アイヒフェルト
アイヒフェルトは、現在の拠点から見て北部山脈のかなり東、山並みが海へ向かって低くなっていく終わり側にある。直線距離だけならそれほどでもないが、山をいくつも回り込みながら進むため、移動には時間がかかる。
前日に装備と携行品の確認は終えていた。必要な荷物を積み、まだ日の出前に車両を出す。
最初の数時間は、見慣れた山だった。針葉樹の林、斜面に沿う細い道路、谷を跨ぐ橋。拠点近くと大きく変わらない景色が続き、海の方へ向かっている実感もまだ薄い。
それが東へ進むにつれて少しずつ変わっていった。
山の重なりが浅くなり、長く続いていた稜線の向こうに低い土地が見えるようになる。道路も、深い谷を縫うような道から、斜面を大きく回り込みながら下っていく道へ変わった。
エレジは窓の外を見ながら、地図で追っていた経路と実際の地形を重ねていた。ここまで来ると、自分たちの拠点がある山域とは明らかに違う。
北部山脈の端へ近づいている。そう思っていた矢先、斜面を回り込んだ先で、谷の向こうが急に明るくなった。
最初は空だと思った。けれど、山の稜線より低い位置に、青い帯が続いている。
「……あれ、海ですか」
「ああ」
カイルの返事を聞いてもう一度見ると、道路が少し下ったところで、斜面の切れ目が大きく開いた。
その青色は横へ続いていた。
写真では見ていた。地図でも海岸線は何度も確認している。それでも、紙の上では一本の線だったものが、実際には視界の端まで途切れず広がっている。向こう側に何かがあるというより、その先全部が続いているように見えた。
「思ってたより、大きいです」
「海だからな」
いかにもカイルらしい返しに、前の席からマティアスの笑い声がした。
エレジはまだ窓の外を見ていた。車が山側へ回ると海は一度見えなくなり、次の切れ目でまた現れる。そのたびに少しずつ近くなっているように感じた。
「この辺りは、海岸まで山がかなり近いですね。もう少し海岸側へ出ると、遮るものが減ると思います」
ヨナスが地形を見ながらそう言うと、エレジはすぐに先を尋ねた。
「海岸まで行ったら、ここより広く見えますか」
「たぶん。今より遮るものが減りますから。そうなると、風も山の中とはかなり違いますよ。海から入る風と斜面の風がぶつかる場所もあるでしょうし。明日、経路を走ればある程度分かるはずです」
「通信にも影響します?」
「地形次第ですね。その辺も見ます」
昨日の説明では、海の話をしてもエレジの言葉はほとんど増えなかった。今日は、見えたものについて自分から聞き、その答えから次の疑問を出している。
カイルは運転を続けながら、その会話を聞いていた。
アイヒフェルトへ近づくにつれて、道路沿いの建物が増えた。
古い市街地へ入る手前から、石造りの壁や木組みの外壁が見え始める。坂に沿って建物が並び、一階部分には店らしい間口が続いていた。窓辺に品物を並べた店もあり、軒先には木や金属で作られた看板が下がっている。
「写真より、ずっと建物が近いですね」
「そりゃ写真だから」
意味を取り違えたらしいマティアスに、エレジは窓の外を見たまま説明した。
「そういう意味じゃなくて。もっと平らで、開けた街に見えてました」
「ああ、坂ですね」
実際の市街地には細かな高低差があり、道は建物の間を縫うように斜めに上っていた。写真では一続きに見えた屋根も、現地では高さが少しずつ違い、その間に狭い路地が入り込んでいる。
「結構、店ありますね」
「旧市街はこの先らしい」
木工、革、ガラス。カイルの言葉を聞きながら、エレジは通り過ぎる看板を追った。走っている車内からでも、扱っているものが分かる店がいくつかある。
仕事で来ている以上、今すぐ降りて見に行くわけにはいかない。それでも、昨日は口に出なかった興味が今日は素直に外へ向いていた。
補給基地は観光地区から少し離れた場所にあった。
港と市街地の両方へ出やすい位置にあり、建物自体は周囲の旧市街とは違って実務的だった。五人は宿泊区画へ荷物を入れ、そのまま現地担当者との打ち合わせへ移る予定だったが、割り当てられた部屋の窓から海が見えた。
「ここからも見えるんですね」
