追う・過去との再会
翌朝、五人は車両の発見地点へ戻った。
夜の間に雨はなく、昨日まで濡れていた地面は少しずつ乾き始めていた。車の周囲にも新しく人が入った形はなく、リヒターは前日に確認した谷側の痕跡から追跡を再開した。
最初のうちは柔らかい土に圧痕が残っていたが、斜面へ入るにつれて地面が硬くなり、足跡として追えるものはすぐになくなった。それでも、低い草の倒れ方や枝についた泥は南西へ続いている。
「昨日の続きはこっちでよさそうね。ただ、ここから人数までは取れないわ」
「一人でも昨日みたいな跡になりますか」
「なることはある。だから複数いたとはまだ考えない」
エレジは現在の地図に古い作業道を重ねた。車の位置から谷側へ下りると、現在の地図では道が途切れている。しかし旧図には、谷底まで下りる手前で西へ曲がり、そのまま南西へ延びる作業道が残っていた。
「この先に旧道があります。今の地図には出てません」
「痕跡の方向と合う?」
「はい。このままなら入口の近くに出ます」
少し斜面を下ると、木々の間に不自然に平らな場所が現れた。中央にも若い木が生え、斜面から流れた土で輪郭は崩れていたが、周囲の地形とは違って一定の高さを保ちながら谷を回り込んでいる。
「これです」
「知らなかったら道だと思わないですね」
「今なら、谷へそのまま下りる方が分かりやすいです」
「失踪者は知ってたと思うか」
カイルに聞かれ、エレジは事前資料で確認した男の仕事を思い返した。林業に関わり、この一帯の道路や通行状況を軍へ伝えていた人物なら、現在は使われていない道を知っていても不自然ではない。
「知っていた可能性はあります。でも、この道を使っていた記録まではありません」
「それでいい。進むぞ」
旧道へ入ってから、リヒターは断続的に通過痕を拾った。草の倒れ方や新しく擦れた枝は道に沿って南西へ続き、途中で斜面を上下した形は見つからない。誰が通ったのかはまだ分からないものの、前日に谷側で見つけた痕跡と方向は一致していた。
ヨナスが確認していた通信状態も、進むにつれて悪くなった。
「ここから基地との直接通信がかなり落ちます。南西へもう少し入ると、この系統はほぼ使えません」
「昨日の予測より早いな」
「谷の形が効いてます。中継なら戻せますけど、位置によっては安定しないと思います」
「通信できる地点は残しておけ」
「はい」
旧道は現在の林道より遠回りだったが、急な上り下りを避けながら谷の奥へ進めるように作られていた。
長く放置されていることを除けば、人が歩いて移動するには周囲の斜面よりずっと使いやすい。
途中で古い連絡路との分岐に出ると、北へ上がる道は現在の林道へ近づく方向だったものの、少し先で斜面ごと崩れており、入口から草も深かった。
反対に、谷沿いへ続く旧道では、リヒターがそれまでと同じ時期の通過痕を確認した。
「こっちね。誰が通ったかはまだ言えないけど、少なくとも最近ここを進んだものがいる」
エレジは旧図の先を確認した。
「このまま二キロくらい行くと昔の伐採区です。その手前で、谷側へ下りる作業道がもう一本分かれます」
「現在の道には戻れる?」
「もっと先まで行かないと無理です。この辺りからだと、進むほど今の林道から離れます」
ここまでの経路を見直すと、車の位置から偶然斜面へ入っただけでは説明しにくくなっていた。
現在の地図には載っていない旧道へ入り、林道へ戻れる方向には向かわず、そのまま山の奥へ続く方を進んでいる。ただし、それを失踪者本人の行動と決められる材料はまだない。
「この道を知ってる人なら、奥へ行くために選ぶ経路ではあります」
「迷って入る道ではないな」
「入口までは偶然でも入れます。でも、その先まで行くなら、道として使えるって分かっていた方が自然です」
リヒターも、ここまで拾えた痕跡から別の点を補った。
「今のところ進行方向もほとんどぶれてないわ。迷って同じ場所を行き来した形は出てない」
「なら、事故で方向を失っただけという可能性は下げる。旧道を使って南西へ移動した人間がいることまでは見ていい。失踪者本人か、何のために進んだかは残す」
エレジもそれ以上は地図から決められなかった。誰かに会うためかもしれない。何かを確認しに行ったのかもしれないし、逆に誰かから離れるために人目の少ない道を選んだ可能性もある。
さらに進んだ先で旧道はもう一度分かれていた。一方はそのまま伐採区へ向かい、もう一方は谷側へ高度を落としていく。
分岐の手前には最近人が立ち止まった可能性のある痕跡が残っており、休憩するには傾斜があり水場もない一方で、その位置からなら二つの道の先をどちらも確認できた。
「ここで一度、行く先を見た可能性はあるわね」
エレジはそれぞれの道がどこへ続くかを確認した。
「谷側は古い搬出路に繋がってます。もう一方は伐採区です。ここまで来た人が地形を知っていたなら、目的によって選ぶ場所です」
