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エーデルベルグの雪 ──北部山岳任務録──  作者: 有凪いちほ
特殊情報収集班:任務

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観測点を捨てる


 翌朝、持ち出す装備は前日までより少なかった。観測そのものを縮小したわけではなく、必要ならすぐ離れられるように、長時間残る前提の物を減らしている。


 エレジは車両へ積まれた荷物と地図を見比べた。昨日、カイルが撤収条件として示した範囲には印が残っており、今日はそこへ人の動きが入るかどうかを見ることになる。


 主観測点へ向かうのはカイル、エレジ、リヒターの三人。マティアスは補助観測点を短時間確認したあと、撤収時に車両側へ回れる位置へ移る。ヨナスは施設に残り、センサーと通信をまとめて見る。


「三番は?」


「今朝、また一度だけ欠けてます。その後は正常です」


「そのままでいい」


「了解です」


 昨日までは原因を確認する候補だった機材も、今は優先ではないことを五人とも分かっていた。


     *


 午前中、昨日人影が見えた斜面には何も出なかった。エレジは双眼鏡で同じ範囲を何度か確認したが、動くものはなく、道路を通る車両もこれまでの記録から大きく外れていなかった。


「昨日だけだった可能性もありますね」


「その可能性もある」


 それなら、それで今日の記録になる。昨日の動きが何だったのかを知るために、今日も同じことが起きる必要はない。通信も普段の範囲なら、起きなかったことをそのまま残せばよかった。


 しばらくして、ヨナスから五番が反応したと通信が入った。エレジは山道側へ双眼鏡を向けたが、木立が重なっていて、センサーのある位置そのものは見えない。


「五番、一回反応です」


「目視なしです」


「記録します」


 それから十分ほどして、同じ五番から二度目の反応が入った。


「五番、二回目」


「同じ位置ですか」


「少し先です。最初の反応より東側」


 エレジが地図へ位置を落とすと、二つ目の反応は主観測点に近い側だった。


「こっちへ進んでる可能性はありますね」


「あるわね。ただ、同じ対象なら、だけど」


 別のものがそれぞれ反応させた可能性もあり、昨日決めた範囲にもまだ入っていないため、カイルは観測を続ける判断を変えなかった。


     *


 昼前、エレジは昨日より近い斜面に一人の人影を見つけた。撤収範囲の外側だったため、そのまま観測を続ける。やがて別の一人も現れ、二人は一定方向へ進むのではなく、何度か止まりながらこちら側へ寄っていた。


「昨日より近いです。ただ、撤収範囲には入ってません」


「まだ見る」


 同じ頃、五番の反応と短い通信の増加も確認されたが、どちらも人影との関連は分からなかった。二人はしばらくして視界から消え、午後には五番も通信も落ち着いた。


「戻ったんでしょうか」


「見えてないだけかもしれない」


 その後、先ほどとは違う位置に一人が現れた。リヒターに示された方向を確認したエレジは、地図上の撤収線と照らし合わせた。


「……線の内側です」


 前日に決めた条件に入っていた。相手が何をしているのかを確かめるために残る必要はない。


「撤収する」


 もう少し見れば、その人間がどこへ向かうのか分かるかもしれない。それでも、ここで条件を変える理由はなかった。エレジも観測を続ける考えを捨て、双眼鏡を下ろした。


「ファルク、観測点を捨てる。回収順どおりに」


「了解。五番は置きます。中継器一つも回収しません。遠隔停止できるものから止めます」


「それでいい。ロート、予定どおり車両側へ回れ」


「了解です。補助は片づけてます」


 リヒターは主観測点周辺を確認し、残すものと持ち出すものを分けた。


「全部消していく?」


「時間はかけない。取れるものだけだ」


 エレジも記録と観測機材を回収した。長くいた場所なので、完全に何も残さず離れるならもっと時間がかかる。しかし、今は痕跡を消すためにそこへ残る方が、事前に決めた撤収条件そのものに反していた。


 移動に入る直前、エレジが最後に確認した人影は、先ほどより少し位置を変えていた。主観測点へ一直線に来ているわけではないが、それでもこちら側へ寄っている。


「まだ来てます」


「見なくていい。移動しろ」


 それ以上を確認しても撤収判断は変わらない。エレジは双眼鏡を完全にしまい、そこから先はどう戻るかだけを考えた。


     *


 三人は予定していた退避経路へ入った。主観測点を離れると、そこから先は木々が多く、後方を直接見ることはできない。リヒターが先を確認し、エレジが中間、カイルが後方を受け持つ。