荷物を置いたエレジは、予定を急ぐより先に窓際まで寄った。市街地の屋根の向こうに港があり、クレーンや倉庫のさらに先で海が続いている。車内から見た時より遠いが、こちらは景色が動かない分、広さがよく分かった。
「気に入ったか」
カイルも隣まで来ると、エレジは港の向こうを見たまま少し考えた。
「まだ、よく分かりません。でも、もっと近くで見たいです」
「ああ。時間が取れた時に行けばいい」
カイルはそれ以上言わなかったが、昨日までは出てこなかった言葉を彼女自身が口にしていた。
*
現地での打ち合わせには、補給基地の管理担当者と輸送部門の責任者、それに不審な接触を受けた民間の輸送調整担当者が同席した。
会議室の壁には港から内陸へ延びる輸送路の地図が掛けられ、机の上には問い合わせ記録と輸送予定表が並べられていた。窓の外には車両置き場があり、大型車が出入りするたびに低いエンジン音が室内まで届く。
問い合わせは三件。
一件目は正規の取引先を名乗り、翌週の車両予定を確認してきた。二件目は別の会社名を使い、出発時刻と台数を尋ねている。三件目では、使用する経路についてまで聞かれていた。
「最初は、普通の照会だと思ったんです。ただ、二件目で少し変だと思って。会社へ確認したら、そんな連絡はしていないと言われました」
「三件目は?」
「名乗った会社自体は実在します。でも、その担当者名はいませんでした」
問い合わせそのものより、直接接触した時の相手の振る舞いを確かめる必要があると見たリヒターが、話をそちらへ移した。
「声をかけられた時は、どこにいたの?」
「勤務が終わって、基地を出て少し歩いたところです。翌日の予定と、普段どの道を使うかを聞かれました」
「最初に立たれた距離は?」
「二、三メートルくらいです。そのあと少し近づいてきました」
「進路を塞がれた?」
「いえ。そこまでは」
「周囲に人はいた?」
「何人かいました。店も開いてる時間でした」
リヒターは地図上でその場所を確認した。人目がある時間帯を選んでいるなら、威圧より自然な接触を装う方を優先した可能性もある。まだ決められる材料は足りなかった。
「相手は一人?」
「一人です」
「覚えている特徴を、後で順番に聞かせて」
直接接触の確認が続く横で、ヨナスは問い合わせ記録から使われた連絡手段を拾っていた。
「問い合わせは全部電話ですか」
「二件が電話で、一件が業務端末です」
「発信元の記録は残ってます?」
「番号と接続記録ならあります」
「後で見せてください。端末側も、残ってる範囲で確認したいです」
マティアスは担当者の日常の移動経路と、勤務終了後によく使う出口を確認した。
エレジは輸送予定表を見ながら、情報がどこで作られ、どこまで渡るのかを追った。
「予定表は最初にどこで作りますか」
「私のところです。そこから基地側へ送ります」
「変更が出た場合は?」
「基地側と、必要な運送会社へ連絡します」
「関係する会社は、全体の予定を見られますか」
「いえ。会社ごとに必要な部分だけです」
相手が何を知っていたのかを整理するには、情報そのものより、誰ならそこまで知れるのかを切り分ける必要がある。
正規の取引先を名乗っただけなのか、実際の運用の一部まで見えていたのかで意味が変わるため、エレジは資料の共有範囲の境目に印をつけた。
全員の確認事項が一巡したところで、カイルは翌日の動きをまとめた。
「午前に担当者本人から、接触時の状況をもう一度細かく聞く。そのあと実際の場所を見る。午後は主経路と西側の補助路を確認する。通信状態も記録する」
ヨナスが端末へ予定を入れ、他の三人もそれぞれ必要な準備を整理した。
仕事としての話が終わると、それまで資料へ向いていた現地の管理担当者も少し表情を緩めた。
「八日もいらっしゃるなら、時間がある時に旧市街も見ていってください。ここ、観光でも結構有名なんですよ」
「工芸品が多いんでしたよね」
エレジがすぐに食いついたので、管理担当者も観光案内へ切り替えるように地図を引き寄せた。
「ええ。木工もありますし、革、ガラス、金属細工も。銀を扱う工房も昔から何軒か残ってます」
「銀細工もあるんですね」
「ありますよ。この辺りです。この通りから奥へ入ると、小さい工房が何軒かあります。観光客向けだけじゃなくて、昔からやってるところもありますよ」
