隣の部屋の声
ヴァルトベルクから戻った翌日は、外へ出る予定がなかった。午前中に持ち帰った装備と記録を整理し、昼食のあとには、それぞれが自分の仕事へ戻っていた。
数日ぶりの施設では、作戦室の机も食堂の棚も出発前と変わらず、必要なものの場所を考えずに動けることが、任務先とは違っていた。
エレジは自室で荷物を片づけている途中、机の端に置いたままだった薄い冊子を見つけた。ヴァルトベルクへ出る前、ヨナスから借りていた山岳通信の資料だった。
任務に必要なところだけ確認するつもりで借りたものだったが、地形や雪面の状態によって電波の届き方が変わる説明の方が面白くなり、結局ほとんど最後まで読んでいる。
返すついでに、途中で分からなかったところを聞こうと思い、エレジは二つ隣のヨナスの部屋を訪ねた。
「ファルク大尉、これありがとうございました」
「もう読み終わったんですか」
「ほとんど。途中で一つ、分からないところがあって」
「どこですか」
ヨナスは返された冊子をそのまま開き、エレジが示したページを見た。
ヨナスが見ている間、エレジは少し部屋へ目を向けた。
作り自体はほかの四人と変わらないが、机には小型端末や工具が並び、棚には技術書の間へ鉱物の小片や古い無線機の部品が置かれている。以前来た時より物が増えていて、それぞれが何なのかも少し気になった。
「この反射って、一回だけじゃないんですか」
「一回のこともあります。ただ、山だと複数の経路で届くことがあります。直接届く信号と、斜面で反射したものが重なることもあります」
ヨナスは机の上の紙へ斜面と送信位置を描き、そこへ何本か線を足した。
説明を聞いてから読み直すと、さっきまで引っかかっていた図が分かるようになった。エレジがさらに別の箇所を尋ねると、ヨナスも続きを話し始めたが、その途中で壁の向こうから人の声が聞こえた。
聞こえたのはリヒターの笑い声だった。何を話しているのかまでは取れなかったが、隣はマティアスの部屋なので、二人で何か話しているらしい。
「リヒター大尉ですね」
「はい。ロートの部屋にいるみたいですね」
ヴァルトベルクでも三人の距離が以前より近くなっているのは感じていた。こうして何でもない時間を一緒に過ごし、リヒターが自然に笑っているのを聞くと、エレジも嬉しくなった。
「楽しそうですね」
「そうですね」
もう一度笑い声が届いた時、今度はその内容より気になることが出てきた。
「……結構、聞こえるんですね」
「静かだと多少は。内容までは、あまり分かりませんけど」
「そうなんですか」
マティアスの部屋からここまで声が届くなら、反対側にあるカイルの部屋から出た音も、ヨナスには届く可能性がある。
「あの……」
「はい」
「今まで、その……何か……」
エレジは言葉を止めた。「何か聞こえたことがありますか」と聞けば済む。それでも、その先にあるのが自分とカイルの私的な時間だと思うと、続きを口にできなくなった。
ヨナスはしばらく待っていたが、エレジが言葉を探したまま止まっていると、少し困ったように微笑んだ。
「聞かない方がいいと思います」
「……はい」
その返事で、エレジも質問を続けるのをやめた。
ヨナスは開いていた冊子へ話を戻し、エレジもまた説明を聞いた。それでも、今まで意識したことのなかった部屋の近さだけは残った。
夕食ではヨナスも普段通りで、昼間のことに触れなかった。マティアスが帰還後の食事当番について話し、カイルとヨナスは翌週の機材点検の日程を確認している。エレジもその会話に加わり、片づけまで終えてから二階へ戻った。
自室の前まで来たところで、そのまま隣の扉を叩いた。
「少佐」
中から返事があり、エレジが入ると、カイルは机で見ていた端末を閉じた。
「どうした」
「少し話したいです」
「ああ」
エレジは一度ベッドの方を見てから、カイルのいる机の近くへ椅子を持っていき座った。
「今日、ファルク大尉の部屋に行ったんです。借りてた資料を返しに」
「ああ」
「そしたら……隣から、リヒター大尉の笑い声が聞こえて。マティアスの部屋にいたみたいなんですけど、思ってたよりはっきり聞こえてて」
そこまでで、カイルは何の話をしようとしてるのかを察した。
「私たちの時も、聞こえてる可能性ありますよね」
「あるだろうな」
