2話『君以外を選んだ世界を、俺は知っている』
婚約破棄を断られた翌朝。
私に残された方法は、一つしかなかった。
鏡の前で拳を握り締める。
婚約を破棄してくださらないのなら——
「私が殿下に嫌われるしかありません」
どれだけ軽蔑されても。
レイアスが生きていてくれるのなら、それでいい。
私は本物の悪役令嬢らしく振る舞う覚悟を決めた。
「リリネラ様、お召し物はこちらで――」
侍女が差し出したドレスを、私はわざと払いのけた。
「趣味が悪いわ。こんなドレス、暖炉へでも捨ててちょうだい」
侍女は驚いた顔をした。
普段の私なら絶対に言わない言葉。
「も、申し訳ございません。直ぐに違うドレスを御用意いたします」
胸が痛む。
けれど、これは演技だ。
「返事だけは一人前ね」
殿下に嫌われるため。
これくらいしなければ。
◇
王宮の中庭。
私を見つけたレイアスは、いつものように笑顔になった。
「リリネラ、おはよう」
しかし、私は顔を背ける。
「失礼します」
そのまま通り過ぎようとした。
なのに。
「昨日は眠れましたか?」
「……え?」
「顔色が少し悪い」
心配そうに私を見つめる。
昨日のことも、なかったかのように。
レイアスは怒らない。
侍女への態度も人伝いに聞いているはず――
なのに、責めない。
「今日は無理をしないでくださいね」
そう言って微笑む。
むしろ、いつも以上に優しい。
どうすれば、嫌いになってくださるのでしょうか……
◇
私は次の手段を考えていた。
お茶会。
これなら失敗はしない。
レイアスへ、わざと紅茶をかけるだけ。
そうすれば、さすがに嫌われるはずだ。
火傷させてしまうかもしれない。
それでも――
殿下を死なせてしまうよりはいい……
私はティーカップを持ち上げた。
(ごめんなさい、殿下)
手首を傾ける。
その瞬間――
「あっ」
指が滑った。
熱い紅茶が私へ向かって落ちる。
「危ない!」
ぐっと腕を引かれた。
ばしゃっ。
熱湯は私ではなく、レイアスの左腕へ降り注いだ。
「殿下!」
真っ赤になった腕。
私は青ざめる。
「ど、どうして、私をかばったんですか!」
「リリネラが痛い思いをしなくて良かった……」
レイアスは笑っていた。
「殿下が火傷しています!」
「これくらい平気だよ」
平気なはずがない。
私は侍女から薬箱を受け取り、急いで軟膏を塗った。
「……申し訳ありません」
「謝らなくていい」
「でも!」
包帯を巻く手が震える。
レイアスはその手を見つめ、小さく笑った。
「君は本当に優しいな」
そんなはずない……
私は殿下を傷付けようとしてるのに――
唇を噛む。
でも、そんな私との婚約も今日で終わり。
最後の切り札を使う。
「殿下」
「……どうした?」
「私ではなく……聖女様と婚約してください」
一瞬だけ。
殿下の笑顔が消えた。
ほんの一瞬だけ。
息をすることすら忘れたような表情だった。
けれど次の瞬間には、静かな笑みに戻っていた。
「それはできない」
「……どうしてですか?」
「君以外を選んだ世界を――俺は知っている」
「え……?」
意味が分からない。
私以外を選んだ世界?
殿下は何を言っているの?
首を傾げる私へ、レイアスはそれ以上何も言わなかった。
「私は最低な令嬢です。婚約者に熱湯を浴びせようとしたんですから――」
「違う」
「え?」
「君はいつだって、自分より他人を優先する人だ」
どうして、この人は、そこまで私のことを……
心が耐え切れず、私は逃げるように部屋へと戻った。
◇
レイアスは執務室まで移動し、溜息交じりに椅子へと腰かけた。
扉が静かに開く。
「殿下」
白髪の執事が頭を下げる。
「今回は……どうでしょうか――」
レイアスは窓の外を見つめたまま、小さく笑った。
「正直、まだ分からない……」
その言葉に。
執事は悲しそうに目を閉じた。
「そうですか……」
「この百回目を失敗したら——」
夕日がレイアスの横顔を赤く染める。
「彼女は永遠に救えない」
その瞳は、何度も何度も絶望を経験した者のようだった。




