忘れる
夜になって三人が戻ると、エレジは共有スペースでカイルと翌日の予定を確認していた。
玄関の扉が開き、先に入ってきたマティアスの後ろからヨナスとリヒターが続いた。
街へ出る前のリヒターは、普段どおりに話そうとしていても、意識の一部が自分の内側へ向いたままのように見えていた。
今はマティアスが何か言えば自然に返し、ヨナスが持っている紙袋について聞かれると、自分のものではないと答えている。
そのやり取りにも無理をしている様子はなく、エレジには、昼前に出ていった時よりずっと普段に近く見えた。
「リヒター大尉、もう大丈夫そうですね」
「ええ。だいぶね」
「よかったです」
「街でも、途中から俺らより店見てたくらいだし」
マティアスが上着を脱ぎながらそう言うと、リヒターもすぐにいつもの調子で返した。
「あなたが決めるの遅いからでしょう」
「それは別の話じゃないですか」
「同じよ。三つで迷ってる間に、こっちは一軒見終わるもの」
二人の会話を聞いているうちに、昼前から感じていた違いが、エレジの中でも確かなものになった。ヨナスも特に補足することはないらしく、街から持ち帰った紙袋を机へ置き、中身を確かめながら二人のやり取りを聞いている。
カイルも三人の様子を見たあと、リヒターへ尋ねた。
「今日は休めそうか」
「たぶん。昨日よりはずっといいわ」
「ならいい」
カイルはそれ以上状態を確かめようとはしなかった。今のリヒターが自分で休めると判断しているなら、その答えを受け取るつもりなのだとエレジには分かった。
五人が揃ったところで、ヨナスが湯を沸かし始めた。遅い時間なので食事を取り直すほどではなかったが、街から戻った三人にも、すぐ自室へ上がる様子はない。
昼間にカイルと話したことで、エレジは昨日よりは落ち着いていた。自分がここに残ることを望んでいることも、分からないことは調べてから判断すればいいことも聞いている。それでも、ハッシュヴァルドに言われたことまで消えたわけではなかった。
ヨナスからカップを受け取ったリヒターは、自分だけでなくエレジも昨日から同じ話を抱えていることへ話を向けた。
「エレジは? 今日は少佐と一緒にいたでしょう。落ち着いた?」
「はい。昨日の話もできました」
エレジはカイルの方を見た。二人で話した内容を隠したいわけではなかったが、マティアスとヨナスは、ハッシュヴァルドとの会話を途中までしか知らない。
二人がきたのは鞭の音とエレジの声を聞いてからで、それ以前に何を問われていたのかまでは詳しく伝えていなかった。
リヒターも同じことを思い出し、彼らの方を見た。
「二人には全部話してなかったわね」
「昨日の話ですか」
「ええ。あなたたちが戻ってくる前の話のところ」
ヨナスも席へ着き、エレジが話し始めるなら聞けるように身体を向けた。
「話してもらっても大丈夫ですか」
エレジは、自分が覚えている順に話した。
ハッシュヴァルドから、自分がここにいることで周囲へ危険が及ぶ可能性を示されたこと。その上で、軍人として生きる以上、誰かが傷つく可能性まで受け入れるのかと問われたこと。
「少佐には、あの時の答えだけで私の考え全部が決まるわけじゃないと言われました。それから、本当に私がいることで危険が増えるのかは、まだ分からないから調べるって。分かったら、その時また判断すればいいって」
マティアスはカイルの方へ一度目を向けたが、昼間に二人がどこまで話したのかを確かめる必要はないと判断したらしく、そのままエレジの続きを待った。
「だから、昨日よりは大丈夫です。でも、考えないわけにはいかない気もしてます。本当に私がいることで、みんなに危険が増えるなら……」
「中尉」
その先で、エレジが四人の選択まで自分の責任として考えようとしていることに気づき、マティアスが途中で止めた。
「俺、自分でここにいるから。中尉に残れって言われてるわけでもないし、危ない仕事だって知らずに来たわけでもない。中尉がいることで危険が増える可能性があるとしても、それだけで俺がここにいる理由までなくなるわけじゃない」
課程の頃から、マティアスが危険を避けることだけを考えて軍にいる人間ではないことを、エレジも知っている。その彼が今ここにいることを自分で選んでいると言うなら、エレジの側からその選択までなかったことにはできない。
「俺も同じです」
ヨナスも、マティアスと同じところに引っかかったらしい。
「危険がない場所だと思ってここへ来たわけじゃないですし、この五人で編成された時点で、普通の勤務より危険になる可能性は分かってました」
「でも、私の事情までは知らなかったですよね」
「知らなかったです。でも、知ったから辞めたいとも思ってません。少なくとも今は、自分でここにいたいと思ってます。だから、中尉が俺の分まで離れた方がいいと決める必要はないです」
「私もよ」
リヒターも二人に続いた。
「私に、あなたに関する事情があるのは確か。私がその中身を全て知ってるわけじゃないけどね。でも、あなたを守る必要があるから仕方なくここにいるわけじゃない。私も、ここにいたいからいるの」
エレジは三人の話を聞きながら、昼間にカイルから言われたことをもう一度考えた。自分が離れれば四人を守れるという考えには、四人がどうしたいかが入っていない。
「分かりました」
しかし、そう答えてもエレジの不安そのものがなくなったわけではない。
リヒターはそのことをわかっているように、もう一つ別のことを伝えた。