途中で戻れる方向を選ばず、分岐では周囲を確認した形がある。失踪者と結びつけるにはまだ足りなくても、この道を通った人物が何らかの目的を持って移動していた可能性は、前日より高くなっていた。
リヒターは二本の道の入口を順に確認した。伐採区へ続く側には新しい乱れが見つからなかったが、谷側の搬出路には、ここまで拾ってきたものと同じような通過痕が残っていた。
「谷側ね。人数はまだ取れないけど、続きはこっちにある」
エレジは旧図でその先を確認した。谷へ下りる搬出路の先には、古い作業区画の記号がある。そこへ至るまでの道筋も、現在の地形図からは消えていた。
「このまま谷へ下りると、二キロ弱先に昔の作業区画があります。当時は小さい建物もあったみたいです」
「今も残ってるか?」
「分かりません。旧図にあるだけです。現在の地図には記載がありません」
「帰りの時間は?」
エレジは現在地から車両までの距離と、その先へ進んだ場合の高低差を確認した。ここまで通ってきた旧道には大きな崩れがなく、戻る経路も取れている。
「接続を確認するところまでなら取れます。作業区画へ入るかは、途中の状態を見てからです」
「分かった。続ける」
ヨナスは移動しながら通信状況を記録していた。谷側へ下りるにつれて電波はさらに弱まり、搬出路へ入って百メートルほど進んだところでは、通常回線がほとんど安定しなくなった。
「ここから先、携帯端末ならかなり厳しいですね。位置によって一瞬入る可能性はありますが、継続して使える状態ではないです」
五人はそのまま搬出路を下った。ここまで見つけてきたものと同じように、残っている痕跡はどれも弱かった。土が削れた場所、折れてまだ色の変わっていない細枝、斜面側へ押し込まれた草。
単独なら動物や古い通行でも説明できるが、同じ方向へ連続していることで、人がこの経路を使った可能性は高くなっていた。
途中でリヒターが路肩から少し外れた場所を確認した。搬出路の外側には低い藪があり、その先は谷へ落ちている。数メートルだけ草が伏せられ、また路面へ戻っていた。
「ここ、一度外へ出てる」
エレジは斜面の下まで続く乱れがないことを確かめた。
「転落した形ではないですね」
「そうね。少なくともここから落ちたとは見えない」
「何をしたかはどうだ」
「分からないわ。立ち止まっただけかもしれないし、下を確認したのかもしれない」
その位置も記録し、さらに先へ進んだ。一時間ほどで古い搬出路は細くなり、倒木や植生が増えたものの、経路そのものが完全に消えているわけではなかった。
エレジは地図と地形を照合し、現在地から旧作業区画までの距離を見積もった。
「この先で一度西へ曲がるはずです。そのあと谷底から少し離れます。作業区画までは、あと六百メートル前後です」
さらに進んだところで、リヒターが新しい通過痕を見つけた。土の柔らかい部分に靴底の端らしい圧痕が残っていたが、形は崩れており、種類まで判断できる状態ではない。
「人の可能性は高いですか?」
「高いと思う。ただ、車の周辺にいた誰かと同じかまでは言えないわ」
車が残されていた現在の林道から谷へ下り、旧道へ入り、さらにこの搬出路を進んだ人間がいる可能性は高くなっていた。ただし、それが失踪した男なのか、別の誰かなのかはまだ分からない。
西へ曲がる手前まで来たところで、カイルは帰路に使う時間を確認した。作業区画までは近づいていたが、その先で人や建物を見つけた場合、周辺を確認し、必要なら処置や搬送へ切り替える時間までは残っていなかった。
「今日はここまでだ。先で何か見つかれば、確認だけでは終わらない。明日はここから入る」
エレジも、図面にある建物が残っているかを見るだけで済むとは限らないことを考えた。ここまでの経路と通信状態を残しておけば、翌日は車の周囲を調べ直さず、その先へ進める。
「はい。到達点を残します」
帰路では新しい痕跡を追わず、往路で記録した位置と経路の状態を再確認した。現在の林道からは斜面と木に隠れ、谷底から見上げても道の形はほとんど分からない。
「知ってて入ったなら、人目を避けるには使いやすいですね」
「そうね。ただ、それを目的に選んだかはまだ分からないわ」
「はい」
本人の足跡を確定できたわけではない。それでも、翌日に確認する範囲は朝より狭くなっていた。五人は途中の分岐も記録し直してから車両へ戻り、午後遅くには基地へ帰還した。
装備を戻して記録を作戦室へ置いたあと、五人は現地基地の食堂兼休憩室へ移った。夕食にはまだ少し早く、窓際の長机には他の人間もいなかったため、飲み物を用意してそのまま同じ卓についた。
山にいる間は失踪者の痕跡と地形ばかりを見ていたが、明日確認する場所まで決めてしまえば、今夜のうちに考えても増える情報はない。
エレジも端末を開かず、隣に座ったカイルの近くで温かい飲み物を飲んでいた。
「中尉、途中で谷底に降りなくてよかったですね」
「降りたかったんですか?」
「嫌ですよ。帰りにあそこ登るの俺でしょう」
「私も嫌です。だから行かなかったんです」
「ちゃんと自分も計算に入れてたんですね」
