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エーデルベルグの雪 ──北部山岳任務録──  作者: 有凪いちほ
特殊情報収集班:任務

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古い地図


 翌朝、エレジは二週間使った部屋で荷物をまとめた。前夜のうちに大半を片づけていたため、残っているものは多くない。

 洗面台に置いていた私物を鞄へ戻し、机の上の地図と読みかけの本を重ねる。最初に入った時には何もなかった部屋が、いつの間にか自分のものを置く場所になっていた。


 本は思ったほど進まなかった。勤務がずれ始めてからは、空いた時間があっても読むより眠ることの方が多かった。それでも持ってきたことを後悔するほどではなく、エレジは栞を挟んだまま鞄へ入れた。


 荷物を持って廊下へ出ると、少し先の部屋からマティアスも出てきた。


「中尉、もう終わったの」


「はい。マティアスは?」


「まだ。二週間いると、なんでこんな増えるんでしょうね」


「持ってきたものしかないはずですけど」


「そうだけど」


 マティアスの部屋を覗くと、最初から多くなかったはずの荷物がベッドの上に広がっている。エレジには、増えたというよりまとめ方が悪いように見えた。


「それ、全部畳めば入ると思います」


「やっぱりそう見えます?」


 その答えではしばらく終わらないだろうと思ったが、朝食の時間になっていたので、エレジもそれ以上は言わなかった。


     *


 食堂へ行くと、珍しく五人が同じ時間に揃った。


 後半の一週間は勤務がばらけ、誰かが戻れば誰かが出る生活が続いていた。作戦室では毎日全員の顔を見ていても、同じ机で食事を取ることは少なかった。


「五人いるの、久しぶりな気がします」


「昨日も作戦室には全員いました」


「食事の話です」


「朝から元気ね」


「大尉はよく寝られました?」


「ええ。昨日は早かったから」


「俺も寝たんですけど、まだ眠いです」


「それはいつもでしょう」


 任務が終わったからといって、二週間分の疲れが一晩で消えるわけではない。それでも、昨日までのように次の観測時間を気にしながら食べる必要はなく、五人とも食事を急いではいなかった。


 カイルは食事を終えると、午前中の予定だけ確認した。


「九時から最終整理。終わり次第出る」


「今日中には戻れます?」


「ああ。問題なければ夕方前だ」


 その時間を聞くと、エレジには自分たちの施設へ戻るところが自然に浮かんだ。二週間前には、ここへ来る途中ずっと地図を見ていたが、帰りはもう一度通ったことのある道になる。


     *


 第二作戦室には、二週間分の記録がまとめられていた。ハルトマン中佐も入り、カイルが最終結果を説明する。


「前半で、車両、人員、通信の通常傾向を取りました。後半二日間に、それまでと異なる人員移動を確認。山道側のセンサー反応と、同時間帯の通信量増加があります」


「人員はどこまで近づいた」


「事前に設定した撤収線の内側までです。その時点で観測を終了しました」


「接触は?」


「ありません」


「負傷者もなしか?」


「なしです」


 カイルは続けて、確認できなかったことも説明した。


「人員の所属、総数、目的は不明。通信との関連も確認できていません。こちらの観測を認識していたかも分かりません」


「つまり、何かいたことまでは確実だが、何をしていたかは不明と」


「そうです」


 ハルトマンは資料を見ながら内容を整理したうえで、それでも今後見るべき範囲は十分に絞れたと判断した。


「十分です。少なくとも、こちらで今後見るべき範囲は絞れました」


 ヨナスは、置いてきた機材について説明した。


「五番と中継器一つ、それから道路側の小型センサー一つを残してます。停止できるものは全部遠隔停止済みです」


「こちらで回収した方がいいですか」


「今は触らないでください。周辺の活動が落ち着いたと確認できてからの方がいいです。回収だけのためにあそこへ人を出す必要はないと思います」


 ハルトマンは班としても同じ判断なのかを確認するため、カイルへ向いた。


「同意見です」


「分かりました。しばらくそのままにします」


 機材を置いてきたことを問題にはしておらず、ハルトマンも回収のためだけに接触の可能性を上げる方を避けたかった。


「取りに戻って接触する方が困りますからね」


 最終的な引き継ぎを終えると、二週間使った第二作戦室から五人の資料と機材が少しずつ消え、残るのは現地側へ渡す記録だけになった。


     *


 荷物を車両へ運んでいる途中、シュミットがエレジを呼び止めた。手には数枚の紙がある。


「これ、持っていっていいそうです」


 渡されたのは、前に見せてもらった古い経路の地図と、巡回記録の複製だった。


「いいんですか」


「複製なので。前に見たがってたでしょう」


 前に見た地図より範囲が広く、現在使われていない道にも補足が書かれていることが分かり、エレジはすぐに内容を確認した。


「ありがとうございます。帰ってから見ます」


「そんなに喜んでもらえるなら、探した甲斐ありました」


「これ、かなり古いですね」


「施設の倉庫に残ってました。現行の資料には入ってないです」


 もう少し見ていたかったが、今は荷物を積んでいる途中だったため、エレジは丁寧に畳んで鞄へ入れた。


「結局、展望路は行けませんでしたね」


「はい。時間なかったですね」


「今度こっちへ来ることがあったら、案内します」


「任務じゃなくてもですか」


「その方がいいです」


 その言い方で、エレジは以前カイルに言われたことを思い出した。シュミットが自分に興味を持っているように見えると言われた時にはよく分からなかったが、こういうことだろうかと思う。


