海と銀
カイルが朝の共有を始めた時、確認する項目は昨日より少なかった。
灰色の小型貨物車についての照会は続いていたが、新しい接触も問い合わせも入っていない。変更した対象便についても、現地側が予定どおり警護と運行管理を続けていた。
車両は貸出会社まで確認できていたものの、契約者情報の照合はまだ終わっていない。
五人がその場で追加して確認することはなく、カイルは朝の共有を終えると、この日は予定どおり休養とした。
ヨナスだけは共有が終わっても車両の記録を閉じていなかった。照合結果が来れば通知される以上、今見ていても新しい情報が増えるわけではない。それでも画面に残る車両の後部を見ているのを、隣にいたマティアスが覗き込んだ。
「大尉、今日くらいそれ置いていきません?」
「連絡を受ける端末は必要でしょう」
「そういう意味じゃないです」
「分かってますよ。照合結果が来たら通知だけ見ます」
「それならいいですけど」
そう言うマティアス自身も自分の端末は持っていくつもりらしく、ヨナスはそれ以上返さなかった。
昼前には五人で基地を出た。
海岸へ向かう道は、街の中心から緩く下っている。建物の隙間から見えていた海は、坂を下るほど遮るものが減り、やがて正面いっぱいに広がった。
エレジは、この街へ来る途中の山道から初めて海を見た。その時は、何より大きさに驚いた。基地の窓からも何度か眺めている。
けれど近づいていくと、それまでとは別のものに見えた。遠くからは平らに見えていた水面が絶えず崩れ、白くなっては戻っていく。
街の音が少なくなるにつれて波の音が前へ出てきて、海岸へ着く頃には会話の向こうにある音ではなく、その場を満たす音になっていた。
海岸は広い砂浜ではなく、細かな砂と丸い石が混じっている。背後には街があり、そのさらに向こうには山の斜面が近い。振り返れば山が視界を区切るのに、前を向けば海だけが遠くまで続いていた。
「近くで見ると、全然違いますね」
「そうだな」
カイルの隣で、エレジは次々に崩れていく波を見た。
「音が大きくて、思ってたより波が穏やかです」
「今日は穏やかな方ですね。でも、今見えている波も、ここでできたものばかりじゃないです。風でできるものもあれば、もっと遠くの海で生まれたものがここまで来てる場合もあります」
「遠くでできた波が、ここまで来るんですか?」
「来ます。条件によってはかなり遠くから」
「どのくらいですか?」
すぐに次を聞くエレジに、マティアスが口を挟んだ。
「始まりましたね」
「何がです?」
「大尉の説明です」
「聞かれたから答えてるだけですよ」
「でも中尉、まだ聞きたそうよ」
リヒターに言われても、エレジは隠す理由がなかった。ヨナスも、それならと説明を続ける。
「じゃあ、波の周期から——」
「俺、説明終わる前に海見てきます」
マティアスが先に波打ち際へ向かったので、残る四人もその後を追った。
近づくほど、海は目で見るものより足元へ来るものになった。引いた水の跡には細かな石が残り、次の波が来るたびに音を立てて転がされる。
エレジは濡れた境目の少し手前まで行った。まだ余裕があると思っていたところへ、次の波が予想より速く伸びてきて、靴の爪先のすぐ前で止まる。
「結構来ますね」
「同じところまでしか来ないと思ってた?」
「そこまでは思ってませんけど、見てるより速いです」
水はすぐに戻り、濡れた砂だけが色を変えて残った。次の波が来るまでの距離を見てから、エレジは四人へ尋ねた。
「入ってもいいですか?」
「俺たちに聞くの?」
「一応です」
答えを待つほど堅い確認でもなかったらしく、リヒターはすでに靴へ手をかけていた。
「私は入るわよ。ここまで来たもの」
「じゃあ俺も」
マティアスも続き、ヨナスまで靴と靴下を脱いだ。
「大尉も入るんですね」
「ここで一人だけ残る方が変でしょう」
「石見るためじゃないですか?」
「それもあります」
本当に否定しないので、エレジは笑った。
最初の波が足首まで来ると、思わず足へ力が入った。
「冷たいです」
「海だからな」
すぐ隣から返ってきた言葉に、前にも同じ答えを聞いたことを思い出す。
「前もそれで説明しましたよね」
「だいたい合ってる」
「便利ですね、それ」
マティアスまで加わったところで、次の波が来た。
今度は冷たさより、足元の感覚の方へ意識を取られた。水が引く時、足の周囲にあった細かな砂まで一緒に持っていかれ、立っている場所そのものが少しずつ崩れる。
