足りない
八日目の夜、エレジが主観測点から戻ったのは、食堂の通常利用時間を過ぎてからだった。
観測中は眠気を感じる余裕もなかったが、施設へ戻って装備を下ろすと、一気に身体が重くなった。
第二作戦室にはヨナスが残っており、エレジが持ち帰った記録を受け取ると、センサー側の記録と時刻を合わせていった。
「特に変化なしです。二時過ぎに車両一台。南から北。速度も時間帯も、この一週間の範囲でした」
「こっちでも拾ってます。通信はその前後に増えてません」
「じゃあ、今までと同じですね」
「今のところは」
ヨナスは記録を合わせながら、エレジが何度か瞬きをしていることにも気づいた。
「中尉、もう寝た方がいいですよ」
「まだ食べてません」
「先に食べて、それから寝てください。記録は俺が入れておきます」
「大丈夫です。自分の分くらいはできます」
「できるかどうかじゃなくて、もう勤務終わってるので」
言われてみれば、その通りだった。今ここで自分が最後まで処理しなければならない理由はないため、エレジは確認が必要なところだけ説明し、残りをヨナスへ任せた。
食堂へ行くと、片づけ前の簡単な食事だけが残っていた。人はほとんどおらず、窓際の席にはカイルが一人で座っていた。
「少佐も今ですか」
「ああ。戻ったばかりだ」
エレジは食事を受け取り、向かいへ座った。
同じ施設に滞在しているのに、二人だけで食事をするのは数日ぶりだった。勤務がずれている日は、顔を合わせても引き継ぎや装備確認だけで終わる。
普段の拠点では、何も決めずに同じ場所にいる時間があったことを、ここへ来てからエレジはよく思い出すようになっていた。
「最近、少佐とあんまり話してないですね」
「勤務が合ってないからな」
「同じところにいるのに」
「そうだな」
少し食べてからカイルを見ると、離れていたわけでもないのに、話せなかった時間の方が意識された。
「会いたいです」
カイルは驚くより先に、エレジが寂しさを察してほしいのではなく、自分からそう伝えたことを受け取った。
「俺もだ」
それだけで、エレジは少し満足した。
「今日、このあと時間ありますか」
「寝るまでなら」
「私も寝ないといけないですけど」
「今かなり眠そうだぞ」
「それでも会いたいです」
カイルには、眠そうなのを自覚した上でも来たいと言っていることが分かった。
*
食事を終えてから一度部屋へ戻り、エレジは着替えてカイルの部屋へ向かった。
同じ廊下には現地兵の部屋もある。ここへ来てから、互いの部屋を行き来することはほとんどしていなかった。
「誰かに見られたらまずいですか」
部屋へ入ってから確認すると、カイルは周囲に説明が必要になる頻度を問題にしていた。
「入ること自体は問題ない。何度も来れば説明することが増える」
「今日は?」
「一度くらいなら何とでもなる」
それならいいと分かると、エレジは数日分の距離を取り戻すようにカイルへ近づき、その身体へ腕を回した。話したいことはいくつかあったはずだが、今は言葉より先に触れたかった。
「これしたかったです」
「ああ」
「もっと早く来ればよかったです」
「寝る時間削ってまで来なくていい」
「今日はいいです」
「明日の勤務に響いたら駄目だ」
「……分かってます」
カイルも抱き返してくれたため、分かっていてもエレジはすぐには離れたくなかった。身体を預けると、数日間ほとんど触れられなかったことまで実感できた。
頬へ触れられると、その手に顔を寄せたくなった。
「キスもしたいです」
「それも足りなかったか」
「足りないです」
その答えを聞いてから、カイルは口づけた。短く触れるだけではエレジの方が離れず、もう一度近づくと、今度はカイルも長く応じた。
背中へ回った腕が強くなり、エレジも彼の服を掴む。久しぶりに近くなった身体を意識すると、そのままもっと触れたくなり、カイルも同じなのだと分かった。
ただ、首元へ口づけられたところで、エレジは小さく息を吐いたあと、そのまま身体の力が抜けかけた。カイルには、欲しがっていることと眠気に負けかけていることの両方が分かった。
「エレジ、眠いだろ」
「……少し」
「少しじゃない」
「せっかく二人になれたのに」
「だからって、眠気と張り合う必要はない」
その判断が正しいと分かっていても、エレジには不満だった。
「したくないですか」
「したい」
「じゃあ」
「したいのと、今やるかは別だ」
聞き覚えのある言い方に、エレジはカイルの胸へ額をつけた。
「こういう時にもそれ言うんですね」
「お前が明日まともに起きられない方が困る」