「入れてますよ。何だと思ってるんですか」
「中尉、行けると思ったら自分の分は軽く見積もる時あるから」
「最近はしてません」
「最近は、って自分で言ってるじゃないですか」
「でも、今日はしてませんでした」
「そこは認めます」
向かいでは、ヨナスが今日取った通信記録を端末で確認していた。もう報告用の整理ではなく、自分が気になった数値を見ているらしく、マティアスが画面を覗き込んでも閉じようとはしなかった。
「ファルク大尉、まだ仕事してるんですか」
「仕事じゃありません。今日の谷でどの程度落ちたのか見てるだけです」
「それ仕事じゃないですか」
「明日使うためにまとめてるわけじゃないので違います」
「マティアス、ヨナスにそれ言っても無駄よ。本人が趣味だと思ってるもの」
「大尉までそっちなんですか」
ヨナスはリヒターの言葉にも反論せず、代わりに端末を彼女の方へ向けた。
「でも、予測より落ちるのが早かったんですよ。ここです」
「見せられても私は楽しくないわよ」
「さっき興味ありそうに見てたでしょう」
「あなたが嬉しそうだったから見てただけ」
「それならいいですけど」
その返しにマティアスが笑い、リヒターも特に否定せずヨナスの端末をもう一度覗いた。
エレジは三人を見ていて、少し前から感じていた違いが何なのかようやく分かった気がした。
三人で話していること自体は以前から珍しくない。しかし最近は、誰か一人が話せば残りの二人がそこへ入るまでが早くなっている。
マティアスとリヒターが話しているところへヨナスが加わっても会話の流れが変わらず、ヨナスとマティアスの間へリヒターが入っても、誰かが一歩引くこともない。
仕事で連携が良くなったというより、何も決めなくても三人でいる形ができているように見えた。
「三人、最近ちょっと雰囲気変わりましたね」
マティアスとヨナスがすぐに返事をしなかったことで、エレジは自分が何か変なことを聞いたのかと思った。一方で、リヒターには気にした様子がなかった。
「そう?」
「はい。前より仲良くなった感じがします。何かありました?」
エレジとしては特別な意味を込めたつもりはなかった。三人が以前より楽しそうに見えたから聞いただけだったが、マティアスとヨナスが揃ってすぐには答えなかったため、むしろ何かあるのかと思った。
リヒターは二人の様子を気にすることもなく答えた。
「仲良くなったのよ」
「やっぱりそうなんですね」
「ええ。かなり」
「大尉」
マティアスが止めるように呼んだが、リヒターには困る理由がないらしい。
「何? 嘘じゃないでしょう」
「嘘じゃないですけど、言い方があるじゃないですか」
「仲良くなったって聞かれたから、仲良くなったって答えただけよ」
「そうですね」
ヨナスまで普通に同意したため、マティアスはそれ以上何を言っても自分だけが気にしているようになると思ったのか、諦めたようだった。
エレジはそこで、隣のカイルが何も聞いていないことに気づいた。
「少佐は気づいてました?」
「多少はな」
「いつからですか?」
「最近、三人でいる時の距離が変わったとは思ってた」
「やっぱり分かるんですね」
「分かることはある」
カイルの答えはそれ以上でもそれ以下でもなかった。
ただ、三人の関係が良くなったという意味だけで話しているエレジと違って、彼はマティアスとヨナスが一瞬答えに詰まったことも、リヒターがまったく隠そうとしなかったことも見ているようだった。
それでも詳しく聞くつもりはないらしく、カイルは三人のことには触れず、エレジが飲んでいるものへ話を変えた。
「それより、熱くないのか。もう夏だぞ」
「飲み物のことですか? たまには温かいのが飲みたくなるんです」
「俺が淹れるコーヒーもまだ熱い方がいいか?」
「それはアイスがいいかもしれないです」
リヒターが笑いながら口を挟んだ。
「完全に恋人の会話ね」
まだ失踪者は見つかっていないし、翌日にはまた旧道へ入る。それでも、今日分からなかったことまで今ここで考え続けても増える情報はない。
四人と同じ卓についてこうして話している間は、明日確認するものを明日に残しておけることが、以前より自然になっていた。
その時、食堂の入口近くにいたカイルが、廊下の方へ視線を向けた。エレジも何があるのかと思ってその先を見ると、一人の男がこちらを見ていた。
短く整えた黒髪には、こめかみを中心に白いものが混じっている。頬骨のやや高い顔立ちも、まっすぐな眉の下にある意志の強い目も、最後に見た頃より年齢を感じさせるようにはなっていたが、別人と迷うほどには変わっていなかった。
いつからそこにいたのかは分からなかった。
ただ、エレジが気づいた時には、彼はもう五人が座る卓を見ていた。自分がマティアスたちと話し、何度か笑っていたところも見ていたかもしれない。
そのことの意味を考えるより先に、昔の自分を知っている人間が目の前にいることの方が強く意識に入ってきた。さっきまで何も考えず続けていた会話に、同じ調子では戻れなくなった。




