後を追った男
男の言葉を受けても、カイルはすぐに事情を聞き始めなかった。
小屋の外には、失踪者とは別人と思われる痕跡が残っている。相手がすでに離れたのか、周囲の林にまだいるのかが分からない以上、本人の感覚だけで安全を判断することはできなかった。
「ロート、ファルク。建物の裏から離れる痕跡がないか見ろ。深追いはするな」
「了解です」
「リヒターはそのまま処置。ヴァイスは入口と西側を見る」
「はい」
マティアスとヨナスが小屋の外へ回る間、エレジは入口から見える林を確認した。
木々が密集しているため遠くまでは見通せないが、接近してくる人間がいれば、小屋の近くでは植生を動かさずに進むのは難しい。
耳を澄ませても、聞こえるのは葉が擦れる音と、リヒターが医療用品を扱う音だけだった。
失踪者は右足の固定を受けながらも、何度か開いた扉の方へ視線を向けていた。
救助が来たことで周囲を確認しているだけとも考えられるが、外に何かが残っていると意識していることは、その様子から伝わってきた。
リヒターは腫れの範囲と足先の感覚を確かめ、少量ずつ水を飲ませながら、ほかに重い症状がないか確認した。
「足首から下腿にかけてかなり腫れてる。今ここで断定はしないけど、自力で歩かせない方がいいわ。肩は動かせる?」
「痛いけど、動く」
「頭痛や吐き気は?」
「ない」
「意識を失ったことは?」
「ないと思う」
受け答えは遅いものの、質問の内容は理解できていた。リヒターは水分を取らせながら処置を続け、今すぐ意識状態が悪化する兆候がないことを確認した。
しばらくして、外へ出ていたマティアスから短距離通信が入った。
『少佐。小屋の裏から北西へ抜ける足跡があります。例の二つ目と同じ形だと思います』
「距離は」
『百メートルくらいまで。そこから地面が硬くなって取れません。戻ってきた形は今のところないです』
『こっちも人影なしです』
ヨナスからも異常なしの報告が入ったことで、相手が小屋の周囲に留まり続けた形跡は見つかっていないことが分かった。カイルは二人を戻し、周囲の警戒を維持したまま、男の呼吸が少し落ち着くのを待った。
「話せる範囲でいい。車を止めたところから聞きたい」
男は少し考えてから、途切れながらも、車を置いた日のことを話し始めた。
「林道を……いつもの確認で走ってた。あの辺、倒木とか崩れが出てないか見る仕事もあるから」
「一人だったか?」
「ああ」
車を走らせている途中、谷側へ下りる斜面の先に人影を見たという。現在使われている林道から外れた場所だったため、最初は別の作業員か地元の人間だと思ったらしい。
「でも、あっちはもう使ってない。たまに俺たちが見るくらいで、普通は入らない」
「それで車を止めたのか」
「ああ。誰かいるなら、何してるか確認しようと思った」
携帯端末と仕事用の端末を持って車を降りたという説明で、二つとも車内に残されていなかった理由はつながった。
男は斜面を下り、旧道へ入った。しばらく進んだところで、さきほど見えた人物を見つけたという。
「男だった。作業員じゃないと思う」
「服装は?」
「山に入る格好ではあった。でも、ここの人間じゃない。少なくとも俺は知らない」
「何をしていた?」
「それが分からない」
男は水を一口飲み、喉の痛みが落ち着いてから続きを話した。リヒターも急かさず、容器を持つ手に力が戻っていることを確かめていた。
「何してるのか聞いた。向こうは、道を見に来たみたいなことを言った。でも、この辺りを知ってるやつの話し方じゃなかった」
「どう違った」
「今も使ってるみたいに話したんだ。こっちから抜けられるとか、作業区画の先にも道があるとか。場所は知ってる。でも、いつ使われなくなったかとか、今どうなってるかは知らない感じだった」