否定されなかったことで、エレジは昼間のヨナスの返事をもう一度思い出した。
「ファルク大尉にも聞こうとしたんです。何か聞こえたことがありますかって。でも、途中で言えなくなって。そしたら、『聞かない方がいいと思います』って」
「……そうか」
カイルは以前、五人で酒を飲んだ夜、ヨナスが言葉に何かを含めたように感じたのを思い出した。
あの時は深く考えなかったが、今の話と合わせれば、何か耳に入っていた可能性は高い。
エレジは、カイルの反応を見てさらに気まずくなった。
「やっぱり、何か聞こえてたと思います?」
「可能性はある」
「……恥ずかしいです」
「今まで知らなかったんだから仕方ない」
「そうですけど、これからは知ってるので」
エレジが気にしているのは、すでに聞かれたかもしれないことより、今後も同じ可能性があることだった。
「聞かれるのは嫌です。でも、そのために毎回静かにしなきゃって考えるのも嫌です。少佐といる時まで、隣の部屋のことをずっと考えたくないので」
「ああ」
カイル自身も、二人でいる時間を壁の向こうに合わせるつもりはなかった。聞かせたいわけではないが、そのためにエレジの反応を抑えさせたいとも思わない。
「なら、声が出そうな時だけ何かで抑えるか」
そう言われて、エレジは少し考えた。
「……布を噛むのはどうですか」
「布?」
「はい。ずっとじゃなくて、本当に声が出そうな時だけ。そうすれば、少佐が加減しなくてもいいですよね」
「……お前がそうしたいならそれでいい。ただ、息が苦しくなるなら外せ」
「はい」
すぐに条件を重ねられ、エレジは少し笑った。
「少佐、結構心配してますね。私が言い出したのに」
「お前が言い出したことと、無理しないか気にすることは別だ」
エレジにも、その答えなら分かった。
聞かれるのが嫌だと言ったことを否定せず、そのために自分へ我慢を求めるわけでもない。使いたいなら使えばいいと言いながら、苦しくなった時には止める。
「……今日、試してみてもいいですか?」
カイルは一瞬、何のことか考えたが、エレジの表情ですぐに分かった。
「布を?」
「はい。実際にそういう時に使えるか、確かめておきたいです」
エレジは少しだけ言いにくそうにしてから、それでも続けた。
「ちゃんといつもみたいにしてる時に、試したいです」
カイルには、その言葉を自分へ向けて言うこと自体、エレジにはまだ少し恥ずかしいのだと分かった。それでも目を逸らして頼みを引っ込めることはしない。
聞かれる可能性を知ったことで二人の時間を減らすのではなく、今まで通り過ごすために試したいと言っている。そのことは、カイルにはむしろ嬉しかった。
「分かった」
「いいんですか」
「試したいんだろ」
「はい」
「ただし、限界までやる必要はない。苦しかったら外せ」
「分かりました」
カイルは棚から自分のハンカチを取り出し、ベッドのそばに置いた。
その様子を見ていたエレジも立ち上がり、ベッドの端に座ったカイルのところへ行くと、いつものように近づきキスをした。
実際にエレジが布へ手を伸ばしたのは、しばらく経ってからだった。
声が出そうになってきたところでハンカチを手に取り、何度か折ってから歯で軽く挟んだ。
最初に確かめたのは呼吸だった。鼻から息を吸い、苦しさがないことを確認してからカイルへもう一度近づいた。
使い始めた直後は、エレジの方にもまだ余裕があった。
声が出そうになれば布を噛む。強く噛みすぎたと思えば緩める。少なくとも、本来出そうだった声はかなり小さくできている。
ただ、カイルにはすぐに別の変化が見え始めた。
声が抑えられた分、ほかの反応が普段よりはっきりする。
触れられた瞬間に止まる息も、そのあと短く吐く呼吸も、目を閉じるタイミングも分かりやすい。声を出さないようにしているのに、エレジは自分から距離を詰めることまではやめなかった。
布を使えば反応が分かりにくくなると思っていたカイルにとって、それは少し意外だった。
むしろ、何を堪えているのかがよく見える。
そのことへ意識が向くにつれて、カイル自身の呼吸まで深くなり、エレジもしばらくしてそれに気づいた。
自分の声を抑えることに気を取られていた時には分からなかったが、カイルがいつも以上に自分を見ていて、呼吸も少し違う。
エレジは一度布を外した。
「……少佐?」
「ああ」
