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エーデルベルグの雪 ──北部山岳任務録──  作者: 有凪いちほ
特殊情報収集班:任務

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もし、本気で好きになったら


「もう、いいのよね?」


 傷の確認も、ガーゼの交換も終わっている。あとは服を戻せばいい。それでもリヒターはすぐにはシャツへ手を伸ばさなかった。

 二人がまだ自分を見ていることには気づいていたし、その視線がさっきまでの傷を見るためのものから少しずつ変わっていることも分かっていた。


「傷は大丈夫です。少なくとも、今すぐ何かし直す必要はないです」


 ヨナスがそう答えても距離を戻さなかったことで、リヒターは自分だけがこの空気を意識しているわけではないと分かった。


 マティアスも新しいガーゼより、その下に残っている古い傷や、まだシャツで覆われていない肩の方を見ている。ただ、どちらも見たいから見ているだけではなく、どこまでなら見ていていいのかを考えているようだった。


「そんなに気になる?」


「傷がですか?」


「それも」


 マティアスは、自分が何に引っかかっているのかを考えた。リヒターが無傷だと思っていたわけではない。

 これまで聞いた仕事の内容を考えれば、何も残っていない方が不自然だと思う。それでも、知識として分かっていたことと、実際に彼女の身体へ残っているものを見ることは違った。


「傷があること自体に驚いてるわけじゃないです。大尉が危ない仕事してきたのは分かってましたし。でも、こうして見ると、思ってたよりずっと残ってるんだなって」


「それで嫌になった?」


「何でですか」


 返事があまりに早く、リヒターは少しだけ意外に思った。傷を隠したいわけではない。それでも、この二人が自分を女として見ていることを知っているからこそ、見せた後も同じように思うのかは気になった。


「傷のない方がいいと思う人もいるでしょう」


「俺は今見ても、嫌だと思うところないですよ」


 マティアスは慰めようとして言ったわけではなかった。傷があるから可哀想だとも、それを含めて特別に美しいとも思わない。ただ、目の前にいるリヒターを見て、それまでと違う意味で嫌になる理由がなかった。


 ヨナスも似たようなことを考えていた。ただし、彼には傷そのものよりも、本人がそれをほとんど問題にしていないことの方が印象に残っていた。

 リヒターにとっては、これまで生きてきた中で身体に残った痕の一つでしかない。なら、それを勝手に悲惨なものとして扱うのも違うと思った。


「俺も、傷があることで見方が変わるとは思わないです。むしろ、思ってたより綺麗だと思ってます」


 傷があることを気にしてはいなかったリヒターも、「綺麗だと思っている」とまで言われると、その言葉だけは何でもないものとして流せなかった。


「そういうこと、普通に言うのね」


「思ってるので」


「傷があっても?」


「ありますけど、それで綺麗じゃなくなるわけじゃないでしょう」


 ヨナスの言い方はいつもと変わらなかった。そのせいで、気を遣って言われているようには聞こえない。リヒターは自分の傷を気にしたことはほとんどなかったが、その身体を見た上で綺麗だと言われる経験は多くなかった。


「他にもあるって言いましたよね」


「言ったわね」


「見てもいいですか」


 さっきまでなら傷の確認という理由があった。今はもうない。それでもヨナスは、その違いを曖昧にせず聞いてきた。


 リヒターは少し考えた。見せなければならない理由はなく、見せたくない理由もなかった。むしろ、この二人ならどう見るのかを知りたいと思った。


「いいわよ」


 シャツをもう少しずらすと、肩から腕にかけて残った細い痕が見えた。背中側にも薄いものがあり、脇腹まで見せようとすれば、さらに服を外す必要がある。


 ヨナスは勝手に視線を移さず、そこにもあるのかと聞いた。


「あるわよ」


「見せてもらっても?」


「ええ」


 今度は、自分からシャツをさらに開いた。

 脇腹に残った傷は肩のものより長かったが、色はかなり薄くなっていた。リヒター自身にはもう痛みもなく、普段なら存在を思い出すことすら少ない。マティアスはその一つを指さした。


「これは?」


「昔の」


「何年前か覚えてます?」


「全部は覚えてないわ」


 そこでマティアスは聞くのをやめた。何があったのかまで知りたい気持ちはあったが、リヒターが話したいなら自分から話すはずだった。見せてもいいと言われたことと、過去まで聞いていいことは同じではない。

 その線引きが自然にできることを、リヒターは気に入っていた。


 ヨナスは肩の下に残った古い傷をしばらく見たあと、そこから周囲の肌へ意識が移っている自分に気づいた。傷だけを見たいなら、もう十分だった。それでも見ていたいと思うのは別の理由だった。