エレジは旧図を持ったまま、その説明を現在の地形と重ねた。古い資料だけを見れば、道も作業区画も管理小屋も存在している。
現在の状態を知らず、古い図面だけで来た人間なら、使われていない道を今も通れる前提で話すことはあり得た。
「その場で何かされたか」
「いや。何も」
「揉めたか?」
「いや。何か変だと思ったから、戻るって言って離れた」
男は来た道を戻ろうとした。最初は、相手も同じ方向へ歩いているだけだと思ったという。
「でも、ついてきた」
「どの時点でそう判断した?」
「一回、道を外れたんだ。あいつと離れたかったから。そしたら向こうも来た」
「声をかけられたか?」
「いや。何も言わない」
「走ったか?」
「最初は歩いた。俺が速くしたら、向こうも速くなった」
そこで初めて、男は相手が自分を追っている可能性を強く意識した。本来なら林道へ戻る方が早かったが、車を見られていれば戻る場所も知られている。
開けた林道へ出るより、自分の方が土地を知っている旧道へ入った方が距離を取れると考えたという。
「だから谷へ?」
「ああ。あの道なら昔仕事で何度か入ったことがある。途中までは知ってた」
「途中で通信したか」
「した。位置を送ろうとした」
端末記録を確認していたヨナスが、本人の記憶と照合できる範囲を確かめた。
「誰にですか?」
「事務所。何かあったって残しておこうと思った。でも、送れなかった。圏外になって」
「何回?」
「一回……いや、二回やったかもしれない。よく覚えてない」
送信を試した記録とも矛盾はなかった。正確な回数や時刻は端末側で確認できるため、ヨナスもそれ以上は聞かなかった。
「足を怪我したのはそのあと?」
「斜面で滑った。下まで落ちたわけじゃない。でも足ひねって、その時に肩もぶつけた」
「そこから歩いたのね」
「ああ。止まったら来ると思ったから」
途中で長く止まった形跡や、そこから乱れ始めた歩幅も、本人の説明とつながった。
「相手はそのあとも見えた?」
「何回か。ずっと近くじゃない。後ろにいたり、見えなくなったりした」
「呼び止められたことは?」
「ない」
「武器は」
「見てない」
「何か持っていた?」
「小さい鞄みたいなのはあったと思う。でも、はっきりは……」
危険を感じながら移動していた時の記憶である以上、細部まで正確に覚えているとは限らない。カイルもその場で特徴を取り切ろうとはせず、状態が落ち着いてから改めて確認できる程度に留めた。
「この小屋を目指したのは?」
「昔、ここにあったのを思い出した。建物が残ってるかは分からなかったけど、外にいるよりましだと思って」
足を痛めてからは、移動にかなり時間がかかったらしい。途中で何度も休みながら作業区画まで辿り着き、そこから記憶を頼りに小屋へ向かった。
「その男もここまで来たか?」
「来たと思う」
「見たのか」
「最後に見たのは手前だ。小屋に入ってからは見てない。でも、外を歩く音がした」
小屋へ入ったあと、男はできる限り音を立てずに奥へ移動した。しばらくして、建物の正面ではなく、側面から裏側へ回るような足音を聞いたという。扉が開くと思って身構えたが、何も起きなかった。
「どのくらいいた」
「分からない。数分かもしれないし、もっと長かったかもしれない」
「声は?」
「ない」
「中を覗かれたか?」
「分からない。窓の方で音がした気はする。でも、顔は見てない」
その後、足音は消えた。すぐに外へ出れば待ち伏せされているかもしれないと考え、男は小屋に留まった。
時間が経つほど足の痛みは強くなり、自力で林道まで戻ることも難しくなったため、そのまま救助を待ったという。
「食料と水は」
「水は途中の沢で足した。小屋に入ってからは持ってた分だけで、昨日なくなった。食べ物は……作業用のバーが何本か」
「まだ残ってる?」