「足元も動きます」
「流されるからな」
「海って、見てるだけより忙しいですね」
山では地面が動かないことを前提に足場を見る。雪上なら沈み方や滑り方を読む。海では、立っている場所へ向こうから何度も変化がやってくる。
エレジはしばらく膝より下だけ水に入ったまま、波が来るたび足元と沖を交互に見ていた。
海岸を少し歩いたところで、マティアスが言った。
「せっかくだし、一枚撮りません?」
「誰が撮るんです?」
「置けばいいじゃないですか。あそこ」
少し高くなった石積みなら端末を固定できる。ヨナスが全員の入る角度を決めて時間を設定したが、一枚目は撮影直前に大きめの波が来た。エレジとリヒターは避けられたものの、端にいたマティアスだけが足首より上まで水を被る。
「ちょっと待って、今撮った?」
「撮れてます」
「消しましょう」
「まだ見てもないでしょう」
リヒターには、失敗した写真まで残す理由があるらしい。
二枚目はもう少し岸から離れた場所で撮った。海からの風で全員の髪は多少乱れていたが、今度は誰も波を被らなかった。
撮影のあとも、そのまま波打ち際を歩いた。濡れるたび色の変わる石の中に、白く丸く削られたものがあり、エレジは拾って表面を確かめた。山で見る石より角がなく、手の中で滑るほどなめらかだった。
「これ、山にある石と違いますか?」
「種類自体は山側から流れてきたものもありますよ。川から海へ出て、ここまで運ばれた可能性もあります」
「じゃあ、山から来た石かもしれない?」
「これはたぶんそうですね。表面の削れ方を見ると——」
「ほら」
少し先からマティアスの声が飛んできた。
「海見に来たのに石見てる人が二人になった」
「見えてますよ、海も」
ヨナスは答えたが、説明の途中なので意識はまだ石に向いていた。
エレジも続きを聞いてから、元の場所へ戻した。
*
昼は港近くの市場へ移った。
通路の両側には魚介類の店と食料品店が並び、焼いた魚の匂いに香辛料や燻製の匂いが混じっている。
海岸では波の音が途切れなかったが、ここでは人の声と食器の音が絶えず、少し歩くだけで目に入るものも匂いも変わった。
エレジには名前を知らない魚がいくつかあった。
「これはどうやって食べるんですか?」
「焼くのが一番簡単だよ。こっちは煮てもいいし、塩漬けにもする」
隣ではリヒターが、魚の脇に束ねられた香草の方を見ていた。
「この香草は一緒に使うの?」
「そう。焼くなら中に入れる」
「おいしそうね」
別の店では、今度はヨナスが燻製の作り方を聞き始めた。マティアスは説明より先に試食を勧められ、断らず受け取っている。
「さっき昼食べるって言ってませんでした?」
「試食は昼食に入らないですよ」
「入ると思います」
「これくらいなら誤差です」
「三軒目ですよ」
「数えてたんですか」
結局、五人は市場の端にある店で昼食を取った。
窓からは港の一部が見え、荷を積んだ車両が時々通っていく。任務中なら一台ずつ行き先や時刻を意識していただろうが、今は机の上に記録も地図もなく、誰も通過するたびに確認しなかった。
食事の途中で、ヨナスの端末が一度だけ鳴った。仕事の連絡に使う音だったため、それまで続いていた会話が自然に途切れる。
「車両の照会、継続中です。契約記録は見つかったそうですけど、本人確認に少しかかると」
「急ぎは?」
「ないです」
「なら続けてもらえ」
それ以上確認する必要はなく、端末が伏せられると、話題はさっき市場で見た食材へ戻った。
店を出る頃には、エレジは教えてもらった魚の名前をいくつか覚えていた。
*
午後は旧市街へ戻った。
細い通りに小さな店が続き、前日に見た工房街へ入る。昨日は仕事の途中に限られた時間だけ歩いた場所だったが、今日は店の前で止まっても、その先に何分残るかを気にする必要がない。
「あ、ここです。昨日見たの」
エレジが示した先に、銀細工店の窓があった。
「指輪を見たのはここ?」
「はい。一つ試しました」
窓の中には昨日と同じ銀細工が並んでいた。細い輪に羽根の模様を刻んだ指輪も、そのまま展示台に置かれている。
「つけた感じは嫌じゃなかったです」
「なら、そのうち欲しくなるかもしれないわね」
「そうかもしれません」
エレジは指輪をもう一度見てから、リヒターと次の店へ向かった。
しばらく工房街を歩いたあと、広場で一度分かれることになった。
