いがどう受け取っているのかだけを確かめる。
ヨナスに見せるためではなかった。
むしろ、二人とも途中から彼の存在をほとんど意識しなくなっていった。
今まで三人の中で自然に触れてきた相手と、改めて二人だけのものとして向き合っている。そのことの方が、リヒターにもマティアスにもずっと強く響いていた。
マティアスは細かく言葉で確認する代わりに、リヒターの反応を見る。
近づけば逃げない。
唇を離せば、わずかに追ってくる。
触れ方を変えると、呼吸が少し変わる。
その一つずつを受け取りながら進めているうちに、最初のぎこちなさは少しずつ消えていった。
リヒターも、逐一言葉にされないことを不安には感じなかった。自分が少し近づけばマティアスも距離を詰め、力を抜けば、それに合わせて触れ方が変わる。自分の反応を見ているのが分かるからこそ、余計な言葉を挟まずにいられた。
最初はどこかうぶなほど互いを意識していたのに、気づけば、その照れより相手に触れていることの方が強くなっていた。
途中でリヒターが一度だけヨナスの方を見て目が合った。
「そのままでいいですよ」
ヨナスがそう言うと、リヒターは少し笑い、またマティアスへ向き直った。
そこから先は、もう二人だけの時間だった。
マティアスが触れ方を変えるたび、リヒターの呼吸も変わっていく。最初はまだ言葉を返していたのに、だんだん短い息だけが残り、身体の力も抜けていく。マティアスも、そんな反応を見ながら距離を詰めていた。
ヨナスは、その全部を見ていた。
自分に向けられていない表情も、自分には返されない反応も、嫌ではなかった。
むしろ、自分とは関係なく二人の間で親密さが深まっていくことに、強く惹かれた。
二人ともヨナスが部屋にいることを忘れたわけではない。ただ今は、目の前にいる相手への意識の方が強い。
その状態になるのを、ヨナスは静かに見続けた。
*
マティアスが身体を離した時、部屋にはまだ二人の呼吸が残っていた。
リヒターは枕に身体を預けたまま、すぐには起き上がれない。髪は乱れ、頬には熱が残っていて、呼吸もまだ浅い。
マティアスもベッドのすぐ脇から離れてはいなかった。
その状態を見て、ヨナスは椅子を離れた。足音に気づいたリヒターが顔を向ける。
「……今?」
「はい」
待つつもりはなかった。完全に落ち着いてからでは、ヨナスにとっては少し違う。
さっきまでマティアスと一緒だった時間が、まだリヒターの身体にも意識にも残っている。
ベッドへ近づくと、リヒターはまだ少しぼんやりした目でヨナスを見た。
それでも拒むことはなく、伸ばされた手を受け入れる。
「まだ息、戻ってないですね」
「あなたが待ってくれないからでしょう」
「待たない方がいいので」
そこでようやく、リヒターにもヨナスが言っていたことが実感として分かったらしい。
「そういうことなのね」
「はい」
距離が縮まると、整わないままのリヒターの呼吸がまた変わった。
さっきまでとは別の相手が近くにいても、マティアスとの時間はまだ消えていない。
乱れた髪も、頬に残った熱も、浅い呼吸も、その全部が少し前までの時間を残している。しかも、その相手だったマティアスはまだ同じ部屋にいる。
ヨナスは、その状況ごと気に入っていた。今度は自分へ身体を預けてくるリヒターを受け止める。
誰かから奪ったわけではない。マティアスもリヒター自身も分かったうえでそうしている。
それでも、ほんの少しだけ、さっきまで別の相手といた人が今は自分の方へ来ている、という感覚がある。
ヨナスが欲しかったのは、それだった。マティアスは途中で何も言わず、ベッド脇に残っていた。
その存在も、ヨナスにはちょうどよかった。
少し前までこの二人が一緒だったという事実が、部屋の中から消えない。リヒターも、ヨナスが何を好んでいるのかもう分かっていた。
リヒターは途中で一度マティアスの方を見た。すぐには戻らず、そのまま少し視線を残してから、ヨナスへ向き直った。
ヨナスの反応を見て、リヒターが小さく笑う。
「これも好きなの?」
「かなり」
それからは、もう説明する必要もなかった。
*
三人分の水がベッド脇に並ぶ頃には、部屋の空気もようやく落ち着いていた。
リヒターは枕を背にして座り、ヨナスはその隣にいる。マティアスは少し離れた位置に腰を下ろし、自分のボトルを開けた。
「こういうのが好きなのね」
さっき実際にやったことで、リヒターにももう細かい説明はいらなかった。マティアスは水を飲んでから、ヨナスを見る。
「途中で三人になるのとは、本当に違うんですね」
「違いますね」
はっきりした返事に、リヒターはボトルを持ったまま少し笑った。




