夕波と指輪
作戦室の大型表示板からは、前日まで中央に出ていた対象便の情報が消えていた。右端に残っているのは、確保した二人から聞き取った仲介先の名称と、「照会継続」の表示だけだった。
夜の間に依頼主までたどり着くような進展はない。現地側から届いた追加報告も、前日の確認を補う範囲に留まっていた。
「指定された荷については?」
「番号を渡されただけだという証言は変わってません。本人たちは中身を知らない。仲介先への照会も続いてますけど、今のところその先は出てません」
新しく増えた情報がないことを確認して、カイルは表示板に残った項目へ話を戻した。
「今回の任務として確認できたのは、輸送物の横取り未遂までだ。情報を複数の経路から集め、西側を事前に確認して、指定された荷を抜こうとしていた。仲介先から先は現地側で継続する」
「向こうで何か出た場合は?」
「帰還後もこっちへ回してもらう。そこから別件につながるなら、その時に扱う」
エレジが見ている未確認事項の欄には、依頼主と、指定された荷が選ばれた理由が残っている。今ある情報だけでは、そこに別の意味を足すことはできなかった。
「分かってないところはそのままでいい。今ある事実だけ残す」
午前中には、前日の記録と現地側の聴取結果を合わせ、確認できた事実と継続照会に回す項目を分けた。
西側区間の経路と通信状況、接触者の動き、灰色の車両の記録、今後同じような問い合わせがあった場合の警戒事項を現地側へ残す。
仲介先について新しい結果が出た場合だけ、帰還後の連絡窓口を通して共有することになった。
現地側の責任者との最終確認も長くはかからなかった。
「残りはこちらで追う。接触者の照合も続ける」
「頼む。対象便については、しばらく共有範囲を絞った方がいい」
「分かった。そっちは明日戻るんだな」
「ああ。朝に出る」
必要な連絡先を交換し直し、五人が持ち込んだ記録媒体や機材を回収すると、この基地で使っていた机の上は急に広くなった。地図も端末もなくなり、現地側へ残す資料だけが一つの束にまとめられている。
昼を過ぎる頃には、八日間続いた現地任務はそこで終わった。
*
宿泊区画へ戻ったあとは、翌朝の帰還に備えて、すぐ使わない装備から車両へ移した。
エレジは旧市街で買った青いガラスの海鳥を紙に包み直し、衣類の間へ入れた。小さくても硬いものなので、そのまま入れれば移動中に他の物へ当たりそうだった。
「あの鳥、割れません?」
「たぶん大丈夫です。服の間に入れたので」
「基地まで無事だったら窓に置くんでしたっけ。ちゃんと海側に向けるんですか?」
「あそこに海ないですよ」
「気分だけでも」
向かいでは、ヨナスが通信機材を収納箱へ戻していた。
「大尉、結局あの方位計買わなかったんですね」
「買ってませんよ。まだ言うんですか」
「かなり見てたじゃないですか」
「見てただけです」
「戻ってから調べそう」
「構造は少し気になりますけど」
否定していたわりにあっさり認めたので、マティアスは満足したらしい。リヒターも二人のやり取りを聞きながら笑った。
「買わなくても、しばらくは楽しめそうね」
朝まで残す端末と個人装備を除けば、部屋の中から仕事のものはほとんどなくなっていた。
カイルも自分の荷物をまとめる途中で、衣類とは別にしていた小さな箱を確かめた。銀細工店でもらった箱は、買った時のままそこにある。
箱は、上着の内側へ移した。
車両と帰路の確認まで終えると、残っている予定は夕食だけになった。
「最後、どこか行きません?」
「明日の朝には出るものね」
「せっかく時間あるし。中尉、どっかあります?」
聞かれたエレジには、考えるより先に一つ浮かんだ。
「海、行きたいです」
前に行った時は、もう一度時間が取れればいいと話しただけだった。今は仕事も荷造りも終わっていて、行かない理由はない。
「じゃあ海ですね」
「お前が決めるのか」
