残された車
翌朝、五人は予定通りの時間に出発した。
ヴァルトベルクへ近づくにつれて、道路の両側にある斜面は深くなり、谷を避けるために大きく回り込む区間が増えていった。地図では近く見える場所でも、実際には一度尾根側へ上がってから下り直さなければならないところがある。
エレジは助手席から現在地を確かめながら、昨日見ていた地図と実際の地形を重ねていった。
「思ってたより、道が回ってますね」
「谷が深いからな」
現在使われている道路だけなら迷うような場所ではないが、山の中へ入れば別だった。古い林業道や、地図には残っていても今はほとんど使われていない道が重なれば、直線距離だけでは経路を判断できない。
後部座席では、ヨナスが現地から送られてきた通信図を確認していた。
「車の発見地点、この辺からかなり通信落ちます。基地側の中継はここまで届いてますけど、谷に入ると切れますね」
「昨日見た旧道と重なる?」
「一部は。特に南西側はほとんど圏外です。失踪者の端末がそこへ入ったなら、記録がなくても不自然ではないです」
「じゃあ、通信がないことはまだ方向を絞る材料にはならないですね」
「今のところは」
前日の作戦室で確認したとおり、通信が切れていること自体に意味を持たせるには情報が足りない。エレジは現地へ着いてから確認する場所だけ地図へ残した。
*
ヴァルトベルク基地へ着いたのは午前の半ばだった。
借りることになっている区画へ荷物を置き、数日使う部屋と装備保管場所だけ確認すると、五人は現地担当者と小さな作戦室へ入った。机には車両発見地点の写真と、発見後に現場へ入った五人の記録が用意されている。
リヒターは、現場へ残っている痕跡から失踪当時のものを分けるため、写真より先にその記録を確認した。
「発見した二人と、そのあと確認に入った三人の靴は分かる?」
「写真はあります。靴底も撮っています」
「どこまで歩いたかも?」
「大体ですが、残しています」
担当者が示した図には、車両を中心に、それぞれが入った範囲が書き込まれていた。
道路上を見た者、斜面の入口へ少し入った者、車内を確認した者まで分かれている。リヒターは現地で照合できるよう、必要な写真と位置を端末へまとめた。
ヨナスは別の端末から、車両情報と通信記録を受け取った。
「車載機器のログ、残ってますね。位置記録も途中までは取れてます」
「止まった時刻は分かるか」
「かなり正確に出せそうです。現場で車両本体も見たいですけど、少なくとも最後の定時連絡より後まで動いてます」
「どのくらい後だ」
「二十二分です」
「その二十二分の間に通信は?」
「携帯端末側は確認できてません。ただ、圏外だった可能性もあります」
カイルは時刻だけを資料へ加えた。エレジには古い林業道の資料が渡された。現在の地図と比べると、車両発見地点の周辺には今は表示されていない作業道がいくつか残っている。
「これ、今も通れますか」
「全部は無理だと思います。使われなくなってかなり経ってるものもあります」
「現地で入口だけでも分かりますか」
「場所によっては」
現在の道路から見れば、ただ斜面や林に見えるところへ昔の道が続いている可能性がある。エレジは古い図面を端末へ取り込み、現在の地形図と重ねた。
必要な情報を受け取ったところで、カイルは現場の状態が昨日から変わっていないかを確認した。
「発見地点は、その後誰か入ったか」
「昨日の午後以降は入れていません。こちらでも止めています」
「分かった。戻ったら結果を共有する」
五人は現場確認に必要な装備だけを持ち、車両発見地点へ向かった。
*
林道へ入ると、路面は舗装されていなかった。前日の雨で湿ったところが残っているが、日当たりのいい場所ではすでに乾き始めている。道路の片側は斜面になっており、反対側は少し下がった先から谷へ落ちていた。
失踪者の車が見えたところで、カイルは自分たちの車を手前に停めた。
「ここから歩く。まず外から見る。勝手に触るな」
残された四輪駆動車は、林道の端へ寄せるように停められていた。前輪はほぼ道路と平行で、車体に大きな傷はなく、窓も割れていない。何かを避けて急停止した形跡や、道路から外れた様子も見えなかった。
リヒターは現地側の記録と道路の状態を照らし合わせ、発見後についた痕跡を先に分けていった。
「発見した人は、こっちから近づいてるのね」
道路の北側から車へ寄った跡は、記録にある靴底と一致する。後から来た者が斜面側へ入った位置も確認できたため、少なくともそこに残るものは失踪当時の痕跡として扱えない。
エレジは車そのものより先に、そこから徒歩で選べる方向を確認した。来た道を戻れば現在の林道へ繋がり、そのまま先へ進めば数百メートル先で道が緩く曲がる。
古い資料では、その先に作業道の分岐があった。斜面側は上がれなくはないが傾斜が強く、谷側にも木々の間を下りられそうな場所がある。
「ここからなら、歩いて出られる方向は結構あります」
「絞れそうか」
「地形だけなら三方向です。林道を先へ行くか、谷側へ下りるか、斜面を上がるか。ただ、斜面はわざわざ選ぶ理由がないときついと思います」