「もう一つ、言っておきたいことがあるの。あいつに言われたことは、忘れた方がいいわ」
エレジはそんなことを言われるとは思っていなかったので、思わずリヒターを見た。
「でも、考えないといけないと思います」
「だから厄介なのよ、あいつは。何もないところから全部作るわけじゃないの。相手が元から気にしてることとか、否定できない事実を使う。そこへ少しずつ意味を足して、自分が持っていきたいところまで考えさせるのよ」
「昨日の私みたいに?」
「そう。あなたがここにいることで、危険が増える可能性が絶対にないなんて、私にも言えない。そこだけなら、本当に考える必要がある問題かもしれない。
でも、あいつが出したものをそのまま使って、続きを考え続けるのは駄目」
「じゃあ、本当のことまで忘れるんですか」
「いったんはね」
必要なことまで考えないようにすれば、自分に都合の悪いものまで見ないことになる。エレジにはそちらの方も危険に思えたが、リヒターはその迷いを否定せず、何を忘れろと言っているのかをもう少し具体的に説明した。
「本当に考えなきゃいけないことなら、あいつの言葉がなくてもまた出てくるわ。
実際の任務で何か起きるかもしれないし、少佐が調べて分かることもある。私たちが気づいて、あなたに話すこともある。でも、その時はその時にある情報から考えればいいの」
カイルが昼間に言ったことと似ていたが、リヒターが止めようとしているのは判断そのものではなく、ハッシュヴァルドの言葉を判断の材料として残すことだった。
「あいつの言葉を残したまま考え続けると、どこまでが自分の考えで、どこからがあいつに考えさせられたものか分からなくなるの。
だから、あいつから渡された形のまま残さない方がいい。その時に、自分たちが持っている情報で考えればいいわ」
昨日までの硬さはなかったが、この説明だけは長くハッシュヴァルドと関わってきた経験から出ていることが分かった。自分が何を言われ、どう判断してきたのかまでは話さなくても、同じやり方を何度も知っていることは伝わった。
「……忘れようとしても、たぶん思い出します」
「それは仕方ないわ。思い出したら、そこで止めるの。その先まで考えない。あいつが出した答えを、自分でもう一度作り直さない」
エレジは昨日の会話を思い返した。一つの問いに答えると、その答えを使って次のことを聞かれる。
それにも答えていくうちに、最後には、自分が最初からその答えへ向かって考えていたような感覚になっていた。
その途中でリヒターに耳を塞がれた時は、突然会話を止められたように感じていた。今の説明を聞けば、彼女は会話の内容ではなく、エレジの考え方そのものがハッシュヴァルドの作った流れへ入り始めたのを止めようとしていたのかもしれない。
「次にあいつと会った時、続きを一言言われるだけで、同じところへ戻されることもあるわ。判断しなきゃいけない時に、あいつの言葉が先に出てきたら、一瞬を取られる。それが命取りになる」
マティアスもヨナスも口を挟まなかった。怖がらせるために強い言葉を使ったのではなく、そういう場面を知っている人間の警告なのだと二人にも分かっているようだった。
「わかりました。今はとりあえず、忘れるようにしてみます」
「ええ」
カイルも、エレジがリヒターの言っていることを理解したと判断した。
「必要なことはこちらで調べる。お前が判断する必要のある情報が出たら、その時に伝える」
「はい」
「その時は、俺たちにも教えてください。中尉一人で、俺ら四人分の答えまで出すの無理だから」
「それはそうですね」
ヨナスが普通に同意したため、エレジは少し笑った。
「事実なので」
「分かりました。その時は」
それ以上、同じ話を続ける必要はないと感じたのか、ヨナスは机に置いていた紙袋をエレジの方へ寄せた。
「そういえば、これ大尉が買ってました」
「何ですか」
「勝手に渡さないでくれる?」
リヒターが止めた時には、もうエレジは袋の中を見ていた。中には鳥の形をした焼き菓子が入っており、さっきからヨナスが持っていた紙袋の中身がようやく分かった。
「鳥ですね。私にですか」
「そうよ。店で見つけたから」
エレジは一つ取り出して形を確かめた。翼を広げた鳥だったが、種類までは分からない。
「ありがとうございます。嬉しいです」
「ならよかったわ」
リヒターは、エレジが喜んだことをそのまま受け取った。
その後は、マティアスが自分の買ったものについて話し始め、ヨナスも途中で寄った店にあった古い暖房設備について説明し始めた。
しばらくして、カイルが全員の話が落ち着いたところで翌日の予定を伝えた。
「明日の午前、作戦室で次の任務を説明する」
「もう決まったんですか」
「ああ。フェルゼンへ行く」
「期間は?」
ヨナスが尋ねると、カイルは二週間だと答えた。
これまでの任務より明らかに長いため、エレジは現地で何日も生活しながら観測へ出ることになるのだと考えた。
「ずっと山ですか」
「現地の軍施設を拠点にする。そこから複数の観測地点へ出る。詳しい内容は明日話す」
二週間と聞いたマティアスは、持っていく衣類を増やすなら洗濯の予定を変えた方がいいと言い始めた。
ヨナスは現地施設の通信設備について尋ね、カイルは資料が来ているから明日確認すると答えた。
リヒターもその会話へ自然に加わり、必要になる装備についてマティアスと話し始めたのを見て、エレジは手元の鳥の焼き菓子を袋へ戻した。




