ハッシュヴァルドとヴェルナー
ヴェルナーが会議室を出た時、向かいの通路からハッシュヴァルドが歩いてきた。
同じ建物にいることは知らされていなかったため、ヴェルナーはそのまますれ違うつもりでいた。しかし、ハッシュヴァルドは先に彼を認めると口を開いた。
「まだリヒターのところへ行っているのか」
挨拶より先にリヒターの名前が出たことで、ヴェルナーにも、偶然会った相手との世間話ではないことは分かった。
「必要があればね」
「昔から変わらないな。私があれと話したあとには、必ずお前が行く」
「必ずではなかったと思うが」
「数の話をしているわけではない」
ハッシュヴァルドが指しているのは一度や二度のことではなかった。訓練を始めた頃から、彼がリヒターへ強い働きかけをした後には、ヴェルナーが彼女のところへ行くことが多かった。
「訓練の時もそうだった。私が強く言ったあとには、お前が行った。任務で判断を崩した時も、評価を受けた時も、最近もそうだ。あれが一人で処理できると言っていても関係なかった」
「よく覚えているね」
「見る必要があったからな」
「アンナではなく、私を?」
「両方だ」
その答え自体は意外ではなかった。ハッシュヴァルドはリヒター本人だけでなく、彼女に関わる人間が何をし、その後に何が変わったかまで見る。昔からそういうやり方をする男だった。
「随分時間はかかったが、成功したな」
「何がだい」
「リヒターだ。もう完全にお前の懐にいる」
ヴェルナーは、ハッシュヴァルドが最近の出来事だけを話しているのではないと理解した。十二歳の頃から続いてきた関係を見たうえで、今のリヒターが自分を強く信頼していることまで含めてそう評価しているらしい。
「アンナが私を信用していることなら、知っているよ」
「信用、か。便利な言葉だな」
嘲るような口調ではなかった。ハッシュヴァルドは、ヴェルナーがどこまで自分の影響を自覚しているのかを確かめるように話を続けた。
「お前なら部屋へ入れる。お前の話なら聞く。私と会ったあとも、お前が行けば落ち着く。あれが自分から何も言わない時でも、お前のことは拒絶しない。今回もすぐ行ったそうだな」
「行ったよ。でも君に話すことではない」
具体的な会話を聞き出せなくても、ハッシュヴァルドにはそれほど重要ではないらしかった。ヴェルナーが今回もリヒターのもとへ行き、彼女がそれを受け入れた。その事実だけで、自分の見立てには十分なのだろう。
「私があれに何かを与える。そのあと、お前が行く。何年もそれを続けた。今では、どちらの言葉を残すかで迷う必要もない」
「私はアンナに、何を信じろとも言っていない」
「言う必要がなくなったんだろう。そこまで入れたということだ。命令しなくても、お前の言葉を自分から受け取る。近くにいろと言わなくても、お前を近くへ置く。うまいやり方だと思う」
「やり方としてやった覚えはない」
「本人もそう思っているだろうな」
そこでヴェルナーは、ハッシュヴァルドがリヒターの信頼をどう捉えているのかをはっきり理解した。
彼にも、リヒターがヴェルナーを深く信頼していること自体は見えている。ただ、その信頼は長い時間をかけて意図的に作られたもので、リヒター自身はそのことに気づいていないと考えている。
「本人は気づいていない。自分でお前を選んだと思っている」
「アンナは自分で人を選べるよ」
「そう思わせているんだろう」
ハッシュヴァルドは納得した様子を見せなかった。何かあるたびに彼女のもとへ行き、現在の信頼まで得ている人間が、その結果に自分の意図は関係していないと言っていることの方が、彼には不自然なのだろう。
「十二の頃からそれを続けておいて、今になって本人が選んだと言うのか」
ヴェルナーは、まだ子どもだった頃のリヒターを思い出した。求められたことをできるようになれば、それが正しいのだと思い、さらに先を要求されても、できるなら応じようとする子だった。
「十二の頃のアンナには、そばにいる大人が必要だった。今のあの子が私を信用している理由まで、私が決めたことにするつもりはないよ」
「結果として、お前が一番近いところにいる」
「そう見えるなら、それでいい」
ヴェルナーがそれ以上、自分とリヒターの関係を説明するつもりがないと分かると、ハッシュヴァルドは話を別のところへ進めた。
「では、お前は何が欲しい」
「何も」
ヴェルナーは次の言葉を返さなかった。ヴェルナーが何らかの目的を持ってリヒターとの関係を築いたと考えていたなら、その答えは想定していたものから外れたのだろう。
「アンナから何かを取るために会っているわけじゃない」
「それでここまで面倒を見るのか」
「アンナが私のそばにいたければいればいい。別の場所へ行きたければ、それも本人が決めればいい」
ハッシュヴァルドはしばらくヴェルナーを見ていた。これまでの会話では、ヴェルナーがリヒターへ強い影響を持っていることについては互いに認識が一致していた。
それでも、なぜそこまで関わるのかという理由だけは、彼の考える忠誠や利用、組織上の利益のどれにも当てはまらなかったらしい。
「やはり、お前が何を考えているのかは分からないな」
「分からなくていいよ」
「私には、お前の方がよほど妙に見える」
「そうかもしれないね」
ヴェルナーには、その評価を訂正する理由もなかった。通路の先ではハッシュヴァルドの護衛が距離を取って待っており、自分にも次の予定がある。リヒターについてこれ以上説明しても、相手の見方が変わるとは思えなかった。
「もういいかな」
「ああ。ただ一つだけ」
ハッシュヴァルドは、これまで話してきた中で自分が確信していることだけを残すように続けた。
「何を考えていようと、結果は出ている。今のリヒターは、お前のところへ戻る」
ハッシュヴァルドが歩き出しても、ヴェルナーは呼び止めなかった。
リヒターがすでにヴェルナーを深く信頼し、何かあれば彼のもとへ戻ることについて、ハッシュヴァルドの認識は変わらなかった。
本人は自分で信頼する相手を選んだつもりでいるが、ヴェルナーが長い時間をかけてそこまで入り込んだ結果だと考えている。
ただ、そこまでしてリヒターから何も求めていないというヴェルナーの答えだけは、最後まで理解できなかった。




