エーデルベルグ
アイヒフェルトを離れてからしばらくは、山の切れ目にまだ海が残っていた。
街の屋根が減り、道路が内陸へ向かって上り始めるにつれて、水面は細くなっていく。車が斜面を回るたびに一度隠れ、次の切れ目でまた現れる。エレジはそのたびに窓の向こうを探した。
「中尉、まだ見てるんですか」
助手席のマティアスが振り返った。
「もう見えなくなりそうなので」
「昨日あれだけ見てたのに」
「だからです。どこまで見えるのかなって」
「そっちが気になるんですね」
次の斜面を回ったあと、海はもう現れなかった。
来る時には、山の間に突然広がった青さに驚いた。同じ道を戻っているだけなのに、今度は見えなくなる場所まで気になる。八日間しかいなかった街でも、一度知ったあとは来た時と同じには見えなかった。
最初の運転はリヒターが担当していた。帰路は長く、途中でマティアス、カイル、ヨナスも交代する。行きは日の出前に拠点を出たため、エレジは移動のかなりの時間を眠って過ごしていた。
今は任務も終わり、到着時刻を急ぐ必要もない。海側の低い山から、次第に林の深い斜面へ変わっていく景色を、地図と照らし合わせるでもなく眺めていられた。
カイルが運転を代わった区間では、エレジが助手席へ移った。
「ここ、行きも通ったんですよね。ほとんど覚えてないです」
「寝てたからな」
「こんなに綺麗なら、起こしてくれてもよかったです」
「任務前に寝られるなら寝とけばいいと思ってたからな」
道路脇には、斜面へ寄り添うように小さな家が点々と残っていた。谷へ下りる細い道や、林の間に消えていく古い脇道もある。行きに見ていたとしても、あの時なら任務に必要かどうかでしか覚えなかったかもしれない。
今は、知らない場所だから見ていたいと思った。
膝の上へ置いていた左手に、細い銀の輪が光った。
昨日の夕方から一度も外していない。その手を眺めて、何度か開いたり閉じたりを繰り返す。エレジはアクセサリーを着けたまま生活した経験がほとんどなかった。
「ファルク大尉」
「はい」
後ろから返事があり、エレジは左手を少し上げた。
「これ、ずっと着けてても大丈夫でしょうか」
「指輪ですか?」
「はい。水とか平気なのかなって」
「見せてもらっていいです?」
ヨナスはエレジの手を取ることはせず、差し出された指輪へ目を向けた。
「普通に生活するくらいなら大丈夫だと思います。手を洗ったり、お風呂に入ったりする程度なら」
「錆びませんか?」
「銀は鉄みたいには錆びません。黒ずむことはありますけど、それも落とせますよ。気になったらやり方教えます」
それならと、心配していたことはほとんどなくなった。
「じゃあ、ずっと着けててもいいんですね」
「作業の邪魔にならなければ。ただ、手袋の中で引っかかったり、装備に当たりそうな時は外した方がいいと思います。なくしたら嫌でしょうし」
「それは嫌です」
迷いのない返事に、前の席からマティアスが笑った。
「気に入ってますね」
「はい。できればずっと着けてたいです」
「仕事中も?」
「傷つきそうな時は外しますけど、終わったら戻します」
リヒターも後部座席から会話に加わった。
「それがいいわね。少佐も嬉しいでしょうし」
カイルは口を挟まず、前方の道路を見たまま会話を聞いていた。
昨日、左手を指定したのは自分だった。けれど、それをどう着けるかまでは何も求めていない。
カイルは何も言わず、次のカーブへ車を入れた。昨日、自分が左手を指定した指輪を、エレジは今日も着けていたいと思っている。その事実だけが、胸の奥に残った。
*
昼前、休憩のために入った村は、幹線道路から少し外れた斜面に沿っていた。
車が一本細い道へ入ると、周囲の建物の造りが変わった。