「起きます」
「今ここで寝そうな奴が言っても説得力ないな」
それでも部屋へ戻れとは言われなかった。カイルがベッドの端へ座ったため、エレジも隣へ座って肩へ身体を預け、このまま一緒にいられる方を選んだ。
「少しだけ、このままでいいですか」
「ああ」
「寝たら起こしてください」
「勤務まで時間はある」
「でも部屋戻らないと」
「必要なら起こす」
それなら安心していいと思えた。抱きついたまま目を閉じると、身体の疲れの方がすぐに勝った。
呼吸が深くなっても、カイルは彼女を起こさなかった。自分も触れたいと思っていたし、数日ぶりに二人でいられる時間を別の使い方にしたかった気持ちもある。それでも、今のエレジに必要なのは睡眠だった。
二週間の任務はまだ半分近く残っており、時間が足りないからといって、全部を今夜に詰め込む必要はなかった。
*
同じ頃、リヒターも別の意味で時間が足りないと思っていた。
ホテルで三人の関係を始めてから一週間以上経っているが、その間、マティアスやヨナスと二人で話すことはあっても、三人だけになる時間はほとんどなかった。
勤務が合わなければ一人が戻った頃にはもう一人が出て、三人揃っても食堂や作戦室で、周囲には誰かがいる。
その夜は珍しく、三人とも同じ時間に勤務を終えた。ヨナスの部屋で翌日の予定を確認しているうちに、リヒターは二人から向けられる視線が、任務中とは少し違うことに気づいた。
「最近、二人とも見すぎじゃない?」
マティアスには、何を指しているのかすぐには分からなかった。
「何をですか」
「私を」
「見ますよ。目の前にいるんで」
「そういう意味じゃないでしょう」
ヨナスは何を言われているのか分かった上で、誤魔化さなかった。
「見てます」
「大尉、あいつだけ正直ですよ」
「あなたも否定してないわよ」
「否定できないんで」
二人とも、ホテルで一度関係を持ったからそれで満足したわけではなく、それはリヒター自身も同じだった。
クルーガーの誘いを断った時、自分は今この二人と続けたいのだと確信した。その「続けたい」には、話していたいだけではなく、また触れてほしいという気持ちも含まれている。
「嫌なら見ないようにします」
「嫌とは言ってないでしょう」
その答えで、二人にもリヒターが拒んでいるわけではないことが伝わった。ヨナスは気持ちとは別に、翌日の勤務も考えていた。
「でも、今からだと寝る時間が減ります」
「あなた、本当にそういうところ変わらないわね」
「明日、大尉は朝からですよね」
「そうだけど」
「ロートも俺もです」
「分かってるわよ」
間違ったことは言っていないからこそ、リヒターには余計に少し腹が立った。
「大尉、したかったんですか」
「悪い?」
「全然」
「むしろ嬉しいです」
ヨナスまで普通に答えたことで、二人とも同じことを望んでいるのだと分かった。
待っていれば、そのうち勤務が合うかもしれないが、二週間しかいないのに偶然を待つ必要もない。
「じゃあ、三人とも空く日ないの?」
二人には、リヒターの方から予定を合わせようと言い出すところまでは予想外だった。
「勤務表、見ます?」
三人で確認すると、二日後の夜なら揃って早めに戻れる。翌朝も全員、遅い時間からの勤務だった。
「ここですね」
「俺も大丈夫です」
条件が揃っているなら、リヒターに迷う理由はなかった。
「じゃあ、そこ」
「予定に入れるんですね」
「だって、待ってたらいつになるか分からないでしょう」
「そうですけど」
「嫌なの?」
「まさか」
ヨナスも勤務表を閉じ、その予定で問題ないことを確認した。
「じゃあ、二日後で」
任務でもないのに、三人で予定を合わせていることがおかしくて、リヒターは少し笑った。
*
二日後の夜、予定どおり三人の勤務は早く終わった。食事を済ませてから、それぞれ一度部屋へ戻る。リヒターは少し考えた末、自分からヨナスの部屋へ向かった。ノックしてから入ると、中にはすでにマティアスもいた。
「来たんですね」
「何、その言い方」
「いや、本当に来るんだなと思って」
「私が決めたんでしょう」
「そうでした」
ヨナスは予定どおりだからという理由だけで無理をしていないかを確かめた。
「疲れてないですか」
「普通よ」
「明日の勤務も問題ないですか?」
「大丈夫」
それでもまだ確認が続きそうだったため、リヒターは自分が何をしに来たのかを先に伝えた。
「今日はいいんでしょう?」
二人とも意味は分かっていた。
「大尉がしたいなら」
「したいから来たのよ」