「三十分後、ここでいいですか? 俺、昨日見た革の店もう一回行ってきます」
「私は向こうを見たいわ」
リヒターが示した通りには、ガラス製品や日用品を扱う小さな店が並んでいた。
「私も行っていいですか?」
「もちろん」
「僕はあっちですね」
ヨナスが見ているのは、古い時計や船舶用の小型計器を扱う店だった。
「大尉、三十分ですよ」
「分かってます」
「念のためです」
それぞれが目的の店へ散ると、カイルだけは来た道を戻り、昨日の銀細工店の扉を開けた。
奥の作業台からは金属を削る細かな音が聞こえていた。昨日と同じ店員が近くにいて、カイルを見るとすぐに思い出す。
「昨日の方ですね。一緒だった方は今日は?」
「別の店を見てる。昨日、あいつが試してたのと同じものが欲しい」
「羽根の模様の?」
「ああ」
店員は展示台から同じ意匠の指輪を出した。
「昨日は右手の中指でしたね。このサイズでほとんどぴったりでした」
「薬指につけるなら?」
「同じだと少し緩いと思います。あの方なら、一つ下くらいですね」
同じ模様で一回り小さいものが出される。
「右手ですか?」
「いや。左だ」
「でしたら、こちらの方がいいと思います。左右でも多少違いますけど、昨日見た感じなら大きくは外れないはずです」
掌に乗せられた指輪は、昨日エレジの指にあったものと模様は変わらない。本人が気に入っていて、似合っていた。それだけで買う理由としては足りた。
ただ、薬指のどちら側かを聞かれた時、考えてから答えたわけではなかった。左につけてほしいと思っていて、別の指を選ぶ気にはならなかった。
「これにする」
「分かりました」
店員は小さな箱へ指輪を収めた。受け取った箱は上着の内側へしまえば、外からは分からない。
*
三十分後、五人は広場へ戻った。
マティアスは小さな紙袋を持っていた。ヨナスは手ぶらだったが、集合時刻ぎりぎりまで店にいたらしい。
「大尉、何かありました?」
「古い船舶用の方位計がありました」
「買ったんですか?」
「買ってません。かなり状態がよかったですけど」
「買わなかったんですね」
「持って帰ってどうするんです?」
そう答えるわりに惜しそうなのが分かり、マティアスは笑った。
エレジとリヒターも、それぞれ小さな袋を持っていた。
「中尉は何か買ったんですか?」
「小さい置物だけ。窓のところに置けそうだったので」
「何の形?」
「鳥です」
袋の口から見えたのは、青いガラスで作られた小さな海鳥だった。
「海見た日に鳥買うんですね」
「鳥は前から好きです」
「そうでした」
買ったものの話をしながら近くのカフェへ入り、海岸で撮った写真を開くと、一枚目には波を被った瞬間のマティアスがきれいに残っていた。
「これ消しましょう」
「いい写真じゃない」
リヒターには残す理由しかないらしい。
「大尉もこっち見てないですよ」
別の写真では、ヨナスが撮影の瞬間にも足元へ視線を落としていた。
「この石が気になったんですよ」
「写真の時まで?」
「時間設定が思ったより早かったんです」
「設定したの大尉ですよね」
まともに撮れている二枚目も含め、何枚かを全員で共有した。
エレジの端末にも写真が届いた。海を背に五人が並んでいるものも、波打ち際で誰かが横を向いているものもある。
初めて海を見たのは、この街へ来た日の山道だった。その時は、遠くにある大きなものだった。
今は、水の冷たさも、波が足元の砂を持っていく感覚も、海岸で交わした話も知っている。写真の中にある海は、もう遠くから眺めただけの場所ではなかった。
「また海、来たいです」
「滞在中にもう一度時間が取れればな」
「はい。今度はもう少し長くいたいです」
予定が決まったわけではない。それでも、ここへ来る前には存在しなかった行きたい場所が増えていた。
*
基地へ戻ったのは夕方だった。
灰色の車両について、現地側から一件だけ更新が届いている。
契約名義は確認できたが、提出された住所と身分情報の照合にはまだ時間がかかる。急いで五人が作業へ戻る必要はなく、詳細は翌朝受け取ることになった。
夜、自室へ戻ったカイルは、着替える前に上着の内側から小さな箱を出した。
蓋を開けると、中には細い銀の輪が収まっている。羽根の線は昨日見たものと同じで、サイズだけが一つ小さい。
店員にどちらの手か聞かれた時、答えは迷わなかった。
カイルは箱を閉じ、任務用の書類や装備とは分けて荷物の奥へしまった。