「触ってもいいですか」


 リヒターは、見ることを許すのと触れることを許すのは違うと分かっていたため、すぐには答えなかった。


「どこに?」


「この傷です」


 ヨナスが示したのは、肩から少し下へ残っている細い痕だった。


 見ることを許すのと、触れることを許すのは違う。処置のために触れられることには慣れているが、今はもう必要がない。それでも、嫌だとは思わなかった。


「いいわよ」


 ヨナスの指先が古い傷へ触れた。新しい傷のような痛みはなく、少し硬くなっているところを確かめるようにゆっくりなぞられる。


 リヒターは感触そのものより、自分がそれを許していることを強く意識した。


「痛くないですか」


「古いもの。何ともないわ」


 マティアスは、ヨナスが触れている間も自分から手を出さなかった。傷に興味がないわけではないし、リヒターへ触れたくないわけでもない。それでも、自分まで当然のように触れていいとは思わなかった。

 その様子を見て、リヒターの方から聞いた。


「マティアスも触りたい?」


「それ、聞かれると答えにくいですね」


「さっきは見たいって言ったでしょう」


「じゃあ、触りたいです」


「いいわよ」


 マティアスの指が腕にある薄い痕へ触れた。ヨナスのように形を確かめるより、リヒターの反応を見ながら指先を置き、嫌がらないと分かってから動かす。


 同じように傷へ触れていても、マティアスは身体に出る反応を見ながら進み、ヨナスは自分では判断できないことを言葉で確かめる。その違いは、以前からリヒターが二人に感じていたものと同じだった。


 以前、二人になら身体を任せてもいいと思った理由を、リヒターは改めて理解した。


 マティアスの指が傷の終わりまで来たあと、少しだけその外側へ触れた。傷ではない場所だと本人も気づいたらしく、そこで止まった。


「ここも触っていいですか」


「傷はないわよ」


「分かってます」


 そう返されたことで、マティアスが傷の有無を確かめているのではなく、傷とは関係なく自分の身体へ触れたいのだと分かった。


「……いいわ」


 今度は指が傷を辿らず、肩から腕へゆっくり動いた。ヨナスもそれを見てから確認した。


「俺も、傷じゃないところまで触っていいですか」


「ええ」


 二人とも同じ許可を得ても、すぐに好きなように触れ始めるわけではなかった。どこまでなら大丈夫なのかを、リヒターの表情や身体の反応から確かめながら少しずつ範囲を広げていく。