「どうしたんですか?」
呼吸が整わないままの問いに、カイルは少しの間見つめるしかできなかった。熱のある視線に、エレジは少し戸惑った。カイルは白状するように答えた。
「興奮してる」
エレジは自分の顔が熱くなるのを感じたが、問いをやめなかった。
「これを使ってるからですか」
「布がというより、お前を見てるからだ。声を抑えようとしてるのに、触れられたくないわけじゃないのがよく分かる」
エレジは、その言葉を聞いてから自分の反応を思い返した。
確かに声だけは抑えていたが、カイルへ近づくことはやめていない。むしろ、言葉を使えない分、自分から触れたり距離を詰めたりしていた。
「……そんなに分かります?」
「ああ。声がない分、余計に」
「……恥ずかしいです」
「嫌か」
少し考えたが、その答えはすぐに出た。
「嫌じゃないです」
エレジ自身にも、そこは意外だった。
「見られてるって思うと恥ずかしいです。でも、少佐に見られてるのは嫌じゃないです。むしろ……さっきより意識してるのに、やめたくないです」
その言葉を聞いた時、カイルの中で保っていた余裕が少し崩れた。
布を使って声を抑えている姿だけなら、まだ実験の一部として見られた。けれど、自分に見られていることまで意識した上で、それでも続けたいと言われると話が違う。
「それは、かなりクる」
エレジは一瞬驚いたあと、頬を熱くして手の中の布を見た。
最初に使った時とは、もう意味が少し変わっている。
声を抑えられるか確かめるだけでなく、今度はカイルが見ていることまで分かった上でもう一度使ってみたいと思っている。
自分から布を噛んで、カイルの首に腕を回した。
予想した通り、さっきより早く呼吸は乱れた。
声を抑えることだけに集中できない。カイルが自分の反応を見ていると分かっている。その視線を意識すると、布を噛む力まで強くなる。
カイルも、最初より余裕を保つのが難しくなっていた。
エレジが声を堪えようとしながらもさらに近づいてくるたび、カイルの方も呼吸を整えるのに時間がかかった。
エレジには、その変化も伝わった。自分の反応にカイルも同じように引かれている。それが分かると、恥ずかしさの中に少し嬉しさが混じった。
しばらくして布を噛む力が強くなりすぎた時、エレジは一度外しかけた。その様子に気づいたカイルはすぐに止まった。
「苦しいか」
エレジは首を横に振った。最初のように布の使い方まで冷静に考える余裕はなかった。
少し呼吸を整えたあと、エレジは布を持ったままカイルを見た。
「まだできます。続けたいです」
自分からもう一度布を噛み直す。
そこから先は、二人とも最初ほど「実験」を意識しなくなった。
カイルは、エレジが苦しくなっていないことだけは見落とさないようにしていた。エレジの方も、無理だと思えば外すつもりでいた。
それでも、声を抑えるために始めたものが、別の意味でも二人の意識に残るようになっていた。
エレジが布を噛んで反応を堪えようとするたび、互いの反応がさらに強く相手へ伝わっていった。やがて、壁の向こうのことまで考える意識はなくなった。
*
しばらくして呼吸が落ち着いてくると、エレジはようやく布を口元から外した。顎に少し疲れが残っていて何度か口を動かす。
「途中から、結構ぎりぎりでした」
隣に横になっているカイルはそれを聞いて微笑む。
「ああ。見てて分かった」
エレジは手元の布を見た。
「それと……思ってたより好きでした」
カイルにも、声を抑えられたことだけを言っているのではないと分かった。
「俺もだ」
「でも、できるなら布を使わなくてもいい方が楽ですよね」
「まあな」
エレジはしばらくカイルの隣で休んでいたが、呼吸が落ち着くと、ふと部屋の反対側を見た。
「……ベッド、あっち側に動かせませんか」
エレジが指したのは、自分の部屋と接する側の壁だった。
「ファルク大尉の部屋から離れますよね」
カイルもそちらを見た。壁際には収納棚があるが、位置を変えればベッドを入れる余地はある。
「棚を動かせば入る」
「じゃあ、明日やりたいです」
エレジはそれだけ決めると、横になったままカイルの方へ擦り寄った。カイルはその甘えるような様子に口元を緩め、髪を撫でた。
翌日動かすならどこまで棚をずらせるかだけ確認してから、カイルは部屋の灯りを落とした。




