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エーデルベルグの雪 ──北部山岳任務録──  作者: 有凪いちほ
特殊情報収集班:任務

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昔のエレジ


 エレジが食堂を出たあと、カイルは翌日の移動予定を現地部隊へ伝えるため、席を立った。


 翌日は、今日確認した搬出路の先へ進み、旧作業区画を調べることになっている。山から戻ったあとに五人で整理した記録には、到達点までの通過痕と経路の状態、通信が使いにくくなる位置が残っていた。

 明日はその確認を繰り返さず、先へ進むための時間を取れる。


 連絡を終えて廊下へ戻ると、向こうから書類を持ったリュウが歩いてきた。食堂で再会した時とは違い、今は周囲に人がほとんどいない。

 リュウもカイルに気づき、そのまま通り過ぎずに足を止めた。


「グレイ少佐、少し時間あるか」


 用件を聞く前から、先ほどの続きだろうとは思った。エレジと再会した直後である以上、話題になる可能性は考えていた。


「あります」


 そう答えると、リュウは近くの小会議室が空いていることを確認し、二人で中へ入った。四人掛けの机と椅子があるだけの狭い部屋で、窓際には使われていない資料棚が置かれている。


 リュウは持っていた書類を机の端へ置き、カイルも向かいの椅子へ座った。先ほど食堂で偶然顔を合わせた時とは違い、今はエレジ本人も他の三人もいない。昔の話をするために二人だけになったのだと分かると、カイルも急かさずリュウが何から話すのかを待った。


「先に聞くが、ヴァイスは今どうだ」


「どう、というのは」


「勤務も含めてだ」


「任務上は問題ありません。偵察と観測が中心ですが、判断も安定しています。今の班では、単独で何かをやらせるより、全体を見ながら動かした方が能力を使えます」


「そうか。さっき、食堂に入る前に少し見てた。随分、周りと話すようになったんだな」


 そこでカイルは、リュウが入口に現れる前から五人の様子を見ていたのだと分かった。エレジは任務の話から離れ、マティアスたちとの会話にいつも通り普通に混ざっていた。


「昔は違ったんですか」


「かなり。入ってきた時、あいつは十六だった。若いってだけでも扱いに困る上官はいたし、逆に子どもだと思って軽く見るやつもいた」


 リュウの話では、当時のエレジは仕事そのものでは扱いに困る兵ではなかった。覚えるのは早く、言われたことはやり、一度教えたことは次から自分で処理できた。その能力と、ほとんど断らない性質を、自分に都合よく使おうとする人間の方に問題があった。


「できるから使おうとする。断らないから仕事を回す。自分のところへ引っ張れば便利だと思うやつもいた。年齢だけ見て雑に扱うやつもいたし、女だからって近づく男もいた」


「十六歳の兵に?」


「ああ」


「本人は知ってたんですか」


「たぶん、ほとんど知らない。あの頃のヴァイスは、周りが自分をどう見てるかまで気にしてる余裕がなかった」


 それは、他人そのものを見ていなかったという意味ではなかった。目の前に仕事があればやり、呼ばれれば行く。頼まれたことが自分にできるなら処理する。相手がなぜ自分にそれを回したのか、どんな意図で近づいているのかまで考える余裕がなかったのだと、リュウは当時の様子から判断していた。


「中佐が止めていたんですか」


「ああ。本人に直接仕事を回すやつには、必要なら俺を通せと言った。何度言っても分からないやつには、その上を通して止めた。若いからって舐めた態度を取るやつにも、必要ならこっちから言った」


「男の方は」


「そっちも同じだ。近づき方がおかしいやつは、ヴァイスに話が行く前に止めた」


 リュウの言い方には、自分が特別なことをしていたという意識はなかった。それでも、本人へ知らせる前に相手側へ手を回し、繰り返す人間にはさらに上から止めていたという話を聞けば、一度や二度の牽制ではなかったことは分かる。


「本人には何も?」


「言ってない」


「ずっとですか」


「ああ。あの頃のヴァイスに言ったら、自分が何かしたと思っただろうからな。それに、俺が止めたかったのはヴァイスじゃない。周りの方だ。十六のやつに、周りの大人がまともに振る舞わない責任まで取らせる必要はない」


 カイルには、その判断が理解できた。

 課程開始当初のエレジなら、誰かが自分を利用しようとしていたと知らされても、まず相手の行為を問題にするより、自分の対応に何か原因がなかったかを考えた可能性が高い。

 リュウはその反応まで予想したうえで、エレジ本人には知らせず、周囲の側を止めていたらしい。


「刃物も覚えるのが早かった」


「刃物ですか」


「ああ。教えたのは俺じゃないが、二、三度やれば次には形になってた。身体が大きくない分、力で押すより位置を見る方が早かったんだろうな。射撃も悪くなかったし、地図も読めた。仕事だけ見れば、若いから困るという兵じゃなかった」