「理由があれば行けるの?」
「はい。行けないほどではないです」
斜面は移動しにくいものの、目的があれば選べる経路だったため、エレジも候補からは外さなかった。
ヨナスが車両へ入る前にカイルへ確認した。
「開けていいですか」
「リヒターが周囲を見てからだ」
リヒターは車の近くまで入り、泥や湿った土の状態を一つずつ見た。前日の雨で輪郭が崩れている場所が多く、完全な足跡はほとんど残っていない。それでも運転席側には、一度強く踏まれたような跡が残っていた。
「ここ、誰か降りてると思う」
「発見した人じゃない?」
「発見者は運転席側へ最初に回ってない。後から来た人の靴とも幅が違う」
「失踪者?」
「まだ分からない。ただ、この車から誰か一人はここへ足を置いてる可能性が高いわ」
その跡は道路上へ続いていたが、地面が乾いて硬くなる数歩先から形がほとんど消えている。本人のものだと決められない以上、分かったのは車から誰かが自力で降りた可能性が高いところまでだった。
「少なくとも、車から自力で降りられない状態だったとは考えにくいですね」
「降りたのが本人ならな」
本人が運転していたとも、自由な意思で降りたともまだ決まっていない。エレジはその二つを分けたまま、車から離れた先の地形へ意識を戻した。
周囲の確認を終えたリヒターから車内を見ていいと伝えられ、ヨナスは手袋を替えて運転席を開けた。
車内は荒らされた様子がなかった。運転席は通常の位置にあり、ハンドルや計器周辺にも目立った破損はない。後部には工具と防寒具の予備、簡単な食料、仕事用の紙資料が残っていたが、携帯端末と業務用端末は見つからなかった。
「鍵は?」
「ここです」
鍵は運転席近くの収納にあり、車は停止後にエンジンを切られ、パーキングブレーキもかけられていた。走行中の故障でその場に放置された車ではない可能性が高いことは、車載記録とも一致している。
「停め方は普通ですね。少なくとも、急に動かなくなって置いた感じじゃないです」
「故障記録もないです」
ヨナスは基地で受け取ったログと車載機器の記録を照らし合わせた。
「最後の定時連絡が十四時十二分。車は十四時三十四分にここで停止してます。それ以降、エンジンはかかってません」
「この場所まで来たのは確定?」
「位置記録が正しければ。ただ、運転してたのが本人かは分かりません」
「端末との接続は?」
「十四時三十二分に切れてます」
「車が止まる二分前?」
「はい。携帯端末との接続だけ先に切れてます。端末を操作したのか、接続側の問題なのかはまだ分からないです」
「圏外に入ったから切れた可能性は?」
「車との接続なので、外の通信とは別です。ただ、本体を切っただけかもしれませんし、端末側で操作した可能性もあります」
停止直前に接続が切れたことは記録として残せるが、それだけで理由までは判断できない。カイルも時刻と状態だけを記録へ加えた。
リヒターは車内に残されたものを確認した。
「必要なものを選んで持って出た可能性はあるわね」
「端末二つとも持ってますし」
「普段から持ち歩くものなら、そこは弱いです。車から少し離れるだけでも両方持つ人かもしれないので」
「そうですね」
持ち物だけでは、短時間のつもりだったのか、最初から歩くつもりだったのかまでは決められなかった。
*
車両の確認を終えると、五人は現地側が入った範囲を外しながら、周囲へ確認を広げた。
林道を戻る方向には、発見後についた車両や人の跡が多く、失踪当時のものを分けるのは難しい。
斜面側は雨を含んで地面が柔らかい場所もあったが、上へ続く明瞭な踏み込みはなかった。谷側には低い木が何本かあり、その間だけ地面が少し平らになっている。
「こっち、下りようと思えば下りられます」
「旧道ある?」
「今の地図にはないです。でも古い方だと、この下に作業道が一本あります」
エレジが端末に重ねた古い地図を示すと、リヒターも谷側の入口を確認した。枝は伸びているが、人が通れないほど密ではない。
斜面へ入りかけたところで、リヒターは足元の湿った土を詳しく見た。そこだけ一方向へ続く足跡とは違い、狭い範囲に複数の圧された跡が残っている。
「ここ、少し変ね」
「足跡ですか」
「きれいな足跡じゃない。でも、一人がそのまま通っただけなら、こうは広がりにくいと思う」
少し位置をずらした二か所が強く押されており、進行方向に沿って均等に並ぶ形ではなかった。マティアスも現地側の記録と照らし合わせた。
「発見した人たちのじゃない?」
「記録されてる五人とは位置が合わない。ここまで下りた人はいないし、靴底の幅も違う」
「じゃあ、二人いた?」
「そこまでは言えないわ。同じ人が一度止まって踏み直したのかもしれないし、荷物を置いた可能性もある。雨で土が崩れて形が広がっただけかもしれない。でも、一人が普通に通り抜けた跡としては少し変」
昨日残した可能性の中には第三者との接触もあったが、この痕跡だけで誰かが同行していたことにはできない。エレジはそのまま方向だけを確認した。
