それぞれのキス
左手を動かすたび、薬指の銀が室内灯を拾った。
帰還後に開いた鞄はまだ床に置いたままで、明日に回したものも残っている。けれど、エレジの意識はそこには向かなかった。
海辺でつけてもらってから一度も外していない指輪を、机の前で何度も角度を変えて見ていた。
羽根を模した細い線の奥に光が入り、動かすたびに淡く反射する。
今日一日、カイルとは同じ車にいた。途中では隣にも座り、帰着してからも一緒に荷物を運んだ。それでも、今こうして一人で指輪を見ていると、もう少し近くにいたくなった。
エレジは立ち上がり、数歩先の隣室へ向かった。
扉を叩くと、少ししてカイルが開けた。もう私服に着替えていて、机の上には帰還後に持ち込んだ書類が一つにまとめられている。椅子の背には上着が掛かり、八日間留守にしていた部屋は、少しずついつもの夜へ戻り始めていた。
「どうした」
「会いたくなって」
口にすると、それは自分で思っていたよりもずっと自然に出た。
カイルは理由を聞き返さず、わずかに表情を緩めて身体をずらす。
中へ入ると、以前動かしたベッドが今もエレジの部屋側の壁に寄せてあるのが見えた。そのベッドを見るだけで、任務先ではなく帰ってきた場所なのだと感じられた。
「なんだか、久しぶりですね」
「ああ」
二人でベッドの端に座ると、マットレスが沈み、膝が近くなった。部屋には冷房の低い音だけが続いている。
朝からの移動で身体は重かった。座ってしまうと、背中や脚に溜まっていた疲れまで分かる。それでも、カイルの顔を見ただけで戻ろうとは思わなかった。
「疲れてますよね。私も結構」
「朝から移動してたからな」
「少佐も運転してましたし」
エレジは少し迷ってから、カイルを見る。
「あの……キスだけ、してもいいですか。二人とも疲れてるし、それ以上したら途中で眠くなりそうなので」
「分かった」
返事を聞くと肩の力が抜けて、エレジは少しだけ近づいた。
最初のキスは短かった。触れて、すぐに離れる。
けれど、離れたあとも距離は戻らなかった。カイルの顔はまだ近く、背中に添えられた手の温度も残っている。唇には触れた感覚が薄く残っていて、それを意識しているうちに、もう一度顔が近づいた。
二度目は、さっきより長かった。
カイルの手が肩から背中へ回り、身体の距離も自然に縮まる。強く引き寄せられるのではなく、そこにいたいと思う間だけ支えてくれるような触れ方だった。
唇が離れても、額が触れそうな近さはそのままだった。互いの呼吸が聞こえる。話す必要もなく、その距離にしばらく留まっているうちに、三度目はどちらからともなく始まった。
エレジが頬へ手を添えた時、指輪が軽くカイルの肌に触れた。
「今、当たりました?」
「大丈夫だ」
指先を少し浮かせたものの、手を離す気にはならなかった。
カイルもそれ以上何も言わない。
エレジはもう一度近づいた。
*
エレジの左手が頬に触れるたび、銀の輪が視界の端に入った。
昨日、自分が選んだ場所につけた指輪。その手が自分の頬や肩に触れるたび、カイルの胸の内には静かな喜びが広がった。
何か言おうとすれば、たぶんエレジは顔を上げる。そうすれば今の空気は会話へ変わるだろう。それより、このままでいたかった。
背中へ回した腕の中で、エレジの身体から少しずつ力が抜けていく。朝からの移動で疲れているのは、触れていればよく分かった。それでも唇が離れると、エレジはしばらく近いところに留まり、やがてまた顔を上げる。
自分から今日はキスだけにしたいと決めた。そのうえで、離れるたびにまた近づいてくる。カイルは今度は自分から唇を重ねた。
エレジの目が一瞬だけ大きくなったが、すぐに受け入れた。肩へ置かれた手に少し力が入り、さっきより長く触れても離れようとはしない。
唇が離れたあと、エレジはそのままカイルの肩へ頬を寄せた様子は、もうかなり眠そうだった。
呼吸も先ほどよりゆっくりしていて、身体の重みも少し預けている。それでもしばらくすると、また顔を上げようとする気配がした。
まだするつもりらしく、さすがにカイルは笑った。
「もう終わりな」
エレジはその声に顔を上げ、少しだけ名残惜しそうにこちらを見る。
「……はい」
