6話『君だけは巻き込みたくなかった』
レイアスは、その日、公務を休んだ。
侍医は「数日静養すれば問題ありません」と繰り返しているが――
私は穏やかに待つことはできなかった。
礼拝堂で見た、あの涙が頭から離れない。
気づけば、レイアスの部屋の前に、私は息を切らしながら立っていた。
「……リリネラ様?」
侍医が険しい表情で私を見た。
「殿下の看病に来ました」
「いえ、それは――」
困ったように侍医は首を振る。
「殿下には十分な侍女がついておりますので」
「ですが、私は殿下の婚約者です!」
自分でも驚くほど自然に、その言葉が口から出た。
「せめて、傍にいさせてください」
侍医はしばらく考え込んだ末、小さくため息をついた。
「そうですね……殿下も本当はそれをお望みでしょうから――」
扉が開く。
ベッドの上のレイアスは、私を見るなり穏やかに微笑んだ。
「来てくれたんだね」
「……ご迷惑でしたか?」
「まさか」
その笑みが少しだけ柔らかくなる。
「君がいてくれるなら、薬はいらない」
私は思わず笑ってしまった。
「そんな冗談を言えるなら安心です」
「冗談というか――本心なんだけどね」
レイアスが困ったように笑う。
「熱があるようですので、額を冷やしますね」
濡らした布を額へ置こうとした、その時だった。
そっと。
私の手が包まれた。
「で、殿下?!」
大きく温かな手。
熱を帯びた指先が、私の手を優しく包み込んでいる。
「温かい……」
ぽつりと呟く声は、どこか安心したようだった。
胸がどきりと鳴る。
「ね、熱のせいです!」
慌てて手を引くと、レイアスは少しだけ寂しそうに微笑した。
「そうか……」
レイアスの笑顔を見るたびに、胸が締め付けられる。
好き……
抑え続けていた感情が、一瞬だけ溢れ出てしまった。
でも――
その想いをレイアスへ伝える日は、きっと来ない。
私はそう覚悟していた。
◇
「――失礼します」
レイアスが眠ったあと、私は部屋を静かに整え始めた。
机の上には書類が山積みになっている。
「お仕事まで……」
ふと、一冊の古びた手帳が目に入った。
落ちそうになっていたので手を伸ばした、その瞬間――
「あっ」
ぱさり。
手帳が床へと落ちた。
「これは……?」
拾い上げる時に見えてしまった。
そこには、同じ言葉が何度も何度も書き連ねられていた。
『リリネラを守る』
『必ず守る』
『今度こそ守る』
『今度こそ』
『必ず』
何十回も。
数え切れないほど。
まるで祈りのように。
「何……これ……」
震える指先。
その時だった。
「リリネラ!」
振り返る。
レイアスが青ざめた顔で立っていた。
私の手から手帳を奪い取る。
「……見なかったことにしてくれ」
苦しそうな声だった。
私は初めて感情を抑えられなかった。
「どうしてですか!」
部屋中に声が響く。
「どうして何も話してくださらないんですか!」
レイアスは黙ったまま。
苦しそうに俯くだけだった。
「殿下は悲しそうで……苦しそうで……」
声が震える。
「どうして全部一人で抱え込むんですか!」
一度、溢れ出した涙は、もう止まらなかった。
沈黙。
長い沈黙。
私のすすり泣く音だけが、いつまでも響き渡っている。
やがて――
レイアスがゆっくりと私に近づく。
「すまない……」
その声は、今にも消えてしまいそうだった。
「君だけは――巻き込みたくなかった」
ふわりと身体が温もりに包まれる。
「……え?」
レイアスは力強く私を抱き締めた。
それでいて、壊れ物を扱うかのように優しく。
鼓動が速くなる。
その時だった。
頭の奥が激しく痛み始めた。
「――っ!」
景色が揺れる。
教会。
色とりどりの花。
鐘の音。
純白の花嫁衣装を纏った私。
目の前には、嬉しそうに笑うレイアス。
『やっと君を幸せにできる』
優しい声。
涙ぐむ笑顔。
その次の瞬間――
一本の白刃が、レイアスの胸を貫いた。
鮮やかな赤。
飛び散る血。
『レイアスーーーーー!!』
絶叫が響き渡る。
その瞬間――
世界が壊れた。
「いやああああっ!」
私はその場へ崩れ落ちた。
「リリネラ!! リリネラ!!」
レイアスが何度も私を呼んでいる。
しかし、その声は徐々に遠のいていった。
◇
夜、目を覚ますと、私は自室のベッドで横になっていた。
あの後、誰かが私をここまで運んでくれたようだった。
昼間のことを思い出す。
「あれは……夢じゃない」
あまりにも鮮明だった。
眠れないまま、私は机に視線を向けた。
「……え?」
そこには、一冊の本が置かれていた。
見覚えがない。
昨日まで、こんな本はなかったはず。
表紙には古い文字で題名が刻まれていた。
『悪役令嬢の始まり』
――誰が置いたのだろうか。
私は恐る恐るページを開く。
最初の一文が目に飛び込んできた。
『最初の悪役令嬢は、自ら望んで悪役になった』
私は、その意味も分からないまま、本を握る手だけが小さく震えていた。