エレジが場所を覚えるように地図を見ていると、管理担当者は海岸側にも指を動かした。
「海岸なら夕方がきれいです。晴れてれば、かなり遠くまで見えますし」
「行ける時間があれば、見てみたいです」
作戦室では出てこなかった言葉だった。カイルは何も言わず、そのまま聞いていた。
*
打ち合わせが終わると、机の上では資料がそれぞれ所定の束へ戻され、椅子を引く音が重なった。仕事中の緊張がほどけたところで、現地の管理担当者がカイルへ声をかけた。
「少佐は、ご結婚はされないんですか」
予想していなかった話題だったらしく、カイルも一拍置いた。
「急だな」
「いや、知り合いにいい人がいるんですよ。少佐くらいの年なら、もう結婚されていてもおかしくないでしょう。まだなら、紹介できますよ」
声には詮索より世間話の軽さがあった。少し離れた机で資料をまとめていたエレジにも、周囲の片づけの音に紛れず会話が届いた。
「付き合っている相手がいる」
「ああ、それなら余計なお世話でしたね」
「いや。気にするな」
交際相手がいると分かれば十分だったらしく、管理担当者は明るく引いた。
エレジは揃えた書類の端を合わせながら、そのやり取りを聞いていた。カイルが迷わず答えたことは嬉しかった。
けれど資料を所定の位置へ戻しても、別の言葉が残っていた。
『年齢的には、もう結婚されていてもおかしくない』
以前、カイルから、結婚を考えた相手がいたと聞いたことがある。
その時は、それ以上詳しく聞かなかった。過去にそういう相手がいたという事実を聞いて、またいつか聞こうと思い、それで終わっていた。
今は、同じ話が前より具体的に感じられた。
結婚を考えた、というのは、どのくらいの気持ちだったのだろう。
*
夕方、五人は宿泊施設へ戻り、翌日の行動を確認した。
共有スペースの長机には現地でもらった資料が広げられ、窓の向こうでは港の灯りが少しずつ増えていた。
午前は担当者への追加聞き取りと接触場所の確認。午後は主経路と西側補助路。ヨナスは通信状態、リヒターは対象者の移動と周囲の警戒、エレジとマティアスは経路と観測を担当する。
必要な確認が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
「中尉、初めての海どうでした?」
資料をまとめながらマティアスが聞いた。
「まだ遠くからしか見てないですけど、思ってたよりずっと広かったです」
「海ですからね」
「それ、少佐にも言われました」
別々のところで同じ返しをした二人がおかしかったらしく、リヒターの声に笑いが混じった。
「同じこと言うのね」
「俺は後からです」
「張り合えてすらないでしょ」
「張り合ってないですよ」
そのやり取りの向こうで、ヨナスは窓から見える暗い港と昼間の地形を重ねていた。
「海沿いは山の中と風の流れがかなり違いそうですね。明日走れば、通信への影響も少し見えると思います」
「楽しみです」
昼間に車内で海を見つけた時と同じように、エレジの返事は自然に出た。
カイルはそれを記録を閉じながら聞いていた。
彼女の状態を確かめるためだけに、この土地へ来たわけではない。それでも、知らない景色を見て、気になったことを尋ねる彼女と同じ土地へ来られたことが、カイルには嬉しかった。
*
夜、エレジは宿泊棟の窓際に立っていた。
昼間ほど海の輪郭は分からない。港には照明が点き、建物とクレーンの位置だけが暗闇の中に浮いている。
その向こうはほとんど何も見えず、海があると知っているからそこが広く続いているのだと分かるだけだった。
明日は、昼間に見た海沿いの道を実際に走る。
西側の補助路も確認する。風や通信状態も、現地で見れば地図だけでは分からなかったことが出てくるだろう。
そこまで考えたところで、昼間に聞いた言葉がまた戻ってきた。
カイルには、誰かと暮らすことを本気で考えていた時期が実際にあった。
どこまで話が進んでいたのか。
その人とは、本当に家族になろうとしていたのか。
窓の向こうでは、港の灯りが海面の近くで細く揺れていた。翌朝になれば、また任務が始まる。エレジはその灯りをしばらく見てから、明日使う資料を確かめるため窓際を離れた。




