5話『あなたのために命を削っています』
朝から王宮は騒がしかった。
「聞きましたか? 王太子殿下がお倒れになったとか」
「急に意識を失われたそうです」
「お命に別状はないと伺いましたが……」
その言葉を耳にした瞬間、私の胸は強く締め付けられた。
「殿下が……倒れた?」
昨日、レイアスが咳をしていたことを思い出す。
まさか――
《予言の書》が告げた未来が、もう……
気づけば私は駆け出していた。
王宮の医務室。
扉の前では侍医が穏やかな笑みを浮かべていた。
「――リリネラ様?」
「殿下は……!」
「ご安心ください」
侍医は軽く笑った。
「少々お疲れが溜まっていたようです」
「本当に――それだけですか?」
「はい。少し休めば回復なさいます」
胸につかえていたものが、一気にほどける。
「よかった……」
思わず力が抜けた。
「どうぞ、お入りください」
静かに扉が開ける。
「リリネラ?」
ベッドの上で、レイアスはいつものように微笑んでいた。
「心配してくれたんだね」
「はい」
思わず頷いてしまう。
「倒れたと聞いて、驚きました……」
「大げさなんだ、みんな――」
レイアスが苦笑しながら身体を起こそうとする。
「無理はしないでください!」
慌てて肩へ手を添える。
殿下が目を丸くしている。
そして、とても嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
その笑顔に、胸が熱くなる。
私は慌てて目を逸らした。
「べ、別に……私は殿下の婚約者ですから」
照れ隠しのようにそう言うと。
レイアスはまた笑い――
「そうか」
まるで世界一嬉しい言葉を聞いたような顔をしていた。
そんな顔……
ずるいです……
少し話をした後。
私は立ち上がった。
「それでは、そろそろ帰りますが、殿下はしっかりとお休みになってくださいね」
踵を返した、その時――
そっと。
手首へ温かな感触が伝わった。
「……殿下?」
レイアスが私の手を優しく掴んでいた。
「もう少しだけ――」
静かな声。
「一緒にいて……」
その瞳は、どこか寂しそうだった。
私は――
断れなかった。
「……少しだけ、ですよ」
私がそう答えると。
殿下は子供のように嬉しそうに笑った。
◇
「アリア様」
私は再びアリアのもとを訪ねていた。
アリアが静かに振り返る。
「どうかされましたか? リリネラ様――」
「……殿下のお身体のことです。本当に疲労だけなのですか?」
レイアスの体調が、私にはどうしても気になった。
「何か――ご存じなんですよね?」
長い沈黙。
やがてアリアは、重い口を開いた。
「レイアスは……」
アリアの表情が曇る。
「自分の命を削っています」
「え?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「命を……削る?」
アリアは苦しそうに唇を噛む。
「あなたのために――」
そこまで言って。
はっと唇を押さえた。
「……申し訳ありません」
「待ってください!」
思わず一歩近づく。
「私のためにって、どういう意味ですか?」
しかしアリアは首を横へ振るだけだった。
「これ以上は言えません」
「どうして!」
その瞳には涙が滲んでいた。
「……レイアスとの約束ですから」
私は何一つ理解できないまま、その場を後にした。
◇
真夜中。
私は眠れずに王宮を歩いていると。
礼拝堂から微かな灯りが漏れていた。
こんな時間に誰が――
扉の隙間から、そっと中を覗く。
そこには。
レイアスがいた。
誰もいない礼拝堂。
女神像の前で静かに跪いている。
両手を組み。
祈るように俯いていた。
何かを話している。
けれど距離が遠く、声は聞こえない。
私は息を呑んだ。
誰よりも強くて。
誰よりも優しい王太子レイアスが。
今にも壊れてしまいそうな顔で。
涙を流しながら、女神に祈っている。
どうして――
そんな顔をしているの……
私は何も知らない。
何も分からない。
だけど。
あの涙だけは。
こっそりと見てはいけないものだと思った。
礼拝堂を静かに離れた私は、何度も振り返りそうになる足を必死に前へと向ける。
あれほど優しく笑う人が。
誰にも見せない場所で、あんなにも悲しそうな顔をするなんて――
「絶対に真実に辿り着いてみせる」
私は決意を込めて、そう呟いた。
やがて足音は遠ざかり。
その場には静寂だけが残った。
◇
レイアスは、女神像の前で跪いていた。
誰もいない礼拝堂。
揺れる燭台の火だけが、石造りの壁を淡く照らしている。
しばらく沈黙が続いたあと、彼はゆっくりと目を閉じた。
やがて。
どこからともなく、静かな声が響く。
「レイアス――」
慈しむような。
それでいて、ひどく悲しげな声だった。
「今回、運命を変えられなければ……あなたの命は尽きます」
その言葉に、レイアスは驚かなかった。
まるで、最初から知っていたかのように。
穏やかに微笑む。
「構いません」
迷いは、一欠片もない。
「彼女を生かすためなら」
女神の頬を、一筋の涙が伝った。
「――私は祝福を与える存在です。それなのに、あなたからは命を奪うことしかできなかった……」
レイアスは静かに首を振る。
「違います。あなたは、百回も彼女に会わせてくれました」
それ以上、女神は何も答えられなかった。
理を越えた祈りは叶えられない。
レイアスが去った後――
礼拝堂には涙の跡だけが残っていた。