「中尉が決めたんですよ」
行き先について異論はなく、カイルも立ち上がった。
「行くか」
「はい」
*
二度目の海は、最初に来た時ほど遠く感じなかった。
街を下る途中で建物の間から水面が見え始めても、エレジはもう、それが近づけばどんな音になるのかを知っている。
海岸へ出ると、波は前回と同じように砂と石の混じった岸へ寄せていたが、水際の位置は少し違っていた。
「あそこ、写真撮ったところですね」
エレジが石積みを見つけると、マティアスもすぐに分かったらしい。
「そうですね。俺が被害に遭ったところ」
「波に?」
「そうです」
「自分でそこに立ったんでしょう」
「写真撮る瞬間に来るとは思わないじゃないですか」
前回の写真の話をしながら、五人は水際に沿って歩いた。
エレジは一度だけ靴の近くまで伸びてきた波を避けた。前のように予想以上の速さに驚くことはない。水が引けば砂が動くことも、丸い石が小さな音を立てて転がることも知っている。
それでも、同じ海には見えなかった。
夕方の光は昼より低く、水面に細長く反射している。遠くの船も前よりはっきり見え、港側から届く音は、絶えず続く波の音に時々混じる程度だった。
護岸近くまで来ると、ヨナスの興味が海そのものから石材へ移った。
「これ、前に見たのと層が違いますね」
「また石ですか?」
「今度は護岸材です」
「海見に来てるのに?」
「海岸だから見えるんですよ」
文句を言いながらマティアスもそちらへ寄り、リヒターも二人について水際の方へ進んだ。
三人との間が少しずつ開いていく。エレジはそのまま追わず、砂浜へ下りる石段のそばで足を止めた。
「少しここにいてもいいですか?」
「ああ」
並んで座ると、三人の姿は少し先の水際に見えた。話し声も届くが、波が寄せるたび言葉の途中が消える。それくらいの距離が、今はちょうどよかった。
「明日、帰るんですね」
「そうだな」
「八日いたのに、短かったです」
「来た日は海見ただけであれだけ質問してたけどな」
「そんなにしてません。初めてのことばっかりだったからです」
反論しながらも、その日のことはよく覚えていた。山道から初めて見た時には、大きいことしか分からなかった。それから近くまで来て、水に入り、砂が動くことを知った。
「来られてよかったです、海も、この街も。仕事だったけど、知らないところをいろいろ見られました」
旧市街の工房も、市場も、港も思い浮かぶ。
「また来たいです」
「ああ。来ればいい」
あまりにも普通に返されて、エレジは少し笑った。
「簡単に言いますね」
「来られない理由ができたわけじゃないだろ」
以前なら、もう一度来たいと思うだけで終わっていたかもしれない。今は、次があることを自然に想像できた。エレジは海を見たまま微笑んでいた。
その彼女の横顔を見ながら、カイルは上着の内側に入れていた小さな箱に触れた。
「エレジ」
エレジが向くと、カイルは上着から小さな箱を取り出し、差し出した。
「これ」
「何ですか?」
「開けてみろ」
蓋を開けて、中にある銀色を見た瞬間、街で立ち寄った店が浮かんだ。
「……あの指輪」
「ああ」
細い銀の輪に、羽根の線が刻まれている。あのとき自分で試したものと同じ意匠だった。
「買ったんですか?」
「ああ」
「いつ?」
「内緒だ」
エレジがまだ箱と彼を見比べていると、カイルは続けた。
「お前に贈りたかった」
エレジにとって、自分では気に入ったと思いながら買わなかったものだった。使うか分からないからと店へ戻した。それが今、自分に渡すためのものとして箱に収まっている。
「本当に、もらっていいんですか?」
「ああ」
「ありがとうございます」
箱のまま大事そうに眺めているエレジに、カイルは目を細めた。
「つけるか?」
エレジが頷くと、カイルが指輪を手に取る。
エレジは手を差し出しかけて、どちらを出すのか分からず止まった。
「左」