「じゃあ、また来たら声かけてください」


「はい。その時はお願いします」


 エレジは普通に答えたが、遠くで荷物を確認していたカイルが二人の会話を見ていることにも気づいていた。

 シュミットと別れて車両のところへ戻ると、カイルが受け取ったものを確認した。


「何をもらった」


「古い地図と巡回記録です。ほしかったので、嬉しいです」


「そうか」


 以前と同じように少し短い返事だったが、今度はエレジにも理由が分かる。


「やっぱりシュミット中尉、私に興味あるんでしょうか」


「今気づいたのか」


「たぶん」


「遅いな」


「少佐は早かったですね」


「見れば分かる」


 エレジはその違いがおかしくて少し笑った。


「嫌ですか」


「帰るからな」


「帰るならいいんですか」


「よくはない」


 カイルは正直に答えたが、それで地図を受け取るなとも、シュミットと話すなとも言わないことをエレジも分かっていた。


「でも、私は少佐と帰る方が嬉しいです」


 カイルはその言葉を聞いて、もう一度エレジを見た。


「そうか」


 今度の返事は、さっきより少し柔らかく聞こえた。


     *


 リヒターが最後の装備を車両へ積んでいると、クルーガーが来た。


「もう出るんですね」


「ええ。午前の整理も終わったから」


「結局、一度も外で飲めませんでしたね」


「仕事しに来たんだから当然でしょう」


「それはそうなんですけど」


 残念そうにしていることは隠していなかった。


「残念?」


「結構」


「正直ね」


「もう帰るなら、言ってもいいでしょう」


 強く迫られたわけでもなく、断ったあとはそれを尊重されているため、リヒターも今こうして話していて負担には感じなかった。


「またフェルゼンに来たら、今度も誘います」


「その時も断るかもしれないわよ」


「それでも聞きます」


「好きにして」


「じゃあ、そうします」


 クルーガーはそれ以上は言わず、別れの挨拶をして離れた。

 少し後ろにいたマティアスもそのやり取りを聞いていた。


「大尉、また誘われますよ」


「そうね」


 ヨナスも次に同じことがあった時にリヒターがどうするのかは気になった。


「その時は行くんですか」


「今聞くの?」


「気になったので」


「その時どうしたいかで決めるわ」


 その答えだけでもマティアスは納得したようだったが、リヒターには今の気持ちについてなら、もう少しはっきり言えることがあった。


「今は、あなたたちと帰りたいけど」


 二人ともすぐには返せなかったが、意味を理解するとマティアスが先に答えた。


「それ、結構嬉しいですね」


「そう?」


「はい」


「俺もです」


「じゃあ早く荷物積んで。帰れなくなるわよ」


「はいはい」


 未来のことまで決める必要はない。今どうしたいかなら、リヒターにはもう分かっていた。


     *


 出発前、ハルトマンが五人のところまで来た。


「二週間、ありがとうございました」


「こちらこそ。残した記録はこちらで引き継ぎます。何か新しく分かったら連絡します」


「お願いします」


「次はもう少し穏やかな時に来てください」


「そうなるといいですね」


 短く挨拶を交わし、五人は車両へ乗った。

 施設を出ると、二週間通った門が後ろへ遠ざかっていく。来た時には知らなかった建物も道も、今はどこに何があるか分かる。食堂の席も、宿舎の廊下も、観測点へ向かう分岐も覚えている。


 それでも、離れることに強い寂しさはなかった。ここは二週間働いた場所であって、戻りたい場所は別にある。

 しばらく走ると、マティアスが早々に眠った。


「もう寝てるわ」


「昨日も寝てましたよね」


「あなたも眠そうだけど」


「俺は大丈夫です」


 そう答えたヨナスも一時間もしないうちに静かになり、それに気づいたリヒターは隣を見て笑った。


「結局寝るのね」


「起きたら本人に言いましょう」


 エレジも少しずつ眠くなっていた。来る時は窓の外と地図を何度も見比べていたが、今は道路の曲がり方にも覚えがあり、この先で谷が開けることも分かる。

 知らない場所だった道が、帰るための道になっている。


   *


 自分たちの施設が見えたのは、午後遅くなってからだった。

 金属柵も、検問も、建物も、出発した時から何も変わっていない。車両が止まると、五人は順に荷物を下ろした。


「これ、明日じゃ駄目ですか」


「最低限は今日やれ」


「ですよね」


 ヨナスは自分の荷物より先に通信室の状態を確かめたくなったらしく、そのまま向かった。


「一回状態見てきます」


「今じゃなくていいでしょう」


 リヒターが止めても、もう行ってしまっている。


「ファルク大尉らしいですね」


「二週間離れてたんだもの。気になるんでしょうね」


 共有スペースへ入ったリヒターが冷蔵庫を開けると、出発前に中身を減らしていたため、ほとんど何も残っていなかった。


「何もないわ、明日買いに行かないと」


 カイルは全員が中へ入ったことを確認し、翌日は任務や片づけより休養を優先させることにした。


「明日は休養日にする。急ぎの連絡だけ俺が見る」


 マティアスはその言葉を聞くとすぐにソファへ座った。


「助かります」


「そこで寝るなよ」


「まだ寝ません」


 そう答えてはいたが、すでにかなり眠そうだった。

 エレジは一度自室へ荷物を置き、再び共有スペースへ戻った。フェルゼンでは、廊下には知らない人の声があり、食堂へ行けば何十人もいた。五人が同じ施設にいても、誰かは観測へ出ていて、誰かは眠っていた。


「静かですね」


 通信室から戻ってきたヨナスにも、その違いはすぐ分かった。


「俺はこっちの方が落ち着きます」


「やっぱりそうですか?」


「音が少ないので」


「私も、こっちの方がいいです」


 リヒターも自分の席へ座り、同じように感じていることをそのまま認めた。

 カイルは何も言わなかったが、五人がいつもの場所へ戻っていることを確かめるように共有スペースを見た。



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