低い石壁の上に木造部分を載せた家が多く、屋根は雪を落としやすい急勾配になっている。新しく張り替えた板と、長く風雨に晒されて黒ずんだ板が一つの屋根に混じり、壁の石も場所によって色が違う。窓だけ新しい家もあれば、入口の枠まで古い木のまま残っている家もあった。
道は斜面に合わせて緩く曲がり、家と家の間には石を敷いた細い通路が延びている。軒下には薪や道具が積まれ、低い塀の向こうでは小さな畑が段になっていた。
アイヒフェルトの旧市街にも古い建物は多かったが、こちらは人に見せるために残されているようには見えなかった。傷んだところだけ直し、必要なものだけ取り替えながら、そのまま使われ続けている。
エレジは車を降りてからも、食堂へ向かうまで何度か周囲へ目を向けた。
「ここ、かなり古そうですね」
「石積みは古いと思います」
ヨナスも壁を見ていた。
「窓と屋根は途中で替えてますね。断熱も後から入れてるかもしれません」
「建物まで見るんですね」
マティアスは少し先の看板を見ていた。
「大尉が壁見てる間に、俺は飯があるか見てました」
「どっちも必要でしょう」
「今は俺の方が必要です」
道の脇には石を組んだ水場があった。山側から引いた水が細い樋を伝い、長方形の槽へ絶えず落ちている。縁は何度も物を置かれたのか丸く擦れ、その横では年配の男が金属製の容器をすすいでいた。
食堂はその少し先にあった。
石壁の一階に木造の二階を載せた建物で、入口脇の札には昼の料理が手書きされている。中へ入ると、床板は中央だけ色が薄くなり、壁際の長いベンチも角が丸くなっていた。夏なので暖炉に火はなかったが、その周囲の石だけ煤で色が深い。
客は数人しかいない。服装からして、村の人間が昼を食べに来ているらしかった。
五人が頼んだのは、肉と豆を煮込んだ料理と厚く切ったパンだった。
湯気に混じる香辛料の匂いは、ここ数日アイヒフェルトで嗅いでいた魚や燻製とはまるで違う。
「一日で食べるものまで変わりますね」
エレジが煮込みを口へ運びながら言うと、リヒターも皿を見た。
「山側なら保存するものも違うでしょう。冬ならもっと差が出そうだわ」
「昨日まで魚ばっかりだったのに」
「あなたは市場で試食しすぎだったでしょう」
「まだ言うんですか」
「三軒目までは数えたわよ」
「それ以降は?」
「面倒になったからやめたの」
「じゃあ正確じゃないですね」
マティアスがそう返すと、ヨナスが真面目に言った。
「三軒以上なのは確定してます」
「大尉、そっち側なんですか?」
「事実の話です」
エレジは三人のやり取りを聞きながらパンをちぎった。
港から離れただけで、食事も建物も暮らし方も変わる。地図では一日の移動で通り過ぎる距離でも、止まってみれば別の生活がある。
食事を終える頃、窓から入る光が少し弱くなった。
山の上へ薄い雲が出始めている。
店の主人も同じものを見ていたらしく、隣の卓にいる年配の男へ声をかけた。
「午後はエーデルベルグの方、少し崩れるかもしれんな」
「峠までは持つだろ」
エレジは聞き慣れない名前に意識を向けた。
近くの峰か、別の集落のことかと思ったが、二人が見ている先には窓いっぱいに山並みが続いている。
「すみません」
呼びかけると、店の主人がこちらを向いた。
「エーデルベルグって、どこですか?」
「どこって、山だよ」
「山?」
「この辺一帯だ。今は北部山脈って言うんだったか」
「北部山脈のことですか?」
「ああ。他のとこの人らはそう呼ぶんだったな。この辺じゃエーデルベルグだ」
エレジは窓の外へ目を戻した。
これまで何度も地図で見てきた山だった。訓練でも任務でも、その名前は北部山脈でしかなかった。
「昔の名前なんですか?」
「名前っていうか、呼び方だな。役所の書類じゃ北部山脈になってるけど、村じゃ今でもこっちの呼び名だ」