 肩、腕、背中。新しい傷のある場所は避け、その周囲へ触れられる。


 傷とは関係なく二人の手が自分の身体へ触れていることを強く意識しても、止めてほしいとは思わなかった。


 むしろ、二人とも自分から先を決めないことが分かっているからこそ、どこまで行くのかを自分で考えられた。


「大尉、緊張してます?」


 マティアスにそう聞かれ、リヒターは否定しかけた。

 身体を見せることにも、人に触れられることにも慣れている。そう答えることは簡単だったが、今の自分の呼吸が普段より少し浅くなっていることも分かっていた。


「……少しね」


「嫌ですか」


「違うわ」


 二人の手がその場で止まったことで、リヒターには自分の答えがどれだけ真面目に受け取られているのか分かった。


「あなたたちのことは信用してるの」


「はい」


「信用してるから、緊張してるのかもしれない」


 マティアスにはすぐ意味が伝わらなかったらしく、リヒターは少し考えてから言い直した。


「こんなに信用してる人に身体を任せたこと、たぶんないの」


 口にした途端、二人の反応が変わった。マティアスは冗談を返さず、ヨナスもすぐには次の確認をしなかった。

 リヒターがこれまで何人と関係を持ったかは知っている。それでも、自分たちには今までの相手とは違う理由で身体を任せられると言われたことの意味は分かった。


「何、その顔」


「いや……結構すごいこと言われたなと思って」


「俺もそう思ってます」


 ヨナスまで同意したので、リヒターは言わなければよかったかもしれないと思った。ただ、本当のことを今さら隠す必要もない。


「どこまで大丈夫ですか」


 ヨナスが改めて聞いた。


「全部聞くつもり?」


「分からないところは」


「嫌なら言うわ」


「それでいいですか」


「二人とも、嫌だって言ったら止まるでしょう」


「止まります」


 マティアスも同じように答えた。


「なら、それでいいの」


 そう言ったあと、リヒターは自分からマティアスの手を取り、離れていた腕へ戻した。


 その時の二人の反応で、ただ許可を出すことと、自分から触れてほしいと示すことが違うのだと分かった。


 マティアスの顔からさっきまでの迷いが少し消え、ヨナスもリヒターが自分の意思で先へ進もうとしていることを理解したらしい。


「キスはしてもいいですか」


 ヨナスに聞かれた時だけ、リヒターは身体へ触れられている時とは違う意識を持った。


「キス?」


「はい」


 それまでの関係では、身体に触れることより特別な意味を持たせたことはなかった。それでも、この二人とするのだと思うと、なぜか少しだけ考える時間が必要だった。


「……嫌じゃないわ」


「してもいいという意味でいいですか」


「本当に確認するのね」


「そこは確認します」


 そこまできちんと確認するヨナスらしさがおかしくて、リヒターは少し笑った。


「いいわよ」


「分かりました」


 許可を得ても、ヨナスはそれ以上距離を詰めなかった。マティアスも同じで、二人とも「してもいい」を今すぐする理由にはしなかった。

 許可を取った以上すぐにするものだとリヒターが考えていたわけではない。それでも、何も起きないことで、自分が二人とのキスを許したことだけが意識に残った。


「しないの?」


 思わず口にすると、マティアスが笑った。


「今してほしいんですか?」


「そうは言ってないでしょう」


「じゃあ、まだしません」


「何それ」


「したくなった時にします」


 許可があっても、それをすぐ使うとは限らないらしい。その言い方も、リヒターには嫌ではなかった。


 二人の手がまた触れ始めた時には、さっきまでより距離が近くなっていた。リヒターも受けるだけではなく、マティアスの腕へ手を伸ばし、反対側にいるヨナスにも触れた。


「大尉から来るんですね」


「触っちゃ駄目なの?」


「そんなこと言ってません」


 自分から二人へ触れてみると、それまで一方的に見られ、触れられているように感じていた関係が変わった。


 マティアスが自分の反応を見ているなら、自分も彼の反応を見られる。ヨナスが何を確かめようとしているのかも、触れれば少し分かる。

 自分も二人の反応を知る側になれることは、思っていたより楽しかった。


 二人に触れられることを許しているだけではなく、自分も二人へ触れたいと思っている。

 自分も二人へ触れたいのだと分かってからは、相手が近づいてくるのを待つ必要もなくなった。


「大尉、まだ続けて大丈夫ですか」


「ええ」


 マティアスは、それだけでは動かなかった。


「嫌じゃない、じゃなくて?」


 リヒターには、何を聞かれているのか分かった。

 二人がしたいなら許す、という答えでは足りないのだろう。自分がどうしたいのかを聞かれている。

 それまでなら、その違いを面倒だと思ったかもしれないが、今は違った。


「……続けたいわ」


 自分の希望として言葉にすると、緊張は消えなかったが、その中に別の感覚が混じった。

 二人に任せることが怖いのではない。この先を自分も知りたい。


「なら、続けます」


 リヒターが自分の希望を伝えてからは、二人もそれまでより迷わず距離を縮めるようになった。

 マティアスは身体の反応を見ながら触れ方を変え、ヨナスは判断できないところだけを言葉で確認する。

 どちらか一人へ意識を向けても、もう片方の存在が消えることはなく、むしろ二人がいることで、自分がどちらも選んでいることがはっきりした。


 リヒターも、聞かれる前に二人へ触れることが増えていった。近づいてほしい時には自分から距離を詰め、触れてほしい時にはその手を取った。


 そうするほど、身体を任せることへの緊張より、自分が二人を求めている感覚の方が強くなった。

 

 キスの許可を先に出していたにもかかわらず、実際に顔が近づいたのは、リヒター自身が何度も二人へ触れ返すようになってからだった。


 リヒターが自分からマティアスへ身体を寄せたことで、互いの呼吸が分かるほどの距離になった。そこでようやく、二人とも先ほどの確認を思い出したようだった。


「キス、していいんでしたよね」


「ええ」


 最初のキスは短かった。リヒターがどう受け取るかを確かめるようにマティアスが離れたことで、かえって物足りなさが残った。


「それだけ?」


 短いキスに物足りなさを覚えてそう口にしたリヒターに、むしろマティアスの方が驚いた。


「大尉が言うんですね、それ」


「何よ」


「もう一回していいですか」


「ええ」


 二度目はさっきより長かった。

 マティアスとの距離が離れたあとも、リヒターの中にはまだ近づきたい感覚が残っていた。ヨナスもそれに気づいたようだったが、自分から当然のようには来ない。


「あなたもするんでしょう」


「していいですか」


「さっき聞いたでしょう」


「確認です」


「いいわよ」


 そうして、ヨナスともキスをした。二人は触れ方も違えば、間の取り方も違う。そういう差を知ることが思っていたより面白く、リヒターは今度は自分からもう一度距離を詰めた。