カイルのその一言で、エレジはカイルを見た。彼は言い直さない。
左手を差し出すと、カイルがその手を取り、指輪を薬指へ通した。銀の輪は引っかかることなく根元まで入り、指に沿って収まった。
「……ぴったりです」
「試したのより一つ小さいのにした」
「中指につけてたの覚えてたんですか」
「ああ」
「薬指につけるつもりだったんですか?」
「ああ」
エレジはもう一度、指輪を見た。
「……左に?」
「ああ」
短い返事なのに、聞く前より胸の奥が落ち着かなくなった。
「……嬉しいです。ありがとうございます」
エレジは、カイルの手に預けたままの左手を見ていた。
羽根の模様は、店で見た時と同じだった。それでも、自分の薬指にあるものを彼も一緒に見ていると、試しにはめた時にはなかった気持ちが込み上げてきた。
嬉しくて、少し恥ずかしくて、その指から目を離せなかった。
カイルが手を離しても、すぐには下ろさなかった。傾きかけた日の光を受けて、銀の縁が淡く光っている。
銀の輪を見ているうちに、アイヒフェルトへ来た日に聞いた言葉が浮かんだ。
結婚していてもおかしくない年齢だと言われたこと。そのあとカイルから聞いた、以前は本気で婚約していたという話。
指輪をもらえた嬉しさは変わらない。それでも、左の薬指につけてもらった今は、あの時より近いところでその話を考えていた。
「少佐。……話しておかないといけないと思うことが、あって」
カイルは急かさず、そのまま続きを待った。
少し先では、三人が水際へ寄っていた。マティアスの声が聞こえたが、続く言葉は波の音に重なって取れなかった。こちらを振り返る者はいない。
エレジは左手へ右の指を添えた。気に入っている。もらえたことも、この位置だったことも本当に嬉しい。だからこそ、言わなければならないと思った。
「私、家族って、あまりいいものだと思えてなくて。家族がいて、自分が幸せでいる感覚が、よく分からないんです」
口にしてからカイルを見ると、彼は目を逸らさずに聞いていた。その静かな表情だけでは、どう受け取ったのかまでは分からない。
「前に、婚約してた話を聞いて……少佐は、誰かと家族になろうとしていたんだなって、考えてました」
あの時は本気だったと、彼は答えた。そのことが嫌だったわけではない。ただ、カイルには思い描けたものが、自分にはよく分からなかった。
「私も、少佐と一緒に暮らしていきたいです。今みたいに、一緒に過ごしたい。でも……自分が誰かの家族になることを、うまくできるのかは分からなくて」
最後の方は、自分でも分かるほど声が小さくなった。
彼が望んでいるのが、自分にはなれないものだったら。そう思うと、続きを言うのが怖かった。それでも一緒にいたいという言葉まで取り消したくはなくて、エレジは彼の返事を待った。
カイルの手が、もう一度左手に触れた。今度は指輪をはめるためではなく、その手を包むように重なった。
「俺はこの先も、お前と暮らしたいと思ってる」
触れている手を見ていたエレジは、その言葉でカイルの顔を見た。
「お前が、俺と暮らしたいと思ってくれるなら、どう暮らすかは二人で考えればいい」
話しても、彼は一緒に暮らしたいと言ってくれた。エレジが自分の中で持て余していたことを聞いて、そのまま手を重ねてくれている。
「……はい」
返事をすると、喉の奥が少し詰まった。包まれていた手の指を動かしてカイルの手を握ると、同じ強さで握り返された。
先ほどは、指輪をもらえたことが嬉しかった。今は、それを着けた手を彼に預けていられることも嬉しかった。
「話せて、よかったです」
カイルの手に少し力が加わった。
すぐ隣にある彼の身体へ、エレジは空いている手を添えて自分から近づいた。肩を抱かれると、そのまま彼へ頬を寄せる。
波が寄せて返す間、二人とも何も話さなかった。エレジはカイルの肩に寄りかかったまま、左手の指輪に親指でそっと触れた。




