8話『百回目のあなたへ』
私は恐る恐る、レイアスの日記を開いた。
そして、整った筆跡で書かれた日記を読んでいく。
『一回目は、君の願いを叶えるため、婚約を破棄した』
「私の熱意に負けて、殿下も一度は婚約破棄をしていたんですね……」
続きを読む。
『あの日』
『君は笑っていた』
『殿下が幸せなら、それでいいんです』
『そう言って』
『君は死んだ』
「……嘘」
私は次のページをめくった。
続きを読むたび。
私の頭に知らないはずの景色が流れ込んでくる。
青い空。
処刑台。
大勢の人々。
私は鎖に繋がれていた。
誰かが叫ぶ。
「悪役令嬢を処刑せよ!!」
歓声。
石が飛ぶ。
罵声が響く。
それでも。
私は笑っていた。
『殿下だけは……助かってください』
涙を堪えながら。
最後まで笑っていた。
「これは私じゃない――」
それなのに。
全部、自分のことだと理解できてしまう。
馬の蹄の音が響いた。
「リリネラ!!」
レイアスだった。
必死に駆けてくる。
けれど。
一歩、遅かった。
剣が振り下ろされる。
血が飛び散り――
私の身体が崩れ落ちる。
冷たくなった手。
レイアスはその手を抱き締めていた。
真っ白な世界。
そこに、女神様が静かに立っていた。
「もう一度やり直したいですか?」
優しい声だった。
レイアスは迷わなかった。
「やり直します」
即答だった。
女神は悲しそうに目を伏せる。
「あなたの寿命が代償になりますよ」
「構いません。彼女が笑って生きられるのなら……」
一歩も引かない。
レイアスは微笑んだ。
「何度でも――」
その言葉だけが。
白い世界に静かに響いた。
◇
私は日記を抱き締めた。
「ああ……」
涙が止まらない。
「だから――レイアスは婚約破棄を受け入れなかった」
だから。
何をされても怒らなかった。
だから……
いつも優しく笑っていた。
全部。
全部。
私を守るためだった。
日記には、私に押されて聖女アリアと婚約した世界もあった。
王国を捨て、雪国へ逃げた世界もあった。
しかし、何度やり直しても――
私の死は回避できなかった。
私は最後のページを開く。
その文字は、まだ新しかった。
『九十九回』
『失敗』
『君はまた私を守って死んだ』
『私はまた君を救えなかった』
ページの下。
そこには、書きかけの文字が並んでいた。
『私の寿命は、もうすぐ尽きる』
『それでも』
『諦めない』
最後の一行。
『百回目』
『最後のやり直しを』
私は青ざめた。
「そんな……だったら、レイアスの命はもう――」
その時だった。
日記から顔を上げると、いつの間にか、ベッドからレイアスの姿が消えていた。
「殿下!?」
ベッドには魔法陣の跡――
そこへ。
白髪の執事が静かに現れた。
その目は赤く腫れている。
「リリネラ様……」
「殿下はどこですか!」
執事は俯いた。
そして。
震える声で答える。
「殿下は……」
一度だけ言葉を詰まらせる。
「女神様の神殿におられます――」
嫌な予感が胸を貫く。
「どうしてですか!」
執事は涙を流した。
「どうか、最後に会って差し上げてください……殿下はリリネラ様のために、生涯を費やしました――」
頭が真っ白になる。
そんなの。
そんなの。
絶対に嫌。
「待って……私を置いて行かないで!」
私は走り出した。
廊下を。
階段を。
息が苦しくても。
足がもつれても。
ただ。
ただ一人。
レイアスのもとへと向かって走り続けた。
◇
女神の神殿。
静寂に包まれた祭壇の前で。
レイアスは頭を下げて跪いていた。
女神像を見上げ――
穏やかに笑う。
「この命を、すべて使い切ります」
ゆっくりと目を閉じる。
「だから最後に――」
一筋の涙が頬を伝った。
「彼女だけは生かしてください。百回目だけは――リリネラに幸せになってほしいんです」
たった一つだけのその祈りが、荘厳な神殿の中で唯一響き渡っていた。