ホテルでは、どこまで進むのか分からないまま少しずつ触れ方が変わっていった。今日は何をするために三人でいるのか、最初から分かっている。
リヒターは自分からマティアスへ近づき、彼の服を掴んで口づけた。今日は待つ理由がないと思っていたし、自分がまた触れたいと思っていることを、わざわざ隠すつもりもなかった。
マティアスは予想していなかったらしく、口づけられた最初の一瞬だけ動きが遅れた。それでもすぐに応じ、離れる頃には戸惑いより嬉しさの方が見えていた。
ただ、リヒターが自分からここまで迷わず来たことへの驚きだけは残っていて、それが表情にも出ていた。
「何?」
「いや。今日は早いなと思って」
「前みたいに待つ理由ないでしょう。あなたも」
今度はヨナスにも自分から触れたいという意味だと伝わった。
「確認しなくていいんですか」
「今さら?」
「一応」
「したいわ」
答えを聞いてから、ヨナスも口づけた。前回は、触れられるたびに自分がどう感じているかを確かめていたが、今回は自分から二人に触れたいと思っていることが最初から分かっている。
マティアスが身体の反応を見ながら触れ、ヨナスは分からないところだけ言葉で確かめる。その違いも、もう知らないものではなかった。
だから今回は、二人がどうするのかを待っているだけではなかった。マティアスに触れたいと思えば自分から手を伸ばし、ヨナスへ近づきたくなればそのまま身体を向ける。
途中で相手が変わっても、それをどう受け取られるかまで考えて止まる必要はなかった。
二人とも、リヒターが誰にどう触れたかだけで意味を決めず、必要なところでは改めて本人の意思を確かめてくれると分かっていたからだった。
三人で触れ合うことそのものに慣れたわけではない。それでも、一度目のように、次に何が起きるのか分からないこと自体へ身構える必要はなかった。知らないものだった時間が、一度自分で選び、もう一度選んでもいいと思えるものに変わっていた。
*
終わったあと、リヒターは二人の間でしばらく横になっていた。
前回は、自分がどこまで受け入れられたのかをあとから確かめるような感覚が残っていたが、今回は違った。自分から触れ、自分から二人のところへ行き、そのうえで満足していることがはっきりしていた。
静かになった三人の間でヨナスが確かめたのも、一度目と同じだったかどうかではなく、今回のリヒター自身の感覚だった。
「二回目でも、よかったですか」
「そこ確認する?」
「気になるので」
「私は続けたいって言ったでしょう」
「それと、今回よかったかは別なので」
「よかったわよ」
その答えでヨナスは納得したが、マティアスにも自分について確認したい気持ちはあった。
「俺も?」
「二人ともよ」
「よかった」
「素直ね、言葉で聞きたいの?」
「大尉にそう言われて嬉しくない男いると思います?」
「少なくとも、あなたたちはそうなのね」
二人とも否定しなかった。
一度だけで終わった関係ではない。今日、誰かに流されたわけでもない。三人とも時間を合わせ、リヒターは自分からここへ来た。そのことが、前回よりはっきりしていた。
*
翌日には、五人ともまた別々の勤務へ戻った。
エレジは昼から補助観測点へ入り、マティアスが前夜残した記録を引き継いだ。リヒターも普段どおり周辺警戒へ出ている。ヨナスは施設側でセンサー記録を確認していた。
午後になって、そのヨナスから通信が入った。
「少佐、センサー三番の記録、少し変です」
第二作戦室にいたカイルは、故障と決める前に現在の記録を確認した。
「故障か」
「まだ分かりません。十二分だけデータが抜けてます。その前後は正常です」
「通信が落ちた可能性は」
「あります。本体側かもしれません。ただ、今のところどっちか決められないです」
主観測点から戻ったエレジも、欠落した時間に目視で何か起きていなかったかを確認した。
「その時間、目視では何もありません」
「補助側も反応なしです」
ヨナスは原因を決めず、欠落した時間だけを別に残した。
「一回だけなら様子見でもいいです。でも、また出るなら確認したいです」
そこへシュミットが天候資料を持って入ってきた。
「明日から崩れます。午後はかなり風が強くなる予報です」
カイルは天候そのものより、観測地点までの経路と機材位置への影響を確認した。
「朝の状態を見る。それまでは触らない」
「了解です」
原因が分からない一度きりの欠落だけで、悪天候の前に機材へ向かう必要はない。ヨナスもその判断を受け、翌朝までは記録を継続して見ることにした。