「それでも周りは扱いに困った」


「十六だからな。本人の方も、普通の十六とはだいぶ違った」


 リュウが覚えているのは、本人から希望を聞いた記憶ではなく、日常の中で目に入っていた行動だった。


「休みの日に誰かと出ていくところを見たことがない。勤務が終われば一人でいた。食堂でも必要な話が済めば長く残らない。

 周りが街へ行く時も混ざらないし、誰かと待ち合わせてるところも見たことがない。何か買って戻ってくることもほとんどなかったな。私物も少なかった」


 そこまで聞いたところで、カイルの中にはベルンハルトへ初めて連れて行った日のエレジが浮かんだ。


 文具店で一度手に取ったノートを棚へ戻し、雑貨店では木製の鳥を手に取りながら買わなかった。書店では本を一度戻したあと、それでももう少し読みたいと思って買った。


「仕事はしてた。飯も食ってた。寝て、次の日にはまた出てきた。訓練も任務も手を抜かなかった。だが、あの頃のあの子は何というか……生きるためだけに生きていた」


 その言葉だけなら抽象的だったかもしれないが、今まで聞いた行動を並べれば、リュウが何を指しているのかは分かった。生きた先で何をしたいかが見える状態ではなく、その日を終わらせ、次の日も同じように動くことを繰り返していたのだろう。


「だから今日見て、驚いた。私は、あの子が笑ったところを四年間で一度も見たことがなかったからな」


 カイルにとって、今のエレジが誰かとの会話で笑うことは珍しい出来事ではなくなっていた。

 マティアスの言葉に呆れながら笑うこともあれば、リヒターと話している時に表情を緩めることもある。ヨナスが興味のある話を始めれば、その説明を聞きながら楽しそうにする。自分の前でも同じだった。


「さっきは、最初誰か分からなかった。顔は同じなのにな」


 その言葉に大げさな意味はなく、昔との違いがそれだけ大きかったのだと分かった。


「今の方がいい」


「そうですね。少なくとも、今は行く場所も、食べるものも、人とどう関わるかも、自分で選ぶようになってます。最初からではありませんでしたが」


「少佐が最初に会った時も違ったか?」


「課程に来た頃、休養日にどこかへ行くか聞いたことがあります。行きたい場所がないと言っていました」


 雪の向こうにベルンハルトの灯りが見えていた夜のことをカイルは覚えていた。


「翌日、用事があって街へ連れて行きました。必要のない本を一冊買って、菓子も買った。それが最初だったと思います。今は、欲しいものがあれば欲しいと言います。行きたい場所があれば行ってみたいと言います」


「そうか。なら、随分変わったな」


 課程開始時のエレジにも、十六歳の頃から続いていたものは残っていた。自分の負担を後回しにし、必要なら自分が引き受ければいいと考える癖。

 休養日になってもしたいことがなく、何かを欲しいと思うことにも慣れていなかった。


 カイルが変えたと考えるつもりはなかった。エレジ自身が訓練や生活の中で判断を積み重ね、自分を戦力に含めるところから始めて、休むことや、自分のために選ぶことを覚えてきた。今では四人の中に自分から入り、誰かと過ごすことも選んでいる。


「中佐が止めていたことは、今も本人には言わないんですか」


「今さら俺から言うことでもないと思ってる。ただ、少佐には知っておいてもらっていいと思った」


「なぜ俺に」


「今のヴァイスを一番近くで見てる側だろ」


 その言葉にどこまでの意味を持たせているのか、カイルは確認しなかった。リュウも二人の関係について問いただすことはなく、先ほど見た範囲から必要なことだけを話していた。


「少なくとも、あの頃より周りを信用してる。それが分かれば十分だ」


「はい」


 そのあと翌日の予定を簡単に確認し、二人は小会議室を出た。リュウは持っていた書類を現地部隊へ届けるため反対側の廊下へ向かい、カイルは作戦室へ戻った。


 扉を開けると、エレジはマティアスと地図を見ながら翌日の経路について話していた。ヨナスは通信が不安定になる範囲を端末へ入力し、リヒターはその横から記録を確認している。


「少佐、ちょうどよかったです。明日の入り口、この二つならどちらから行きますか」


「見せろ」


 カイルが卓へ近づくと、エレジは自分が見ていた地図をこちらへ向けた。マティアスが横から別の経路を指し、ヨナスも端末を持って席を寄せる。リヒターは残っていた椅子をカイルの方へ動かした。


 カイルはそのまま四人の間に入り、翌日の経路確認を始めた。



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