 そこから先は、誰が最初に何をしたのかを考える必要がなくなった。

 二人に触れられ、自分も二人へ触れる。どちらかの反応を知れば、もう片方の反応も知りたくなる。身体を任せても、自分が選んでいる感覚は失われなかった。

 そのことが、リヒターには何より楽だった。


     *


 しばらくして三人が落ち着いた頃には、部屋へ入った時の緊張はほとんど残っていなかった。


 リヒターは身体に残る疲れを感じながらも、すぐに離れたいとは思わなかった。誰かとここまで近くなった後に、こんなふうに力を抜いて同じ場所にいられることの方が珍しい。


「……疲れた」


「それは、まあ」


 マティアスの返事には少しだけ笑いが混じっていた。


「誰のせい?」


「俺だけじゃないでしょう」


「俺も入ると思います」


「そうね。二人ともね」


 冗談に合わせるのではなく、本当に自分も含まれると認めるヨナスらしい返事がおかしくて、リヒターは笑った。


 その笑いが収まったあと、ヨナスは今後のことを考えた。このまま曖昧にしても、次に同じことが起きる可能性は高い。それなら、三人とも今どう思っているのかは確認しておいた方がいい。


「今後も、この関係続けますか?」


「そうね。二人がよければ」


「大尉は?」


「え?」


「俺たちがよければじゃなくて、大尉は続けたいですか」


 今日一日だけでも何度もそうだった。街へ出ることも、傷を見せることも、触れられることも、二人は自分の代わりに決めなかった。

 二人がまた自分の希望を聞いているのだと分かると、今度のリヒターにはほとんど迷いがなかった。


「ええ。続けたいわ」


 答えてしまうと、少しだけ恥ずかしくなった。それでも、さっきまで自分がどう感じていたのかを誤魔化す気にはならなかった。


「……こんなによかったの、初めてかもしれないし」


 マティアスもヨナスも、その言葉にはすぐ返せなかった。自分たちとの行為をそこまでよかったと言われれば、男として嬉しくないはずがなかった。


「何よ」


「いや、それは……」


「あなたたちはどうだったの?」


「それ答えた方がいいですか?」


「私は言ったじゃない」


「最高でした」


 マティアスに即答され、リヒターの方が言葉を失った。


「俺もです」


 ヨナスまで続けたことで、予想以上に真っ直ぐ返されたことを後悔しかけた。


「……二人とも、そういうところだけ素直ね」


「大尉が聞いたんでしょう」


「そうだけど」


 それ以上続ければ、自分の方が困るだけだと思って話を切った。

 少しして、ヨナスが考えていたことを口にした。


「続けるなら、一つ決めておきませんか」


「何を?」


「もし、俺たちのどちらかが大尉を本気で好きになったら、この関係は一度終わりにしましょう」


 リヒターは、その意味をすぐには理解できなかった。


「どうして?」


「今とは条件が変わるからです。三人とも今の関係を同じように望んでいる間はいい。でも、一人だけ別のものを求めるようになったら、そのまま続けるのは難しいと思います」


 マティアスも、その考えには納得できた。


「その時は一回止めて、どうしたいか話した方がいいですね。三人のまま続けたいのか、誰か一人と別の関係になりたいのか、それまでと同じにはできないかもしれないし」


「そう」


 そこまでなら、リヒターにも分かった。


「逆もです」


「逆?」


 リヒターが本当に意味を分かっていないことに気づいて、ヨナスは少し笑った。


「大尉が、俺たちのどちらかを本気で好きになった時もです」


「私が?」


「可能性として」


 自分が二人のどちらかを本気で好きになる可能性まで含めて考えられているとは思っておらず、その想定だけはリヒターの中になかった。


 これまで、本気で誰かを好きになること自体を自分の未来として考えたことがほとんどない。まして、目の前にいる二人のどちらかを選ぶような感情が生まれる可能性まで考えたことはなかった。


 先のことは分からない。自分が誰かを本気で好きになるのかも、その相手がこの二人のどちらかなのかも、今考えて答えを出せることではない。それでも、今どうしたいかなら分かる。


「分かったわ」


「それでいいですか」


「ええ」


 そこで終えてもよかったが、リヒターにはもう一つ確認しておきたいことがあった。


「じゃあ、今は続けるのね」


「俺はそうです」


「俺もです」


 二人とも迷わず同じ答えを返した。

 必要だから一緒にいるわけではない。任務だから選ばれているわけでもない。

 今日、自分は二人に触れてほしいと思い、二人も自分に触れたいと思った。その結果を、今後も続けたいと三人とも選んでいる。



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