「ない。少しずつ食べたけど、二日前になくなった」
移動中には水を補給できても、足を痛めて小屋へ入ってからは取りに出られなかったらしい。五日間持ちこたえていたことにも、今は脱水が進んでいることにも説明がついた。
話を聞いていたマティアスが、相手を最初に見た時の状況をもう一度確かめた。
「その人、最初は何かしてたんですか。物を隠してたとか、地面を掘ってたとか」
「いや。立ってた。たぶん周りを見てた」
「何かを見た直後に追われた感じではない?」
「分からない。俺も、何を見たのか分からないんだ」
男が覚えているのは、使われていない旧道に知らない人間がいたこと、その相手が現在の状態とは合わない説明をしたこと、離れたあとも経路を変えてついてきたことまでだった。なぜ追ってきたのかは、本人にも分からない。
「顔は覚えてるか」
「たぶん」
「あとで詳しく聞く。今はそれでいい」
必要な経緯が分かったところで、カイルは聞き取りを切り上げた。男の状態を考えれば、ここでさらに細部を思い出させるより、先に基地へ戻した方がいい。
右足を固定した状態でも、自力で旧道を戻らせるのは難しい。リヒターが搬送中に足へ負担がかからないよう固定を調整し、その間にほかの四人は簡易担架と帰路を整えた。
エレジは来た道をそのまま戻る場合と、作業区画から少し北寄りへ回る場合の傾斜を旧図と現在地で比べた。
最短経路には担架を大きく傾ける箇所があり、負傷者にも運ぶ側にも負担がかかる。距離は少し伸びても、緩い斜面を使った方が安全だった。
「作業区画から北へ少し回れます。距離は伸びますけど、担架を大きく傾ける箇所が減ります」
「そっちで行く」
リヒターが男の身体を固定し、カイルとマティアスが最初の担架を持った。エレジは前で経路を取り、ヨナスは中央から周囲の警戒と通信の復帰を確認する。進行速度は大きく落ちたが、別人の足跡を追うより、見つけた男を確実に戻すことが優先された。
旧作業区画を抜けて谷を上がるにつれ、通信状況は少しずつ回復した。接続が安定する位置まで戻ったところで、ヨナスは現地基地へ連絡を入れた。
「対象を発見しました。生存。右下肢に負傷あり、自力歩行は困難です。現在搬送中です」
相手側が状況を確認したあと、第三者についても続けた。
「本人から第三者との接触証言があります。現場にも別人と思われる足跡を確認しています。相手の所在は不明です」
現地部隊にも、負傷者の受け入れに加え、旧道周辺に別の人間がいた可能性が共有された。
帰路では地形に合わせて担架を交代しながら進んだ。失踪者は何度か目を閉じたが、リヒターが声をかければ応じ、意識状態に大きな変化はなかった。
エレジは前方の経路を取りながら、車を降りた理由、旧道へ入った理由、途中から歩き方が崩れた理由が、本人の話によって一つの移動としてつながったことを考えていた。
分からないまま残ったのは、途中から加わったもう一人だった。
基地へ戻った頃には、夕方が近づいていた。連絡を受けて待機していた医療担当へ男を引き渡し、リヒターが現地で確認した状態と処置内容を説明する。詳しい事情聴取は、診察と休息のあとに改めて行われることになった。
五人も装備を戻す前に現地部隊の担当者と作戦室へ入り、現場で確認した内容を共有した。
本人は林道から自分の意思で車を離れ、知らない男と接触したあと、相手から距離を取るため旧道へ入った。その途中で転倒して右足を負傷し、旧管理小屋まで移動した。
現場には本人とは別の足跡が残っているが、相手から直接暴力を受けた事実はなく、武器も確認していない。
エレジが作戦室の地図を見ると、車が残されていた林道から谷、旧道、作業区画、小屋まで、数日かけて確認してきた経路に大きな空白はなくなっていた。
残ったのは、旧道で接触した男の身元と目的だった。