 相手がこちらを把握しているとは限らないため、走って大きな音を立てる必要はなかった。発見されたと決めつけず、かといって戻って相手の意図を確かめることもしないまま、予定していた速度で距離を取った。

 途中でヨナスから五番が再び反応したと連絡が入った。


「五番、また反応しました」


「位置は」


「さっきより東です」


 五番の反応がさらに東へ移っても、撤収判断を変える材料にはならなかった。


「戻って確認する必要はない」


「はい」


 さらに進むと、マティアスから車両位置を変更したという連絡が入った。


「車両位置、変更してます。予定地点より南へ二百メートル。今の経路ならその方が早いです」


「了解」


 昨日まで使っていた場所に固執する必要もない。

 車両が見える位置まで来ると、マティアスはすでに周囲を確認し、すぐ出られる状態を作っていた。


「こっちは異常なしです」


「乗れ」


 全員が車両へ入ったあと、エレジは窓から斜面を確認した。遠くに人らしい動きが一度だけ見えた気がしたが、距離があり、確定できない。

 報告するなら「人影の可能性あり」までで、それ以上の意味を持たせることはできなかった。


「出すぞ」


 車両が動き始めても、誰にも止められず、銃を抜く必要もなかった。何者がいたのかも、こちらに気づいていたのかも最後まで分からなかったが、五人は接触する前にその場所を離れた。


     *


 施設へ戻ると、まず人員と装備を確認した。全員に負傷はなく、持ち帰った機材も予定どおりだった。ヨナスが確認した残置物も、事前に回収を諦める可能性を考えていたものだけだった。


「五番と中継器一つ。あと、道路側の小型センサー一つは停止だけして残してます」


「構わない」


「遠隔停止は全部完了してます」


「分かった」


 そのまま第二作戦室で、昨日から続いている人の動き、山道側のセンサー反応、通信量の増加、観測区域へ近づく移動、そして事前に決めた撤収条件への到達を順に整理した。確認できたことを並べても、相手の目的までは分からなかった。


「俺たちを探してたとは書けないですね」


「書けないです。こちらへ近づいたのは確認できました。でも、私たちがいることを知ってたかは分かりません」


「周囲を確認しながら動いてた可能性は高い。でも、何を確認してたかまでは見えてないわ」


「通信量も増えてます。ただ、人影との関連は未確認です」


 全員の記録を確認したカイルにも、今の内容以上を結論にする必要はなかった。エレジには、撤収直前に見た人影がまだ記憶に残っていた。


「今日の人たちが、私と関係あるかはまだ分からないですよね」


「分からない。今の記録からそこまでは言えない」


 自分と関係があるという証拠がない以上、その可能性だけを理由に何かを決める必要もなく、エレジはそこで考えるのを止めた。


     *


 夕方、ハルトマンが第二作戦室へ来た。予定では二週間いっぱい観測を続ける可能性もあったが、今日の撤収によって、同じ場所へ戻って観測を再開する必要はなくなっていた。


「観測は終了ですか」


「終了します。明日、記録を最終整理して戻ります」


「分かりました。置いてきた機材の扱いはこちらでも確認します」


「回収はしないでください。少なくとも今は。位置を確認しに行く必要もないです」


「了解しました」


 最後まで同じ場所へ残らなかったからといって、任務が失敗したわけではない。最初の一週間で通常の範囲を取り、その後に現れた違いを記録し、接触する前に撤収した。五人が持ち帰るべきものは、機材ではなくその情報だった。


 その夜、エレジが宿舎の自室へ戻ると、最初の日には何も置かれていなかった机に紙の地図と読みかけの本があり、収納には数日分の衣類、洗面台には自分の物が並んでいた。いつの間にか借り物のようだった部屋にも慣れていたが、それも明日には全部片づけることになる。


 荷物をまとめ始めたところで扉が叩かれ、開けるとカイルが立っていた。


「明日帰る。朝は最終整理をして、そのあと出る」


「分かりました」


 明日にはここを離れるのだと思うと、二週間使った部屋も、来た初日とは違って見えた。


「二週間、長かったです」


「そうだな」


「でも、終わると早かった気もします」


 何をしていたのか分からない人間たちも、山道に残した機材も、そのままフェルゼンに残る。全部を知ってから帰るわけではない。それでも、五人で戻れる。



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