返事は素直だった。カイルが頬を軽く撫でると、エレジの目元が緩んだ。
「明日もいる」
「分かってます」
「なら寝ろ」
「はい」
そう答えても、エレジはすぐには立たなかった。そのまま肩へ寄りかかり、しばらく何も言わずにいた。
*
共有スペースには、帰還後の名残がまだ少し残っていた。テーブルの端には持ち帰った資料や小物が寄せてある。
マティアスはソファの端に座り、ヨナスはその向かいの椅子に身体を預けていた。リヒターもすぐ近くにいる。長距離移動の疲れが残っているせいか、話す声は普段より少し低く、会話が途切れても誰も次を急がなかった。
窓の外はもう暗く、室内灯の下だけが静かに明るい。
リヒターはしばらくマティアスの横顔を見ていたが、近くにいると、ふとキスをしたくなった。
「ねえ、キスしていい?」
マティアスは少し意外そうにリヒターを見たが、すぐに表情を緩めた。
「いいですよ」
リヒターは少しだけ距離を詰めてから、思い出したように付け加えた。
「でも今日はキスだけね。さすがに疲れてるもの」
「それは助かります。俺も今日はそこまで元気ないです」
向かいで聞いていたヨナスも、少し笑った。
「僕も賛成です。明日まで疲れを持ち越したくないので」
「じゃあ決まりね」
三人とも、それ以上に進める気がないことを確認できたことで、かえって空気が緩んだ。
リヒターが顔を寄せると、マティアスも自然に受け入れた。最初のキスは短かった。
唇が離れても、ソファに座ったままでは距離がほとんど戻らない。膝も肩も近く、マティアスの手がリヒターの腰に触れて支える。その近さにリヒターはもう一度したくなった。
二度目は少し長くなった。
今度はマティアスの方からも顔を寄せてきた。リヒターは頬へ手を添え、そのまま静かに受け入れる。
相手を喜ばせるために加減を探る必要も、何かの続きを期待させる必要もなかった。ただしたいからしている。そのことが、思っていた以上に心地よかった。
唇が離れた時、向かいの椅子からヨナスがこちらを見ていることに気づいた。
目が合っても、ヨナスはすぐに近づいてこなかった。少しだけ考えるように間を置いてから、ヨナスは二人を見たまま言った。
「……もう少し見てていいですか?」
リヒターは少し意外に思ったが、見られていることに居心地の悪さはなかった。ヨナスの視線にも、何かを急かすような気配はない。
「ええ」
リヒターが答えるとマティアスも一度ヨナスを見たが、嫌そうではなかった。
「どうぞ」
それなら、とリヒターはもう一度マティアスへ近づいた。
今度はさっきより自然に唇が重なった。マティアスの手が腰へ添えられたまま、リヒターも頬へ触れる。
ヨナスのいる椅子からは、二人の横顔がよく見えた。
こういう距離を、自分が好むことは前から分かっている。自分の前で、好意のある二人が互いに触れ合っている。その空気の中に自分もいながら、すぐには入らずに見ている時間が好きだった。
マティアスがリヒターへ触れるたび、リヒターがそれを受け入れるたび、胸の奥に馴染んだ感覚が広がる。
急いで加わりたいわけではない。むしろ今は、このまま見ていたかった。自分がそこにいても、二人が自分を気にしすぎずにキスを続けていることも心地よかった。
しばらくしてリヒターが唇を離し、今度はヨナスの方を見る。椅子の前までリヒターが来ると、ヨナスは少しだけ顔を上げた。避ける様子はない。
リヒターはそのまま唇を重ねた。
見ている時間が好きなのと、そこから自分も加わるのは別だった。
ヨナスが返してくると、そのキスも少し長くなった。
すぐ近くにはマティアスがいて、離れた場所へ行ったわけでもない。それぞれと近くにいられることがそのまま心地よかった。
三人とも、最初に決めた通り、それ以上には進まなかった。
長い移動の疲れは身体に残っていて、キスのあとに何かを続けたいほどの元気もない。リヒターは再びソファの近くへ戻り、ヨナスも椅子に深く座り直した。
会話が戻り、誰かが一言話せばまた少し静かになる。
同じ場所にいて、少し前までキスをしていて、今は何もせず休んでいる。
リヒターは二人の近くにいるまま、しばらくその静かな夜を過ごした。