「どちらへ進んだかは分かりますか」
「少なくとも、この位置までは道路側から入ってるように見える。その先は薄い」
古い地図では、この斜面を下れば現在は表示されていない作業道へ出る。
「この下に道があります。昔の林業道です」
「どのくらい下?」
「標高差で三十メートルくらいです。地図どおり残ってればですけど」
「そこまでなら確認する」
カイルの判断で、五人は道路から大きく離れない範囲まで下りることになった。
リヒターが残っている痕跡を確認し、エレジは地形と古い図面を照らし合わせながら進んだ。足元が悪いところではマティアスが後方を見ながら位置を変え、ヨナスが機材を持ったまま無理なく下りられる経路を取る。
十数メートル進むと、斜面の中で横方向に地面が平らになっている場所へ出た。木や草に覆われているが、その幅が一定のまま続いていることから、かつて道として使われていた形はまだ残っていた。
「道っぽいですね」
「昔はそうだったと思います。地図だと、このまま南西へ伸びてます」
「通信は?」
「もう弱いです。この先に入ったら切れると思います」
車両発見地点からそれほど離れていないのに、基地側との接続はすでに不安定になっている。失踪者がここへ入ったなら、その後の通信が残っていなくても不自然ではなかった。
リヒターは旧道の縁にある土と枯葉の乱れを確認した。
「ここにも一つある。完全な足跡じゃないけど、土が押されて枯葉がずれてる」
「新しい?」
「三日前と断定できるほどじゃない。でも、古くはないと思う」
「一人分?」
「そこも分からない。この先は地面が硬いから、もっと取りにくくなるわ」
ここから先へ入れば、短い現場確認ではなく、その痕跡を追う行動になる。カイルは残り時間と装備を合わせ、今日はそれ以上進ませなかった。
「今日はここまでにする。場所を残せ」
「追わないんですか」
「方向が見え始めた段階だ。ここから先へ入るなら、最初から追う前提で装備と時間を取る。今から中途半端に進む必要はない」
「はい」
今日の目的は車両とその周辺から、次にどこを見るべきかを絞ることだった。旧道が実際に残っていることと、そこまで新しい可能性のある痕跡が続いていることが分かれば、今から距離を伸ばすより、明日改めて追う方が確実だった。
*
夕方、五人はヴァルトベルク基地へ戻った。
借りた作戦室で、エレジは現在の地図と古い林業道の資料を重ねた。車両発見地点から谷側へ下り、そのまま南西へ進む旧作業道が一本続いている。途中で二つに分かれ、一方はさらに谷の奥へ、もう一方は古い伐採区画へ向かっていた。
リヒターは現場で記録した位置をその地図へ加えた。
「車から降りた可能性が高い位置はここ。そのあと、道路上ではほとんど取れない。谷側の入口に不明瞭な圧痕があって、その下の旧道で新しい可能性のある踏み跡が一つ」
「林道を戻った可能性は?」
「ないとは言えない。現地側が入った跡が重なってるから、戻る方向は判別しにくいわ」
「斜面を上がった方は?」
「明瞭な痕跡はなかった」
地形上の条件を合わせると、上へ進むことは可能でも、旧道へ下りる方が移動しやすい。ただし、それだけで失踪者が旧道を選んだことにはならなかった。
「上へ行くならかなり急です。行けますけど、何か目的がないと選びにくいと思います。旧道側なら、今の林道から見えにくいまま谷の奥へ入れます」
「それだけで旧道へ行ったとは決められないな」
「はい。でも、明日確認するならここが一番情報を増やせると思います」
ヨナスも通信記録を地図へ加えた。
「車載端末では十四時三十四分に車が停止。携帯端末との接続はその二分前に切れてます。その後の記録はなし。ただ、旧道へ入ると通信がかなり弱くなるので、記録がないこと自体は旧道と矛盾しません」
全員の情報が揃ったところで、カイルは現時点で確定できるものと残っている不明点を整理した。
「車は事故で止まったわけではない可能性が高い。定時連絡のあとも二十二分動いている。車から誰かが降りて、徒歩で離れた可能性が高い。端末二つは車内にない」
そこまでは、今日の確認で増えた情報だった。
「分からないのは、運転していたのが本人か、本人が自分の意思で降りたか、第三者がいたか、なぜここで車を置いたか。谷側の痕跡も、失踪者のものとはまだ確定していない」
「明日は旧道から追う?」
「そこを第一候補にする」
エレジは地図を少し拡大した。車両発見地点から南西へ伸びる線は、現在の道路図では途中から消えている。
「ここなら、林道から見えないままかなり奥まで行けます。途中で二方向に分かれますけど、最初の区間は一本です」
「痕跡も、その方向なら合うわ」
「明日は車の場所から入り直す。旧道へ下りて、残っているものを追う」
今日の確認で、失踪者がどこへ行ったのかという答えが見つかったわけではない。車がどう停められていたか、誰かがそこから降りた可能性が高いこと、谷側に一人の移動だけでは説明しにくい痕跡があり、その先に現在の地図から消えた道が残っていることが分かった。