隣の年配の男も、話が聞こえていたらしく口を挟んだ。
「俺らの親も、そのまた親もそう呼んでたよ。昔は今みたいな道もなかったしな」
「山を越えてたんですか?」
「越えてたさ。谷ごとに道があった。荷を運ぶ連中もいたし」
荷を運ぶ、という言葉には少しだけ意識が向いた。
母方の姓について古い輸送の話を聞いたばかりだから、以前なら聞き流した言葉にも引っかかる。それでも、この村の昔話と母を結びつけるものは何もない。
「荷って、山を越えて運ぶんですか?」
「そうだな。村の荷もあったし、向こうへ持っていくものもあった。俺が知ってる頃にはもう車だったけど、その前は人と馬だ」
主人が笑った。
「この辺で昔の話を聞き始めたら、年寄りがいくらでも話すぞ」
「そうなんですね」
エレジはそれ以上、家や一族のことへ結びつけて聞かなかった。
今分かったのは、自分が北部山脈と呼んできた土地に、そこで暮らす人たちが今も使っている別の名前があることだけだった。
「エーデルベルグ……」
口にしてみると、ヨナスが窓の外を見たまま言った。
「古い地図とか輸送記録だと、その名前で残ってる可能性ありますね」
「調べます?」
「必要があれば。古い資料って、今の正式名称だけで探すと拾えないことありますから」
「また見るもの増えましたね」
「一つ増えても大して変わりません」
食事を終え食堂を出ると、雲は先ほどより稜線へ近づいていた。
建物の間から見る山は、道路から眺めていた時より生活に近い。家の裏から細い道が斜面へ続き、石垣の向こうにも人が通れる程度の道が残っている。
昔からここに住む人にとっては、北部山脈という地図上の大きな山域ではなく、自分たちが行き来してきた山なのだろう。
「中尉、行きますよ」
車の方からマティアスに呼ばれ、エレジは四人のいる方へ戻った。
*
午後は何度か運転を交代しながら、西へ進んだ。
山が深くなるにつれて、道路脇の林も見慣れたものへ変わっていく。
カイルが再び運転する区間では、エレジは助手席に座った。
「この辺は分かります」
「ああ。あと二時間くらいだ」
「もうそんなに近いんですね」
朝から長く走ってきたはずなのに、知っている景色が増えるだけで距離の感じ方まで変わった。
知らない場所を見るのも好きだが、戻る場所が分かることも嫌ではなかった。
エレジはそれを言葉にせず、窓の外を見続けた。
*
拠点の外周柵が林の間に見えたのは、日が西へ傾いた頃だった。
検問を抜け、車両庫へ入る。アイヒフェルトでは港の音や人の声が絶えず近くにあった。その八日間を挟んだせいか、拠点の周囲は以前より静かに感じられた。
着くと、カイルは荷台を確認した。
「今日は最低限でいい。記録媒体と通信機材だけ戻す。残りは明日の午前にする」
「明日、休養日ですよね?」
マティアスが念を押した。
「午前だけ片づける。終わったら休め」
「今の、覚えておきます」
「何を」
「終わったら休め、ってところです」
「何も来なければな」
「そういう条件つけるんですか」
「俺が決められることじゃない」
リヒターが笑い、ヨナスは先に通信機材のケースを持ち上げた。
長距離移動のあとに必要以上の仕事を増やす者はいなかった。所定の場所へ戻すものだけ戻し、それぞれ自分の荷物を二階へ運ぶ。
エレジは自室へ入ると、衣類の間に挟んでいた包みを取り出した。
紙を開くと、青いガラスの海鳥は割れていなかった。窓辺へ置くのは明日にして、ひとまず机の上へ置く。
窓の外には海ではなく、暮れ始めた林と、その向こうの山があった。昼に立ち寄った村では、その山をエーデルベルグと呼んでいた。
エレジはその言葉を頭の中でもう一度なぞりながら、明日片づける荷物を分け始めた。左手を動かすたび、薬指の銀が室内の灯りを細く返していた。




