最終話『最後の悪役令嬢』
私は神殿へと駆け込んだ。
重い扉を押し開く。
朝焼けにも似た淡い光が、静かな神殿を包んでいる。
レイアスは祭壇にもたれかかるように跪いていた。
「殿下!!」
純白の神官服は、鮮やかな赤に染まっている。
肩は小さく震え、息をするたびに血が床へ滴り落ちた。
私の声に反応して――
レイアスはゆっくりと振り返った。
そして、驚いたように小さく笑った。
「来てしまったんだね……」
その笑顔があまりにも優しくて。
私は涙を堪えられなかった。
「どうして……どうして、一人で死のうとするんですか!!」
叫び声が神殿全体へと響いた。
レイアスが苦しそうに微笑む。
「君が生きていてくれるなら、俺にはそれだけでいいんだ」
「よくありません!」
首を強く横へ振った。
「私はそんな未来、望んでいません!」
涙が次々と溢れてくる。
「あなたがいない未来なんて……そんな未来を幸せだなんて思えるはずがない!」
レイアスは静かに目を閉じる。
「もう、私は知っているんです」
その一言で。
胸の奥に押し込めていた想いが溢れ出した。
「殿下が百回も、私を救おうとしてきたことを――」
私はレイアスを抱き締めた。
「だから、絶対に離しません!!」
震える腕で、強く、強く。
「今度は私が、あなたを救います」
私は涙を流しながら笑った。
「リリネラ……」
その時だった。
祭壇の奥にある女神像が淡く輝き始め――
神殿全体を、眩い光が包み込んだ。
「ようやく――」
慈しむような声だった。
「ここまで来られましたね」
女神が私達二人を交互に見つめている。
その瞳には涙が浮かんでいた。
「はるか昔――」
穏やかな声。
「王国は滅びを恐れました」
光の中へ、一人の少女の姿が映し出される。
幼い少女。
怯えながらも微笑んでいる。
「そして、人々は災厄を、その令嬢一人に押し付けました」
少女は静かに頷く。
「王国を守れるのなら」
そう言って。
自ら悪役令嬢になることを選んだ。
「その日から王国では、一人の令嬢が代々悪役令嬢を継承する宿命となりました」
私は静かに目を閉じる。
「その最後の悪役令嬢が――私だったのですか?」
「はい」
女神は頷いた。
「私は人を祝福するために命を与えました」
涙が頬を伝う。
「ですが、人々は祝福を得るために、呪いを生み出してしまったのです」
女神の悲しい声。
「私には、人が生み出した呪いを壊すことはできません」
静かな沈黙。
やがて女神は微笑んだ。
「だから私は、あなたたちを信じて待ち続けました」
私はレイアスを見つめた。
「私たちは……どちらも犠牲にはなりません」
レイアスが驚いたように私を見る。
「一人ではなく、二人で生きる未来を選びます」
そう言って、私が手を差し伸べると――
レイアスも微笑して、ゆっくりと私の手に自分の手を重ねた。
――刹那。
悪役令嬢の呪いが、女神の祝福を食い尽くそうと、私達を黒い霧で覆った。
人々の負の感情が一気に流れ込んで来る。
苦しい……
痛い……
辛い……
でも、それ以上の苦しみを、私達は何度も何度も死線で越えてきた。
だから、もう――
何があっても。
お互いの手は離さない。
「レイアス!!」
「リリネラ!!」
二人が大切な人の名前を呼び合う。
すると、二人を覆う黒い霧が悲鳴を上げるように軋み始めた。
そして――
ぱきん!という音と共に、悪役令嬢の呪いは砕け散った。
神殿全体を覆っていた黒い靄が、光へと変わっていく。
王宮を。
街を。
王国中を覆っていた呪いが。
朝日に溶ける雪のように消えていった。
女神は涙を流しながら微笑む。
「これが――」
優しい声だった。
「私が、ずっと見たかった未来です」
神殿に朝日が差し込んだ。
温かな光が二人を包み込む。
「……あれ?」
レイアスは胸に手を当てた。
苦しさが消えている。
驚いたように周囲を見渡す。
「生きて……いる?」
女神が微笑む。
「祝福は、最初からあなたたちのものでした」
柔らかな光が王国中から集まってくる。
「人が呪いを終わらせた今――祝福は本来あるべき姿へと戻ります」
無数の光がレイアスの身体へと降り注いでいた。
失われた命。
削られ続けた寿命。
百回分の願い。
呪いによって犠牲となってきたそのすべてが――
光となって戻ってきた。
レイアスは信じられないように、自分の手を見つめる。
私は笑った。
「もう婚約破棄なんてしませんからね」
レイアスも優しく笑う。
「ああ」
そう頷いて、レイアスはゆっくりと私を抱き寄せた。
「今度こそ」
額を寄せる。
「君を幸せにする」
私は涙を浮かべながら頷いた。
「はい」
二人は静かに抱き合った。
◇
半年後――
王都には祝福の鐘が鳴り響いていた。
王宮の大聖堂。
純白の花嫁衣装に身を包んだ私は、ゆっくりと祭壇へ向かって歩く。
両側には、笑顔の人々。
もう、誰も私を悪役令嬢とは呼ばない。
その名は、王国の歴史から静かに消えていた。
祭壇の前では、レイアスが少し緊張した様子で待っている。
目が合う。
その瞬間、彼は困ったように笑って、目元を押さえた。
「殿下?」
「……駄目だ」
声が震えている。
「百回目で……ようやく君を花嫁にできたと思ったら、涙が止まらない」
私は思わず笑ってしまった。
そして、ゆっくりと彼の手を握る。
「百回も待たせてしまいましたね」
そう言うと、レイアスは何度も首を横に振った。
「リリネラと一緒にいられるなら、百回でも千回でも待つよ」
その瞳には、もう悲しみはなかった。
「君が笑っていてくれるなら、それだけで幸せだから」
胸がいっぱいになる。
「でも――」
私は微笑んだ。
「これからは待たせませんよ」
「ああ」
レイアスも笑う。
「今度こそ、一緒に生きよう」
「はい」
二人で誓いの言葉を交わした、その時だった。
大聖堂の窓から、一筋の柔らかな光が差し込む。
まるで祝福するように。
風が花びらを運び、純白のヴェールを優しく揺らした。
その光の中で、私は確かに見た。
空を見上げ、涙を浮かべながら微笑む女神の姿を。
「ようやく……あなたたちを祝福できます」
その声は、春風のように優しかった。
光は空へ溶けるように消えていく。
もう、この国に悪役令嬢は生まれない。
誰かが呪いを背負う宿命も。
すべて、あの日に終わった。
残ったのは、人々を想う優しさと、本当の祝福だけ。
レイアスが、そっと私の頬へ手を添える。
何度も何度も私を守り続けてきたその手は熱を帯びていた。
「リリネラ」
優しく名前を呼ばれる。
私は涙で滲む視界のまま、小さく頷いた。
「はい」
ゆっくりと距離が縮まっていく。
百回届かなかった想いが。
百回叶わなかった未来が。
ようやく、この瞬間へと辿り着く。
唇がそっと重なった。
短く、優しく。
それでいて、百回分の想いを込めた口づけだった。
唇が離れると、レイアスは少し照れたように微笑む。
「今度こそ、君を離さない」
私は嬉し涙をこぼしながら笑った。
彼の胸へ身を寄せる。
「私も、離れません」
百回繰り返した別れは終わった。
これから先は。
二人で、同じ未来を歩いていく。




